来週の予定など

No.9561

 月曜日はラボール学園で「保元・平治の乱」をテーマにお話をさせて頂きます。この両乱に対する認識も以前に比べてだいぶ変わりました。
 やはり、「武士がどうのこうの」という前に、当時の中央政界の実態、貴族社会の身分秩序や制度的理解なしでは話になりません。元木先生の御著書から学ぶところ多大でした。 月曜日、その成果をどの程度反映してお話しが出来るかどうか。
 レジュメはA3で7枚にもなってしまいました。

 火曜日の「基礎演習Ⅰ」はいよいよ研究発表開始。寺田さんの発表テーマは「どうしてガールズイベントは人気があるのか?」とのことです。

 この週から、ゼミの講読会は火曜日に設定。中心メンバーの週予定にまだ不確定なところがありますので、また5月以降については開始時間など、再検討が必要かも知れません。 3回生の都合によって、Ⅳ講時に『玉葉』を読み。Ⅴ講時以降の時間に『吾妻鏡』を読むという案も浮上してきています。

 水曜日は京大で元木先生主催の研究会に出席させて頂きます。『紫苑』や抜刷などを御出席の諸賢にお渡しできればと思っております。

 木曜の教養科目は、日本史全体の流れの中で女性の占めた位置について概説するというのが予定するところなのですが、どうなることか。

 研究業務のほか、連休前に片付けなければならない雑務も多く、また来週も忙しい日々が続きそうです。

 今、とても重大な問題も発生しているのですが、今は、あとで笑って振り返れるような結果になることを祈るばかりです。

  初陣! 中世戦記研究会で粟村さんが研究発表。

No.9560

 「第14回 中世戦記研究会のご案内」を頂きました。

 日時:2012年5月19日(土) 14:00~18:00
 場所:学習院大学 西2号館 504教室
 【研究発表】
   粟村亜矢氏(京都女子大学大学院研修者):「『平家物語』の遺言」
   梶川貴子氏(創価大学大学院博士後期課程):「得宗被官の歴史的性格」
   志立正知氏(秋田大学教授):「太平記研究の現在」

 ※ 自由参加は不可です。出席を希望するゼミメンバー・関係者は、事前に野口まで御連絡ください。
 
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 今日は嬉しい情報が一件届きました。

 ずっしり重い『立命館文学』第624号

No.9558

 本日の講読会。和田胤長や新田忠常の洞窟探検のお話でした。さまざまな解釈、楽しめました。
来週は24日の火曜日、15時からの開催です。今まで参加できなかった3回生の参集を期待しています。

 既に刊行済みと聞いていながら、なかなか手にすることの出来なかった待望の『立命館文学』第624号(杉橋隆夫教授退職記念論集)が抜刷とともに届きました。
 この論集には、私にとって興味津々の論文が目白押しです。ラインナップの一部を示すと、
  元木泰雄「頼義と頼清-河内源氏の分岐点-」
  美川圭「後白河院政と文化・外交-蓮華王院宝蔵をめぐって-」
  川合康「「鹿ケ谷事件」考」
  長村祥知「治承・寿永内乱期の在京武士」
  宮田敬三「西海合戦と源頼朝」
  前川佳代「源義経と春日大社」
  塩原浩「三左衛門事件と一条家」
  滑川敦子「鎌倉幕府行列の成立と「随兵」の創出」
  佐伯智広「中世前期の王家と法親王」
  山内讓「『一遍聖絵』に描かれた信濃」
 そして、杉橋先生の「鎌倉右大将家と征夷大将軍・補考」・・・など、など

  山内論文は、長野県出身の滝沢さんにお勧めです。
 ほかにも、近藤好和「『法体装束抄』にみる法体装束」など、考古学から近代史に至るジャンルの全部で39篇の論文、そして、もちろん杉橋先生の御略歴・執筆編年目録なども加えた、A4版で500ページをこえる大冊です。
 ちなみに、拙稿「平清盛と東国武士-富士・鹿島社参詣計画を中心に-」も載せていただきました。

