「俺たちに休みはない」

No.9570

  「世間」は連休ですが、私たちにとっては、(僅かにのこされた)研究に集中できる貴重な期間です。

 7月7日(土)の史跡見学会について、お手伝いをお願いしたところ、「お手伝い」をお願いするのが憚れるほどの専門研究者の方が手を挙げて下さり、恐縮しています。ありがとうございました。
 平清盛関連の京都における史跡見学の案内は、11月19日(月)にも御依頼を頂いております。こちらは参加人数も見学先も多いので、またお手伝いをお願いする事になろうかと思います。こちらも、また宜しくお願い致します。

 本日、『軍記と語り物』の48号が届きました。長村祥知君の「木曾義仲の上洛と『源平盛衰記』-近江湖東路の進軍と反平家軍の連携-」が掲載されています。武士論および治承・寿永内乱に関心のある方は必ずお読み下さい。長村君による木曾義仲に関する単著の刊行が待望されるところです。
 なお、同誌に掲載されている【軍記物研究文献目録】は、歴史学の研究者にも大いに参考になる資料で、重要な研究成果がしっかりと網羅されています。

【追記】 >>No.9561の末尾に記した件については、「もう大丈夫」とのことです。
    私も安心致しました。よかった、よかった。

 平家関連の史跡見学

No.9569

 滝沢さんがツイッターで情報を流してくださいましたが(*)、7月7日(土)に京都文化博物館の特別展『平清盛』関連のイベントとして、六波羅から法住寺殿跡周辺の史跡を御案内する予定です。
 全行程徒歩なので、どなたかに、お手伝いをお願いしようかと考えているのですが、如何ですか?

 ちなみに、今日(26日)の『朝日新聞』夕刊に私の「人相書」?or「手配写真」?が掲載されているそうです。京都版だけなのだと思いますが、如何ですか?

 本日(26日)はⅢ講時の講義で熱弁?を振るってしまい、後で疲れて大変でした。痛切に老化を感じております。周りから見て如何ですか?

 『紫苑』第10号の発送もなかなか進んでおらず、申し訳ありません。

 『玉葉』講読会に参加を希望される方は、御連絡ください。第一回目に使用する九条家本のコピーを用意します。

 (*) 正しくは「情報をRTしてくださいました」でした。(お詫びして訂正しますwww)
    いずれにしても、その情報のもとは↓にあります。
              http://www.bunpaku.or.jp/exhi_kiyomori.html

 5月8日から、『玉葉』の講読会も始めます

No.9568

 岩田君、昨日は御多用の所、ありがとうございました。
 また、『吾妻鏡』講読会の御案内もありがとうございました。>>No.9567
 昨日は、3回生のメンバーも勢揃いして、盛会になりました。

 御案内のように次回のゼミ史料講読会は5月8日(火)の開催になりますが、『吾妻鏡』が16時過ぎから開始ということなので、Ⅳ講時(14:45~)の時間を利用して『玉葉』の講読を行うことに致しました。この終了後に小休止してから『吾妻鏡』講読会という段取りです。
 
 というわけで、これからのスタートですので、『玉葉』そのもや、記録の読解力を身に着けたい方、さらに治承・寿永内乱期の歴史に関心をもつ方など、ぜひ加わって頂きたいと思います。院生・学部生、所属大学や専攻は問いません。治承四年(1180)の以仁王の挙兵辺りから、内乱関連の記事を拾いながら読み進める予定です。
 場所は研究所共同研究室(L校舎3F)です。

 ☆ 青山学院女子短期大学の清水眞澄先生より、御高論「願文を読むということ-『平清盛願文』の注釈と醍醐寺の法脈をめぐって-」(『聖徳大学 言語文化研究所 論叢』19)を御恵送頂きました。 
 清水先生に、あつく御礼を申し上げます。

「基礎演習Ⅰ」の発表テーマ

No.9566

 本日24日火曜日の「基礎演習Ⅰ」はいよいよ研究発表開始。
 寺田さんの発表テーマは「どうしてガールズイベントは人気があるのか?」
 内藤さんの発表テーマは「方言について」

