史跡見学の日々。

No.6191

 「京都大学西部構内・吉田泉殿町遺跡 発掘調査速報」
http://www.kyoto-u.ac.jp/maibun/news/news01.html
の現地説明会の写真。
 さて、私はどこにいるでしょう?お隣に辻君のお姿も。

 これは11日(金)のことでしたが、その後、15日(火)には、現代社会学部「基礎演習Ⅰ」のメンバーと京都女子大周辺の史跡、そして本日はゼミの皆さんや摂関家研究の第一線で御活躍の樋口さんなどと木幡・宇治の史跡と、見学会が連続してありました。
 
 本日は、少し風が強かったものの、久しぶりの日差しの中で(日の当たるところは暑く、木陰は寒いような天候でしたが)、あまり疲れを感じずに、正味4時間程、木幡・宇治の史跡を歩くことが出来ました。
 コースは、浄妙寺跡→宇治陵→松殿山荘→許波多神社→願行寺→西浦遺跡→宇治橋→橋寺→宇治上神社→宇治神社→塔の島→平等院→小松殿跡など。
 今回の見学会で特筆すべきは(江波さんの率いる)1回生の熱心さ。
 岩田君には西浦遺跡の写真を御用意頂き、ありがとうございました。また、樋口さんには、大阪歴史学会の大会報告に何かお役に立てることがあったのならば、幸いとするところであります。
 1回生のみなさんの御感想は如何?

 ☆ 千葉県で高校教員をしていた当時、大変お世話になった山本直彦先生より、東庄郷土史研究会編『東荘史 東庄町史研究 第五号』(東庄町史編さん委員会発行)を御恵送頂きました。『房総叢書』未収録の貴重な史料です。
 山本先生にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 一昨年度の研究所公開講座で講師をつとめて頂いた樋口州男先生より、新刊の御高著『武者の世の生と死』(新人物往来社)を御恵送頂きました。
 ほぼ『保暦間記』の対象とした時代に生きた人々の、戦いとの関わりを軸線に、その死生観をテーマにした十七篇で構成された一書。とくに国文学専攻の方に、ぜひ読んで頂きたい内容です。
 樋口先生にあつく御礼を申し上げます。

史跡見学と『吾妻鏡』

No.6192

 昨日は午前のうちはお天気も心配されましたが、午後からはすっきりと晴れ上がり、一時は汗ばむくらいの陽気に恵まれるなか、見学会が開催されました。
 浄妙寺跡、宇治陵、松殿山荘、許波多神社、願行寺、西浦遺跡などはどれも自宅から徒歩15分以内の場所ですが、今回はそういった身近な史跡を再認識するとても良い機会となりました。

 さて、ご無沙汰しておりました『吾妻鏡』の次回の予定をご案内致します。
 日時:2008年4月26日(土)13:00~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 宗教・文化研究所共同研究室
 範囲:『吾妻鏡』嘉禎二年正月一日、十七日、二月二十二日、二十八日、三月七日、十三日、十四日、二十日、二十一日、四月二日、四日、五月二十四日、六月五日、六日、十一日、二十六日、二十七日、七月十日、十七日、二十四日、二十五日、八月三日、四日、五日、九日、二十日、九月九日、十日、十月二日、五日、二十九日、十一月一日、十三日、十四日、十五日、十二月三日、十九日、二十九日の各条
  (※少し先の方まで掲出しましたが、読めるところまで読んでいきましょう。また、掲出した範囲以外に「これは」という条文があれば、その都度お知らせ下さい。)

 なお、その先は、4/29(火)15:00頃~、5/10(土)13:00~、5/13(火)15:00頃~、と開催の予定です。変則的な日程となりますが、よろしくお願いします。

 いつものことながら、『吾妻鏡』の講読会は新規メンバー随時募集中です。定期的な史料講読に取り組みたいという方など、まずは見学からでもどうぞお気軽にご参加ください。

Re: 史跡見学とゼミ

船津丸幸起
No.6196

先日の史跡見学と本日の『吾妻鏡』のゼミ大変お世話になりました。
ありがとうございました。
木幡に関しては先生や先輩、研究員の方々の博識さと熱心さに圧倒されました。
自主的にどこどこにいきたい!となるまでは時間がかかると思いますが、先輩方の史跡見学には積極的についていきたいとおもいます。
また『吾妻鏡』に関してはまだまだ未熟で恥ずかしいものですが、ご指導よろしくお願いします。

宇治川の先陣は船津丸さん。

No.6197

 一回生の書き込み、船津丸さんが先陣をきりましたね。

 史跡見学。今年は積極的に計画したいと思っています。滋賀県の安土や長浜など。もっとも、京女周辺にも見所は沢山あります。今の季節はチャンスかも知れません。

 『吾妻鏡』。最初は取っつきにくいかも知れませんが、先輩諸姉たちも、まったくのゼロから、あれよあれよという間に、第一線の研究に関与するに至っております。
 史料から歴史を構築していく作業はとても楽しいものなのです。
 今年の一回生はおおいに見所がありますから、期待するところ多大です。卒論を書く頃までに、どれだけ成長しているか楽しみです。