五月までの『吾妻鏡』

岩田 慎平
No.9559

 昨年度から読み始めた頼家将軍期の『吾妻鏡』も佳境に入りました。
 次回の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年4月24日(火)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁三年(1203)九月一日・二日・三日・四日・五日・六日・七日・十日・十二日・十五日・十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日の各条

 今年度から火曜日開催となった『吾妻鏡』購読会、4月は24(火)、5月は8日(火)、15日(火)、22日(火)、29日(火)に開催予定です。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

 明日(17日)の「基礎演習Ⅰ」は史跡散歩

No.9555

 13:00までに共同研究室(先週の部屋)に集合して下さい。ここで資料を配付して、13:00に出発します。そのまま帰る人は荷物を持って行く。そうでない人は荷物を私の研究室に置いていって構いません。コースの予定は以下のとおり。

 三島神社跡→<渋谷通りを下る>→馬町三重の塔跡(伝佐藤継信・忠信の墓)→河合寛次郎記念館(中は見ません)→大仏殿跡→方広寺(「国家安康、君臣豊楽」の梵鐘)→豊国神社→耳塚→京都国立博物館(中は見ません)→三十三間堂(同)→後白河天皇陵(法住寺)
 ここから智積院・妙法院・新日吉神宮の脇を通って(要するに「女坂」を登って)14:30頃、大学に戻る予定です。

 今年は積翠園(平重盛の小松殿の池庭?)が見られないのが残念です。以前は、さらに今熊野神社の辺りまで歩いたのですが、当方の体力低下のため、上記のみとしました。

 「基礎演習Ⅰ」履修者以外の方でも、お暇な方はどうぞ御同行下さい。まだ、お花見も出来そうです。
編集:2012/04/16(Mon) 23:54

春の日の『吾妻鏡』

No.9556

 夜はまだちょっと冷えますから、帰りが遅くなるときなどは一枚羽織るものなどあると安心ですね。
 次回の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年4月19日(木)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁三年(1203)五月二十日・二十五日、六月一日・三日・四日・二十三日・二十四日、七月二十日・二十五日、八月二十七日、九月一日・二日・三日・四日・五日・六日・七日・十日・十二日・十五日・十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日の各条

 やや変則的ですが、4月は19(木)、24(火)に開催予定です。

 木曜日と火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

春爛漫の史跡散歩でした。

No.9557

 本日の散歩、好天に恵まれましたが、やはり例年に増して疲れました。今日全部でも歩数は1万に満たず。たいして歩いていないのに。

 それにしても、「国家安康、君臣豊楽」をマジックで書いた紙を用意しておいたのは効果的だったと思います。「教育実習」とか「研究授業」なら、高評価間違いなしだ!
 
 滝沢さんが、カメラをもって同行してくれたのは心強かった。京博では、陽明文庫展も始まっていたようです。京都は今週末までは、まだお花見が出来そうです。

 疲れ果てて研究室で仕事をしていたら、なんとかの維持料だとかいう訳の分からない請求書が届いたりして、鈴木君にも御迷惑をおかけしてしまいました。
 いつになっても、「やれやれ」とはいきません。「人生とは、重い荷を負うて長き坂を登るが如し」か!。

 目下、元木先生の『保元・平治の乱を読みなおす』を読みなおしています。 

名著の効用

No.9552

 元木先生の『平清盛と後白河院』(角川学芸出版)をお読みになって、胃痛が収まった方がおられるという情報を頂いております。

 以下、お約束の拙文です。
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 「平清盛と京都」 ② 六波羅と法住寺殿

