松殿基房の木幡別業は城塞化されていたのか?

No.9868

 岩田君の家の近くの小高い丘の上には、松殿基房の別業跡があります。
 この周囲に巡らされた土塁については以前から知られていましたが、最近、宇治市によって発掘調査が行われたようで、9日の午後に現説があるそうです。

 この土塁が本当にこの時代に築造されたのなら、極めて興味深いものがあります。以仁王挙兵の時か、源行家が木曽義仲と同時に入京した時か、宇治川を突破した義経軍が通った時か、はたまた、承久の乱に関係するのか?

 という訳で、土曜日はこの現説に行ってから、踵を返して薩摩に向かうということになりました。翌日の研究発表はどうなることやら。

 ↓ 京都新聞の記事です。
 http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20130305000157

ほんとうに松殿基房邸跡か?

美川圭
No.9870

今日、京大の元木研究室での研究会で、出席されている上横手先生が、この遺跡がほんとうに基房邸跡なのか、その証拠はあるのかと、根本的な疑問を呈されました。考えてみれば、たしかにここが当時基房邸という当時の確たる証拠があるわけではありません。のちに後世の茶人たちが松殿邸として喧伝したのではないかと。上横手先生は、武士の館と考えるのが自然ではないかと言われました。先生は宇治の住民でもあるので、以前からここに土塁があることはご存知だったそうです。残念ながら、私は所用で今回の現地見学会に行けません。そのあたりのところ、野口先生、またお教え下さい。

土塁が何時築造されたのかが問題です

No.9871

 まったく上横手先生のおっしゃるとおりで、以前から土塁の存在は知られておりましたし、私自身、以前、山荘が公開されたときに現地を見て、中世後期の城郭遺構ではないか思われる地形を確認しています。木幡の奈良街道沿い平地部分の西浦遺跡では堀をめぐらせた中世後期の居館跡が検出されておりますし、立地からいって何らかの城郭施設が造られてもおかしくはないと考えています。

 ただ、報道ではそんなことには一切触れずに、「松殿」の話ばかりを載せているので、これは12世紀代の遺物が検出され、土塁そのものが松殿(藤原基房)の時代に構築されたと判断されたと受け取らざるを得ないのです。行ってみたら、「これは中世前期の遺構ではありませんでした」と発掘担当者が説明する可能性もあると思っています。ですから、その確認のために現説に行くようなものです。

なお、松殿の別業がここにあったかどうかは一次史料では確認できず、あくまでも伝承の域にとどまるのですが、隣接する地域も「京極殿跡」と伝えられています。松殿山荘のある丘の北側の平地には道長の建てた浄妙寺があり、山荘の周囲は摂関家の墓域(宇治陵)であり、鎌倉時代には九条家ゆかりの観音寺(西八条禅尼や安達氏と関係の深い真言律宗の真空がいた)もありましたから、この伝承は事実を伝えた蓋然性が高いものと、私は判断しております。

 そういえば、以前、角田文衞先生から、「源通親と結婚した基房の娘は、ここで道元を生んだと大久保道舟氏が言っておられる」とうかがったことがありました。たしか、この基房の娘というのは木曽義仲の妻だった人だったかも知れません。

 さて、これから数時間後の現説で、どんな説明がされるのやらといったところですが、私としては、一度出かけて、すぐに家に戻り、急いで鹿児島に向かわなければならず、まったく忙しいことになってしまいました。

中途退出の現説参加記

No.9872

 現説に行きました。時間がなく、遺跡全体の説明までしかいられなかったので、土塁の遺構は見学できませんでした。ただ、全体の説明では、すでに松殿基房との関係を前提にされていて、ほかの時代に関する論及がありませんでしたので、戻る前に調査員のお一人に、土塁築造の時期について直接お尋ねしてみました。ご回答を要約すると、土塁から奈良時代の遺物が検出されているが、それ以降のものは検出されておらず、中世後期とも判断できないとのこと。要するに、確実なのは奈良時代以降の築造であるというだけのようです。

