何はともあれ、元木先生の『平清盛と後白河院』(角川選書)をお読みください。いろいろな面で安心できるはずです。
余裕のある方はこちらも、どうぞ。
http://www.chuko.co.jp/tanko/2012/01/004318.html
お約束の第3回です。
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清盛と京都 ③ 西八条と七条町
時子亭を中心とした西八条
平家が西八条に邸宅を有したのは忠盛の時代に遡るが、その全盛期に占有した空間は左京八条一坊五・六・十一~十四町の計六町と推定され、さらに周囲には重盛(小松殿)・宗盛ら一門の居亭や家人・郎等の宅が軒を連ねていた。『延慶本(えんぎょうぼん)平家物語』は、平家の西八条について「大小棟の数五十余に及べり」と述べている。福原遷都の頃には、平知盛に仕える侍二人が、八条坊門北・坊城西(八条一坊二町にあたる)にあった藺草(いぐさ)田を押領して、そこに住み着いたという事実があり、六波羅と同様に、西八条の周辺にも平家の一門・家人・郎等たちが、ベースキャンプを形作っていたもののようである。
西八条の中心は十一町の邸宅「二品(にほん)亭」であった。「二品」とは清盛の妻時子のことで、西八条は時子の居亭を中心に発達したものと見ることができる。平家が西八条を本拠にしていた時代、清盛は福原にあり、在京して実質的に平家一門を束ねる役割を果たしていたのが時子だったのである。十二町には時子の建てた仏堂があり、十三町には娘の盛子(関白・摂政をつとめた藤原基実の妻)が居亭を構えていた。
西八条は京中に位置することから六波羅のような自然地理的な要害性は認められない。しかし、武器・武具および馬にかかわる流通・生産の拠点である七条町(まち)に近接し、山陽・山陰道方面(西国)への出入り口であり、元暦元年(1184)、一ノ谷合戦の際に源義経が摂津国の軍勢をここに集結させたことで知られる「七条口」の付近に位置したことは、やはり軍事権門の拠点にふさわしい立地であることを示している。
武門を支えた七条町
七条町は七条大路と町尻(まちじり)小路(現在の新町通)の交差点を中心とした商工業区で、平安末期には三条・四条町と並んで、京都で最も画期にあふれる地域に成長していた。このあたりは平安京の区画でいえば左京七条と八条に属する。現在の京都駅北側の一帯をしめる地域である。
中世の武士、とりわけ多数の家人・郎等を率いて国家の軍事・警察を担う武門にとって、馬・武器・馬具等の調達といった物質的問題こそ、その存立にとって最も重要な課題の一つであった。したがって、その居住地もそれに規定されるわけで、武具・馬具を専売品とした律令制下の平安京東市(ひがしのいち)の機能を継承・発展させた流通の拠点である七条町周辺に武門の居亭が集中するのは当然の成り行きであった。
院政期、源氏が六条大路沿いに住んだのは、六条に白河院の御所が置かれていたことともに、七条町の至近であったからであろう。この時代の七条町が源平二氏に代表される軍事権門の需要に支えられていたことは、考古学的にも明らかにされており、新京都センタービル(下京区塩小路烏丸西入ル)建設に伴う調査では、ほかに前例をみないほど大量の刀装具の鋳型(いがた)が出土しており、その生産時期のピークはほぼ平家の全盛期に重なることが判明している。
最大の荘園領主八条院
ちょうどこの平家全盛期に、七条町の近く、現在の京都駅のあるところには、後白河院の妹である八条院暲子(あきこ)内親王の御所があった。彼女は鳥羽院の皇女で、母は美福門院藤原得子(なりこ)。後白河院にとっては異母妹にあたるが、230箇所にも及ぶ王家領の荘園を伝領し、当時最大の荘園領主であった。彼女の御所は八条三坊十三町に、家政機関の置かれた八条院庁(いんのちょう)は十一町に、御倉町(みくらまち)は十四町にあった。御倉町は倉庫群のほか、宿所・厨(くりや)・細工所(工房)等を併設した家産経済の中心であり、その門前は、ここで働く工人・雑人のほか、遠く東国にも散在する八条院領荘園から山のような貢物を伴って上洛した人びとであふれかえっていたことであろう。ほかに、八条院領として八条二坊十二町・三坊四町・六町・十五町・四坊二~五町が附属しており、さらに周辺には八条院の関係者である平頼盛(池殿)が三坊の五町、九条良輔が十二町、といった具合に居亭を所有していたから、八条東洞院を中心とする一帯は、あたかも八条院の都市といってもよいほどの景観を作り上げていたといえる。
かくして、12世紀末の七条町には、八条院や平家領からの生産物のみならず、ひろく東アジア各地からの舶載品も大量にもたらされた。このことは、当地域から大量の輸入陶磁器が出土することが直截に物語ってくれる。日宋貿易の主催者である平家や大荘園領主である八条院が近くに本拠を置き、国内の流通の結節点でもあった七条町は、日宋貿易の終着点としての機能を担っていたのである。
(『京都民報』2012年 2月26日付 より)