2009年伊予旅行
元木泰雄
No.6826
掲示板に久しぶりに書かせていただきます。
20日の古文書見学会には野口先生にもお越しいただき、感謝しております。それにしても、国宝の文書の実物を手に取りながら、上島先生のご解説をいただくとはなんと贅沢なことでしょうか。紙の質、墨の色、折り方など、古文書の非文字情報は、なんと豊かなことでしょうか。こうした古文書分析の方法を切り開かれた上島先生のご研究を、関西の研究者が継承しないわけにはゆきません。若い方々のご活躍を期待致します。
さて、野口先生も予告された伊予旅行。充実した楽しい旅行になりました。
今回は東京から漆原徹、佐藤秀成のレギュラーともいうべき両先生に、近藤好和先生もご参加になりました。関西からは小林基伸先生、当方、院生では岩田、花田、伊集、坂口、米沢の諸君、そして地元から元近藤先生の受講生宇野さん、そして山岡さんが参加されました。今回は強烈晴れ男、土佐の豪快先生こと池内敏彰先生が体調不良でご欠席になり天候が懸念されましたが、幸いほぼ好天に恵まれました。
21日、新幹線で福山駅集合。レンタカー二台に分乗してしまなみ海道を通ってまずは生口島の向上寺三重塔を見学。朱塗りが鮮やかな室町の塔で、瀬戸内海を背景にした姿はまさに一幅の絵画でした。もっとも、非観光寺院のため駐車場がなく、駐車場探しで時間を大幅にロス。駐車場から寺院に行く道にも迷い、保育園の子供に不審者扱いされたり散々でした。ただ、駐車場前のイタメシが鄙には稀なしゃれた店、質はもちろん、量も近藤先生を満足させるものでした。
その近藤先生の御解説で、大山祇神社の宝物を見学できたのも、これまた贅沢な時間でした。大鎧や太刀などの武具に関する認識を大いに改めたことでした。あの神社にあれだけ鎧があるのは奉納ではなく、実は略奪的な性格が強いとのこと。これまた予想外のことでした。
近藤先生のご解説に聞き惚れながら(?)じっくり見学するうちに時間も経過、最後に予定していた大島の村上水軍資料館は時間切れ寸前、しかし伊集君の必死の電話が奏功して何とか入れてもらえたばかりか、館員の方に丁寧な解説をしたいただくなど、充実した時間を過ごしました。村上水軍の歴史をコンパクトに解説した興味深い資料館でした。
水軍の根拠地となる海城は小さな島にあったとのこと、生活拠点と軍事拠点は異なっていたようです。
その夜は、今治市に宿泊。市内中心街の焼き鳥「世渡」で夕食。まさに鳥のフルコース(刺身はなし)、甘めで濃厚なタレが鳥の味を引き立て、堪能致しました。もっとも、近藤先生曰く「食ったのは鳥肉とキャベツばっかりじゃん」。確かにそうですね。ちなみにキャベツは食べ放題。
なお、付近はすっかりシャッター商店街の様相で、いかにもさびれた感じが否めません。40年余り前、家族とともに親戚を訪ねた折、「四国の大阪」と称された今治はもっと活気があったように思えたのですが。本家大阪に合わせたわけでもないのでしょうが・・・
翌22日。まずは糸島公園。しまなみ海道の終点来島海峡大橋のたもとにあり、橋の景色も素晴らしいのですが、ここに来た目的は村上水軍の拠点のひとつ来島を見ることです。展望台から見えたのは別の島と判明、本物を探して若干右往左往でしたが、潮流の速い海峡に面した小島と確認。早い潮流が堀の代わりだそうです。
