「女坂」に学生さんの姿が増えてきました

No.6835

 昼休みのA地下がだいぶ混雑するようになりました。
 寮生の方たちも、そろそろ帰洛されたのでしょうか?

  当方、今夏3本目の、「京都七条町」をテーマにした論文にとりかかりましたが、暗礁に乗り上げているところです。
 もう20年以上も前に京都文化博物館の紀要や関西電力京都支店の発掘調査の報告書に書いた拙論があるので、何とかなるだろうと考えていたのですが、やり直してみると結構おもしろく、和鏡の生産や権門付属の細工所とかに関する文献を探しては読みあさっていて、勉強にはなりますが、執筆は少しも捗っておりません・・・という次第です。
 20余年前の旧稿ですが、当時は中世京都のことなど殆ど無知でしたから、よくこれだけのものが書けたものだと、30歳代の私に敬意を払いたくなるのですが、しかし、さすがに、あの、京都文化博物館開館前の前途不安と激務の中で執筆したものだけに、細かいところでいくつかのミスが見つかります。やはり、余裕なきところに、ろくな結果は生まれません。もっとも、切羽詰まった情況だったからこそ、まったく未知の領域でも、これだけのものが書けたのかも知れませんが。
 おっと! 今も切羽詰まっていることに変わりはないのでした。

◇  吉川弘文館から、拙著『源氏と坂東武士』初版が完売されたことを意味する書類が届きました。多くの読者を得て、ありがたく存じております。
 かかる次第で、目下、本書は市中に出回ってはいないかと思いますが(本学図書館の蔵書も貸出中になっていました)、今月末~来月のうちには、しっかりと正誤訂正を加えた第二版(少部数ですが)が刊行されますので、こちらを御利用くだされば幸いです。

九月が苦月でなく「楽」月になりますように

No.6831

 元木先生と岩田君から詳細な伊予旅行記を頂戴致しました。ありがとうございました。

 あたかも、同一の出来事に関する一次史料が二つ揃ったという観あり。岩田君の旅行記には「謎」の記述もありますし、これはテキスト・クリティークの教材に使えそうですね(笑)。

 ところで、その我等が岩田君が大阪歴史学会中世史部会の9月例会で研究報告をされます。
  日時:9月18日(金)18:30~
  報告者:岩田慎平氏
  テーマ:「鎌倉幕府研究をめぐって」(仮)
  会場:西宮市大学交流センター(ACTA西宮東館6階)・セミナー室
  (阪急神戸線「西宮北口」駅下車、北出口2階から徒歩2分)
   ※ 詳細は→http://wwwsoc.nii.ac.jp/historia/

 ◇ 7月4日、本学で開催された和歌文学会関西例会で、院生の山本さんが「延喜七年大堰川行幸の詩歌と『菅家文草』――〈秋水に泛かぶ〉の表現をめぐって――」と題する研究発表を行いました。
      →http://www2.kyoto-wu.ac.jp/gakubu/cgi/detail.cgi?news_id=112

「ラ・九月」のリニューアル、時給もUP

No.6833

 昨日は岩田君がお出で下さり、写真を見せていただきながら8月中に参加された列島各地でのイベントのお土産話をうかがいました。土産話こそが最高のお土産です(と言いつつ、しっかりお土産物も頂きました)。
 
 ところで、九月に入り、研究室のあるL校舎の改装工事もだいぶ進みました。まず、階段とエレベーターホールが明るくきれいになり、エレベーターも新しくなりました。歩いた方が健康的なのですが、つい乗りたくなってしまいます。

 それから、9月1日より、学部生・短大生アルバイターの時給が20円高くなりました。大した額ではありませんが、「チリも積もれば山となる」というやつです。ちなみに、院生さんや一般の方の時給は据え置きだそうです。

 なお、後期のゼミ日程は先にお知らせしたとおり(月Ⅲ→『小右記』、火Ⅲ~→『吾妻鏡』宝治二年、木Ⅱ→『吾妻鏡』治承四年)ですが、学部・短大対象の講義については、火Ⅱに大学コンソーシアムの特別講座科目「『平家物語』と中世前期の京都」(於、キャンパスプラザ4F、第4講義室、9月29日開講)と火Ⅳの基礎教養科目18「源平内乱の時代を京都で生きた人たち」(A403、9月15日開講)を担当します。

超?豪華トイレも完成

No.6836

 L校舎のリニューアル工事はほぼ終了したようです。
 3Fの、あの20世紀の貴重な遺構であった「公共」トイレもリニューアル工事が終了。見違えるようになりました。ドアまで立派で、3Fでは一番豪華な空間かも知れません。
 京都大学総合人間学部の校舎リニューアルで、トイレが一新したのに驚かされたことが思い出されますが、これはそれ以上。一見(?)の価値ありです。

