『中世の人物 京・鎌倉の時代』(清文堂)全三巻の初校ゲラが出ました。

No.9842

 本日、元木泰雄先生・平雅行先生と三人で一巻ずつの編を担当する『中世の人物 京・鎌倉の時代』の三巻全ての初校ゲラを清文堂の編集者の方から拝受致しました。
 元木先生編の第一巻「保元・平治の乱と平氏の栄華」は3~4月には出版される予定とのことです。
 御執筆いただいた先生方には、校正で、またお手数をおかけ致しますが、何卒宜しくお願い申しあげます。
 早々にお原稿をお送り頂いた先生方には、長くお待たせ致しましたことをお詫び申し上げます。
 刊行をお待ち頂いている皆様には、もうしばらくの御辛抱をお願い申し上げる次第です。御期待にお応えできる書籍となることは間違いありません。
 なお、第一巻「保元・平治の乱と平氏の栄華」と第二巻「治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立」の構成(予定段階)については、>>No.9784>>No.9787を御覧下さい。

 元木泰雄先生が、公益社団法人 中国地方総合研究センター編『「海」の交流 古代から近世までの瀬戸内海・日本海』(同センター発行)に御高論「瀬戸内と清盛の夢」を発表しておられますので、御紹介させていただきます。
編集:2013/01/31(Thu) 23:01

つづきやります-次回の『吾妻鏡』-

No.9843

 前回は研究史整理のようなお話を聞いていただいたのですが、次回もそのようなお話をさせていただくことにいたします。ご了承ください。レジュメは前回お配りしたものを使いますので、次回もご持参いただければ幸いです。

 日時:2013年2月7日(火)午後3時頃~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 内容:「『上横手雅敬「鎌倉幕府と公家政権」』を読む」
 参考文献:上横手雅敬「鎌倉幕府と公家政権」『岩波講座日本歴史5中世1』1975年(のち『鎌倉時代政治史研究』吉川弘文館、1991年に再録)

 ※次回以降の『吾妻鏡』の範囲は以下の通りです。

 範囲:元久三年(建永元年、1206)六月十六日・二十一日、七月一日・三日、十月二十日・二十四日、十一月十八日・二十日、十二月二十三日
     建永二年(承元元年、1207)二月十一日・二十日、三月一日・三日・十日・二十日、六月二日・二十二日・二十四日・二十九日、七月十九日・二十三日、八月十五日・十七日、九月二十四日、十月二日、十一月十七日・十九日、十二月三日の各条

 野口先生からのご案内のとおり、二月は毎週木曜日(7日、14日、21日、28日)に開催予定です。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

 徳島へ、465.9㎞の調査旅行

No.9841

 26・27日の両日、中世前期における阿波国の有力武士に関係する史跡の調査に出かけてきました。まず、12世紀末のものとされる丈六の聖観音像のある丈六寺(徳島市丈六町)に直行。勝浦川左岸に立地する古刹で、五味文彦氏により田口成良(阿波民部大夫重能)との関連が指摘されている寺院です。次に久安2年(1146)7月11日「河人成俊等問注申詞記」の記事に登場したり関係する国府周辺の史跡へ。

 26日は、先に徳島市立考古資料館に立ち寄って情報の確認。学芸員の方から周辺の地図などのコピーを頂いて、国分寺・常楽寺(延命院)を回り、周辺の空間構造を確認する。国府が鮎喰川の水運を前提に存在していたことを理解。また、ここを伊予街道が東西に走っていることも重要。
 鮎喰川にかかる一宮橋を渡って、徳島市中心部に戻る。