サツキとメイの『吾妻鏡』

No.9567

 つい先日、「一枚羽織れるものがほしい」というようなことを書いたのですが、一転、すっかり初夏のような気候ですね。次回は五月、文字通り初夏の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年5月8日(火)午後4時すぎ~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁三年(1203)九月二日の残り・三日・四日・五日・六日・七日・十日・十二日・十五日・十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日の各条

 今年度から火曜日開催となった『吾妻鏡』購読会、5月は8日(火)、15日(火)、22日(火)、29日(火)に開催予定です。

 本日(4/24)は九月二日条をすべて読めませんでしたので、次回はその続きからとなります。
 また、次回以降はわけあって開始時間を四時過ぎに変更させていただいております。メンバーのみなさんにはご迷惑・ご不便をお掛け致しますが、よろしくお願い致します。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

『清盛・平家とその時代』

No.9562

 何はともあれ、元木先生の『平清盛と後白河院』(角川選書)をお読みください。いろいろな面で安心できるはずです。
 余裕のある方はこちらも、どうぞ。
http://www.chuko.co.jp/tanko/2012/01/004318.html

 お約束の第3回です。
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   清盛と京都 ③ 西八条と七条町

 時子亭を中心とした西八条
平家が西八条に邸宅を有したのは忠盛の時代に遡るが、その全盛期に占有した空間は左京八条一坊五・六・十一~十四町の計六町と推定され、さらに周囲には重盛(小松殿)・宗盛ら一門の居亭や家人・郎等の宅が軒を連ねていた。『延慶本(えんぎょうぼん)平家物語』は、平家の西八条について「大小棟の数五十余に及べり」と述べている。福原遷都の頃には、平知盛に仕える侍二人が、八条坊門北・坊城西(八条一坊二町にあたる)にあった藺草(いぐさ)田を押領して、そこに住み着いたという事実があり、六波羅と同様に、西八条の周辺にも平家の一門・家人・郎等たちが、ベースキャンプを形作っていたもののようである。
 西八条の中心は十一町の邸宅「二品(にほん)亭」であった。「二品」とは清盛の妻時子のことで、西八条は時子の居亭を中心に発達したものと見ることができる。平家が西八条を本拠にしていた時代、清盛は福原にあり、在京して実質的に平家一門を束ねる役割を果たしていたのが時子だったのである。十二町には時子の建てた仏堂があり、十三町には娘の盛子(関白・摂政をつとめた藤原基実の妻)が居亭を構えていた。
 西八条は京中に位置することから六波羅のような自然地理的な要害性は認められない。しかし、武器・武具および馬にかかわる流通・生産の拠点である七条町(まち)に近接し、山陽・山陰道方面(西国)への出入り口であり、元暦元年(1184)、一ノ谷合戦の際に源義経が摂津国の軍勢をここに集結させたことで知られる「七条口」の付近に位置したことは、やはり軍事権門の拠点にふさわしい立地であることを示している。

武門を支えた七条町
 七条町は七条大路と町尻(まちじり)小路(現在の新町通)の交差点を中心とした商工業区で、平安末期には三条・四条町と並んで、京都で最も画期にあふれる地域に成長していた。このあたりは平安京の区画でいえば左京七条と八条に属する。現在の京都駅北側の一帯をしめる地域である。
 中世の武士、とりわけ多数の家人・郎等を率いて国家の軍事・警察を担う武門にとって、馬・武器・馬具等の調達といった物質的問題こそ、その存立にとって最も重要な課題の一つであった。したがって、その居住地もそれに規定されるわけで、武具・馬具を専売品とした律令制下の平安京東市(ひがしのいち)の機能を継承・発展させた流通の拠点である七条町周辺に武門の居亭が集中するのは当然の成り行きであった。
 院政期、源氏が六条大路沿いに住んだのは、六条に白河院の御所が置かれていたことともに、七条町の至近であったからであろう。この時代の七条町が源平二氏に代表される軍事権門の需要に支えられていたことは、考古学的にも明らかにされており、新京都センタービル(下京区塩小路烏丸西入ル)建設に伴う調査では、ほかに前例をみないほど大量の刀装具の鋳型(いがた)が出土しており、その生産時期のピークはほぼ平家の全盛期に重なることが判明している。
 