 今日は付属高校で体育祭が行われています。高齢の先生には、暑い中、大変だと思います。

2009年伊予旅行

元木泰雄
No.6826

 掲示板に久しぶりに書かせていただきます。
 20日の古文書見学会には野口先生にもお越しいただき、感謝しております。それにしても、国宝の文書の実物を手に取りながら、上島先生のご解説をいただくとはなんと贅沢なことでしょうか。紙の質、墨の色、折り方など、古文書の非文字情報は、なんと豊かなことでしょうか。こうした古文書分析の方法を切り開かれた上島先生のご研究を、関西の研究者が継承しないわけにはゆきません。若い方々のご活躍を期待致します。

 さて、野口先生も予告された伊予旅行。充実した楽しい旅行になりました。
 今回は東京から漆原徹、佐藤秀成のレギュラーともいうべき両先生に、近藤好和先生もご参加になりました。関西からは小林基伸先生、当方、院生では岩田、花田、伊集、坂口、米沢の諸君、そして地元から元近藤先生の受講生宇野さん、そして山岡さんが参加されました。今回は強烈晴れ男、土佐の豪快先生こと池内敏彰先生が体調不良でご欠席になり天候が懸念されましたが、幸いほぼ好天に恵まれました。

 21日、新幹線で福山駅集合。レンタカー二台に分乗してしまなみ海道を通ってまずは生口島の向上寺三重塔を見学。朱塗りが鮮やかな室町の塔で、瀬戸内海を背景にした姿はまさに一幅の絵画でした。もっとも、非観光寺院のため駐車場がなく、駐車場探しで時間を大幅にロス。駐車場から寺院に行く道にも迷い、保育園の子供に不審者扱いされたり散々でした。ただ、駐車場前のイタメシが鄙には稀なしゃれた店、質はもちろん、量も近藤先生を満足させるものでした。
 その近藤先生の御解説で、大山祇神社の宝物を見学できたのも、これまた贅沢な時間でした。大鎧や太刀などの武具に関する認識を大いに改めたことでした。あの神社にあれだけ鎧があるのは奉納ではなく、実は略奪的な性格が強いとのこと。これまた予想外のことでした。
 近藤先生のご解説に聞き惚れながら(?)じっくり見学するうちに時間も経過、最後に予定していた大島の村上水軍資料館は時間切れ寸前、しかし伊集君の必死の電話が奏功して何とか入れてもらえたばかりか、館員の方に丁寧な解説をしたいただくなど、充実した時間を過ごしました。村上水軍の歴史をコンパクトに解説した興味深い資料館でした。
 水軍の根拠地となる海城は小さな島にあったとのこと、生活拠点と軍事拠点は異なっていたようです。
 その夜は、今治市に宿泊。市内中心街の焼き鳥「世渡」で夕食。まさに鳥のフルコース(刺身はなし)、甘めで濃厚なタレが鳥の味を引き立て、堪能致しました。もっとも、近藤先生曰く「食ったのは鳥肉とキャベツばっかりじゃん」。確かにそうですね。ちなみにキャベツは食べ放題。
 なお、付近はすっかりシャッター商店街の様相で、いかにもさびれた感じが否めません。40年余り前、家族とともに親戚を訪ねた折、「四国の大阪」と称された今治はもっと活気があったように思えたのですが。本家大阪に合わせたわけでもないのでしょうが・・・