 法住寺殿の造営
 平治の乱の結果、信西や藤原信頼らの近臣を失い、二条天皇と競合せざるを得ない立場に置かれた後白河院は、その権力基盤を平家に依存せざるをえなかった。院が平家の本拠である六波羅の南方に隣接する七条末・東山山麓の地に院御所「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」を造営したのは、こうした政治的な事情に求められる。ちなみに「法住寺」とは、10世紀の末に右大臣藤原為光が七条の末に造営した寺院で、その旧地に造営されことが、その名の由来である。
 現在、豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の界隈は、いつも多くの観光客で賑わっているが、法住寺殿は、ここから、南は大谷高校にいたるエリアを占めていた。豊国神社や博物館の辺りは院のプライベートゾーンともいうべき北殿(七条殿とも、東・西両殿が置かれた)のあったところで、儀式などを行うハレの空間である南殿(東山殿)は、大谷高校のグラウンド(当時は広大な園池)の北側に営まれていた。
 法住寺殿は、南殿・北殿などの複数の邸第のほかに、院の御願寺である蓮華王院(三十三間堂はその本堂で、御所や五重塔が付属)・最勝光院(後白河院の妻で、清盛の妻時子の妹にあたる建春門院滋子の御堂。宇治の平等院を模した。現在の一橋小学校の場所に所在)、さらに鎮守社である新(今)熊野社・新日吉社をとりこんだ広大な領域をしめ、周辺には院近臣の宿所や民衆の町屋も立ち並んでいたから、一つの独立した都市空間を構成していたと言ってよい。

 重盛の小松殿
 法住寺殿最大の建造物である蓮華王院御堂(三十三間堂)が清盛の手によって造営されたことに象徴されるように、平家にとっても院と本拠の空間を隣接させることは、軍事権門として大きなメリットを期待できたものと思われる。
 平家一門は六波羅に住んでいたのだから、法住寺殿の近くに宿所をもつ必要がなかったようにも思われるが、建春門院の猶子になっていた宗盛や、後白河院庁の別当に連なった重盛(清盛の嫡男)・頼盛(清盛の弟)は、ここにも宿所を設営していたらしい。
 平家一門中最も後白河院と親密な関係にあり、『平家物語』に後白河院に対する「忠」と父清盛に対する「孝」の狭間で苦悩した理想的な人物として描かれる重盛の本邸「小松殿」は、祇園社西門前に至る車大路という南北路と六条大路の延長線から山科に抜ける間道である久々目路(苦集滅路・渋谷越・汁谷越)の交差点付近に所在していたと想定される(現在の馬町交差点のあたり)。ここは山麓の傾斜地であることや、間道と幹線道(六波羅は奈良方面からの幹線道である大和大路の終着点に位置する)の交差点付近という交通・軍事の要衝に位置する点において、福原の清盛別業に擬せられている祇園遺跡(神戸市兵庫区)や鎌倉の源義朝の居館「鎌倉之楯(たて)」(鎌倉市扇ヶ谷)と立地条件が類似しており、平家一門における重盛の軍事的役割をよく示しているように思われる。
 法住寺殿の北限は六条末から南に1町(約120㍍)の左女牛小路末であるが、鴨川東岸・東山西麓という地理的環境は六波羅と同一で、両者を地形的に区画するものはなく、むしろ、六波羅の主郭部から南東に突出したところに位置した小松殿は両者を東の端で結びつけるような位置関係にあったのである。

 院御所の転変
 後白河院は、治承3年(1179)11月の清盛によるクーデターの結果、翌年の5月までは鳥羽殿(南区上鳥羽・伏見区下鳥羽周辺)、その後は福原や六波羅といった平家の本拠に置かれたが、養和元年(1181)正月、息子である高倉院が死に、さらにその翌々月に清盛が没して後白河院政が本格的に再開されると、もとのように法住寺殿に戻っている。しかし、寿永2年(1183)11月、木曾義仲が法住寺殿を襲撃して南殿に被害が及んだ後は、本邸を六条西洞院殿(六条殿)に定め、法住寺殿には精進や参籠あるいは法会のために域内の鎮守社・御願寺を訪れるばかりとなった。建久2年(1191)源頼朝によって新たな法住寺殿が造営されても、院はここにもどることはなく、その翌年3月、六条殿で死を迎えたのであった(66歳)。しかし、その遺骸は法住寺殿のエリアである「蓮華王院東法花堂」に葬られたことが確実な史料から明らかである。