 最大の荘園領主八条院
 ちょうどこの平家全盛期に、七条町の近く、現在の京都駅のあるところには、後白河院の妹である八条院暲子(あきこ)内親王の御所があった。彼女は鳥羽院の皇女で、母は美福門院藤原得子(なりこ)。後白河院にとっては異母妹にあたるが、230箇所にも及ぶ王家領の荘園を伝領し、当時最大の荘園領主であった。彼女の御所は八条三坊十三町に、家政機関の置かれた八条院庁(いんのちょう)は十一町に、御倉町(みくらまち)は十四町にあった。御倉町は倉庫群のほか、宿所・厨(くりや)・細工所(工房)等を併設した家産経済の中心であり、その門前は、ここで働く工人・雑人のほか、遠く東国にも散在する八条院領荘園から山のような貢物を伴って上洛した人びとであふれかえっていたことであろう。ほかに、八条院領として八条二坊十二町・三坊四町・六町・十五町・四坊二~五町が附属しており、さらに周辺には八条院の関係者である平頼盛(池殿)が三坊の五町、九条良輔が十二町、といった具合に居亭を所有していたから、八条東洞院を中心とする一帯は、あたかも八条院の都市といってもよいほどの景観を作り上げていたといえる。
 かくして、12世紀末の七条町には、八条院や平家領からの生産物のみならず、ひろく東アジア各地からの舶載品も大量にもたらされた。このことは、当地域から大量の輸入陶磁器が出土することが直截に物語ってくれる。日宋貿易の主催者である平家や大荘園領主である八条院が近くに本拠を置き、国内の流通の結節点でもあった七条町は、日宋貿易の終着点としての機能を担っていたのである。
                  (『京都民報』2012年 2月26日付 より)

ドラマとしてのできが悪いのです

美川圭
No.9563

今週も野口先生のいわれる「何はともあれ」の部分の話をしなければなりません。

まず、きのうの土曜日、朝日新聞夕刊に「清盛」低迷のワケ、という記事が出ていました。大河ドラマ歴代最低レベルの視聴率なのは、なぜなのかという内容です。これを読むと、関係者の認識がかなりピントがずれていることがわかります。

理由のひとつが「NHKは今作でリアルな平安時代の再現にこだわった」とあり、その一例として「衣装」の問題があげられています。私にはこの「リアル」という意味がよくわかりません。何よりも「リアル」にこだわっているのは、元木先生をはじめとした歴史学者なのです(私も、その1人であるという自負はさすがにあります)。しかし、そうした成果を無視して、何が「リアル」でしょうか。

 「例えば衣装」などといっていますが、あんな薄汚いかっこでうろうろする「安芸守平清盛」のどこが「衣装」の面で「リアル」なのでしょうか。どこか別の星の「平安時代」(パラレルワールドというべきか)ならいざしらず、あんなもので平安時代をリアルにえがいたなどと、冗談ではありません。「絹などの生地が豊富になかったことを踏まえ、登場人物の衣装を意図的に汚し、使い古した感じを出した」などといい、時代劇研究家の春日太一さん(この人を私は知りませんが)の「映画のようなリアルさを求めたのは評価できるが、違和感を感じた視聴者が離れてしまったのだろう」というコメントが載っています。これもよくわからない。私もけっこう映画を見てきたのだが、だいたい「映画のようなリアルさ」という意味がまったくわからないのです。映像のトーンのことだろうか。たしかに黒澤映画では身分の低い人は汚いかっこをしています。しかし、なにか「映画」を誤解しているのではないか。

実際は、身分の高い人はよい着物を身につけているはずであり、また少なくとも宮中に汚れた姿では行かないというのが「リアル」ということです。少なくとも服は洗濯をして、体も綺麗に洗っていく(清めていく)はずです。その意味で当時の貴族社会ではまったくありえない状況を描いたいるのであって、逆に「リアル」ではないからこそ、視聴者は離れていくのです。

