平安京が燃えると武士の世がはじまるのか?

No.9606

 新聞の政治面や社会面には、毎日いろいろと想像を絶する事件が記されていますが、今日はテレビ欄で驚くことがありました。
 「保元の乱燃える平安京!新しき武士の世の幕開け!」
 保元の乱で源義朝や平清盛が白河北殿に夜討ちを行ったことはよく知られていますが、白川北殿は平安京の外です。
 「また、そんな細かいことを、うるさい奴だ。同じ京都じゃないか」というお叱りの声が聞こえてきそうですが、12世紀の当時、京域内と京外がまったくの異界であったことは、日本史や国文学を専攻しておられる方には常識だと思います。
 平家や後白河院が京外に本拠を置いたこと、その評価自体が研究の対象になっているのです。先週の基礎教養科目の講義で触れた「穢」の問題にも直接関わるということはすぐに気がつかれると思います。
 一方、平治の乱は、藤原信頼に率いられた源義朝の軍勢が京内の院御所三条東殿を夜襲したことから始まりました。このことが、公卿であった藤原信頼の処刑に影響を与えたのは否めないことでしょう。

 また、タイトルに含意された「平安京が燃えて武士の世が始まる」という発想は、通説的な理解に乗じたものではありましょうが、いかにも古い。今日の研究者に、そんな理解をする人は少ないでしょう。そもそも、首都の防衛こそが当時の「武士」の存在証明だった訳ですから。もっとも「武士」ではなくて「新しい武士」というのがミソなのかも知れませんが。
 なお、保元の乱について正確な理解をはかりたいという方には、元木泰雄先生の『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)をお勧めします。現在、絶版なので図書館などを利用してください。近く文庫化して再刊されるというお話もうかがっております。
 それから、山田邦和先生の論文「保元の乱の関白忠通」(朧谷壽・山中章編『平安京とその時代』思文閣出版)には、保元の乱を素材にして<源義朝愚将論>が展開されています。私はこの御意見には同調しませんが、忠通の再評価という点で興味深い論文です。

 ☆ 立命館大学の佐古愛己先生より、新刊の御高著『平安貴族社会の秩序と昇進』(思文閣出版)を御恵送頂きました。
 叙位を中心に、貴族社会の昇進制度を軸として古代から中世への変容を考察した論文集です。古典文学を研究しようとする方にも必備の本だと思います。
 佐古先生に、あつく御礼を申し上げます。

卒論報告会日程につきまして。

中村翼
No.9603

はじめまして、とつぜん失礼します。
日本史研究会で研究委員(中世史部会)をしております、大阪大学の中村翼です。
平素は当会に格別のご配慮を賜り、ありがとうございます。

さて、標記の件でありますが、来月の卒論報告会の日程につき、6月3日は誤りで、正しくは6月2日(土)です(大阪歴史学会とも確認済)。
※詳細は日本史研究会のホームページをご確認ください。
http://www.nihonshiken.jp/sig/sig-medieval.html
(報告者の方にも、誤解なきよう再度、当会より連絡いたします)

情報に混乱がありましたようで、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
つきましては、あらためましてご確認のほど、よろしくお願いいたします。

とりいそぎ、用件のみにて恐縮ですが、今後とも当会・当部会をよろしくお願い申し上げます。

6月2日・・・本能寺の変の日か

No.9604

 >中村さん  訂正の書き込み、ありがとうございました。

 6月2日ですと、岩田君の講演(>>No.9590)と重なりますが、学生さんの中には午前の講義後、聴講に行けるという人が多いかも知れません。

 ちなみに、この日には女性史総合研究会の例会も予定されています。
 基礎・教養科目の受講者で近代史に関心のある方は行ってみると良いでしょう。

  ◆女性史総合研究会 5月(第165回)例会◆

  日時:  2012年6月2日(土)1:30~5:00 
 
  報告:林美帆氏「独立と相互扶助の関係-与謝野晶子・平塚らいてう・羽仁もと子の母性保護論の比較」
  
  コメント:光田京子氏 

  場所:滋賀大学 大津サテライトプラザ 

  ※ 行かれる方は、必ず女性史総合研究会のHPhttp://www.geocities.jp/joseishi_sougou/regular_meeting.htmlで御確認下さい。
編集:2012/05/26(Sat) 09:00

6月1日は朝カルで「京都と義経」

No.9605

 【追記】
 岩田君の講演や山本さんの卒論報告ばかりではなく、そういえば私も、6月1日の金曜日に朝日カルチャーセンターでお話をさせて頂くことになっておりました。
 (財)古代学協会と朝日カルチャーセンター京都の共催講座です。