 27日は、田口成良の本拠地と考えられている地域へ。まず井戸寺と隣接する八幡神社。ここを田口氏の居館跡とし、屋島合戦の前に源義経軍が襲来したとする所伝もあるようです。次に目指したのは、桜間の池。桜間は田口成良の弟桜庭(桜間)介良遠の本拠の地で、桜間の池は当時一キロ四方もある大池で歌枕にも詠まれている。吉野川の河道に由来するようだが、現在は桜間神社境内にのこる僅か5メートル四方くらいの小池にその名を留めるのみ。近世に徳島藩主によって建てられた大きな石碑が文化財に指定されています。ここは絶景。すぐ北側を吉野川につながる飯尾川が流れており、やはり舟運がポイント。中世前期の有力武士の本拠の共通要素です。ちなみに、周辺は風光明媚。

 その後、阿波国府の所在地とされる観音寺(境内に総社と八幡社を合祀した祠あり)と府中宮(印鎰社)、ついで国分尼寺跡を見学し、鮎喰川右岸の一宮神社・大日寺を回って帰途につきました。

 調査を行うにあたって、地元研究者の島田泉山氏・山下知之氏・福家清司氏・長谷川賢二氏らの著書・論文を拝読していたこともあり、現地を調査して、気がついたり、考えさせられることが多くありました。従来、中世成立期の四国の武士は日本史の通史叙述の中であまり評価されてきませんでしたが、新たな武士論構築に供すべき様々な事実が、この地域の武士の存在形態にみとめられるように思いました。田口成良については出来れば専論の形で纏めてみたいと考えています。

 ちなみに、調査地のお寺はほとんどお遍路さんの立ち寄るところでした。

 帰途、徳島県立阿波十郎兵衛屋敷に立ち寄って人形浄瑠璃を鑑賞する事が出来たのも幸いでした。地方自治体による地域文化の継承への取り組みという点で、現代社会学部の新年度からの講義の材料にも出来そうです。

研究史整理など-次回の『吾妻鏡』-

No.9839

 29日は『紫苑』11号の入稿予定日ですね。
 『吾妻鏡』は通常の講読をお休みして、私が拙い報告を致します。

 日時:2013年1月29日(火)午後3時頃~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 内容:「鎌倉幕府の“成立”をめぐって-佐藤説・黒田説の検討-」
 参考文献:
  黒田俊雄「中世の国家と天皇」『岩波講座日本歴史6中世2』岩波書店、1963年(のち『日本中世の国家と宗教』岩波書店、1975年、および『黒田俊雄著作集第1巻権門体制論』法蔵館、1994年に再録)
  黒田俊雄「中世における地域と国家と国王」(『黒田俊雄著作集 第一巻 権門体制論』法蔵館、1994年、初出は1987年)
  佐藤進一「幕府論」『日本中世史論集』岩波書店、1990年(初出は1949年)
  佐藤進一「寿永二年十月の宣旨について」『日本中世史論集』岩波書店、1990年(初出は1959年)
  佐藤進一『日本の中世国家』岩波書店、1983年(岩波現代文庫、2007年)

 ※次回以降の『吾妻鏡』の範囲は以下の通りです。

 範囲:元久三年(建永元年、1206)六月十六日・二十一日、七月一日・三日、十月二十日・二十四日、十一月十八日・二十日、十二月二十三日
     建永二年(承元元年、1207)二月十一日・二十日、三月一日・三日・十日・二十日、六月二日・二十二日・二十四日・二十九日、七月十九日・二十三日、八月十五日・十七日、九月二十四日、十月二日、十一月十七日・十九日、十二月三日の各条

 野口先生からのご案内のとおり、二月は毎週木曜日(7日、14日、21日、28日)に開催予定です。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

29日は、たくさんの方の来会を歓迎致します。

No.9840

 29日の岩田君による研究発表。日本中世史の研究において、きわめて重要なテーマです。
 私も勉強させて頂きたいと、楽しみにしています。
 
 関学や立命館で岩田先生の講義を受講されている皆さんも、ぜひご出席下さい。
 当日は入学試験が行われていますが、研究所のあるL校舎は入構可能です。

 戎光祥出版から刊行される予定の『坂東武士団と鎌倉』の初校が届きました。1983年にかまくら春秋社から出版した『鎌倉の豪族Ⅰ』の復刊ですが、近年の研究成果によって修正を要する点と、その後の関連著作の一覧を「あとがき」に書かせて頂き、また写真や図版を一新致しましたので、新著のような趣です。
 本編のゲラを読んでみて、よく30歳そこそこで、これだけのものが書けたものだと我ながら感心しています。
 私の研究者としての人生は退化の過程だったのかも知れません。