「時代になじみがない」というNHK会長のコメントも載っている。しかし、『平家物語』という日本の古典屈指の作品がある時代であり、しかもその主人公を描いているのであって、ほんとうに時代になじみがないのであろうか。たまたまNHK会長自身に、残念ながら古典の素養がない、という程度のことにすぎないのではないか。

それに関連して、「序盤の展開が複雑で人間関係も入り組んでおり、武士の勇ましいサクセスストーリーを期待した視聴者は『ちがうじゃないか』と思ったのかもしれない」というチーフプロデューサーのコメントが載っている。今回、このコメントがもっとも見当外れであると思いました。複雑で入り組んだ人間関係を、その本筋を改変せず、場合によっては登場人物を限定させて、整理して、いかにわかりやすく示せるか、というのがドラマづくりの見せ所でしょう。それができていないのは、作り手の(つまりこのプロデューサーを含めた)未熟さのはずです。しかも、わけのわからないフィクションを、唐突に付け加えれば付け加えるほど、ますますドラマが方向性がわからなくなってしまう。「武士の勇ましいサクセスストーリーを期待している視聴者」とあきらかに視聴者を小馬鹿にしていますが、こういう姿勢だからよいドラマが作れないのです。作り手の歴史認識の方が単純すぎて、視聴者はその低級なレベルにあきれはてているというのが、実情でしょう。

今回も、何も言いたくもありません。源為義がまるで火付け盗賊のように描かれています。天皇や貴族のために、火付け盗賊の役割をさせられている武士が、その立場を脱して「武士の世をつくる」ドラマのようです。そんなのはあきらかに絵空事で、「リアル」でも何でもありません。そのために、ずいぶん無理をして、変な事実を付け加えていました。摂関家の朱器・台盤がまるで、盗賊のような為義に奪われていました。その前に、忠実・頼長による整然たる東三条殿接収の事実があるのに、それを描かないので、視聴者には何がなんだかわからないはずです。頼長の家人による家成邸襲撃も、あれでは強盗に入られただけのように映ってしまいます。ドラマのプロならば、もっと説得力のある映像にしなければなりません。たんなる「ならず者同士」のあらそいではなく、「権力者」のこわさを感じさせるのが「演出」というものでしょう。

忠盛は中井貴一の演技によって、立派な人物に描かれていますが、けっきょくなぜその人が、粗野で単細胞の「バカ盛」を後継者に指名したのか、けっきょくドラマとしての説得力はありませんでした。

今回も20分過ぎから、時計を見い見い、苦痛の45分でした。残念ながら、現在のスタッフでは、今後のドラマの好転は望めないでしょう。5月打ち切りぐらいがベストではないでしょうか。とにかく、ドラマとしてのできが悪すぎるのです。

「映画のようなリアルさ」

滝沢智世
No.9564

美川先生はじめまして。史学科3回の滝沢と申します。

春日太一さんのコメントについてなのですが、どうやらそのコメントは朝日新聞の記者による勝手な解釈で要約され、付け足された言葉なのだそうです。記事自体の内容も春日さんの意図するものとは違うものになってしまっているそうです。偶然twitterで春日さん自身がこの記事で時代劇研究家・春日太一を判断して欲しくないと言っておられるツイートを見たので一応ここに書かせて頂きました。

春日太一さんのツイッターアカウントとこの件に関しての春日さんのブログの記事です。→ tkasuga , http://jidaigeki.no-mania.com/Entry/102/

春日さんのコメント

美川圭
No.9565

滝沢さん、はじめまして。京都女子大学文学部の学生さんですね。

春日さんのツイッターご紹介いただき、感謝しています。

私も、新聞の取材を数回うけたことがあるのですが、幸いにいずれも優秀な記者さんで、よく勉強されており、このような目にあったことはありません。しかし、よく話には聞きますが、こんなこともあるのですね。私も今後、気をつけたいと思います。

春日さんのコメントについて、新聞記事を鵜呑みにしたので、私自身反省しております。

 来週の予定など

No.9561

 月曜日はラボール学園で「保元・平治の乱」をテーマにお話をさせて頂きます。この両乱に対する認識も以前に比べてだいぶ変わりました。
 やはり、「武士がどうのこうの」という前に、当時の中央政界の実態、貴族社会の身分秩序や制度的理解なしでは話になりません。元木先生の御著書から学ぶところ多大でした。 月曜日、その成果をどの程度反映してお話しが出来るかどうか。
 レジュメはA3で7枚にもなってしまいました。