 ちなみに、直前になってしまいましたが、先般の木幡・宇治見学会に同行して下さった樋口健太郎氏(当研究所共同研究員)の大阪歴史学会大会準備報告「中世摂関家の成立と王家」が明日開催されます。
  時間:18:30~
  場所:西宮市大学交流センター(ACTA西宮東館6F)講義室1
    (阪急神戸線西宮北口駅下車、北出口2階から徒歩2分)

史跡見学会、集合時刻変更のお知らせ

No.6190

 19日(土)に実施予定の「木幡・宇治史跡見学会」の集合時刻ですが、参加の一回生がⅡ講時まで授業があるため、集合時刻を13:30に変更させて頂きます。御了承下さい。
 本日、その見学会資料を作成しました。A3で11枚という大作になりました。『小右記』と『吾妻鏡』(初級)講読会に御出席の参加者には既に配布済み。
 しっかりと、目を通してきて下さい。
 
 本日は当方にとっては記念すべき一日でしたが大雨。誕生日(>>No.6177参照)も雨模様でしたから、どうも彼は「雨男」になるようです。
 なお、思いの外の御祝詞・お心遣いを頂戴して恐縮いたしております。ありがとうございました。

 本日、もう一つ記念すべきことは、『小右記』講読会と『吾妻鏡』(初級)講読会の開始です。新しい方が2名(史学科1回生と国文院生)も加わって下さって、実に充実した2コマになりました。これは、当方としても大変勉強になりそうです。
 神戸から駆けつけてくれた小野さんに、木曜日のゼミでは御活躍を願うことに致しました。
 小野さんの御健闘に期待致します。 

紫苑第六号刊行!!

山岡 瞳
No.6185

今号もいろいろとありましたが、本日ようやく紫苑第六号が完成いたしました。
目次は以下の通り。

紫苑第六号
目次
論文 鎌倉幕府侍所に関する覚書・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩田慎平
       * * *
研究ノート 鎌倉幕府御所の空間について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・満田さおり
      鎌倉将軍家の女房について-源家将軍期を中心に-・・・・・・・・・小野 翠
      蟹満寺満縁起・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・江波曜子
活動記録 旅行記 二〇〇七年十二月九~十日-茨城--・・・・・・・・・・・・岩田慎平

執筆者の皆さま本当にお疲れさまでした。
校正を手伝ってくださった岩田さん、ありがとうございました。
そして、お忙しい中、原稿一つ一つに目を通してくださった野口先生、本当にありがとうございました。

紫苑は来週より順次発送いたしますので、もうしばらくお待ち下さい。

山岡さん、御苦労さまでした。

No.6187

 山岡さん、ほんとうにお疲れ様でした。

 原稿の依頼、催促、校正、印刷屋さんとの交渉・・・。そうした御苦労の成果が、見事な形になって報われたと思います。本号は、質量ともに重厚感を増したように思います。
 
 校正段階では、はじめて「研究ノート」を執筆した学部生への岩田君の親身な御指導も特筆に値するものでした。ありがとうございました。

 私は、たしかに「原稿一つ一つに目を通し」ましたが、その目は節穴で、後始末はみんなこのお二人がつけて下さいました。

 当方には、早くも送付申し込みのメールが到来しております。  

山岡さん、御苦労さまでした。

No.6189

 一つの仕事に手抜きをせず取り組み、それが具体的な形となって世に出るというのは、本当に尊いことだと思います。
 今回も山岡さんは、ご自身の主体的な仕事として『紫苑』の編集にご尽力いただきました。
 執筆者の一人として、深くお礼申し上げます(※締切を超過してすみませんでした)。

今週(14~19日)の研究所ゼミの予定

No.6183

 15日(火)午後:『紫苑』第6号納品
 17日(木)4講時:『小右記』講読会、5講時:『吾妻鏡』講読会(初級)
 19日(土)木幡・宇治史跡見学会:午後1時、JR六地蔵駅改札口集合

【追記】上記の講読会と見学会の出席者の確認です(敬称略)。
   申し訳ありませんが、参加希望で名前のない方は、野口まで御連絡下さい。
 
 17日(木)4講時『小右記』講読会 : 満田・江波・(国文の院生の方)・小野・大森

        5講時『吾妻鏡』講読会(初級) : 桑原・深井・山本・井草・船津丸

 19日(土)木幡・宇治史跡見学会 : 樋口・岩田・江波・大森・桑原・深井・山本・井草・船津丸 

五十代も半ばを過ぎますと・・・。

No.6177

 『御堂関白記』寛弘五年九月十一日条・『玉葉』治承二年十一月十二日条。
 史上稀に見る有力貴顕を例に挙げるのは烏滸がましい限りですが、本日、私にも同様の事態が発生いたしました。「鳴弦」は研究室のギターにて。
 『山槐記』治承三年十二月十六日条。
 梅小路公園(「西八条」)の辺りに「明障子」のある家はありませんか?(笑)
 今日ほど彼らに共感を覚えたことはありません。

 >満田さん 淡路のお土産、ありがとうございました。

 ☆ 新年度、相模女子大学学芸学部日本語日本文学科に赴任された高木信先生から新刊の御高著『平家物語・装置としての古典』(春風社)を御恵送頂きました。
 当ゼミの国文学専攻者のほとんど、否、すべては高木先生の大ファンです。
 高木先生にあつく御礼を申し上げます。