 なぞの武将墓
 1978年、七条通を挟んだ京都国立博物館の向かいにホテルが新築されるに際して行われた考古学的な調査で、法住寺殿の時代に該当する地層から武将のものと思われる墓が見つかり、ほぼ三メートル四方の土壙に漆の塗膜と若干の金属製品をのこすのみとなった鎧・弓箭・馬具などの遺物が検出された。この墓は、一人の被葬者に対して五人分の甲冑が裏返した形で副葬され、しかも兜の鉢(ヘルメットの部分)がないなど、きわめて異様な埋葬形態がとられており、出土した遺物は伝世品には見られない優品ばかりで、鍬形(兜の前立て)と鏡轡(かがみくつわ)は、現在、国の重要文化財に指定されている。
 この墓の被葬者について、かつて私は平重盛にその可能性を想定したことがある。しかし、考古学サイドの研究により、墓の築造時期が13世紀に下ることが判明したことで、その説は成り立たなくなった。
 現在、最有力の候補と考えているのは、院近習の武士として活躍するとともに、最高の技術を持つ工人集団を従えて院の細工所別当を歴任した源仲兼(なかかね)ら宇多源氏の一族である。
                  (『京都民報』2012年2月19日付 より)
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 ☆ 名古屋学院大学の早川厚一先生より、御高論「源平闘諍録全釈(七-巻一上⑦(一一ウ6~一三オ4))」(『名古屋学院大学研究年報』24)・「『保元物語』『平治物語』合戦譚の検証」(『名古屋学院大学論集(言語・文化篇)』23-2)ならびに早川厚一・曽我良成・村井宏栄・橋本正俊・志立正知「『源平盛衰記』全釈(七-巻二-3)」(『名古屋学院大学論集(人文・自然科学篇)』48-2)を御恵送頂きました。
 いずれも複数冊頂きましたので、ゼミ関係者で必要な方はお申し出下さい。
 早川先生に、あつく御礼を申し上げます。
編集:2012/04/15(Sun) 23:55

Nスペの前で

美川圭
No.9553

大河・平清盛のあとの、NHKスペシャル「木嶋被告・100日裁判 緊迫の法廷再現ドラマ 密室の死刑判決に迫る あなたならどう裁く?」に見入ってしまったので、すっかり忘れていました。

木嶋事件にはあまり関心がなく、何でこの事件の判決にあれほど騒ぐのだろうかと思っていたぐらいなので、見ないつもりだったのです。しかし、結果は大正解。これを見て、裁判員裁判の現代的意義がほんとうによくわかりました。

そもそも、手法が斬新。当該事件の裁判員には守秘義務が課されているので、どのような審理が為されたかがわからない。そこで、過去に別の裁判で裁判員をやったことのある市民に出演してもらい、今回の事件の証拠や証言、検察・弁護側の主張を示して、再現ドラマをつくったわけです。これがすばらしい。へたな俳優をつかうのではない。さまざまな職業の市民が、見るべき所を見、考えるべき所を考える、その知的水準の高さに驚嘆しました。一般の日本人の知的レベルはここまで高いのです。

そして、あらためて、人を裁く難しさが身に染みる。状況証拠しかないときに、その積み上げがどこまでいけば、有罪にできるのか。状況証拠しかないから、無罪にしてしまえば、それは被害者にとって実にやりばのないものになる。しかし、冤罪を出すわけにはいかない。こうした問題が、一人一人の市民につきつけられている現実。これをもうひとまかせにできない。裁判官という専門家だけにおしつけるわけにはいかない。ここに民主主義の原点を見たとさえ思いました。

ひとつの事件を題材にして、ここまで普遍的なことを考えさせる作品はすばらしいです。そしてその手法は、もう当事者から証言がえられないので、残された史料から過去を再構築する歴史学の手法そのものでさえあります。ほんとうに勉強になりました。