 火曜日の「基礎演習Ⅰ」はいよいよ研究発表開始。寺田さんの発表テーマは「どうしてガールズイベントは人気があるのか?」とのことです。

 この週から、ゼミの講読会は火曜日に設定。中心メンバーの週予定にまだ不確定なところがありますので、また5月以降については開始時間など、再検討が必要かも知れません。 3回生の都合によって、Ⅳ講時に『玉葉』を読み。Ⅴ講時以降の時間に『吾妻鏡』を読むという案も浮上してきています。

 水曜日は京大で元木先生主催の研究会に出席させて頂きます。『紫苑』や抜刷などを御出席の諸賢にお渡しできればと思っております。

 木曜の教養科目は、日本史全体の流れの中で女性の占めた位置について概説するというのが予定するところなのですが、どうなることか。

 研究業務のほか、連休前に片付けなければならない雑務も多く、また来週も忙しい日々が続きそうです。

 今、とても重大な問題も発生しているのですが、今は、あとで笑って振り返れるような結果になることを祈るばかりです。

  初陣! 中世戦記研究会で粟村さんが研究発表。

No.9560

 「第14回 中世戦記研究会のご案内」を頂きました。

 日時:2012年5月19日(土) 14:00~18:00
 場所:学習院大学 西2号館 504教室
 【研究発表】
   粟村亜矢氏(京都女子大学大学院研修者):「『平家物語』の遺言」
   梶川貴子氏(創価大学大学院博士後期課程):「得宗被官の歴史的性格」
   志立正知氏(秋田大学教授):「太平記研究の現在」

 ※ 自由参加は不可です。出席を希望するゼミメンバー・関係者は、事前に野口まで御連絡ください。
 
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 今日は嬉しい情報が一件届きました。

 ずっしり重い『立命館文学』第624号

No.9558

 本日の講読会。和田胤長や新田忠常の洞窟探検のお話でした。さまざまな解釈、楽しめました。
来週は24日の火曜日、15時からの開催です。今まで参加できなかった3回生の参集を期待しています。

 既に刊行済みと聞いていながら、なかなか手にすることの出来なかった待望の『立命館文学』第624号(杉橋隆夫教授退職記念論集)が抜刷とともに届きました。
 この論集には、私にとって興味津々の論文が目白押しです。ラインナップの一部を示すと、
  元木泰雄「頼義と頼清-河内源氏の分岐点-」
  美川圭「後白河院政と文化・外交-蓮華王院宝蔵をめぐって-」
  川合康「「鹿ケ谷事件」考」
  長村祥知「治承・寿永内乱期の在京武士」
  宮田敬三「西海合戦と源頼朝」
  前川佳代「源義経と春日大社」
  塩原浩「三左衛門事件と一条家」
  滑川敦子「鎌倉幕府行列の成立と「随兵」の創出」
  佐伯智広「中世前期の王家と法親王」
  山内讓「『一遍聖絵』に描かれた信濃」
 そして、杉橋先生の「鎌倉右大将家と征夷大将軍・補考」・・・など、など

  山内論文は、長野県出身の滝沢さんにお勧めです。
 ほかにも、近藤好和「『法体装束抄』にみる法体装束」など、考古学から近代史に至るジャンルの全部で39篇の論文、そして、もちろん杉橋先生の御略歴・執筆編年目録なども加えた、A4版で500ページをこえる大冊です。
 ちなみに、拙稿「平清盛と東国武士-富士・鹿島社参詣計画を中心に-」も載せていただきました。

五月までの『吾妻鏡』

岩田 慎平
No.9559

 昨年度から読み始めた頼家将軍期の『吾妻鏡』も佳境に入りました。
 次回の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年4月24日(火)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁三年(1203)九月一日・二日・三日・四日・五日・六日・七日・十日・十二日・十五日・十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日の各条

 今年度から火曜日開催となった『吾妻鏡』購読会、4月は24(火)、5月は8日(火)、15日(火)、22日(火)、29日(火)に開催予定です。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