Re: 五十代も半ばを過ぎますと・・・。

元木泰雄
No.6178

 野口先生、まことにおめでとうございます。
 
『御堂関白記』の敦成親王の先例のごとく、これからの長い人生が幸い多きことを、心よりお祈り申し上げます(『玉葉』の方は先例として如何なものでしょうかね(笑))。
 横綱というわけには行きませんが、近藤先生に抱っこしてもらっては如何ですか。
 将来の健康、幸運は間違えないことと思います。

 野口先生と当方はほぼ同世代、独り身の気安さで、何となく若い(無責任な)気分が抜けないのですが、そういう年齢になったのですね。
 改めて時の経過を痛感致しました。
 
 でも、道長も清盛も、本当の人生の頂点は、そのあとです。
 好々爺になるのはもう少し先にしましょう。

 ともかく、心よりのお祝いを申し上げる次第でございます。
 
 

四代将軍頼経の「外祖父」の別邸跡

No.6179

 元木先生、ありがとうございます。
 元木先生のこの書き込みそのものが、生まれたばかりの彼にとって、大変なプレゼントだと思います。
 近藤先生に抱っこしてもらうチャンスも、ぜひとも得たいと思っております。近藤先生は文武両道ですから、その御利益は「横綱」をはるかに凌駕することでしょう。

 ところで、本日の新聞を開いたところ、京大の西部構内で西園寺公経の吉田泉邸のものと思われる遺構が検出されたという記事を発見。現説は本日とのこと。
 参照→http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008041000150&genre=M2&area=K00

 『吾妻鏡』講読会では目下、頼経将軍期を読んでおり、「外祖父」がらみということもありますから、これは行かなければなるまい、と言うわけです。
 なんだか、公経にまで親しみを感じてきております。

【後記】
 現説に行ってきました。辻君と久しぶりにお目にかかれました。

 さて、遺構のメインは調査地の南東隅から検出された石敷き・掘り込み地業をともなう建物跡で、これを調査担当者が、有力貴族の邸宅(西園寺公経の吉田泉殿)に関連づけられたのは納得のいくところでした。
 なお、この建物の東西の軸線がブレているのは京大構内を貫通していた白川道に規定されたからではないかと、私には思われました。
 素人考えですが、それに対して、この建物以外の柱穴を結んだ東西軸は平安京街路の末に沿うものだったのではないでしょうか。

 鎌倉時代の貴族邸宅については史料の検出が未だ十分ではないと思われますので、文献史学の方からのアプローチの余地も多く残されていると思います。

 ちなみに、私はこの調査地より少し南の吉田近衛で、藤原泰子(忠実の娘・鳥羽皇后・高陽院)の御願寺である福勝院(高陽院白川堂)跡と思われる地点の発掘調査に文献担当として参加したことがあります。

 西園寺公経は「泉殿」と称される邸宅を複数持っていたようで、天福元年(1233)五月二十六日、大夫尉として在京していた三浦光村は、公経から「河崎泉亭」に招請されてあつくもてなされたことが知られます。
 この一ヶ月ほど前、光村は賀茂祭の行列に供奉していますが、その装束は公経から贈られたもので、公経と三浦氏はかなり密接な関係を結んでいたようです(拙稿「執権体制下の三浦氏」)。

おめでとうございます

山田邦和(同志社女子大学)
No.6180

野口先生、お誕生日おめでとうございます。

吉田泉殿町の発掘調査現地説明会、午後の部に行ってきました。建物遺構は一部分だとはいえ、石敷と雨落溝が非常によく残っており、なかなかの見ものでした。同席した考古学研究者の皆さんと議論をしていたのですが、おそらく、石敷の内側には「亀腹」(寺院の床下などによく見られる白い高まり)があり、その上に礎石が載せられている、という構造の建物だと思われます。この建物跡からは瓦は出土していないようですが、発掘現場内の別の部分には瓦溜(いらなくなった瓦の廃棄土坑)があったようですので、この建物が瓦葺であった可能性は充分にあると思います。そうすると、この建物は吉田泉殿の邸内に作られた仏堂といった性格を考えてはどうか、と思います。
 建物東西の軸線がずれていることも、興味深いことです。この現場のすぐ南側でも過去に発掘調査がおこなわれており、そこでは中世初期の「武士の館」と推定された邸宅遺構が検出されているのですが、どういうわけかそちらはほぼ正東西方向でした。このあたりでは、基軸線が複数あったのかもしれません。

 とにかく、よい勉強をさせていただきました。

Re: 五十代も半ばを過ぎますと・・・。

美川圭
No.6181

野口先生。

おめでとうございます。
この少子化の折でもあり、その点でも、ほんとうにめでたいことです。

さて、西園寺公経邸らしき遺構の現説、ぜひ参加したかったのですが、
休講などけっして認められない昨今、平日だとなかなか行けません。
せめて土曜日にしてくれないと。

新年度になってから、大学の雑用においまくられ、まったく研究が進みません。

水曜日の研究会での報告をお約束したのですが、単なる雑談に終わりそうです。
内容は、寝屋川市史に書いた「東高野街道」、この前歩いた「唐櫃越」の感想。
といったところです。時間が大幅に余ると思いますので、
そのときにぜひ吉田の遺構についてのお話をお聞きしたいと思います。