 若い研究者の皆さん。「将来」より、今こそが大切です。

よき友、三つあり

No.9836

 高校生の頃からお世話になっている『徒然草』に、こんなことが書いてあります。「友とするにわろき者、七つあり。一つには高くやんごとなき人。二つには若き人。三つには病なく身強き人。四つには酒を好む人。五つにはたけく勇める兵(つはもの)。六つには虚言(そらごと)する人。七つには欲深き人。よき友、三つあり。一つには物くるる友。二つには医師(くすし)。三つには知恵ある友。」(第117段)。

 兼好さんは年寄りが若者の中に交じることをやたらと嫌悪しておられます。そうかも知れませんね・・・。

 「よき友」の二番目にあげられている「医師」。まさに、そう思います。私が後生大事に抱えている例の結石は膀胱の方まで落ちてきたようで、不快感は続いていますし、何しろ身体の不調こそ諸悪の根源であることを思うとき、「いつ何時たりとも頼りになる医師」が友でいてくれたならとは誰でも思うことでしょう。こういうときにこそ、Facebookで友達申請したら良いのでしょうか。「日本中世史(とくに武士論)の好きな泌尿器科のお医者さん」とか?

 『紫苑』の編集、池嶋さんが頑張ってくださっており、いよいよ来週には入稿の段取りです。学部生の原稿については、先輩たちが下読みをしてアドバイスするという態勢も整ってきて、ゼミの機関誌としては理想的なものに近づいてきたように思います。

 『吾妻鏡』の史料講読会は今月29日も開催。そして、2月中も原則として木曜日に開かれることになりました。これは岩田君や山本さんが牽引してくれているので助かります。  

 ☆ 本学名誉教授の加納重文先生より、御高著『訳注 藤原定家日記(1) 治承四年二月~正治元年六月』・『訳注 藤原定家日記(2) 正治元年七月四日~同二年十二月廿九日』(望稜舎)を御恵送頂きました。
 加納先生にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 長野県の村石正行先生より、御高論「鎌倉時代の「款状」とその機能」掲載の『信濃』 第64巻第12号 (通巻755号)を御恵送頂きました。
 「東国信濃の鎌倉時代」の特集号なので、ゼミメンバーが大挙して掲載各論文のコピーをとらせていただいておりました。
村石先生に、あつく御礼を申し上げます。
編集:2013/01/23(Wed) 14:59

死んだ方がましと思った結石

美川圭
No.9837

 一昨年の7月、山鉾巡行の翌日、西宮北口駅から救急搬送してもらいました。どうにもならない痛さですよね。U先生は、遺書まで書いたという話です。聞くところによると、出産より痛いということですが、まあ軽い出産も、それからそれほど痛くない結石もあるので(以前1度あります)、まったく比較のしようもありませんし、出産と比較するのは、どだい私には無理なこと。お医者さんに聞くと、どうにもならないようですね。痛み止めを使うしかない。水分をよく取って、動いてくださいなどと言われますが、あの痛さの中でどうしろというのか。まあ、静かにねていることもできませんでしたが。

 お若い方々、体質にもよりますが、この病気は、加齢と友だちですので、たぶん経験されると思います。

 3度もこの痛みを(それ以外に出産を1度)経験しているベテランの妻が、以前韓国で買ってきた薬を日に1度飲んでいます(しょっちゅう忘れますが)。カルシュウムが固まりにくくなる薬だそうです。気休めですがね。

 野口先生お大事に。

『阪急電車』と『人類の歴史』

No.9838

 美川先生、ありがとうございます。
 「西北」では大変だったことと思います。同じ「西北」が舞台でも、我々の世代にとっては、リアルでシビアな『阪急電車』ということでしょう。