 翌22日。まずは糸島公園。しまなみ海道の終点来島海峡大橋のたもとにあり、橋の景色も素晴らしいのですが、ここに来た目的は村上水軍の拠点のひとつ来島を見ることです。展望台から見えたのは別の島と判明、本物を探して若干右往左往でしたが、潮流の速い海峡に面した小島と確認。早い潮流が堀の代わりだそうです。
 ついで今回の旅行のハイライト、今治周辺の中世の石塔群を見学しました。付近の石塔(五輪塔、宝篋印塔)11基を集めた乗禅寺をはじめ、多数の石塔を見学致しました。最大のものはなんと3.6メートル。銘のあるものはいずれも正中、元亨など、鎌倉末期に集中しており、この時期に何か大きな動きがあったことをうかがわせます。律宗などの石工集団がこの地に登場したのでしょうか。なお、野間神社の2.8メートルの塔は土台が崩れ傾いており、早急な手当てが必要と思われました。野間の斜塔ではしゃれになりません。
 ついで国分寺近くの脇屋義助の墓所を見学。彼がこんなところで亡くなったとは知りませんでした。新田の子孫を称する徳川幕府の時代に墓所はずいぶん立派に整備されたようです。
 そうこうするうちに12時を回り、早起きの近藤先生が空腹を訴えられたので、昼食のための食堂を探すのですが、バイパスなど幹線道路にも全く見当たらず。あのあたりの人は外食をしないのでしょうか?そうこうするうちに次の目的地西山興隆寺に到着。
 延々と続く厳しい上り勾配の参道を息を切らして登ると、堂々たる室町時代の本堂。その傍らに、またまた頼朝の供養塔と称する鎌倉末期の宝篋印塔が。この地域では、集中的に多くの石塔が造られたようです。頼朝のような不人気の人物の供養塔とは珍しいことですが、頼朝が所領を寄進したことと関係するようです。
 険しい参道で、まさに膝が笑う思いを致しました。
 そこから松山へ向かったのですが、田舎のこととて沿道に食堂がありません。松山まで我慢かと思った刹那、山岡さんから緊急電話。「空腹の余り近藤先生が暴れそう」との一大事。幸いに見かけたラーメン屋に飛び込み事なきを得たことでした。
 松山では、戦国時代の本堂のある浄土寺、道後に近く、国宝の仁王門や重文の建築物を多数有する石手寺を見学致しました。いずれも札所で、多くのお遍路さんが参拝しておられました。石手寺の境内では、当方が猫好きの本領発揮。撫で方が気に入ったのか、猫に何度もすり寄られる一幕もありました。我が家の猫もあれくらい愛想が良ければ、と思ってしまいました。
 その後、道後温泉の入り口にあり、河野氏の拠点となった湯築城跡を見学。資料館、復元した武家屋敷など、展示も工夫が凝らされており、なかなかうまく整備された公園でした。
 その晩は松山泊。前日とは打って変わって、まことに夜の街も賑やか。
 出かけたのは郷土料理の「五志喜」。五色そうめんやタイ飯を含む盛り沢山お料理で、満足致しました。近藤先生は、名物「鯛そうめん」がないことに若干ご立腹。
 真面目に宿に帰った若者を尻目に、漆原、小林、佐藤の諸先生と当方は宿近くのジャズバー「Monk」にまいりました。「もう腹いっぱいだし、一杯だけ」などと口々に言いながら、店の居心地の良さについついグラスを重ね・・・植木等の有名な歌が思い起こされます(笑)。かくして全員二日酔い。
 洒落たバー、にぎわう夜の繁華街。前日とは大違いでした。地方は県庁所在地だけが繁栄するという最近の傾向を如実に見せられた思いでした。
 
 23日は先に帰宅される近藤先生を空港にお送りし、国宝建築二箇所を見学。鎌倉の瀟洒な和様の本堂を持つ大宝寺。本堂正面にある桜の古木の名称が「うばざくら」。ただし、乳母桜だそうです。
 ついで松山北部の太山寺。ここは7間9間という信じがたい巨大な国宝本堂があります。これも鎌倉末期の建造。鎌倉末期の伊予に何があったのか、どなたか研究してみてはいかがでしょうか?
 道後近くの伊佐爾波神社は華麗な桃山建築。蛙股の中にユニークな絵画があるのですが、そのひとつが一遍上人像。まさに神仏習合ですね。
 その後、「坂の上の雲」の宣伝一色の市街地を抜けて松山城に登り、旅行を締めくくりました。
 来年は、美濃、あるいは信濃別所温泉などが候補になっております。
 ぜひ奮ってご参加ください。
 老耄で書き忘れたり、間違えも多いと思います。岩田君はじめ、旅行参加各位のご修正をお願い致します。

2009年伊予旅行/追伸

元木泰雄
No.6827

 変換ミスや打ち間違えを修正しようとしたのですが、いつもの暗証番号を入れ間違えたらしく、修正できません。恥をさらすことになり、情けないことです。
 今年度は「執行部」のはしくれ、教務委員長。重要な委員会の委員5つを兼任させられ、すでに24日から会議の打ち合わせ。
 おまけに神戸市史では自分の原稿の校正はともかく、他の方が書かない、投げ出す、書いたけれど難しすぎる、市史に不適当、昔のままのデータといった事態に対処させられる有様。夏休みの研究どころではありません・・・と書いたのですが、2004年以来、公私にわたる大事件、混乱の連続で、暇な年などありませんでした。
 つまり、暇になったら原稿を書こうと思えば、定年まで待たないといけません。それまでのんびり構えていれば、もう第一線の研究には復帰できるはずもありません。どんなに忙しくても石にかじりついて研究成果を公表するしかないと思いいたりました。
 その気にさせてくださったのは中央公論新書の編集者の高橋さんです。感謝します。ちなみに、石浜さんを大変尊敬しておられるとのことでした。石浜さんとの約束もありましたね。その前に論文集。塙と吉川・・・
 さりとて、「懲戒を喰らわない程度に学務は手抜き」なんてこともできず、酒も飲みたいし、とらぬ狸の何とかになるかも・・・・