 そもそも、私が疑問に思ったのは、多くの方のおっしゃる「関白の別邸だから築地塀が巡らせてあったと思われたのに、それが土塁であった」という意見で、京中ならいざ知らず、一族の墓所の空間の、それも丘陵上にそのような権威空間を示すものが築造されるとは思えないということです。東西南北の街路が区切られた忠実期以降の権門都市としての宇治に造営された小松殿や小川殿は築地塀で囲まれていたと思いますが、木幡の空間は性格が異なる。

 それから、もう一つ気になるのは、この台地上からかつて瓦が見つかったという情報があることで、そうだとすると寺院の遺構である可能性が高いのではないかということです。
 現説の資料は『明月記』の記事を根拠にして、基房が木幡に別荘を所有していたことが明らかであるように記していますが、それは「逆修所」ですから、仏堂と見るべきでしょう。さらに言えば、その「逆修所」が、この場所に所在したかどうかは別問題です。当時の地理感覚では「木幡」は相当広いエリアだからです。

 ちなみに、現説の資料には『明月記』該当記事について「(1227年記事)」というように表記していますが、これは安貞元年閏3月21日条で、『民経記』5月2日条にも関連記事があります。これらの記事によると、この逆修所で詩歌会が開かれたことがわかるので、別荘的な遊興の場としての機能を有する施設であったことは認められるのですが、場所は特定できません。後世、松殿の逆修所の存在が言い伝えられる間に、周囲に土塁をめぐらせた、この台地がそれにふさわしいものと考えられるようになった可能性も否定できないと思われます。
 いずれにしても、この土塁はもっと広い時間的なスパンで評価すべきではないかと考えます。木幡周辺は大変な要地ですから、史料所見を前提にして様々な可能性を考えていく必要があると思います。

 この土塁、たしかに治承・寿永内乱あるいは承久の乱との関連で構築されたのなら面白いのですが、鎌倉時代にこのあたりに造営された観音寺とか、南北朝期~戦国期になんらかの軍事的な意図で構築された可能性も、周辺の中世遺跡との関連の中で検討する余地があるのではないかと思います。

 なお、この遺跡については岩田君も『明月記』の記事を引くなどして、より学問的に「呟いて」おられますのでご参照下さい。
 
 その岩田君ですが、私が帰った後に、現場に到着されたようですね。現説には私が到着した時、すでに朧谷先生がお出でになっていましたし、帰る途中で、山田先生ご夫妻、ついでタクシーで駆けつけられた(宇治の中心を本拠とされる)佐藤さんにもお会いすることができました。
編集:2013/03/13(Wed) 15:18

素人の雑感

No.9874

 遅ればせながら、私も現地説明会に行ってまいりました。現地は自宅より徒歩五分くらいの場所なのですが、中にまで入らせていただくのは今回がはじめてとなりました。

 私が行ったのは説明会終了間際でしたので、見学者の方もほとんどおられず、むしろじっくり見学させていただくことができました。といっても、眺めただけでは具体的なことは何もわからなかったのですが…。

 見学した感想や疑問は野口先生がお書きのとおりだと思います。
 まず『明月記』の嘉禄三年(安貞元年・1227)閏三月二十一日条は以下の通りです(国書刊行会本から抄出)。

 「~中略~家長朝臣兼来臨、入北門相逢、大納言殿御使也、於木綿御逆修所可有詩歌会之由、禅閤頻被仰、老者殊可参有御気色云々、於彼御命者実難背、雖老病難治可扶参、抑密々申、任槐之最中、詩歌御興遊、頗可有御存知旨哉、如何、~以下略~」

 条文中の「木綿」が「木幡」を指すわけですが、おおよそ北は現在の京都市伏見区桃山周辺、南は同じく宇治市黄檗のあたりまでを当時は「木幡」と称していました。そのため、この記述だけでは「御逆修所」が「木幡」のどのあたりに存在したのか、場所の特定は困難と言わざるをえません。また、遺構から具体的な年代を示すほかの出土遺物などは確認されていないそうです。ですから、今回確認された遺構と、『明月記』の条文との関連は不明とせざるをえないと思います。

 遺構とは別に、松殿山荘の周辺からは奈良時代頃の遺構・遺物も発見されているそうです。その頃から何らかの人々の営みが見られるというわけですね。また、今回確認された遺構の南側には、いわゆる「宇治陵」といわれる遺跡も二ヶ所存在します。