鎌倉時代の西園寺氏

No.6182

 山田先生・美川先生、ありがとうございます。

 現説に行く際、地下鉄の中で西園寺公経の時代の政治状況について、ひと勉強しようと持参したのは、美川先生の『院政』(中公新書)でありました。
 たしかに、授業のある時期の平日に現説を行うというのは、いろいろ事情があったのでしょうが、残念なことでした。
 なお、公経を中心とした鎌倉時代の西園寺氏については、やはり龍肅『鎌倉時代 下・〔京都〕』(春秋社)の「西園寺家の興隆とその財力」が、今日に至っても最高の水準を保っていると思います。龍氏は私の恩師の師にあたります。
 ちなみに、鎌倉時代の西園寺氏は、三浦氏のみならず、小早川氏や千葉氏とも関係が深いことが知られており、武士論のみならず国家史理解のうえからも、おおいに追究の余地のある存在だと思います。

 年度はじめのこの時期は、新しい授業が始まり、提出書類が多く、そのうえネット上の情報更新を○○日締切でやりなさいなどという、かつて無かった用務も加わって、もとより事務能力の欠如した私など大混乱を呈しております。

 水曜日の研究会は楽しみに致しております。ただ、上記にともなう事情で早々に引き上げなければならないのが残念です。

 ☆ 千葉で高校教員をしていた頃から、研究を継続する上で大きな励ましを頂いている小山田義夫先生(流通経済大学名誉教授)から、御高著『一国平均役と中世社会』(岩田書院)を御恵送頂きました。
 有名な「造内裏役の成立」をはじめ、一国平均役を中心とする先生の大学院生時代からの御研究の成果が収録されています。
 収録論文のうち、当ゼミのメンバーにとっては「承久の大内裏再建事業について-造営費調達形態を中心として-」などは必読でしょう。
 小山田先生にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 愛知学院大学の福島金治先生から、「書評 永井晋『金沢北条氏の研究』」(『史学雑誌』116-9)を御恵送頂きました。永井先生の御著書に正面から厳しく斬り込まれた、いわば書評のお手本です。
 福島先生にあつく御礼を申し上げます。 

Re:鎌倉時代の西園寺氏

No.6184

野口先生

 龍肅『鎌倉時代 下・〔京都〕』(春秋社)とは懐かしい。もう30年も前の話なので、時効だろうと思いますので、今まで公にしなかった話をします。私が卒論で、鎌倉後期の公家政権をやろうと、上横手雅敬先生にご相談したところ、この本と、三浦周行の『鎌倉時代史』の2冊を読むように、と教えていただきました。ところが、後者はすぐ手に入ったのですが、前者は図書館などにもなく、困り果て、先生にあらためてご相談したところ、「ぼくはこういうことは普通はしないのだが」と言われながら、なんと特別に私本をお貸しいただきました。そのご本には、先生ご自身の傍線などがたくさん引かれ、どこに先生が注目されたかもわかるものでした。本そのものからはもちろんですが、私はその傍線からも、多くのことを学びました。今だったら、全国の大学や、周辺の公共図書館の蔵本が、すぐにインターネットで検索できますので、自分の先生の本を借りるなどということはしないでしょうが、当時は自分の行っている大学と二三の図書館ぐらいしか、すぐには利用できなかったのです。その後、この本を、東京神田の古本屋で、かなりの高額で手に入れました。私の『院政』をお読みいただければすぐわかるように、私は卒論以来、鎌倉後期の勉強をさぼり続けています。なんとかしたいのですが、大学の雑務は増え続け、もうだめな気がします。若い方々、なんとかがんばって、龍粛の本が過去の歴史になるように研究を発展させてください。お願いします。

偉大なり龍肅(りょう・すすむ)。

No.6186

 美川先生
 「もうだめな気がします」などと気弱なことを仰らずに、一頑張りをお願いいたします。鎌倉後期の政治史を、公武双方、正当な視野のもとに見据えることのできる研究者は、美川先生のほかに見当たりませんから。

 私の恩師である貫達人先生は、その論文「承久変論」(高柳光寿博士頌寿記念会編『戦乱と人物』昭和43年)の末尾にこのように書いておられます。
 「竜先生の論文を見ると、具体的にちゃんと壺がおさえてある。恐らく、この小論に述べたような事は、先生百も御承知であったのだろう。温順な先生は、時世を考え、胸底深く蔵して顕さなかっただけだと思うと、このようなことを書く私が、浅猿しく感ぜられる。」

 戦前の碩学ののこした業績を、〈戦後歴史学〉は結構切り捨ててしまったり、継承し切れていなかったりする部分が多いのではないでしょうか。

鈴木御夫妻帰国&ゼミ新メンバー

No.6176

 鈴木御夫妻が新婚旅行先のフランスから帰国。ベルサイユ宮殿やモン・サン=ミシェルなど、たくさんの文化遺産に触れ、大いにエネルギーを蓄積されたそうです。お二人合わせて何十倍もの御活躍を期待したいと思います。
 研究室への凱旋と土産「話」を楽しみにしています。

