足立氏と籐九郎盛長について
足立 勗
No.6980
ご無沙汰いたしております。
昨年末、今まで見たこともない足立氏の系図を発見いたしましたので紹介いたします。
それは鈴木真年編静嘉堂文庫蔵『百家系図』六十二というものですが、この系図の中では安達籐九郎盛長は次のようにかかれています。
高藤ー定方ー朝忠- - - - - 忠兼T遠兼ー遠元
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L 実兼ー景盛ー
「籐九郎入道」
後盛長改
メールではうまく表示できませんが、要するに遠兼の弟となっているのです。
そもそも研究者の間に流布している「丹波国佐治庄地頭足立系図」が世に出たについては次のようないきさつがあったといいます。昭和四十六年に「足立氏の先祖を語る会」が開かれ、そのときの速記録を手に入れました。それによると現丹波市青垣町山垣の足立九郎兵衛氏が、その本家が村を離れるときに紙くずとして捨てていたものを拾ったことから始まります。
彼はその紙くずを報恩寺に持ち込み住職に清書してもらったそうです。それが後に東大歴史編纂所に収蔵されたといいます。
此の「百家系図」が信頼できる根拠は遠元の子とされている遠光の傍注に書かれた「先子父死去」の文言に私が疑問を抱いたところから始まります。此の系図では「先于父死去」となっているのです。これは『尊卑分脈』の佐々木系図の盛綱の曾孫の資実が「先于父死」と書かれて、信重の子でありながら「為祖父子」と書かれているのに相当するものだったからなのです。
此の系図は『尊卑分脈』の模倣でない証拠に山陰流ではなく高藤流であることです。そして一般に流布している山垣系のものと違って、天正時代に福知山市夜久野町直見に逃れた足立氏の子孫から明治時代に採集されたものであろうと考えられ、足立氏系図としては全く新しいものです。
とりあえずご報告まで。現在私のメールは使用不能です、念のため。
昨年末、今まで見たこともない足立氏の系図を発見いたしましたので紹介いたします。
それは鈴木真年編静嘉堂文庫蔵『百家系図』六十二というものですが、この系図の中では安達籐九郎盛長は次のようにかかれています。
高藤ー定方ー朝忠- - - - - 忠兼T遠兼ー遠元
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L 実兼ー景盛ー
「籐九郎入道」
後盛長改
メールではうまく表示できませんが、要するに遠兼の弟となっているのです。
そもそも研究者の間に流布している「丹波国佐治庄地頭足立系図」が世に出たについては次のようないきさつがあったといいます。昭和四十六年に「足立氏の先祖を語る会」が開かれ、そのときの速記録を手に入れました。それによると現丹波市青垣町山垣の足立九郎兵衛氏が、その本家が村を離れるときに紙くずとして捨てていたものを拾ったことから始まります。
彼はその紙くずを報恩寺に持ち込み住職に清書してもらったそうです。それが後に東大歴史編纂所に収蔵されたといいます。
此の「百家系図」が信頼できる根拠は遠元の子とされている遠光の傍注に書かれた「先子父死去」の文言に私が疑問を抱いたところから始まります。此の系図では「先于父死去」となっているのです。これは『尊卑分脈』の佐々木系図の盛綱の曾孫の資実が「先于父死」と書かれて、信重の子でありながら「為祖父子」と書かれているのに相当するものだったからなのです。
此の系図は『尊卑分脈』の模倣でない証拠に山陰流ではなく高藤流であることです。そして一般に流布している山垣系のものと違って、天正時代に福知山市夜久野町直見に逃れた足立氏の子孫から明治時代に採集されたものであろうと考えられ、足立氏系図としては全く新しいものです。
とりあえずご報告まで。現在私のメールは使用不能です、念のため。