 テーマは「京都と義経」
 内容は以下のとおり、
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 源義経というと五条の橋の上で弁慶を打ち負かした話や一の谷・屋島・壇ノ浦合戦での活躍を思い起こされる向きが多いと思われる。イメージするところは紅顔の英雄であろう。しかし、その多くは後世に創作された話で、事実とは程遠い。彼の真骨頂は、卓抜した行政能力に見いだすことができるのである。木曾義仲滅亡後の京都に、兄頼朝の代官として進駐した彼は、混乱の渦中にあった京都とその周辺地域の治安を回復し、貴族から庶民にいたる、当時の京都市民の絶大な支持を集めたらしい。義経は京都の生まれであり、わずか30年の人生の中で、もっとも長く活動の場としたのも京都であった。その京都からの視点で、義経の再評価を試みたいと思います。
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 まだ、申し込みは可能のようです。
 → http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=155728&userflg=0

本を出さない歴史学者は、絵を描かない画家の如し。

No.9602

 今でも時々、天から「執筆は義務です」という角田文衞先生のお声が届きます。

 昨日、再刊のお話を頂いたと御報告した本は、多くの方々から御要望をお寄せ頂いている私の学位論文をベースにした『坂東武士団の成立と発展』(弘生書林、1982年)ではなく、そのエッセンスを一般向けに書き下ろしたものと御理解頂いている『鎌倉の豪族Ⅰ』であります。鎌倉叢書の一冊として、1983年に、かまくら春秋社から出して頂いた、私にとっては、記念すべき初の一般向けの書籍です。32歳の時に出した本ですが、今さらながら、内容はなかなかのものだと自負致しております。それにしても、あのころのモチベーションはどこに行ってしまったのやら。
 学問・研究にも「旬の時代」というのがあります。 

  『坂東武士団の成立と発展』についても、改訂増補の可能性も視野に入れながら、ぜひ実現をはかりたいものと考えています。あとは、何方であろうとも、出版社・編集者の御英断に委ねるばかり。お待ち申し上げております。

 ☆ 長野工業高専の中澤克昭先生より、御高論「中世の狩猟と鷹捕獲」収録の、白水智編『新・秋山記行』( 高志書院)を御恵送頂きました。
 中澤先生に、あつく御礼を申し上げます。

 ☆ 同志社女子大学名誉教授の朧谷寿先生より、『NHKさかのぼり日本史 平安⑨ 藤原氏はなぜ権力を持ち続けたのか』(NHK出版)を御恵送頂きました。
 朧谷先生に、あつく御礼を申し上げます。

 【追記】 「再刊の話以前に、出したばかりの本がもう売れなくなりつつあることを心配すべきではないのか?」という叱声が、親しい友人から届きました。
 出したばかりの本→http://www.chuko.co.jp/tanko/2012/01/004318.html
 まことに仰せのとおり。

再訂正! 山本さんの卒論報告は6月2日(土)

No.9601

 >>No.9592に、山本みなみさんの卒論報告の日程を当初、6月2日(土)とお知らせ致しましたが、それは誤りで、正しくは6月3日(日)とのことです。>>No.9603→さらに6月2日(土)に再訂正されました。

 【追記】 昔むかし、私が高校の教員をしていた時代に、寸暇を惜しみ、捻り鉢巻きで纏め上げた本に再刊の話を頂きました。本決まりになるかどうかは先の話ですが、さらに多くの方々にお読み頂けれる可能性が生じたことについては素直に喜んでいます。

 近隣迷惑の件、私の周囲からも、同じようなお話が寄せられています。昔、京都ではこのような問題は、その稀有な「都市性」によって少なかったように思われたのですが、最近はダメになってしまったようです。かつて、鹿児島や千葉の大学で、京都の「都市文化」を高く評価する講義を行っていた私としては辛いところであります。

 ☆ 青山学院大学の佐伯真一先生、国立歴史民俗博物館の菱沼一憲先生の御連名で、延慶本注釈の会編『延慶本平家物語全注釈 第三本(巻六)』(汲古書院)を御恵送頂きました。
 佐伯先生・菱沼先生に、あつく御礼を申し上げます。
 

「風薫る五月」に始まる半年間の憂鬱

No.9600

 本日の『台記』研究会。元木先生をはじめ、御出席の諸賢からは、拙い報告であったにもかかわらず、多くの御教示を賜り、ありがとうございました。
 なお、レジュメにいくつかの誤りを指摘して頂きましたが、2ページ③の「円慶法親王」と3ページの『猪熊関白記』(『猪隈関白記』とも表記)は、もとのままで可のようです。
 ご出席の皆様には、恐れ入りますが、再度の訂正をお願い申しあげます。