 ほんとうに結石の痛さは筆舌に尽くしがたいものがあります。ギックリ腰になったときは、これは耐えがたいと思いましたが、海老のような形になっていれば何とかしのげる。結石の場合はどんな格好をしても痛みからは遁れられない。その発症に脅えるが、そのうち忘れてしまう。しかし、その日は訪れる。そんなことの繰り返し。まさに『人類の歴史』の如し。

 現在の不快な症状は結石によって炎症が発生したためらしく、落ち着きませんので、本日、近所のかかりつけの医院を受診して薬を頂いて参りました。目下、風邪が大流行のようで、待合室には熱や咳で辛そうな患者さんが何人もおられました。

 ☆ 中国・西南交通大学の金澤正大先生より、御高論「武田信義没年に関する五味文彦氏説に反駁」(『政治経済史学』549)・「木曽殿源義仲の伊与守遷任の史的意義」(同 550)を御恵送頂きました。
 金澤先生に、あつく御礼を申し上げます。

『玉葉』講読会の運命や如何に?

No.9835

 本日の『玉葉』の講読会は、参加者諸姉多忙(期末試験のレポートが間に合わない)のため、急遽中止することになりました。次回は新年度になる模様です。

IT社会における「傷だらけの人生」

No.9831

 このところ自らの身体の老化の進行に脅えておりますが、その回復に一役買ってくれるはずの風呂の給湯機が3日ほど前に壊れました。その解決には、業者さんとの遣り取りが欠かせないわけですが、こういうことに、もしも私が関わると、世間慣れしていないためか、行き違いが多くて困ることになります。
 当たり前に生きていくことが出来ない人間が歴史を研究しているというのは実にマズイですね。

 マズイといえば、本日、大学の図書館から貸借依頼をしておいた本が届いたという連絡を頂いたので受け取りに行ったのですが、あまり時間の余裕がないのに、館内でしか閲覧できず、また著作権の関係で複写の分量に制限があるという条件下、例の如く落ち着きを失ってしまったらしく、コピーカードをコピー機に入れたままにして引き上げてしまい、電話を頂いて取りに戻るという失敗をしでかしました。
 図書館カウンターの職員のみなさまには、いつも親切に対応して頂いているにも拘わらず、御迷惑をおかけするばかりで申し訳ない限りです。

 次に、御迷惑といえば、最近、つぎつぎと知人(青学の時のゼミの外務大臣の某君など)からFacebookに参加したから見てくれというメールが届くので、どんなものかと覗いてみて、アカウント登録などという未知の領域に分け入ってみたところ、いろいろな方のお名前(写真があるものも)が現れ、この人を知っているかという問が表示されたので、「知ってる、知ってる」とばかりにクリックしてしまったのですが、それは、どうやら「お友達になりましょう」というメール送信のボタンであったらしく、ひょっとしたら、多くの方の所に、そんなメールを送りつける仕儀になってしまったかも知れません。
 そもそも、 私がFacebookに自分の情報を正確に登録できているかどうかも不確実ですので、受け取られた方は誰からの送信なのか分からないのかも知れませんが、こんなところからで恐縮ですが、お詫びを申し上げる次第です。
 これからの時代、意思伝達にこういう手段が一般化して、使えない人間は市民的権利の行使が困難になってしまうかも知れませんから、いずれ、どなたかこの方面に詳しい方に、上手な使い方について御教示を仰ぎたいと考えております。

 しかし、全ての人が全世界に向けて自分のプロフィールを晒すというのは、些か不気味なようにも思えますね。
編集:2013/01/19(Sat) 20:10

facebookの製品

美川圭
No.9832

私も2年ほどfacebookをやっています。
先日、新聞でfacebookの社長が、利用者はfacebookのお客ではなく、製品であると発言していました。つまり、私たち利用者は製品としてそのプロフィールを広告主に売られている。広告主はそれを買っているわけで、いわば人身売買の一種だろうと思います。
そのことをよく知って利用したいですね。それにしても、何というビジネスモデルなんでしょう。広告主は不特定多数に広告を出さなくてもいいわけです。⚪⚪大学卒とか、⚪⚪会社勤務とか、ターゲットが絞り込める。