 明日(17日)の「基礎演習Ⅰ」は史跡散歩

No.9555

 13:00までに共同研究室(先週の部屋)に集合して下さい。ここで資料を配付して、13:00に出発します。そのまま帰る人は荷物を持って行く。そうでない人は荷物を私の研究室に置いていって構いません。コースの予定は以下のとおり。

 三島神社跡→<渋谷通りを下る>→馬町三重の塔跡(伝佐藤継信・忠信の墓)→河合寛次郎記念館(中は見ません)→大仏殿跡→方広寺(「国家安康、君臣豊楽」の梵鐘)→豊国神社→耳塚→京都国立博物館(中は見ません)→三十三間堂(同)→後白河天皇陵(法住寺)
 ここから智積院・妙法院・新日吉神宮の脇を通って(要するに「女坂」を登って)14:30頃、大学に戻る予定です。

 今年は積翠園(平重盛の小松殿の池庭?)が見られないのが残念です。以前は、さらに今熊野神社の辺りまで歩いたのですが、当方の体力低下のため、上記のみとしました。

 「基礎演習Ⅰ」履修者以外の方でも、お暇な方はどうぞ御同行下さい。まだ、お花見も出来そうです。
編集:2012/04/16(Mon) 23:54

春の日の『吾妻鏡』

No.9556

 夜はまだちょっと冷えますから、帰りが遅くなるときなどは一枚羽織るものなどあると安心ですね。
 次回の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年4月19日(木)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁三年(1203)五月二十日・二十五日、六月一日・三日・四日・二十三日・二十四日、七月二十日・二十五日、八月二十七日、九月一日・二日・三日・四日・五日・六日・七日・十日・十二日・十五日・十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日の各条

 やや変則的ですが、4月は19(木)、24(火)に開催予定です。

 木曜日と火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

春爛漫の史跡散歩でした。

No.9557

 本日の散歩、好天に恵まれましたが、やはり例年に増して疲れました。今日全部でも歩数は1万に満たず。たいして歩いていないのに。

 それにしても、「国家安康、君臣豊楽」をマジックで書いた紙を用意しておいたのは効果的だったと思います。「教育実習」とか「研究授業」なら、高評価間違いなしだ!
 
 滝沢さんが、カメラをもって同行してくれたのは心強かった。京博では、陽明文庫展も始まっていたようです。京都は今週末までは、まだお花見が出来そうです。

 疲れ果てて研究室で仕事をしていたら、なんとかの維持料だとかいう訳の分からない請求書が届いたりして、鈴木君にも御迷惑をおかけしてしまいました。
 いつになっても、「やれやれ」とはいきません。「人生とは、重い荷を負うて長き坂を登るが如し」か!。

 目下、元木先生の『保元・平治の乱を読みなおす』を読みなおしています。 

名著の効用

No.9552

 元木先生の『平清盛と後白河院』(角川学芸出版)をお読みになって、胃痛が収まった方がおられるという情報を頂いております。

 以下、お約束の拙文です。
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 「平清盛と京都」 ② 六波羅と法住寺殿

 法住寺殿の造営
 平治の乱の結果、信西や藤原信頼らの近臣を失い、二条天皇と競合せざるを得ない立場に置かれた後白河院は、その権力基盤を平家に依存せざるをえなかった。院が平家の本拠である六波羅の南方に隣接する七条末・東山山麓の地に院御所「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」を造営したのは、こうした政治的な事情に求められる。ちなみに「法住寺」とは、10世紀の末に右大臣藤原為光が七条の末に造営した寺院で、その旧地に造営されことが、その名の由来である。
 現在、豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の界隈は、いつも多くの観光客で賑わっているが、法住寺殿は、ここから、南は大谷高校にいたるエリアを占めていた。豊国神社や博物館の辺りは院のプライベートゾーンともいうべき北殿(七条殿とも、東・西両殿が置かれた)のあったところで、儀式などを行うハレの空間である南殿(東山殿)は、大谷高校のグラウンド(当時は広大な園池)の北側に営まれていた。
 法住寺殿は、南殿・北殿などの複数の邸第のほかに、院の御願寺である蓮華王院(三十三間堂はその本堂で、御所や五重塔が付属)・最勝光院(後白河院の妻で、清盛の妻時子の妹にあたる建春門院滋子の御堂。宇治の平等院を模した。現在の一橋小学校の場所に所在)、さらに鎮守社である新(今)熊野社・新日吉社をとりこんだ広大な領域をしめ、周辺には院近臣の宿所や民衆の町屋も立ち並んでいたから、一つの独立した都市空間を構成していたと言ってよい。

