源氏の為義・義朝・義賢については、元木先生の『河内源氏』(中公新書)や拙著『武門源氏の血脈-為義から義経まで-』(中央公論新社)を御覧下さい。
さて、今週も何はともあれ・・・。
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「平清盛と京都」 ④ 九条末の新拠点
還都後の清盛
周囲の猛反対にもかかわらず福原への遷都を企てた清盛が、それを断念して京都への還都に踏み切ったのは富士川合戦の敗報が届いた直後、治承4年(1180)11月のことであった。東国における反乱勢力の追討と福原遷都の両立の困難を悟ったのであろう。しかし、清盛は失意に打ちひしがれていたわけではなかった。清盛にとっての還都とは、従来彼が本拠としていた福原を離れ、京都への復帰を意味するものであり、内乱鎮圧のために政治の最前線に立つ意志を示したことにほかならなかったのである。ここで清盛は新手の追討軍の派遣や貴族たちに兵士を進上することを命じるなどの方策をとるとともに、京都近郊における反平家の武装宗教勢力に対して容赦のない攻撃を仕掛けたのである。12月には園城寺、ついで東大寺をはじめとする南都寺院が焼き討ちを受けて壊滅に至っている。
同時に清盛は、反乱軍の攻撃に備えて京都の要塞化を企てたようである。それは、九条末(すえ)・八条河原にあらたな軍事拠点を設定する策であった。
新首都の構想
治承3年6月、清盛の子宗盛は、亡き妻の菩提を弔うため、九条の末・鴨川の東(一の橋の西辺)に一堂を建立しているが、同5年正月、清盛は宗盛とともに、この堂(おそらく付属の御所)を居所とするようになる。それにともなって、周辺の河原の地に平家の郎従を住まわせるために、右大臣の九条兼実にまで、その所領の割譲を求めている。実際、平家家人のこの地への移住も進められたようで、二の橋の辺りに「悪七兵衛」の異名で知られる平家の有力家人藤原(伊藤)景清が宿館を構えたことを確認することができる。
さらに清盛は、2月に安徳天皇を弟頼盛の八条室町亭にうつしている。貴族たちは天皇を京外に住まわせることを忌避したので、妥協したのであろう。一方、後白河院も八条の末に位置する最勝光院南御所(法住寺殿の南の域内)を居所とすることになった。ちなみに、後白河院の子で安徳天皇の父にあたる高倉上皇は、この正月に亡くなっている。
清盛は、いったんは高倉・安徳の王権と一体化した「福原王朝」を構想したが、その実現に失敗した段階で、また京都に戻り、内裏(天皇の御所)は京域内に置くにしても、六波羅・法住寺殿から九条の末におよぶ大きなエリアを新しい首都とすることを意図したのではないかと思われるのである。
九条末の空間
清盛が九条末の地に平家の新拠点を設営しようとした事情として、反乱勢力の追討に備えて諸国から徴集した大軍の宿営地を確保する目的のあったとする意見があるが、そればかりではないだろう。この辺りは、宇治方面から大軍が入京しようとする際にどうしても通過しなければならない地点で、鴨川と東山にはさまれた要害の地である。実際、清盛は最勝光院の南境の「法性寺一ノ橋」と通称される地点の付近に堀をめぐらせた城郭を構築しており、建久7年(1196)、平知忠ら平家の残党がここに籠城して幕府に反旗を翻している。また、寿永2年(1183)7月の都落ちの際にも、平家軍の一部が引き返して法性寺の最勝金剛院に城郭を構えるという情報が流れたこともあった。
中世前期の城郭は主要交通路を遮断する機能をもつもので、武士の居館は河川・山麓・大道などを前提に立地していた。すなわち平泉や鎌倉・福原は城郭によって遮断された空間に存在した要塞都市として評価され、その条件は六波羅・法住寺殿・九条末を含む鴨川の西にして東山の西麓の地にも適合するのである。従来、平家にたいしては貴族的な側面を重視する見方がなされがちであったが、こうした拠点の立地の問題も踏まえて、軍事権門としての側面を評価していくことが今後の課題となるであろう。
清盛の死と新首都構想の消滅
治承5年(1181)閏2月4日の戌の刻(午後時8頃)、九条河原口にあった平家の重臣平盛国の家において清盛は死んだ。彼は閉眼の時、子孫らに最後の一人まで戦い抜けと命じたという。
盛国の家の位置は「八条河原」とも伝えられており、清盛は平家の新拠点の設営に邁進する中、その現場で波乱に満ちた64年の生涯を終えたことになる。 清盛の死によって、宗盛が平家一門の総帥になった。しかし、彼は父の所行を否定するとともに、後白河院に政治権力を返上してしまう。これによって、八条室町にいた安徳天皇も左京の中央にあった閑院内裏に戻って、整備されつつあった新首都の機能も消滅することになったのである。
平家一門があわただしく京都を落ちていったのは、それから2年半ほど後の、寿永2年(1183)7月のことであった。
(『京都民報』2012年3月4日付 より)
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6月23日(土)の午前に京都文化博物館で、髙橋昌明先生の御講演があるようです。
http://www.bunpaku.or.jp/exhi_kiyomori.html
おりしも、同日の午後には本学で当方の公開講座が予定されております。
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シリーズ「東山から発信する京都の歴史と文化」⑭
『平家・王権・儀礼』
元木泰雄氏(京都大学大学院教授)「平清盛と後白河院」
服藤早苗氏(埼玉学園大学教授)「院政期の五節」
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これは、京都に来る甲斐があるというものではありませんか。