はじめまして

No.9833

野口実 様

千葉県の市野澤と申します。

>全ての人が全世界に向けて自分のプロフィールを晒すというのは、
>些か不気味なようにも思えますね。

ご懸念の点、尤もと存じます。
しかし、情報を制限することも可能です。

>上手な使い方について御教示を仰ぎたいと考えております。

私も上手とはいえないと思いますが、宜しければお聞き下さいませ。

 御教示ありがとうございます。

No.9834

 なるほど、企業の利潤や戦争のために科学技術は長足の進歩を遂げる。

 いずれにしても、私は(管理人さんの御迷惑を顧みず)ゼミや講義の連絡にこの掲示板を利用させて頂いておりますので、Facebookは参加をお知らせ頂いた方のプロフィールを拝見する程度にとどめておきたいと思います。なにしろ、耄碌して何処で何を書いたか忘れてしまいますので。

 千葉歴史学会中世史部会は長い間御無沙汰しております。このところ、千葉県の中世史研究は、とくに室町・戦国期で活況を呈しているように思います。中世前期についても大いに期待するところがございます。また、参加させて頂く機会があれば幸いと考えております。

  『芸備地方史研究』第282・283号の特集は「平氏研究の最前線」

No.9830

 広島大学大学院に進学された尻池さんが委員をつとめておられる芸備地方史研究会の会誌『芸備地方史研究』第282・283号が刊行されました。特集は「平氏研究の最前線」。
 論説として、渡邊誠「後白河・清盛政権期における入宋交渉の舞台裏」、下向井龍彦「平清盛音戸瀬戸『日招き』開削伝説の形成と浸透」と、拙稿「平家と瀬戸内の武士」が掲載されています。
 拙稿は大学院以来の畏友である畠山誠氏(このとき岡山市在住)の御案内を得て、吉備地方や倉敷市藤戸周辺を調査・見学する機会に恵まれたことによって纏めることができたものです。
 そういえば、藤戸に行ったのは、ちょうど近くの高校で山本さんが教育実習をされていた時期でした。

 ☆ 日本大学の関幸彦先生より、御高著『武士の誕生』(講談社学術文庫)を御恵送頂きました。
  関先生に、あつく御礼を申し上げます。

 不良老人

No.9828

 本日は、痛みこそありませんが体調は頗る不良。風邪でもひいたのかも知れません。

 懸案の来年度の授業シラバスは、なんとか入力を済ませました。長文というわけではありませんが、いろいろな思いが交錯して、すぐには書けませんでした。
 来年度は、現代社会学部で、これまで担当してきた「基礎演習Ⅰ」(前期)に加えて1回生対象の「基礎演習Ⅱ」と2回生対象の「演習Ⅱ」を、それぞれ後期に担当することになりました。歴史から現代の日本社会を照射したいと思います。
 ここでは、社会科学としての日本史学に取り組みます。
 研究所ゼミとうまくタイアップできれば、履修者から日本史専攻で大学院に進学するような人が出てくるかも知れませんね。

『紫苑』については、目下、事務方にお願いして見積もりを取って頂いております。

年度末の足音のする『吾妻鏡』

No.9829

 期末試験や入試、『紫苑』のことなどもありますが、次回の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2013年1月22日(火)午後3時頃~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:元久三年(建永元年、1206)五月六日、六月十六日・二十一日、七月一日・三日、十月二十日・二十四日、十一月十八日・二十日、十二月二十三日
     建永二年(承元元年、1207)二月十一日・二十日、三月一日・三日・十日・二十日、六月二日・二十二日・二十四日・二十九日、七月十九日・二十三日、八月十五日・十七日、九月二十四日、十月二日、十一月十七日・十九日、十二月三日の各条