 重盛の小松殿
 法住寺殿最大の建造物である蓮華王院御堂(三十三間堂)が清盛の手によって造営されたことに象徴されるように、平家にとっても院と本拠の空間を隣接させることは、軍事権門として大きなメリットを期待できたものと思われる。
 平家一門は六波羅に住んでいたのだから、法住寺殿の近くに宿所をもつ必要がなかったようにも思われるが、建春門院の猶子になっていた宗盛や、後白河院庁の別当に連なった重盛(清盛の嫡男)・頼盛(清盛の弟)は、ここにも宿所を設営していたらしい。
 平家一門中最も後白河院と親密な関係にあり、『平家物語』に後白河院に対する「忠」と父清盛に対する「孝」の狭間で苦悩した理想的な人物として描かれる重盛の本邸「小松殿」は、祇園社西門前に至る車大路という南北路と六条大路の延長線から山科に抜ける間道である久々目路(苦集滅路・渋谷越・汁谷越)の交差点付近に所在していたと想定される(現在の馬町交差点のあたり)。ここは山麓の傾斜地であることや、間道と幹線道(六波羅は奈良方面からの幹線道である大和大路の終着点に位置する)の交差点付近という交通・軍事の要衝に位置する点において、福原の清盛別業に擬せられている祇園遺跡(神戸市兵庫区)や鎌倉の源義朝の居館「鎌倉之楯(たて)」(鎌倉市扇ヶ谷)と立地条件が類似しており、平家一門における重盛の軍事的役割をよく示しているように思われる。
 法住寺殿の北限は六条末から南に1町(約120㍍)の左女牛小路末であるが、鴨川東岸・東山西麓という地理的環境は六波羅と同一で、両者を地形的に区画するものはなく、むしろ、六波羅の主郭部から南東に突出したところに位置した小松殿は両者を東の端で結びつけるような位置関係にあったのである。

 院御所の転変
 後白河院は、治承3年(1179)11月の清盛によるクーデターの結果、翌年の5月までは鳥羽殿(南区上鳥羽・伏見区下鳥羽周辺)、その後は福原や六波羅といった平家の本拠に置かれたが、養和元年(1181)正月、息子である高倉院が死に、さらにその翌々月に清盛が没して後白河院政が本格的に再開されると、もとのように法住寺殿に戻っている。しかし、寿永2年(1183)11月、木曾義仲が法住寺殿を襲撃して南殿に被害が及んだ後は、本邸を六条西洞院殿(六条殿)に定め、法住寺殿には精進や参籠あるいは法会のために域内の鎮守社・御願寺を訪れるばかりとなった。建久2年(1191)源頼朝によって新たな法住寺殿が造営されても、院はここにもどることはなく、その翌年3月、六条殿で死を迎えたのであった(66歳)。しかし、その遺骸は法住寺殿のエリアである「蓮華王院東法花堂」に葬られたことが確実な史料から明らかである。