伊予旅行・番外地

No.6829

 元木先生による詳細な旅行記のあとではなんとも書きづらいところですが、ご一緒させていただきました伊予旅行と高野山での中世史サマーセミナーのことなどを少しご報告します。

 20日の古文書学会見学会(於、京都府立総合資料館)には私も参加させていただきました。国宝・東寺百合文書の実物と上島先生のご解説はもちろん、それを多くの高名な先生方と並んで見学させていただけましたことは大変貴重な経験となりました。

 21日からが伊予旅行。昨年の「ゴール地点」がちょうど今年の「スタート地点」となるという奇縁もあり、福山を訪れるのはこの四年ほどの間で三度目となりました。はじめて当地を訪れたのは2006年3月頃で、広島県立歴史博物館や鞆の浦などを見学し「次はいつ来られるかな…」などと思っていたのですが、どっこいすっかりなじみの街になった気がします。
 しまなみ海道では橋の上から静かな海や、そこに浮かぶ島々、船などを見ることができ、いかにも瀬戸内の風情であると思いました。村上水軍資料館で解説していただいた水軍のことは、交通・流通の拠点を押さえる中世武士の研究と関わる点も非常に多く、大いに学ばせていただきました。また、資料館からの眺めも、学芸員の方がおすすめしてくださった来島海峡からの夕景も本当に見事でした。
 今治市での宿(今治プラザホテル)では、喫煙室が上階にあったためそこからは今治城の勇姿が眺められたそうです。が、参加者の大多数は禁煙室に宿泊していたのでした…。焼き鳥「世渡」ではおかみさん(?)がやたらとサービスして下さったのが印象的でした。四国のおかみさんはみなさんサービス精神旺盛なんでしょうか。

 翌朝、私は宿のすぐ近くにあった第五十五番札所である南光坊や港のほうを少し散歩してから朝食(バイキング形式)に向かいました。南光坊は山門に迎え鐘(?)があり、静かな境内に鐘の音が低く響きました。朝食は元木先生・近藤先生とご一緒させていただきました。
 今治市から松山市の移動は一般道を桜三里を経由して向かいました。浄土寺門前では天からチャリンと落ちてきたものを拾った人がいたかと思えば、私は物理的にも精神的にも「ヘコむ」事態を引き起こしました…。とほほ
 湯築城跡は公園として整備され住民の皆さんの憩いの場となっているようでした。ただ、「ヘコ」んだ直後にあの駐車場から出庫するのには困りましたが…(泣)松山では軽自動車がスタンダードなのでしょうか。
 松山市での宿(チェックイン松山)には奥道後温泉引湯という浴場があり、夜遅くまで入れるということなのでじっくり浸かりました。夜はわからなかったのですが、浴場からは松山城を眺めることもできました。

 最終日の23日も大宝寺・太山寺など鎌倉・南北朝期に遡る史跡を見学しました。帰路のしまなみ海道では、海側から尾道の浄土寺などを眺めることもできました。昨年の岡山旅行でも実感したのですが、瀬戸内地域は本当に多くの中世遺構が残っており、またそのどれもが壮麗であることにとても驚きました。貴重な見学の機会を共有させていただき、元木先生や諸先生方に深く御礼申し上げます。

 その翌日は、第47回中世史サマーセミナー二日目のシンポジウム「鎌倉幕府と地域社会」(於:高野山大学201教室)を拝聴するため高野山へ参りました。パネラーの生駒孝臣さんらとともに南海高野線とケーブルを乗り継いでの「登山」となったのですが、木幡を出てから三時間ほどで高野山頂に辿り着き、思いのほか近いことを知りました。シンポジウムでは生駒さんが畿内、田中大喜氏が九州、七海雅人氏が東北をそれぞれ取り上げ、鎌倉幕府体制下における地域社会の動向が分析・比較されました。近年の武士論研究の成果は鎌倉幕府研究にとっても重要な鍵になると思われます。
 ところで高野山は世界遺産に登録されていることもあってか外国人旅行者の方が多く見受けられました。山頂は夕暮れ時になると少し肌寒いくらいでしたが、昼間歩き回るにはちょうど良い気候と思われ(実際に歩き回っていないでわかりませんが…)、図らずも良好な季節に訪れることができて良かったと思います。また、会場では茨城(>>No.6032>>No.6475)で大変お世話になった前川さん・額賀さんや、今年度・昨年度の公開講座でお会いした下村さんといった関東の方々にもお会いすることができました。みなさんはシンポジウムにどのような感想をお持ちだったでしょうか。