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

『紫苑』第11号の目次案&「けっせき」届

No.9827

 編集長の池嶋さんの御尽力の甲斐あって、『紫苑』第11号の構成がほぼ固まりつつあります。昨日、前編集長の山本さんや岩田君も加わって、構成について検討しました。それに、ちょっと、後で気のついた私見を差し挟んだものですが、ここに目次案を提示したいと思います。
 分量は例年より少し薄めですが、71ページくらいになる見込みです。
***************************************************

 ◇ 『紫苑』第11号目次(案)◇

【論文】
  「平安宮内裏における御簾の用法」
          ・・・・・・・満田さおり(京都大学大学院工学研究科DC、本学大学院家政学研究科MC修了)

【研究余録】
  「武士論からみる中世前期・後期の分岐―吉田賢司氏『武家編制の転換と南北朝内乱」に接して―」
           ・・・・・・岩田慎平(関西学院大学・立命館大学非常勤講師、当研究所共同研究員)
  「『英雄』小考」・・・山本みなみ(京都大学大学院人間・環境学研究科MC、本学文学部史学科卒)
  「文観弘真関係文献目録稿」・・・・・・坂口太郎(同 DC、高野山大学密教文化研究所受託研究員)

【研究ノート】
  「史料上に見る富木常忍」・・・・・池嶋美帆(本学文学部史学科3回生)
  「守護代長尾氏の越後支配の展開と中央の権威」・・・滝沢智世(同)

【活動記録】 【執筆者紹介】 【投稿規定】 【あとがき・奥付】
   *************************************************
 とくに、もと編集長だったみなさん、何か御意見・アドバイスがありましたら宜しく。

 >執筆者各位
  刊行に至るまでには、まだ、いくつかのハードルを越えなければなりません。御協力をお願いいたします。

 結石による不快な症状は未だに時々現れます。いつ、激痛に見舞われるのか、爆弾を抱えているような有様で落ち着きません。しかし、結構同じような条件の下にある同世代の方も多いようです。
 私が不機嫌そうにしていたら、このためですから、どうぞ気になさらないようにお願いいたします。  

 小手先の仕事

No.9826

 『吾妻鏡』講読会、明日から本格的に始動です。
 『紫苑』も印刷屋さんに、見積もり依頼の段階へ。これからが、編集長の「腕の見せ所」です。

 首都圏の某大学におられた先生のお話によると、最近の学生さんの中には「就活」で内定をもらった後に、チョチョイのチョイという感じで卒論を仕上げてしまう人がいるとのこと。なんでも一晩に何千字も書くのだそうです。「ただの作業にしても、大変な速さですね?」と申し上げたら、「いや、貼ってるんですよ」とのこと。まさに小手先の仕事のようです。

 ところで、「就活」と言えば、内田樹氏のインタビュー記事がありました。日頃、誰かさんが話しているのと同じようなお話しだと思われるかも知れませんが、学部生諸姉兄はぜひ読んでみて下さい。
     → http://www.asahi.com/job/syuukatu/2014/hint/OSK201301040041.html

 最近、せっかく就職したのに、僅か数年で方針転換をした人の話をよく聴きます。ほんとうは院に進学して、もっと勉強したかったのに、周囲に反対されたので、みんなと一緒に就活の波に身を投じたところ、世間で超一流と言われている会社に受かってしまった。そこで、勤めてはみたものの・・・、というケースが多いようです。
 そうかと思うと、「どんな仕事をやっても生きていけることを確認できたので、学問の世界に戻って来ました」と仰る猛者もいる。世の中捨てたものではありません。
 一番苦しいのは、自ら不本意な状況にあることを意識しながら、それを続けざるを得ないことなのかも知れません。ただ、やりたいことをやっているように見える人たちが黙って負っている重荷も見落とすべきではない。果たしてかれらは、家族環境や経済的に恵まれていたからというだけで、そう出来たのかというと、そうでもないと思うのです。
 いずれにしても、矜持をもって生きられる選択をしたいものです。