 ゼミには早くも新入生が5名も加わりました。出身地は佐賀(佐賀城跡の近く)・新潟(下越)・岡山(倉敷)・群馬(高崎)・愛知(岡崎)と様々。まさしく、「在京ネットワーク」の構築がなされようとしています。
 全員が平田さん・鈴木(永富)さん・尻池さん・伊藤さん・小野さん・・・たちの後輩。すなわち、史学科生です。みんなやる気満々で、もう『吾妻鏡』を読むのだと張り切っています。
 そのため、今年度は従来の上級者向けとは別に、治承四年からの『吾妻鏡』講読会の時間を設定することになりそうです。

 ☆ 本日、京都大学の勝山清次先生より、先生を研究代表者とする科学研究費による研究成果報告書『中世寺院における内部集団史料の調査・研究』を御恵送頂きました。
 新史料も収録された質・量ともに優れた報告書に圧倒されました。
 勝山先生にあつく御礼を申しあげます。

 ☆ 昨年の日本史研究会大会古代史部会で報告をされた渕原智幸さんから、御高論「古代末期の東北支配と軍事力編成-国衙軍制成立史の一断面-」(『日本史研究』547)を御恵送頂きました。
 渕原さんにあつく御礼を申し上げます。

木幡史跡見学会のお知らせ

No.6175

 木幡の見学会は以前にも行ったことがありますが、新しく加わった共同研究員の方やゼミメンバーから史跡見学会開催の要望がございましたので、以下の要領で開催したいと思います。

                         記

 ・日程:4月19日(土)13:00(JR六地蔵駅改札口集合。地下鉄・京阪線六地蔵駅も至近です)
          (当初、この日に予定されていた『吾妻鏡』講読会は休止します)

 ・見学予定の史跡:浄妙寺跡・宇治陵・松殿跡・西浦遺跡・宇治市街遺跡など(徒歩と電車利用)
 
  ※ (1) 今年度の大阪歴史学会大会で摂関家について報告される樋口健太郎氏(研究所
     共同研究員)も参加されます。
       〈これで、広島大学大学院の尻池さんもお出でになられたら鬼に金棒なのですが〉

    (2) 雨天の際は、浄妙寺跡・宇治陵以外の見学先を変更して実施します(平等院・源
     氏物語ミュージアムなど)

    (3) 資料を準備しますので、参加者は事前に御連絡下さい。京都女子大学の学生さんの
     参加歓迎。また、外部の方でも共同研究員・ゼミメンバ-の紹介があれば参加を歓迎い
     たします。 

今年度の担当科目から

No.6167

 明日(3日)の『吾妻鏡』講読会の時間に、今年度前期のゼミ史料講読会・例会などの開催曜日・時間を決めたいと思います。そのため、できるだけ多くの方の御出席をお願いいたします。なお、出席が不可能な場合は、御自身の週の予定について研究室宛のメールでお知らせ下さいますようにお願いいたします。

 なお、本年度私が担当する講義科目(大学院を除く)の中で、主に日本中世を対象とするのは以下の科目です。履修登録の参考にして下さい。

 ・総合教育科目7B「日本史から現代社会の問題を考える」(前期 火曜 Ⅴ講時)
 ・基礎・教養科目20「「武士」で語る日本の歴史と文化」(後期 木曜 Ⅴ講時)
 ・大学コンソーシアム京都提供科目 特別講座科目「武家政権の成立と京都」(後期 火曜 Ⅱ講時
  於、キャンパスプラザ京都)

※ 授業概要などについてはシラバスを参照して下さい。

 ☆ 日本学術振興会特別研究員の和田琢磨先生より御高論「今川了俊のいう『太平記』の「作者」-『難太平記』の構成・思想の検討を通して-」(『日本文学』3月号)を御恵送頂きました。
 和田先生にあつく御礼申しあげます。

新年度も『吾妻鏡』

No.6169

 桜も見頃を迎えるなか、新年度の『吾妻鏡』も始まりました。
 さっそく次回のご案内です。
 
 日時:2008年4月9日(木)13:00~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 宗教・文化研究所共同研究室
 範囲:『吾妻鏡』嘉禎二年正月一日、十七日、二月二十二日、二十八日、三月七日、十三日、十四日、二十日、二十一日、四月二日、四日、五月二十四日、六月五日、六日、十一日、二十六日、二十七日、七月十日、十七日、二十四日、二十五日、八月三日、四日、五日、九日、二十日、九月九日、十日、十月二日、五日、二十九日、十一月一日、十三日、十四日、十五日、十二月三日、十九日、二十九日の各条
  (※少し先の方まで掲出しましたが、読めるところまで読んでいきましょう。また、掲出した範囲以外に「これは」という条文があれば、その都度お知らせ下さい。)

 いつものことながら、『吾妻鏡』の講読会は新規メンバー随時募集中です。定期的な史料講読に取り組みたいという方など、まずは見学からでもどうぞお気軽にご参加ください。

さらに『小右記』にも挑戦!!