 高野山から日帰りした翌日は、京都もすっかり秋を思わせる気候になっていました。またそろそろ火曜日の『吾妻鏡』も再開の準備に入らねばと思います。日程は未定ですが、ひとまず範囲は以下のとおりです。

 範囲:宝治二年(1248年)正月三日・七日・二十五日、二月五日・十八日、三月十八日、四月七日・二十九日・三十日、五月十五日・十六日・十八日・二十日・二十八日、六月五日・九日・十日・十一日・二十一日、七月三日・七日・九日・十日、八月一日・十日、九月七日・九日・十九日・二十日・二十二日・二十六日、十月六日・二十四日・二十五日・二十七日、十一月十三日・十五日・十六日・十八日・二十三日、十二月五日・十二日・二十日、閏十二月十日・十六日・十八日・二十日・二十三日・二十五日・二十六日・二十八日
     建長二年(1250年)二月五日・二十六日、三月一日・三日・五日・十三日・十六日・二十日・二十六日、四月二日・四日・五日・十六日・二十日・二十五日・二十九日、五月十四日・二十日・二十七日・二十八日、六月三日・十日・十五日・二十四日、七月一日・五日・八日・二十二日、八月七日・十八日・二十六日、九月十日・十八日、十月七日、十一月十一日・二十八日・二十九日、十二月三日・五日・七日・九日・十一日・十五日・二十日・二十三日・二十七日・二十八日・二十九日の各条

 毎週火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、夏が明けたら何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでもどうぞお気軽にご参加ください。

オジイサンの語る、お祖父さんの思い出

No.6824

 このところ、掲示板の独占使用が続いておりますが、元木先生が機会を見て、四国旅行のお話を寄稿して下さるとのことですので、お楽しみに。
 岩田君も、サマーセミナーのお話も含めて如何ですか?

 今日は、私の「おじいちゃん」(父方)の命日にあたります。祖父は明治34年(1901)、千葉県印旛郡弥富村飯塚の、天保年間に「名主職」・「組合村取締役」をつとめた農家(鈴木家、屋号は「大坂屋」)の次男として生まれました。 関東大震災の翌年、私の祖母(「おばあちゃん」)と結婚して野口家の婿養子になりました。
 私が生まれたときは、まだ50歳でしたが、当時は50歳が定年でしたから、私の記憶の中の「おじいちゃん」は、作業服を着て畑仕事や大工仕事に励む姿が中心です。千葉市長洲町の家の前のせまい道路の向かい側に土地を買って、晩年はここで畑仕事をするのが日課でした。この畑については、長~い国旗の掲揚に使うような材木を買ってきて、今どきは街中で絶対に見られないような、立派な「鯉のぼり」を立ててくれたことや、トウモロコシを収穫したことを覚えています。
 祖父は蒸気機関車が好きだったらしく、私を連れて、近くを通っている国鉄の線路端に汽車を見に行くことがありました。後で知ったことですが、若い頃、小湊鐵道に勤務していたことがあったそうです。
 鉄道と言えば、毎年、祖父と祖母に連れられて、曾祖父のお墓のある九十九里浜の片貝に、国鉄と軌道(九十九里鉄道)を乗り継いでおまいりに行ったり、成田山(新勝寺)に出かけたことを思い出します。恥ずかしい話ですが、成田山に行ったあるとき、私は祖父の背に負われながらお漏らしをしたことがあるそうです。
 祖父はなかなか器用な人で、千葉の「のみの市」で少しづつ手に入れた立派な大工道具をそろえていて、何でも作ってくれました。私が、少年時代に模型工作に凝ったのは、祖父の影響があったからだと思います。
 それから、祖父は大の風呂好きで、いつも近所の「高の湯」というお風呂屋さん(銭湯)が開くのを待って、一番湯に入っていました。ずいぶん一緒に連れて行ってもらいましたが、熱いお湯が好きなので困りました。祖父は高血圧でしたので、これが寿命を縮める一因だったことは間違いありません。
 お酒はほとんど飲まず、せいぜいお正月に親戚が集まったときに黒ビールを口にするくらいでした。だから、当家では晩酌などという習慣はありません。お料理が出たらご飯を頂くのが常識でした。お料理はお酒と頂いて、ご飯は最後のお漬け物で、という食習慣は私にはありません。
 祖父がお酒を飲まなかったのは、祖父の実父がとても酒癖の悪い人であったことによるのかもしれません。いろいろ苦労があったようです。また、祖父の養父(私の曾祖父)は千葉の漁業組合の書記長をつとめた人なのですが、在職中に組合員が酒で不幸になる事例を多数経験し、酒害絶滅のために奮闘したという事績があり、このことによるのかも知れません。
 いろいろ思い出していると止め処もありませんが、祖父が亡くなって、今年で41年。長い間、あまり祖父のことなど思い出すことがなかったのですが、自分が「おじいちゃん」になってみると、思い出の場面場面で、祖父が何を考えていたのかが推し量られて、最近、妙に懐かしく思われるようになりました。自分が同じ位置に立ってみて、ようやく見えなかったものが見えてきたようです。