 なぞの武将墓
 1978年、七条通を挟んだ京都国立博物館の向かいにホテルが新築されるに際して行われた考古学的な調査で、法住寺殿の時代に該当する地層から武将のものと思われる墓が見つかり、ほぼ三メートル四方の土壙に漆の塗膜と若干の金属製品をのこすのみとなった鎧・弓箭・馬具などの遺物が検出された。この墓は、一人の被葬者に対して五人分の甲冑が裏返した形で副葬され、しかも兜の鉢(ヘルメットの部分)がないなど、きわめて異様な埋葬形態がとられており、出土した遺物は伝世品には見られない優品ばかりで、鍬形(兜の前立て)と鏡轡(かがみくつわ)は、現在、国の重要文化財に指定されている。
 この墓の被葬者について、かつて私は平重盛にその可能性を想定したことがある。しかし、考古学サイドの研究により、墓の築造時期が13世紀に下ることが判明したことで、その説は成り立たなくなった。
 現在、最有力の候補と考えているのは、院近習の武士として活躍するとともに、最高の技術を持つ工人集団を従えて院の細工所別当を歴任した源仲兼(なかかね)ら宇多源氏の一族である。
                  (『京都民報』2012年2月19日付 より)
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 ☆ 名古屋学院大学の早川厚一先生より、御高論「源平闘諍録全釈(七-巻一上⑦(一一ウ6~一三オ4))」(『名古屋学院大学研究年報』24)・「『保元物語』『平治物語』合戦譚の検証」(『名古屋学院大学論集(言語・文化篇)』23-2)ならびに早川厚一・曽我良成・村井宏栄・橋本正俊・志立正知「『源平盛衰記』全釈(七-巻二-3)」(『名古屋学院大学論集(人文・自然科学篇)』48-2)を御恵送頂きました。
 いずれも複数冊頂きましたので、ゼミ関係者で必要な方はお申し出下さい。
 早川先生に、あつく御礼を申し上げます。
編集:2012/04/15(Sun) 23:55

Nスペの前で

美川圭
No.9553

大河・平清盛のあとの、NHKスペシャル「木嶋被告・100日裁判 緊迫の法廷再現ドラマ 密室の死刑判決に迫る あなたならどう裁く?」に見入ってしまったので、すっかり忘れていました。

木嶋事件にはあまり関心がなく、何でこの事件の判決にあれほど騒ぐのだろうかと思っていたぐらいなので、見ないつもりだったのです。しかし、結果は大正解。これを見て、裁判員裁判の現代的意義がほんとうによくわかりました。

そもそも、手法が斬新。当該事件の裁判員には守秘義務が課されているので、どのような審理が為されたかがわからない。そこで、過去に別の裁判で裁判員をやったことのある市民に出演してもらい、今回の事件の証拠や証言、検察・弁護側の主張を示して、再現ドラマをつくったわけです。これがすばらしい。へたな俳優をつかうのではない。さまざまな職業の市民が、見るべき所を見、考えるべき所を考える、その知的水準の高さに驚嘆しました。一般の日本人の知的レベルはここまで高いのです。

そして、あらためて、人を裁く難しさが身に染みる。状況証拠しかないときに、その積み上げがどこまでいけば、有罪にできるのか。状況証拠しかないから、無罪にしてしまえば、それは被害者にとって実にやりばのないものになる。しかし、冤罪を出すわけにはいかない。こうした問題が、一人一人の市民につきつけられている現実。これをもうひとまかせにできない。裁判官という専門家だけにおしつけるわけにはいかない。ここに民主主義の原点を見たとさえ思いました。

ひとつの事件を題材にして、ここまで普遍的なことを考えさせる作品はすばらしいです。そしてその手法は、もう当事者から証言がえられないので、残された史料から過去を再構築する歴史学の手法そのものでさえあります。ほんとうに勉強になりました。

それに比して、その前の大河・平清盛は相変わらずの低調。おなじ局の番組とは思えません。保元の乱で敗死したからといって、ただ薄気味悪い男色好きの頼長。男色相手として有名な秦公春を連れてわざとらしく登場し、忠盛に罵詈雑言。怒った忠盛が息子清盛を暴行。血を吹きだしても、弟の供養のために曼荼羅にその血で書き込む清盛。おいおい、せっかくの曼荼羅が血で汚れとるではないですか。絵の具に頭の血をまぜているんではないでしょう。『平家物語』高野山根本大塔の血曼荼羅伝承をヒントにしたフィクションのようですが、よくわからんお話でした。堕落した貴族社会を武士の暴力で変える、「暴力革命宣言」のつもりなのかもしれません。そのおかげで、源平内乱から鎌倉時代、死屍累々、どうしてくれる。へたなドラマをなんとかBGMで強引にもりあげようと、ごまかそうとしているのにも、あきれてしまいます。そうはかんたんには泣きません。