No.6170

 本日、集まったメンバーの協議により、本年度前期の『吾妻鏡』講読会は、基本的に土曜日の午後に設定されることになりそうです。土曜日は学会の大会などが開催される事が多いのですが、その際は休会。しかし、心置きなく長時間の続行が可能でしょう。
 なお、上に岩田君が告知して下さいましたように来週は9日(水)に実施いたします。

 ◇ 『吾妻鏡』だけではもの足りない、というか、平安時代中期を対象に勉強がしたい、あるいは記録(日記)読解に本格的に取り組みたいという方を対象に、『小右記』をじっくり、ゆっくりと読む会を始めようかと思っています。主たる対象は京女勢。実施日程の設定は、国文の江波さんと家政学研究科(建築史)の満田さんにお任せしてあります。
 講読範囲は長和四年(1015)の部分。
 『小右記』を紐解くのは久しぶりで心許ない限りなので、メンバーと同列になって勉強しなおしたいと考えています。ただ、私が大学院生時代に学習院大学大学院で聴講させて頂いた土田直鎮先生(当時、東京大学史料編纂教授)による演習の受講ノート(私の宝物です)が「虎の巻」として役だってくれるものと思います。
 
 江波さん、日程設定を宜しく。日程が決まったら再度告知して、さらに参加希望者を募りたいと思います。

 ◇ 先日、宇治の見学会を実施いたしましたが、その後、木幡にも行ってみたいという方が共同研究員ならびにゼミメンバーに続出。そこで、適当な時期に、木幡浄妙寺跡・宇治陵・木幡観音院(寺)跡、さらに宇治市街遺跡などを対象にした見学会を開催することになりました。GWあたりがよいのでしょうか?

 ☆ 新年度、日本大学文理学部教授に就任された関幸彦先生より、御高著『武士の時代へ 東国武士団と鎌倉殿』(NHK出版)を御恵送頂きました。
 先生の担当されるラジオ放送(NHKカルチャーアワー 歴史再発見)のテキストです。
 関先生にあつく御礼を申し上げます。

【追記】 今日の『吾妻鏡』講読会に江波さんが持ってきて下さったお土産(牡蠣物語スナック)は絶品でした。美味い!!
 某先生には大ジョッキで飲むピールのおつまみに。そして、そのお弟子さんの某君の御飯のおかずにも使えそうです。
 江波さん、ご馳走様でした。

『小右記』講読会の開始について

No.6174

 『小右記』講読会ですが、大きな差し障りがなければ、木曜日4講時(14:45~16:15)に実施することになりました。
 来週は9日(水)に『吾妻鏡』講読会が予定されていますので、第一回目は17日といたします。
 テキストは大日本古記録本。長和四年(1015)の部分をゆっくりと読み進めます。
 人数によっては、共同研究室を確保する必要がありますので、参加希望者は御連絡ください。

 ☆ 昨年、本学を定年退職された元文学部史学科教授の稲本紀昭先生より、御高論「北畠国永『年代和歌抄』を読む」(『史窓』65)を御恵送頂きました。
 詞書を史料として戦国期における伊勢北畠氏の動向を解明した興味深い内容です。
 稲本先生にあつく御礼を申し上げます。

野口先生、有難うございました。

元木泰雄
No.6163

 野口先生、ご丁寧なご挨拶有難うございました。
 上横手先生喜寿記念祝賀会も、無事に終えることが出来ました。
 ご協力の賜物と、厚く御礼を申し上げます。

 上横手先生は、心身ともに喜寿とは信じられない若々しさ。京大の教官になられてからも院生と間違えられることがあったとのことですから、昔から若々しいということもあったのでしょう。
 しかし、それだけではありません。つねに新しい目標、課題を設定され、果敢に挑戦される御姿勢が精神の若さをもたらしたことは間違えないと思います。あれだけの「大家」が、新たな方法と分野を切り開かれるお姿には、ひたすら敬服させられます。
 また、74歳で各大学の院生を集めて、新しい研究会を立ち上げられたこともすばらしいことです。段々、若い人とは話が通じないことなどから、付き合いを避け勝ちになりますが、先生は常に若い方々に接し、ご自身も若返っておられるように思います。研究にも通じますが、精神の柔軟さが若々しさの根源かもしれません。
 先生から教わったことはいくつもありますが、心に強く残るものの一つが、礼儀礼節と節度の大切さということと思います。それは実生活はもちろんですが、学問においても同様のこと。気をてらったような、新奇な「研究」が横行する昨今、特にそのことを痛感致します。
 そしてもう一つが、記念会のご挨拶でも仰られましたが、一般読者への還元を忘れてはならないということ。大家であっても決して象牙の塔に閉じこもってはならない、という御姿勢の表れであるのはいうまでもありません。それは同時に、戦前・戦後を生き抜かれて、歴史認識が現実に大きな影響を持つことを厳しく認識された結果でもあると思います。我々は、単に眼前の研究のみに満足するのではなく、学問を通して現実にどのように参画できるのかを心にとどめる必要があると思います。
 もちろん、そうした現実とのかかわりを、特定の政治的な目的に結びつけるのではありません。常に柔軟で自由な精神によって行われるところに先生の真骨頂があると思います。少しでも近づけるように努力したいものと思います(→無理)。
 今回の記念会には、40名の参加者がありました。大家から現役学部生まで幅広い世代が集まったのも、先生の会に相応しいように思われました。様々な交流が生まれたのも、大きな成果だったのかもしれません。