☆ 本年四月、立命館大学に赴任された桃崎有一郎先生より、御高論「足利義持室町殿第二次確立過程に関する試論」(『歴史学研究』852)・「『御円融院宸記』永徳元年・二年・四年記-翻刻・解題と後花園朝の禁裏文庫-」(田島公編『禁裏・公家文庫研究』3)・「書評 菅原正子著『中世の武家と公家の「家」』」(『史学雑誌』118-2)を御恵送いただきました。
  桃崎先生にあつく御礼を申し上げます。
 桃崎先生は京都赴任を機に、鎌倉期京都の研究にも取り組んで下さるとのこと。大いに期待申し上げる次第です。

大坂屋っ!!

岩田慎平
No.6825

岩田です。掲示板上では引きこもり、日常生活上では出ずっぱりが続いております。野口先生にばかり「登板」していただきまして心苦しい限りです。

この間、鎌倉、愛媛、高野山などを訪ねてまわりまして、いろいろ見聞してきました。ご報告したいことは山ほどあるのですが、それはまた追々に…。


小心者が閑居して太っ腹になるというお話

No.6828

 元木先生が伊予旅行の書き込みをされたとたんに、アクセス数がうなぎ上りです。楽しくすらすらと読んでいて、変換ミスなど全く気がつきませんでした。
 それにしても、やはり旅行に美味しい「食」はつきもののようですね。私は、このところ特に胃腸が不調なために食事のコントロールが大変なので、気安く団体での旅行には参加することができず、実に残念です。

 岩田君の「日常生活出ずっぱり」の生活は実に健康的かつ建設的で結構なことだと思います。若者が「小人閑居して不善を為す」では困ります。

 ところで、上に祖父の思い出話を書きましたが、書き忘れたことが一つ。それは祖父の体型が七福神の一人である布袋様とそっくりだったということです。
 そんな祖父に、子どもの頃の私は「おじいちゃん、お腹の中に何が入っているの?」と質問したことがあります。「千両箱が入っている」という返事でした。
 母方の祖父は、小柄のやせ形だったのですが、私は体型においては、この父方の祖父の遺伝子を確実に継承したようです。孫に同じ質問をされたら何と答えようかと思案中です。
 いずれにしても、私は「小心者」なのに「太っ腹」なのであります。

食を中心とした鎌倉の報告

No.6830

 「日常生活出ずっぱり」の実態はほとんどがバイトという情けない話なのですが、古文書学会・伊予旅行の前の週には鎌倉に行くことができましたので、その間のことを少しご報告します。

 出発前夜は台風が関東地方に接近し、当日朝は静岡地方で地震が発生しましたが、いちおうほぼ予定通りに現地へ向かうことができました。

 到着直後の昼食は藤沢の小田急デパートでお寿司をいただいました。店長自ら握ってくれたランチセットは950円。もうちょっと出費を覚悟したのですが、さすがかつての大庭御厨(関係ないか…)、魚介類が安くておいしいですね。京都周辺ではこうはいきません。
 初日は、清浄光寺を見学ののち江ノ島を散策しました。江ノ島弁天門前での夕暮れ・イカ焼き・ビールは格別でした…。

 翌日は藤沢から北鎌倉へ移動した後、午前中は円覚寺、東慶寺、明月院、建長寺などを経て鶴岡八幡宮まで見学しました。明月院はもともと時頼の最明寺であったとのことですが、境内は何段かのテラス状に整備された形跡が見受けられましたし、建長寺の龍王殿は前庭・階・簀子・庇間・母屋などを持つ寝殿造建築の正殿(寝殿)の空間構造とよく似た構成ではなかったかと思います。このあたりは建築史専攻の方のご意見を伺いつつあらためて見学してみたいところです。
 昼食は鎌倉駅前でマグロ定食をいただきました。新鮮なマグロのいろいろな部位が刺身で山盛りとなっており、思わずごはんをおかわりしました(「おかわり無料」とは書いてなかったのですが、ご飯もおいしかったので…)。
 午後からは大蔵御所跡、頼朝法華堂跡、義時法華堂跡、大江広元・島津忠久墓所、荏柄天神、鎌倉宮、宝戒寺、若宮御所跡、若宮大路、妙本寺、名越周辺などを見学しました。和田合戦や宝治合戦の舞台になった地域の距離感を具体的に知ることができたことや、頼朝法華堂跡から勝長寿院方面の眺めなどあらためて気づかされることも多く、鶴岡から六浦路沿いは特に源氏将軍家にとって重要な空間であることが実感できる大変貴重な機会となりました。
 その日の見学後には、バイト先コーヒー屋の鎌倉御成町店にもお邪魔してきました。ここは『フクちゃん』で有名な漫画家・横山隆一氏の邸宅跡地に建てられたとても雰囲気の良いお店で、その店舗オリジナルのデザート(レモンスフレタルト、など)も提供してくれました。