ついで今回の旅行のハイライト、今治周辺の中世の石塔群を見学しました。付近の石塔(五輪塔、宝篋印塔)11基を集めた乗禅寺をはじめ、多数の石塔を見学致しました。最大のものはなんと3.6メートル。銘のあるものはいずれも正中、元亨など、鎌倉末期に集中しており、この時期に何か大きな動きがあったことをうかがわせます。律宗などの石工集団がこの地に登場したのでしょうか。なお、野間神社の2.8メートルの塔は土台が崩れ傾いており、早急な手当てが必要と思われました。野間の斜塔ではしゃれになりません。
ついで国分寺近くの脇屋義助の墓所を見学。彼がこんなところで亡くなったとは知りませんでした。新田の子孫を称する徳川幕府の時代に墓所はずいぶん立派に整備されたようです。
そうこうするうちに12時を回り、早起きの近藤先生が空腹を訴えられたので、昼食のための食堂を探すのですが、バイパスなど幹線道路にも全く見当たらず。あのあたりの人は外食をしないのでしょうか?そうこうするうちに次の目的地西山興隆寺に到着。
延々と続く厳しい上り勾配の参道を息を切らして登ると、堂々たる室町時代の本堂。その傍らに、またまた頼朝の供養塔と称する鎌倉末期の宝篋印塔が。この地域では、集中的に多くの石塔が造られたようです。頼朝のような不人気の人物の供養塔とは珍しいことですが、頼朝が所領を寄進したことと関係するようです。
険しい参道で、まさに膝が笑う思いを致しました。
そこから松山へ向かったのですが、田舎のこととて沿道に食堂がありません。松山まで我慢かと思った刹那、山岡さんから緊急電話。「空腹の余り近藤先生が暴れそう」との一大事。幸いに見かけたラーメン屋に飛び込み事なきを得たことでした。
松山では、戦国時代の本堂のある浄土寺、道後に近く、国宝の仁王門や重文の建築物を多数有する石手寺を見学致しました。いずれも札所で、多くのお遍路さんが参拝しておられました。石手寺の境内では、当方が猫好きの本領発揮。撫で方が気に入ったのか、猫に何度もすり寄られる一幕もありました。我が家の猫もあれくらい愛想が良ければ、と思ってしまいました。
その後、道後温泉の入り口にあり、河野氏の拠点となった湯築城跡を見学。資料館、復元した武家屋敷など、展示も工夫が凝らされており、なかなかうまく整備された公園でした。
その晩は松山泊。前日とは打って変わって、まことに夜の街も賑やか。
出かけたのは郷土料理の「五志喜」。五色そうめんやタイ飯を含む盛り沢山お料理で、満足致しました。近藤先生は、名物「鯛そうめん」がないことに若干ご立腹。
真面目に宿に帰った若者を尻目に、漆原、小林、佐藤の諸先生と当方は宿近くのジャズバー「Monk」にまいりました。「もう腹いっぱいだし、一杯だけ」などと口々に言いながら、店の居心地の良さについついグラスを重ね・・・植木等の有名な歌が思い起こされます(笑)。かくして全員二日酔い。
洒落たバー、にぎわう夜の繁華街。前日とは大違いでした。地方は県庁所在地だけが繁栄するという最近の傾向を如実に見せられた思いでした。
23日は先に帰宅される近藤先生を空港にお送りし、国宝建築二箇所を見学。鎌倉の瀟洒な和様の本堂を持つ大宝寺。本堂正面にある桜の古木の名称が「うばざくら」。ただし、乳母桜だそうです。
ついで松山北部の太山寺。ここは7間9間という信じがたい巨大な国宝本堂があります。これも鎌倉末期の建造。鎌倉末期の伊予に何があったのか、どなたか研究してみてはいかがでしょうか?