 「風薫る五月。部屋の窓を大きく開けて・・・、と思っても、近所でいつバーベキューが始まるか分からない。こんなに密集した住宅街の狭い庭でバーベキューをしたら、周囲にどのような災厄がもたらされるのか、少し考えれば分かると思うのですが・・・。これからしばらく心休まらない日々が続きます。」
 ある親しい友人から、こんなメールが届きました。

木曾義仲の故地でお世話になった「重盛」さんの思い出

No.9598

 本日のゼミ講読会は、初参加の一回生も加わって賑やかなものになりました。彼女たちが『吾妻鏡』をスラスラ読めるようになる日も遠くなさそうです。

 京都文博の歴史散歩(>>No.9594)の申し込みは、すでに定員数をオーバーしているとのことです。

 当方の公開講座(>>No.9582)にも、すでに新潟や熊本から御出席の意思表明が寄せられております。

 昔むかし、私がまだ学生だったころ、木曾義仲の足跡を追って信濃路を旅したことがありました。たしか、徳音寺に行った帰り、食事をしようと宮ノ越の駅の近くまで行ったのですが、食堂が見つからず、小さな土産物屋さんで店番をしていたおばさんに食堂はないかと尋ねたら、家に上がれと言われてお餅と漬物を御馳走になったことがありました。
 あのころは若かったので、本当に空腹が絶えられず、大感謝だったのですが、ふと、そのお宅の表札を見ると「重盛」とあり、「源氏ゆかりの地に重盛とは、奇しき因縁」と、後になっても気になっていました。
 それから、二十年ほど後、「あの親切なおばさんが御健在ならば」と、愛車を駆って、そのお店を探しに行ったのですが、もうありませんでした。
  太田亮『姓氏家系大辞典』で調べてみたのですが、「重盛」については「シゲモリ 信濃に存す」とあるばかり。
 それにしても、昔は、旅先で、見ず知らずの方から、いろいろお世話になることが多くあったものでした。若者は、旅は歩いてするものです。
編集:2012/05/22(Tue) 23:34

遠くへ行きたい-次回の『吾妻鏡』-

No.9599

 旅というのは、団体行動をしているよりも一人旅のほうがいろいろと構ってもらえますし、思わぬ出会いや発見も増えますね。

 次回の火曜日の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年5月29日(火)午後4時すぎ~(予定)

 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁三年(1203)九月七日・十日・十二日・十五日・十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日の各条

 今年度から火曜日開催となった『吾妻鏡』購読会、5月はこのあと29日(火)に開催予定です。

 わけあって開始時間を四時過ぎに変更させていただいております。メンバーのみなさんにはご迷惑・ご不便をお掛け致しますが、よろしくお願い致します。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

 明日の基礎演習Ⅰとゼミ講読会

No.9597

 明日、Ⅲ講時の「基礎演習Ⅰ」は、寺澤さんの報告で、テーマは「オリンピックについて」。履修の諸姉は、オリンピックによる経済効果など、調べ、考えておいて下さい。

  Ⅳ講時の『玉葉』講読会は、治承四年五月十三日の条から。以仁王が園城寺(三井寺)に立て籠もるという辺りの話です。

 Ⅴ講時の『吾妻鏡』講読会は、岩田君が>>No.9591に告知してくれています。今回から、またあらたに一回生が参加することになります。
 この時代(頼家~実朝将軍期)が初めてという人は、石井進『鎌倉時代』(中公文庫版『日本の歴史』)などを読んでおくとよいでしょう。
 それにしても、この時代を対象にした概説書というのは、あまり思いつきませんねぇ。良い本があったら紹介して下さい。

 ところで、ツィッターやインターネット上の情報は誤りが多いので気を付けて下さい。たとえば、ウィキペディアには源義康(足利氏の祖)が陸奥守になったなどと書いてありますが、それは明らかな誤り。12世紀半ばの政治・社会に関する既往の研究を無視して、ただ『尊卑分脉』の記事を鵜呑みにしてしまったものと思われます。
 むしろ、ネット情報というのは、テキスト・クリティークの格好の素材です。

 明日は介護実習に行っていた池嶋さんも復帰されますね。

西行きの新幹線で『西行』を読む。

No.9596

 たしかに、歴史家にとって、「正確は義務であって、美徳ではない」のです(E.H.カー『歴史とは何か』参照)。
 
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 『平清盛の時代』(通学路の歴史探索)
   第三回 後白河院の御所 法住寺殿