 最終日は長谷大仏と長谷寺、極楽寺、御霊神社などを見学しました。御霊神社の門前の「力餅屋」では権五郎力餅をいただきました。これは歩き疲れた体にとても嬉しい風味でした。その後鎌倉駅に移動し、駅前で海鮮丼をいただきました。ちょうどお昼頃でどのお店も混んでいたのですが、路地の奥の方のお寿司屋さんをたまたま見つけて静かに美味しく海の幸を堪能することができました。
 その後、駅で小鰺寿司を買い求めてから帰路に就きました。

 真夏の一番暑い時期でしたから歩き回るのは大変でしたが、それを差し引いても、普段『吾妻鏡』で読んでいる場所を実際に見て回ることが出来たのは何物にも代え難い貴重な経験でした。特にこの数年は、建築や空間のことなどにも関心をもって読んできましたから、その価値は格別なものに思われました。
 ぜひまた「ゼミ旅行・鎌倉」を実現したいところですね。

神様!お願い! そして、8月もあと僅か。

No.6823

 19日の夕刻、鈴木君にメモリを増設していただいた研究室のパソコン。本日まで作動のチャンスがなかったのですが、動かしてみたら「人が変わった(人ではないか?)」と思えるほどスムースに動きます。これなら、仕事もはかどるはず。PCによるストレスは激減ということになりそうです。瀕死の老人が蘇生して青年に戻ったといったところでしょうか。鈴木君は神のごとし。出来うることならば、私にもメモリを増設して下さい。

 長村君と共著の「承久の乱における宇治川合戦」をテーマにした論文と現在の茨城県域のある荘園を取り上げた論文に一応の目途がつきました。次は京都七条町の工人たちが列島を股にかけてで活躍・・・というお話に挑みます。と、その前に校正一件。
 夏休みが終わる直前の小中学生時代を思い出します。宿題は、ずいぶん母親に手伝ってもらいました。

不徳が人を太くする話

No.6822

 あまり大学に出て来る人はいないと思いますが、目下、L校舎のエレベーター・東側階段は工事中。図書館は27日まで休館ですからご注意下さい。

 負債返済の作業を続けておりますが、座業に終始していると当然運動不足。食事にも気をつけなければいけないのに、そのコントロールも出来ない。まさに、自らの不徳をあらためて確認せざるを得ないのですが、結果は私をさらに太くしております。

 諸方におけるイベント(研究会・見学会)に参加したり、帰省中の諸姉兄からは、さまざまな情報をいただき、ありがとうございます。そういえば、今日は中世史のサマーセミナーも行われていますね。自由に動き回れるうちに、おおいに活動の場を広げていただきたいものと思います。

『鎌倉幕府守護職成立史の研究』拝受

No.6821

 一昨日は、鈴木御夫妻にお出で頂いて、研究室と拙宅のPCのメンテナンスをしていただきました。夜遅くまで、本当にありがとうございました。

 研究室のPCにはメモリーを増設。これで能率アップがはかれると思います。
 しかし、一番問題なのは使う当人の無能力にあります。
 この点については、絵里子奥様に御助力をお願いすることに致しました。
 宜しくお願い申しあげます。

 ☆ 義江彰夫先生より新刊の御高著『鎌倉幕府守護職成立史の研究』(吉川弘文館)を御恵送頂きました。本文668ページという大著です。30年ほど前に出された『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』(東京大学出版会)と対を成す御研究の成果の刊行を心よりお祝い申しあげる次第です。
 また、近年、守護制度に関する研究が活発化しつつありますので、とても時宜を得た刊行だと思います。
 義江先生にあつく御礼を申し上げます。

直江兼続の出版した「文選」

No.6820

 今日は、さきに元木先生より御案内いただいた(>>No.6792)古文書学会の見学会に参加して参りました。上島有先生の解説をうかがいながら、生の中世文書をじっくり拝見するという、実にぜいたくな見学会でした。
 いろいろとお骨折り下さった元木先生にあつく御礼を申し上げます。