道後近くの伊佐爾波神社は華麗な桃山建築。蛙股の中にユニークな絵画があるのですが、そのひとつが一遍上人像。まさに神仏習合ですね。
その後、「坂の上の雲」の宣伝一色の市街地を抜けて松山城に登り、旅行を締めくくりました。
来年は、美濃、あるいは信濃別所温泉などが候補になっております。
ぜひ奮ってご参加ください。
老耄で書き忘れたり、間違えも多いと思います。岩田君はじめ、旅行参加各位のご修正をお願い致します。
20日の古文書見学会には野口先生にもお越しいただき、感謝しております。それにしても、国宝の文書の実物を手に取りながら、上島先生のご解説をいただくとはなんと贅沢なことでしょうか。紙の質、墨の色、折り方など、古文書の非文字情報は、なんと豊かなことでしょうか。こうした古文書分析の方法を切り開かれた上島先生のご研究を、関西の研究者が継承しないわけにはゆきません。若い方々のご活躍を期待致します。
さて、野口先生も予告された伊予旅行。充実した楽しい旅行になりました。
今回は東京から漆原徹、佐藤秀成のレギュラーともいうべき両先生に、近藤好和先生もご参加になりました。関西からは小林基伸先生、当方、院生では岩田、花田、伊集、坂口、米沢の諸君、そして地元から元近藤先生の受講生宇野さん、そして山岡さんが参加されました。今回は強烈晴れ男、土佐の豪快先生こと池内敏彰先生が体調不良でご欠席になり天候が懸念されましたが、幸いほぼ好天に恵まれました。
21日、新幹線で福山駅集合。レンタカー二台に分乗してしまなみ海道を通ってまずは生口島の向上寺三重塔を見学。朱塗りが鮮やかな室町の塔で、瀬戸内海を背景にした姿はまさに一幅の絵画でした。もっとも、非観光寺院のため駐車場がなく、駐車場探しで時間を大幅にロス。駐車場から寺院に行く道にも迷い、保育園の子供に不審者扱いされたり散々でした。ただ、駐車場前のイタメシが鄙には稀なしゃれた店、質はもちろん、量も近藤先生を満足させるものでした。
その近藤先生の御解説で、大山祇神社の宝物を見学できたのも、これまた贅沢な時間でした。大鎧や太刀などの武具に関する認識を大いに改めたことでした。あの神社にあれだけ鎧があるのは奉納ではなく、実は略奪的な性格が強いとのこと。これまた予想外のことでした。
近藤先生のご解説に聞き惚れながら(?)じっくり見学するうちに時間も経過、最後に予定していた大島の村上水軍資料館は時間切れ寸前、しかし伊集君の必死の電話が奏功して何とか入れてもらえたばかりか、館員の方に丁寧な解説をしたいただくなど、充実した時間を過ごしました。村上水軍の歴史をコンパクトに解説した興味深い資料館でした。
水軍の根拠地となる海城は小さな島にあったとのこと、生活拠点と軍事拠点は異なっていたようです。
その夜は、今治市に宿泊。市内中心街の焼き鳥「世渡」で夕食。まさに鳥のフルコース(刺身はなし)、甘めで濃厚なタレが鳥の味を引き立て、堪能致しました。もっとも、近藤先生曰く「食ったのは鳥肉とキャベツばっかりじゃん」。確かにそうですね。ちなみにキャベツは食べ放題。
なお、付近はすっかりシャッター商店街の様相で、いかにもさびれた感じが否めません。40年余り前、家族とともに親戚を訪ねた折、「四国の大阪」と称された今治はもっと活気があったように思えたのですが。本家大阪に合わせたわけでもないのでしょうが・・・
翌22日。まずは糸島公園。しまなみ海道の終点来島海峡大橋のたもとにあり、橋の景色も素晴らしいのですが、ここに来た目的は村上水軍の拠点のひとつ来島を見ることです。展望台から見えたのは別の島と判明、本物を探して若干右往左往でしたが、潮流の速い海峡に面した小島と確認。早い潮流が堀の代わりだそうです。
