こいつぁ、春から・・・「法住寺殿」!
No.6977
あけまして、おめでとうございます。
今年も宜しくお願い致します。
ゼミの今月の予定はすでにトップページに掲出しました。『紫苑』の編集作業も始まります。
元日の分厚い新聞を開くと、「法住寺殿の建物跡か」という見出しが目に飛び込んできました(京都新聞)。京都国立博物館敷地で法住寺殿の遺構が出土したことは既報なのですが(読売新聞2009,12,8)、この記事では、後に豊臣秀吉が建立した方広寺のプランが法住寺殿の区画の影響を受けていた可能性があるという、京都市埋蔵文化財研究所の見解が報じられています。
イデオロギー的な側面から、秀吉がこの地に執着した可能性については、以前書いたことがあるのですが(「法住寺殿造営の前提としての六波羅」髙橋昌明編『院政期の内裏・大内裏と院御所』文理閣)、区画も踏襲していたとなると、殿舎配置などを明らかにする手がかりが得られることになるかと思います。
今年も「郷土史」(?)の一環として、法住寺殿を考えていきたいと思います。
6月の公開講座では、京都・六波羅と北条氏との関係がテーマになります。こちらも楽しみです。
今年も宜しくお願い致します。
ゼミの今月の予定はすでにトップページに掲出しました。『紫苑』の編集作業も始まります。
元日の分厚い新聞を開くと、「法住寺殿の建物跡か」という見出しが目に飛び込んできました(京都新聞)。京都国立博物館敷地で法住寺殿の遺構が出土したことは既報なのですが(読売新聞2009,12,8)、この記事では、後に豊臣秀吉が建立した方広寺のプランが法住寺殿の区画の影響を受けていた可能性があるという、京都市埋蔵文化財研究所の見解が報じられています。
イデオロギー的な側面から、秀吉がこの地に執着した可能性については、以前書いたことがあるのですが(「法住寺殿造営の前提としての六波羅」髙橋昌明編『院政期の内裏・大内裏と院御所』文理閣)、区画も踏襲していたとなると、殿舎配置などを明らかにする手がかりが得られることになるかと思います。
今年も「郷土史」(?)の一環として、法住寺殿を考えていきたいと思います。
6月の公開講座では、京都・六波羅と北条氏との関係がテーマになります。こちらも楽しみです。