それに比して、その前の大河・平清盛は相変わらずの低調。おなじ局の番組とは思えません。保元の乱で敗死したからといって、ただ薄気味悪い男色好きの頼長。男色相手として有名な秦公春を連れてわざとらしく登場し、忠盛に罵詈雑言。怒った忠盛が息子清盛を暴行。血を吹きだしても、弟の供養のために曼荼羅にその血で書き込む清盛。おいおい、せっかくの曼荼羅が血で汚れとるではないですか。絵の具に頭の血をまぜているんではないでしょう。『平家物語』高野山根本大塔の血曼荼羅伝承をヒントにしたフィクションのようですが、よくわからんお話でした。堕落した貴族社会を武士の暴力で変える、「暴力革命宣言」のつもりなのかもしれません。そのおかげで、源平内乱から鎌倉時代、死屍累々、どうしてくれる。へたなドラマをなんとかBGMで強引にもりあげようと、ごまかそうとしているのにも、あきれてしまいます。そうはかんたんには泣きません。

駅前に与謝野晶子の銅像のある街

No.9550

 カルチャーセンターの講座一コマだけで、昔はこんなに疲れなかったのに・・・という次第で、また、耄碌を実感しております。痛切に。
 受講のみなさんが、とても熱心に聴いて下さったので熱を入れすぎたのかも知れません。

 今日は大阪市営地下鉄の堺筋線と南海電車に初めて乗る機会を得ました。「天下茶屋」という駅名が「てんかちゃや」ではなく「てんがちゃや」であることを知ることができました。
 当然ながらエスカレーターで立つ人は右にならぶ。京都駅は時によって右だが、たいてい左が多い。関東からの観光客が多いせいでしょうか。日本文化の東と西の相違を物語る一例です。

 駅の近くの駐車場の話。PARK&RIDEで、鉄道の駅で使用したカードで支払えば200円割り引くというので、早速利用してみたところ、元の料金が200円値上げされており、結局手間が増えただけて料金は前と同じ。
 世の中は甘くないことを学ぶことが出来ました。

 ちなみに、拙著『武門源氏の血脈』(中央公論新社)は、玉木宏ファンが買って行かれるとのこと。歴史に関心のある方にも読んで頂きたいものです。それから小日向文世ファンにも? 
 この小日向という俳優さんは、昔、赤テントをやっていた頃の唐十郎さんに、なんか感じが似ているような気がします。(「赤テント」なんて、今の若い方たちは御存知ないでしょうねぇ。)

山田邦和『日本中世の首都と王権都市』の刊行を祝す!

No.9549

 同志社女子大学の山田邦和先生が第3論文集『日本中世の首都と王権都市—京都・嵯峨・福原—』(文理閣)を刊行されました。
 論文集とはいえ、写真・図版も多く、すくなくとも「歴史を学ぶ者」にとっては「面白くて、ためになる」という一冊です。
 構成(章立て)は以下のとおり。
  第一章 平安京・京都の都市と都市民
  第二章 院政期京都とその周辺
  第三章 「福原京」の復元研究
  第四章 中世都市嵯峨の変遷
  第五章 京都の歴史遺産とその活用

    山田先生のメッセージとこの本の内容の詳細についてはこちらを↓
            http://heike.cocolog-nifty.com/kanwa/2012/04/post-20f0.html

      ちなみに、こちらも宜しくお願い致します。↓
      http://www.chuko.co.jp/tanko/2012/01/004318.html
             
  ☆ 山田先生より、上記書籍を御恵送いただきました。
    あつく御礼申しあげます。 
編集:2012/04/13(Fri) 17:11

お礼

山田邦和(同志社女子大学)
No.9551

野口先生、私の本のご紹介、ありがとうございます。
この書の第2章「院政期京都とその周辺」、第3章「『福原京』の復元研究」は、野口先生と、高橋昌明・元木泰雄・美川圭の各先生、それから宗文研ゼミの研究会のおかげでやっと書くことができた、と思っています。みなさまから賜りました御厚情にあつくお礼申し上げます。