 27日は上島有先生のご解説による、亀岡での古文書学会見学会でした。
 すでに岩田君のコメント(6160)にもありますように、大変充実した内容でした。関東からも多数の参加者があり、総勢40名の盛会となりました。
 歴史に大きな意味を持つ原文書を間近に見させていただけることに、関西の大きな利点を感じた次第です。上島先生は、文書の料紙、折れ目、墨色等、非文字情報の重要性を強く主張されておられます。影写本ではなく、原文書の詳細な分析による、新たな古文書学のあり方を提唱されておられますが、昨年の東寺・府立資料館に続く毎回のご解説からもその重要性を痛感させられる次第です。
 ちなみに、先生はじめ有志の方々は、翌日、亀岡から唐櫃峠を越えて京都に向かわれました。尊氏の六波羅進撃、光秀の本能寺攻撃のコースを実地踏破されたとのことです。参加された美川先生、花田君、宜しければ様子をご披露ください。
 上島先生、上横手先生、そして大山先生と、中世の先生方は皆さん若々しく、常に精力的でいらっしゃいます。いつまでもご指導をお願いいたしたいと存じます。
 
 一週間で二つ、大きなイベントを企画、実行させて頂きました。ご協力いただいた方々に厚く御礼を申し上げます。終わってやれやれ。かなりふらふら。そりゃ、あれだけ飲めば当然でしょうな(笑)。
 本当は野口先生へのレスのつもりだったのですが、誤って上になってしまいました。かかる失策を毎度繰り返し、申し訳なく存じます。いよいよ老耄も進行してまいりました。どなたか引退祝賀会?の準備をお願い致します。 

唐櫃越の踏査

No.6164

 3月28日、上島先生と唐櫃越、という貴重な体験をしてまいりました。元木先生の要請もあり、とり急ぎ、簡単なご報告と感想を。

 朝、8:10にタクシーに上島先生、漆原先生らと分乗して、亀岡駅前のビジネスホテルから、篠村八幡宮にまいりました。八幡宮で亀岡市文化資料館の黒川先生をはじめ、資料館の方、地元の有志の方、そのご家族の小学6年生のお嬢ちゃん、などと合流。私は八幡宮さえもはじめてなのでした。当初、八幡宮から、唐櫃越の稜線に直接登るルートも考えたそうですが、黒川先生によると道の状態が確認できないとのことで、迂回して宝泉寺裏から一気に430メートルの「みすぎ山」に登攀しました。これがけっこう急な登りで、たしか84歳になられる上島先生のお元気ぶりにびっくり。若い人たちの方が、けっこうねをあげていたようでした。
 稜線に出ると、典型的な尾根道の旧道か、と思いきや、かなり広い林道がまもなく現れます。しかも、車の姿も。途中、なんだかだだっ広い、やたらに風通しの良い場所に到着。正午前ですが、ここで少し早い昼食です。左下には、保津峡が望めます。黒川先生の話では、山陰本線の付け替えの時、ここに資材を置いたとのことです。ヘリでも発着したのではないか、という広場です。そしてしばらく歩くと、舗装道路になってしまうのです。もちろん信号もあります。どれほど歩いたのか、距離感がまったくつかめません。林道の上に旧道があったような感じもするのですが、まったくわかりません。何本か、南側、つまり旧山陰道側に降りる道があるようですが、それが地図上のどれにあたるのかもよくつかめません。林道のために、地形が一変しているのです。西山団地に下りる道のところで、上島先生など数人、それに黒川先生がついて、お別れです。途中までタクシーがお迎えの予定。

 実は、そこからが、旧道でした。アップダウンは少々ありますが、全体としてはだらだら下り。林道とは比べものにならない、狭さです。人1人が通れる山道。多くは、右側が崖です。ときには、両側が崖です。踏み外すと、何十メートルか落ちていってしまいそうです。こうした道を、ひたすら2時間ほど、くねくねと下りていきます。明らかに、何百年かの歳月をへている道です。大きな竹林のあたりで、上島先生らを送った黒川先生が上桂駅から逆にいらして、そこで落ち合います。そして、午後3時前に広い墓地に出ました。そこからは住宅地の中を、阪急上桂の駅まで。けっきょく、実質歩いた時間は6時間弱ぐらいだと思います。

 意外と近いという印象です。ただし、旧道は狭い。馬一頭通れるかどうか。何千という兵が通るのは、あまりに隊列が長くなりすぎ、という印象です。旧山陰道の老の坂が正規の道ですから、この唐櫃越はやはり間道です。大軍勢の通過は想定しにくいのではないか。『太平記』には高氏が篠村八幡宮から「大江山ノ峠」を越えたとはあるが、この唐櫃越をしたという記録はないし、明智光秀も『信長公記』には「老の山に上り」とありますから、やはり老の坂を越えたと考えるべきだと思っています。「大江山」とは現在の「大枝山」で、それこそ老の坂のことではないでしょうか。『太平記』に高氏の八幡宮出発時「二万余騎」とあるのはおおげさにしても、数千騎の可能性はあるので、唐櫃越は無理でしょう。本隊は老の坂、一部が唐櫃越はありえると思いますが。