ついで今回の旅行のハイライト、今治周辺の中世の石塔群を見学しました。付近の石塔(五輪塔、宝篋印塔)11基を集めた乗禅寺をはじめ、多数の石塔を見学致しました。最大のものはなんと3.6メートル。銘のあるものはいずれも正中、元亨など、鎌倉末期に集中しており、この時期に何か大きな動きがあったことをうかがわせます。律宗などの石工集団がこの地に登場したのでしょうか。なお、野間神社の2.8メートルの塔は土台が崩れ傾いており、早急な手当てが必要と思われました。野間の斜塔ではしゃれになりません。
ついで国分寺近くの脇屋義助の墓所を見学。彼がこんなところで亡くなったとは知りませんでした。新田の子孫を称する徳川幕府の時代に墓所はずいぶん立派に整備されたようです。
そうこうするうちに12時を回り、早起きの近藤先生が空腹を訴えられたので、昼食のための食堂を探すのですが、バイパスなど幹線道路にも全く見当たらず。あのあたりの人は外食をしないのでしょうか?そうこうするうちに次の目的地西山興隆寺に到着。
延々と続く厳しい上り勾配の参道を息を切らして登ると、堂々たる室町時代の本堂。その傍らに、またまた頼朝の供養塔と称する鎌倉末期の宝篋印塔が。この地域では、集中的に多くの石塔が造られたようです。頼朝のような不人気の人物の供養塔とは珍しいことですが、頼朝が所領を寄進したことと関係するようです。
険しい参道で、まさに膝が笑う思いを致しました。
そこから松山へ向かったのですが、田舎のこととて沿道に食堂がありません。松山まで我慢かと思った刹那、山岡さんから緊急電話。「空腹の余り近藤先生が暴れそう」との一大事。幸いに見かけたラーメン屋に飛び込み事なきを得たことでした。
松山では、戦国時代の本堂のある浄土寺、道後に近く、国宝の仁王門や重文の建築物を多数有する石手寺を見学致しました。いずれも札所で、多くのお遍路さんが参拝しておられました。石手寺の境内では、当方が猫好きの本領発揮。撫で方が気に入ったのか、猫に何度もすり寄られる一幕もありました。我が家の猫もあれくらい愛想が良ければ、と思ってしまいました。
その後、道後温泉の入り口にあり、河野氏の拠点となった湯築城跡を見学。資料館、復元した武家屋敷など、展示も工夫が凝らされており、なかなかうまく整備された公園でした。
その晩は松山泊。前日とは打って変わって、まことに夜の街も賑やか。
出かけたのは郷土料理の「五志喜」。五色そうめんやタイ飯を含む盛り沢山お料理で、満足致しました。近藤先生は、名物「鯛そうめん」がないことに若干ご立腹。
真面目に宿に帰った若者を尻目に、漆原、小林、佐藤の諸先生と当方は宿近くのジャズバー「Monk」にまいりました。「もう腹いっぱいだし、一杯だけ」などと口々に言いながら、店の居心地の良さについついグラスを重ね・・・植木等の有名な歌が思い起こされます(笑)。かくして全員二日酔い。
洒落たバー、にぎわう夜の繁華街。前日とは大違いでした。地方は県庁所在地だけが繁栄するという最近の傾向を如実に見せられた思いでした。
23日は先に帰宅される近藤先生を空港にお送りし、国宝建築二箇所を見学。鎌倉の瀟洒な和様の本堂を持つ大宝寺。本堂正面にある桜の古木の名称が「うばざくら」。ただし、乳母桜だそうです。
ついで松山北部の太山寺。ここは7間9間という信じがたい巨大な国宝本堂があります。これも鎌倉末期の建造。鎌倉末期の伊予に何があったのか、どなたか研究してみてはいかがでしょうか?
道後近くの伊佐爾波神社は華麗な桃山建築。蛙股の中にユニークな絵画があるのですが、そのひとつが一遍上人像。まさに神仏習合ですね。
その後、「坂の上の雲」の宣伝一色の市街地を抜けて松山城に登り、旅行を締めくくりました。
来年は、美濃、あるいは信濃別所温泉などが候補になっております。
ぜひ奮ってご参加ください。
老耄で書き忘れたり、間違えも多いと思います。岩田君はじめ、旅行参加各位のご修正をお願い致します。