 今回は土塁と見られる遺構が発見されましたが、その周辺では堀に該当する遺構は確認されていないということで、単純に「城郭」と見なすこともできないというようなご説明も調査員の方からいただきました。
 ただし松殿山荘の南北にはそれぞれ川が流れていますし、東側には尾根を南北に切り通したような道が通っています(いつ頃から存在する道なのか知らないのですが)。「城郭」といえるかどうかの判断は、それら周辺の地形も含めて検討してみてもよいのではないかと思われます。

 確認された遺構が積極的に十二~十三世紀頃と特定できるわけではないのなら、もっと中世後期まで時期を広げて検討すべきではないかと思います。木幡が京都-奈良を繋ぐ水陸交通の要衝であったことは事実ですし、ここを押さえるために何らかの“施設”を設けるという発想も理解されるところです。しかし、繰り返しになりますが今回発掘された遺構が十二~十三世紀頃のものであるかどうかというのは、それとは別問題だと思うのです。
 木幡周辺の水陸交通路を掌握しつつ、いざというときの高い軍事的機能を持つ一種の城郭、というのが素人ながらの感想です。

 ※なおこの雑感は、べつのところで「呟いた」(※学問的なんてとんでもない!)内容に一部加筆して掲載しております。
編集:2013/03/13(Wed) 13:09

発掘現場が基房邸であるという既成事実化を防ぐ

美川圭
No.9876

野口先生、岩田さん、ありがとうございました。自分で行ければよかったのですが。

京都市埋蔵文化研究所だと、現地説明会の資料をアップしてくれるので、たとえ現説に行けなくても助かりますが、今回は宇治市ですね。たぶん、資料はアップされないし、ホームページもなかったと思います。京都新聞が大きくとりあげましたが、きわめて問題のある記事だと思います。これで、ここが基房邸跡という大前提で、貴族の邸宅に土塁とか防御施設がある、源平合戦期だからだ、とか、学問的にはきわめて危険な議論です。

京都新聞の担当は誰なのでしょうか。きちんとした記事を書いて欲しいと思います。

この程度の検証ではだめ、と強く主張しておきます。
編集:2013/03/13(Wed) 14:37

ご教示深謝

美川圭
No.9880

野口先生。現説資料のありかをお教えいただきありがとうございます。ほんとうに助かりました。

 ひぇー than えんりゃくじ

No.9867

 2.26事件の答案における「高橋、これ着よ」というのは斯界で有名ですが、世の中には、いろいろ面白いことを答案に書いてくる学生さんがおられるものです。
 これは、「おそれ入谷の鬼子母神」と同じような使い方が適切か?もっとも、「おそれイリヤのクリヤキン」というのも、ありましたな。若い人は知らんでしょうが。

 先週の土曜日、名古屋の出講先で、偶然、中村武生先生にお目にかかれたのですが(それも二度目です)、その数分後に、また「野口さん」という声が聞こえたので、振り返ると、なんと元木先生ではありませんか。同じ時間帯にほとんど隣り合わせの教室で、元木先生は 「河内源氏」、私は「義経」の話をすることが予定されていたようでした。受講の皆さん共々、隣の教室に移動しようかと、一瞬考えてしまいました。
 帰りは新幹線の1号車でよもやま話。もちろん元木先生の片手にはしっかりと缶ビールが。ちなみに、この車両には1970年代にフォークソング界で活躍し、その後、俳優として「男はつらいよ」にも出演したことのある方が乗車しておられました。若い人は知らんでしょうが。

 日曜日の隼人文化研究会ですが、遠方から学界の第一線で御活躍の先生が、おいで下さるとのお知らせを頂きました。報告をそっちのけにはできませんが、久しぶりにお目にかかれるのが楽しみです。この方は、若い研究者でも、誰でもみんな知っていますね。 

 10日に鹿児島で研究発表をさせて頂きます。

No.9865

◇ 隼人文化研究会3月例会(第438回)◇
     (今月の例会の前段は斉興の会との合同です)