4月1日といえば美川先生。

No.6166

 元木先生、週に二度もの大きなイベントの企画・実施、お疲れ様でした。ともに大成功で祝着至極です。
 私にとりまして、上横手先生の祝賀会には、出席させて頂いただけでも光栄であるのに、祝辞を述べさせて頂く機会も与えて下さり、恐縮の極みでした。また、御出席の数多の著名な先生方とも御挨拶の機会を得ることが出来、本当に感謝に堪えません。
 また、元木研究室の院生の方々の御活躍ぶりにも感心させられました。

 美川先生、唐櫃越の詳報、ありがとうございます。ひょっとすると、義経の率いた平家追討軍の一手も逆方向にその峠を越えたのではないでしょうか。

 しかしながら、美川先生の4月1日の書き込みというと、思い出されるのが2004年
>>No.1671
http://donkun.ath.cx/~sion/bbs/yyregi.cgi?mode=past&pastlog=0004&page=70

それに2005年の>>No.3488
http://donkun.ath.cx/~sion/bbs/yyregi.cgi?mode=past&pastlog=0007&page=20
でありましょう(>>No.3505も)。

 懐かしい方たちのお名前も出てまいりますし、この掲示板も当時の方が活気がありましたね。

たしかに昨日は4月1日

No.6168

野口先生。たしかに昨日は4月1日でした。
もう一度、お読みいただければ幸いです。

エイプリル フール

No.6171

 わかりません。降参です。

エイプリルフール

No.6172

唐櫃越をしていただければ、すぐわかります。是非とも。いひひひ。

ようやく解決。

No.6188

 美川先生
 なるほど、「もちろん信号」は無いわけですね。

 本日の御報告「二つの古道-東高野街道と唐櫃越-」、たいへん勉強になりました。
 ありがとうございました。
 東高野街道は在京武力の供給ルートだったようですね。 

上横手雅敬先生喜寿記念祝賀会

No.6162

 昨日はインクラインの五分咲きの桜に彩られた蹴上のウェスティン都ホテルにおいて、上横手雅敬先生の喜寿をお祝いする会が開かれました。京都大学で先生の薫陶を受けた方たちが中心になって企画された、とても感動的で和やかな会でした(幹事は言うまでもなく元木先生。上横手先生はこの会の企画・運営主体を「元木プロダクション」と命名され、大変賞賛されました)。

 先生は御挨拶の中で、歴史学において実証は当たり前であり、問題なのは如何に面白い実証をするかということであること、政治史を中心とする総合史を構築し、「時代史」を考えなければならないということ、『平家物語』の注釈は歴史学が担うべきであること、京都における鎌倉時代研究を活性化すべきことなどを指摘されました。いつものように、先生のお話をうかがった私は、研究に対するモチベーションを大いに高めることができたという次第です。
 また、「下部構造が上部構造を規定する」という<健康理論!>にも大いに納得させられました。


 歴史学を志した頃の私にとって、若手研究者として憧れの対象であったのは、東では石井進先生、西では上横手先生でした。しかし、私には京大に入って先生の門下に加えていただけるような学力はなく、先生ははるかに遠い存在だったのです。ですから、このような会に出席させて頂いたことは感慨深いものがありました。

 上横手先生の御研究から学ばせていただいたことは、あげればきりがありませんが、僭越を承知で大きい枠組から申し上げさせて頂きますならば、それは、明確な問題意識、言い換えれば透徹した政治にたいする眼力に基づいた実証のものすごさ、あるいは観念論的なものに制約されない普遍性のある歴史学の実例を示して下さったことだと思います。先生の御研究はいつになっても新鮮です。

 上横手先生は、専門書のほかに一般向けの御本をたくさん書かれておられます。また、積極的に市民向けの講座を引き受けられ、追っかけのファンが出るほど、とても人気がおありです。日本人の歴史離れに警鐘が鳴らされている今日、研究者は自らの得た情報を社会や一般市民に分かりやすく還元する努力を積極的に果たさなければならないと思うのですが、その点においても上横手先生は率先垂範されておられるのだと思います。

 私が上横手先生に直接の御教導をいただくきっかけを得たのは、2000年秋に平泉で開催された市民対象のシンポジウム「源義経と平泉」に講師の一人として同席させていただいたことでした。その後、先生と御一緒する機会が多くなり、家が同じ方向であることから帰路を御一緒させていただくことがあるのですが、そのさい、電車に乗ってなんとか座って帰ろうと空席を探しているのが私。一方、先生はそんな素振りはみじんも見せずに吊革につかまって元気にお話しをされておられます。ちょうど先生と私は20歳違いなのですが、体力においては明らかに逆転しているのです。
 そんなわけですから、先生には遠慮無く、末長い御活躍をお願いしたい、ますます御指導をお願いしたいと存じております。


 ※ 今秋、上横手先生が院生クラスの関西の若手研究者を集めて開いておられる鎌倉時代研究会のメンバー(当ゼミ出身者も含む)による論集が思文閣出版から刊行される予定とのことです。
 この論集には上横手先生も「建永の法難」をテーマにした御高論を発表される由。「親鸞の時代」を研究課題とする私は本書の刊行を鶴首して待ちたいと思います。
 ちなみに、「建永の法難」は、浄土真宗では「承元の法難」と呼ぶようです。承元元年=建永三年というわけです。