 会場の京都府立総合資料館では、ちょうど特別展が開催中でしたので、これも見学。
 なかなか良い展示なので、せっかくですから、京女の皆さんにも紹介しようと、ポスターとチラシを頂いてきたのですが、後で気がついたら会期は23日まで。
 これでは、夏休み中、しかも回りが工事だらけの研究室前に掲示しても意味がありません。そこで、この場で宣伝です。

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「古典籍へようこそ-直江版「文選」とそのなかまたち-」

 開催期間:7月25日(土曜日)~8月23日(日曜日)(8月12日(水曜日)は休館)
会場: 京都府立総合資料館2階(入場無料)
   http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/
 開館時間:午前9時~午後4時30分
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 直江版「文選」は、1607年、上杉景勝の家老であった直江兼続の委嘱によって京都要法寺で刊行された「文選」のこと。古活字版として貴重な文化財です。

☆ 國學院大学の森幸夫先生より、御高論「頼朝挙兵時の相模国目代について」掲載の『ぶい&ぶい』Vol.009を御恵送頂きました。
 治承4年(1180)の相模国目代が特定できるとは考えてもいませんでした。短編ながら貴重な成果だと思います。
 最近の研究において、12世紀に諸国の目代や荘園の沙汰人として活動した下級官人に関する知見が数多く紹介されていますが、これは武士論ともリンクする問題だと考えています。
 森先生にあつく御礼を申し上げます。

懸賞論文募集のお知らせ

No.6816

 「第24回 宗教・文化研究所懸賞論文募集要項」から、その大要を抜粋します(詳しくは学内の掲示を御覧下さい)。

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 テーマ 親鸞の思想、仏教思想や宗教思想等あるいは現代社会の直面しているさまざまな問題について、宗教の視点も加えて論評したもの。たとえば性差別や生命倫理の問題、地球環境、ITの普及、少年犯罪やカルト宗教をめぐる問題に関するもの。題は自由。また、エッセイの形式でも可。

1 応募資格 京都女子大学・京都女子大学短期大学部学生および京都女子大学大学院学生
2 応募締切日 平成21年10月1日(木)正午
3 原稿枚数 原稿用紙使用の場合⇒400字詰、A4・縦書き15枚程度
        パソコン使用の場合⇒40字×30行、A4・縦書き5枚程度    
4 原稿提出先 宗教・文化研究所(大学宗教教育センター内)
5 入選発表・表彰式 平成21年12月5日(土)「心の学園記念式」
   ◎ 審査の上、入選者には下記の賞金と賞状を差し上げます。
     特選 10万円  優秀作 7万円  秀作 5万円  佳作 3万円  
   また、入賞作品は平成21年度「宗教・文化研究所だより」第50号(平成22年2月下旬発行予定)に掲載される他、学園内の広報誌に氏名・表彰風景等が掲載されます。
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 親鸞を取り巻いた文化環境など、歴史学や国文学の視角から、こうした課題に取り組んでみるのも面白いかと思います。
 ゼミメンバーをはじめ、諸姉の積極的な応募を期待しています。
 これは蛇足ですが、結果が良ければ、アルバイトと研究を両立させるより、時間的にも経済的にも有効だと思います。

ラボール学園「日本史講座」の御案内

No.6817

 御案内をもう一件。
 ラボール学園(社団法人京都勤労者学園)の「日本史講座-検証・京の事件簿-」。後期は<近世・近代>です。詳細は↓を御覧下さい。
   
   http://www.labor.or.jp/gakuen/kouza_school/school_index.html

 京女からも母利美和先生が出講されます。
 受講申し込みの受付は9月2日(水)から。
 案内のパンフレットを研究室前のテーブルの上に置いておきますので、ご自由にお取り下さい。

『御堂関白記』講読会と大文字の送り火

No.6815

 今日は「五山(大文字)の送り火」があります。
 これが終わると、京都はめっきり秋めいてくる、というのは昔のお話。
 
 ところでこの時期は、数年前まで、山中裕先生を講師にお招きして、毎年、古代学協会主催の『御堂関白記』の講読会が行われておりました。会場は百万遍交差点近くの思文閣ビルでしたので、そちらの御好意で出席者は夕刻に再度集まってビルの屋上に上がり、送り火を堪能したものでした。

 今思うに、あの講座は史学・国文で平安時代を専攻する研究者にとって、交流の場として大きな意味を持っていたと思います。なんとか、再興が叶わないものかとも思うのですが、今の時代にあれほどに意欲的な若い人たちが全国から集まってくれるかどうか。

 さて、大学の研究室の方は、ドアを開けると工事現場みたいな状況のままだと思いますが、もう<断水>ということもないと思いますし、何と言っても図書館が開きますので、明日から出掛けて仕事を進めたいと思っております。
 御用のある方は、事前にEメールでお知らせ下さい。