1 日時 3月10日(日)10時30分~
2 集合場所 鹿児島県歴史資料センター黎明館 3階講座室
3報告 
   合同例会 企画テーマ「島津斉興の歴史的心性――その位相と形成基盤を探る――」
  ①10:30-12:10 
   「薩摩藩における教訓歌受容史とその意義―島津忠良から島津斉興へ―」
     鈴木彰氏(明治大学准教授)
   12:15-13:00 昼休み
  ②13:00-14:50 
   「泗川の戦いにおける〈狐の奇瑞〉をめぐって―その創出と再解釈の行方―」 
     鈴木彰氏
  ③15:00-17:00
   「12世紀末の内乱にともなう東国武士の鎮西進出-千葉氏の場合-」
    野口実氏
4 情報交換
5 その他
************************************************************
 御迷惑を省みず、例会報告の機会を与えて頂きました。あわせて、鹿児島のみなさまへの御挨拶の機会となれば幸いと考えております。
 ちなみに、鈴木彰先生は、2001年3月24日に、当方の公開講座へ御出講頂いたことがあります。
編集:2013/03/02(Sat) 11:57

守護の支配からの卒業-次回の『吾妻鏡』-

No.9866

 あっという間に2月も過ぎてしまい、次回からは3月の『吾妻鏡』です。そろそろ次年度の予定も気がかりとなる頃ですが、まだ何も決まらないというのもまたこの時期の特徴であるように思います。

 日時:2013年3月7日(木)午後3時頃~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建永二年(承元元年、1207)九月二十四日、十月二日、十一月十七日・十九日、十二月三日の各条
     承元二年(1208)正月十一日・十六日、二月十日、四月二十三日・二十五日・二十七日、閏四月二日・三日・二十五日・二十六日・二十七日、五月二十六日・二十九日、六月十六日、七月五日・十五日・十九日・二十日、八月二十日、九月三日、十月十日・二十一日、十一月一日・十四日、十二月十四日・十六日・十七日・十八日・二十日・二十六日の各条

 3月は7日・14日・21日・28日に開催予定です。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、春に向けて何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

    雨の弥生。

No.9864

 はや、三月。京都は午後から雨模様です。
 雨野さん、お元気ですか?

 このところ、新刊の本に興味深い内容、あるいは画期的な成果がもられているものが多く、就寝の読書のはずが就寝できなくなって、翌日の労働に差し障りが出てしまうというケースが多いのですが、流石に徹頭徹尾素晴らしい本にはなかなか出会えません。
 しかし、そんな本も無きにしも非ず。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b107926.html
これは楽しみにしています。

 ちなみに、同じく元木先生編『中世の人物』第一巻の刊行も間近です。第二巻も続々とゲラが出ています。こちらは、暫しの御猶予を!

 『紫苑』も昨日、再校ゲラを印刷屋さんに渡す事が出来ました。『吾妻鏡』も面白いところでしたね。「比須末志」は存じませんでした。

パンダはどこだ?、ならぬ八角九重塔はどこだ?

美川圭
No.9862


 昨日、必要があって、久しぶりに京都岡崎公園内の京都市動物園に行った。何かお目当ての動物があったのではなく、法勝寺八角九重塔に関する写真を撮るためである。   

 2010年6月26日に京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査現地説明会があったのだが、私は残念ながら行けなかった。現状はどうなっているのだろうか、と期待して行ったのだが10年前に出したNHKブックスの『白河法皇』掲載のため撮影したときと同じ説明看板が立ち、あの世紀の基壇確認の情報はどこにもなかった。それどころか、近くにレッサーパンダ館ができていて、それが八角形で、しかも「パンダはどこだ?」という看板に八角形の図が書かれている。ここが基壇の場所かと、まぎらわしい(笑)ほどである。恥ずかしながら、家に帰って、埋文の現地説明会資料を見るまで、そう思い込んでしまった。そんなに小さいわけないだろ。