刊行おめでとうございます

美川圭
No.9554

山田先生、待望の御著書『日本中世の首都と王権都市』刊行、おめでとうございます。

私も、某書店から院政期の都市についての本を頼まれているので、御著書を参考に、今秋からみずからに鞭打つつもりです。

ありがとうございました。

本年度前期の『吾妻鏡』講読会開催曜日と時間について

No.9548

 「教養科目」の履修者数は教室の大きさに適切で安心致しました。
 しかし、話が横道に逸れすぎて、本筋をまとめきれない悪癖は相変わらずで、反省しきりです。 

 ゼミの『吾妻鏡』講読会ですが、来週は木曜日19日15時からですが、次の週からは火曜日15時から。
 本年度前期は火曜日15時からということです。
 なお、『玉葉』については、開講希望があれば空き時間を調整して実施したいと思います。
 
 ☆ 胎内市教育委員会の水澤幸一先生より、御高論「越後城家の一五〇年」収録の奥山荘郷土研究会誌『おくやまのしょう』第37号を御恵送頂きました。
 水澤先生に、あつく御礼を申し上げます。

 いよいよ講義開始。

No.9547

 昨日は「基礎演習Ⅰ」開講。今年のメンバーとも楽しくやれそうで一安心。
 来週は大学周辺の史跡散歩です。Ⅲ講時の空いている先輩方もどうぞ御同行下さい。
 今年は積翠園に入れなさそうなので、その分は、京町家の並ぶ「男はつらいよ」のロケ地で代替しようかと考えています。

 明日の「教養科目」(女性視点の日本史)は受講者数が問題。

 今日は『芬陀利華』の原稿を書きました。いつまで経っても、思っていることを文章にしてみると「論」にならない。情けないことです。

 ☆ 茨城大学の高橋修先生より、御高論「「坂東乱逆」と佐竹氏の成立-義光流源氏の常陸留住・定着を考える-」(『茨城県史研究』96)・「武士論・在地領主論から「通史」を読む-読書案内にかえて-」(『歴史評論』734)ならびに御高論「「結城合戦絵詞」とは何か」収録の『『結城戦場絵巻物語』の世界と那須の戦国』(大田原市那須与一伝承館特別企画展図録)を御恵送頂きました。
 高橋先生に、あつくお礼を申し上げます。

 ☆ 北海道教育大学の鈴木哲雄先生より、御高論「香取本「大江山絵詞(酒呑童子絵巻)」の伝来と附属の品々」収録の佐藤博信編『中世東国論4 中世房総と東国社会』(岩田書院)を御恵送頂きました。 
 鈴木先生に、あつくお礼を申し上げます。

 ☆ 久保賢司先生より、御高論「「戦国」期 上剋下論-対面時武器携行状況と中世人の心性の視点から-」収録の佐藤博信編『中世東国論5 関東足利氏と東国社会』(岩田書院)を御恵送頂きました。 
 久保先生に、あつくお礼を申し上げます。

『紫苑』第10号を配布しています。

No.9546

 『紫苑』第10号を配布しています。ゼミメンバー・関係者は研究室にてお渡し致します。
 遠方の執筆者へは送付致しますが、しばらく時間がかかります。
 内容は以下の通りです。

  〔論  文〕
   鎌倉幕府における政所執事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山本みなみ
   『平家物語』小督条に見られる漢詩文及び『源氏物語』の影響・・・・尾田沙祐里

  〔研究ノート〕
   北条泰時執権期の鎌倉幕府に関する一試論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩田慎平
  
  〔研究余録〕
   建春門院陵はもと後白河院陵か?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯智広

  『紫苑』第十号に寄せて―歴代編集長から―
              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木絵里子・山岡瞳・江波曜子