 京阪七条駅を出ると、そこは七条通(七条大路末)と川端通の交差点です。信号を渡って七条通を東に五分ばかり歩くと、通りの北には国立博物館、南には三十三間堂があって、いつも観光客で賑わっています。十二世紀後半、この辺りから、南は大谷高校全域、東は本学にいたるエリアを占めたのが、後白河院(一一二七~九二)の御所であった法住寺殿(ほうじゅうじどの)です。博物館の辺りは院のプライベートゾーンともいうべき北殿(七条殿とも、東・西両殿が置かれた)のあったところで、儀式などを行うハレの空間である南殿(東山殿)は、大谷高校のグラウンド(当時は広大な園池)の北側に営まれていました。

 法住寺殿は、南殿・北殿などの複数の邸第のほかに、御願寺である蓮華王院(三十三間堂はその本堂で御所や五重塔が付属)・最勝光院(後白河院の妻・建春門院滋子の御堂で、宇治の平等院を模した。現在の一橋小学校の場所に所在)、さらに鎮守社である新(今)熊野社・新日吉社をとりこんだ広大な領域をしめ、周辺には院近臣の宿所や民衆の町屋も立ち並んでいましたから、一つの独立した都市空間を構成していたと言ってよいでしょう。

 ちなみに「法住寺」とは、十世紀の末に右大臣藤原為光が七条の末に造営した寺院で、その旧地に造営されことが、院御所としての「法住寺殿」の名の由来です。現在、三十三間堂の東側にある法住寺は、明治時代までは大興徳院と呼ばれていたお寺で、平安時代の法住寺とは直接の関係はありません。
 法住寺殿で最大の建造物である蓮華王院御堂(三十三間堂)は平清盛の手によって造営されましたが、鎌倉時代(一三世紀半ば)に焼失してしまいました。現存する建物は鎌倉幕府の負担によって再建されたものですが、これが法住寺殿の唯一の遺構と言えましょう。

 次回からは、この法住寺殿を舞台にした事件や、ここにまつわる人々について語っていきたいと思います。

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 ☆ 広島大学の下向井龍彦先生より、御高論「承平六年の紀淑人と承平南海賊の平定-寺内・岡田両氏の研究に接して-」(『史学研究』274)を御恵送頂きました。
 下向井先生に、あつく御礼を申し上げます。

 ☆ 髙橋昌明先生より、御高論「養和の飢饉、元暦の地震と鴨長明」(『文学』隔月刊13巻2号)・「平家政権の新しさ」(『歴史地理教育』788)を御恵送頂きました。
 髙橋先生に、あつく御礼を申し上げます。

バースデイに研究発表。

No.9595

 今日は「中世戦記研究会」に出かけました。会場は目白の学習院大学。
 同じ構内では「歴史学研究会」、そして、隣の教室では、なんと「物語研究会」が開かれていました。
 報告に臨んだ粟村さんは今日がお誕生日とのこと。
 懇親会で乾杯しました。
 久しぶりにカリスマ編集者ともお目にかかり、兵藤先生と私と二人、小中同窓生の記念写真を撮りました。

 それにしても、こちらの情報は、伝わっているはずのないものが伝わっているのに、伝わっているべきものが伝わっていない。京・東国の関係は中世と同じ。「伝聞・・・・・・・云々」

 創価大学の梶川さんのご報告は、じつによく整理されており、国文の方たちもよく理解して頂けたことと思います。こういう実証的な研究は好感が持てます。
 自重を心がけていた私ではありますが、例によって、いろいろ口を挟んでしまいました。これも耄碌のなせる業かもしれません。
 御研究の進展をおおいに期待したいと思います。

 「中世戦記研究会」の輪読は『太平記』になりました。まったく不勉強なのですが、これから新しい領域に踏み込むのも、「また楽しからずや」なのかもしれません。

 山手線が混んでいるのは昔ながらですが、恵比寿の「第三の男」、高田馬場の「鉄腕アトム」は和めますね。京都でも、京阪や市営地下鉄の駅でやれば面白いと思います。東山駅では「月は朧にひ~がしやま~♪」なんてね。

歴史散策「清盛ゆかりの地を巡る」

No.9594

 京都文化博物館の特別展の関連イベントとして、下記のような歴史散歩を行います。

 ◇ 歴史散策 「清盛ゆかりの地を巡る」
   講師 野口 実(京都女子大学教授)
   日時 2012年7月7日(土) 午後1時30分-3時30分
   参加費500円(当日お支払い下さい)(ただし、本展覧会入場券〔半券可〕が必要です)
   要申込。 くわしくは→http://www.bunpaku.or.jp/exhi_kiyomori.html

※ 来月に入ったら、プレ散策を実施したいと思います。