 まさに、パンダはどこか?、ではなく九重塔はどこか?、と叫びたい。初老の私はなぜ、よりにもよって平日の昼間に動物園に一人でいるのだ。

 京都市は重要な遺跡は、人々に知らせたくないのだろうか。塔の基壇の中心は、ちっぽけなレッサーパンダ館ではなく、もちろん古ぼけたちゃちな観覧車のところである。しかも、この法勝寺の説明盤を見るのだけにも入園料600円がかかる。東寺の五重塔よりもはるかに巨大な法勝寺九重塔は、平安後期から200年間も京都の象徴だったのに。何ともやり切れない。
 ちなみに、最勝寺跡のグランド地下にあった駐車場に通じる通路の六勝寺展示も撤去されていた。みやこめっせの法勝寺の模型もすでにない。岡﨑公園から六勝寺の痕跡は確実に消されてつつある。

お金で買えないものに価値を見いださない社会

No.9863

 そうですねぇ。経済優先の発展途上国ならいざ知らず。
 しかし、発展途上国でなくても、世はとてつもなく経済優先。歴史も文化遺産も観光産業に従属している観があります。
 一方では、地域振興という錦の御旗をかかげ、魂の入らない形で史跡(?)の整備に力を入れているところもあります。
 法勝寺跡は動物園ですが、西八条(梅小路公園)には水族館がオープンしましたね。最近、石垣の見つかった聚楽第(じゅらくてい)跡はどうなることでしょうか。 
 動物園も水族館も大好きなところですが、歴史的に重要な遺跡も大切にしてほしい。京都はあまりにも歴史遺産が多いので、市民の意識も行政も、いささか、その重要性に対する気配りに欠けるところがあるのではないかと思われる節があります。
 高校二年生の修学旅行の時、三十三間堂にびっしり並んだ仏様を見て、「我が故郷の千葉にこんな仏様が一体でも伝えられていたらなぁ」と感じ入ってしまったことが思い出されます。
 ほかにも、いろいろ書きたいのですが、自分でもウンザリしてしまいますので、もうやめましょう。

  北向きのわが研究室は、暖房が故障のままなので、外は春日和なのに極寒。「頭寒」はよいのですが「足寒」というか全身が寒く、これではやっぱり仕事になりません。耄碌したものです。

 瀧浪貞子先生の御新著『奈良朝の政変と道鏡』刊行

No.9861

 ☆ 本学文学部史学科の瀧浪貞子先生より、新刊の御高著『敗者の日本史2 奈良朝の政変と道鏡』(吉川弘文館)を御恵送頂きました。
 先生は本年3月で御定年の由。寂しい限りです。
 瀧浪先生に、あつく御礼を申し上げます。  

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 私こと、年度末の用務に追われながら複数の執筆・校正を同時進行しているためか、老化による呆けが顕在化して、いろいろミスが重なっております。すでに買った本をまた買ってしまったり、PCのクリックミスなど。後者の場合、たとえば、フェイスブックを開いている時などでは、どんな形で、どなたに御迷惑をおかけしているか分からないというケースも想定されて、いささか恐ろしい気も致します。
 すでに御迷惑をおかけしてしまった方がおられましたら、ここでお詫びを申し上げる次第です。(私の対社会的な感覚が、まさに前世紀の遺物と化しているというだけのことならよいのですが。)

防府で新たな抱負をいだく

No.9860

 仕事が山積しているというのに、年度予定に従い、山口県の防府市・山口市に調査に行ってきました。周防国衙と重源関係の史跡・寺院・資料館をレンタカーで回りました。防府はとても史跡の多いところ。重源が東大寺再建のための木材を切りだした佐波川流域(当時の状況がよく掴めりました)は風光明媚。かつての「よき時代」に戻った感がありました。もちろん、人も心優しく、阿弥陀寺や法光寺の御住職からは懇切なご案内をいただくことができました。また、思いもよらぬ人のつながりも。世間は狭いものです。そうそう、防府天満宮(松崎天神)社頭にあるお土産物屋さんの御主人もダジャレ連発で歓迎してくださいましたっけ。
 防府の外港にあたる三田尻は、幕末に京都妙法院から都落ちした三条実美以下七卿が上陸したところ。妙法院至近の大学に籍を置く私としては、例によって、何やら彼らにシンパシーを感じてしまったという次第です。
 しかし、日本中行った先でそう思うのですが、山口県は歴史を勉強するには大変よいところだと思います。
 調査の成果は、重源あるいは武士論関係の著作に反映させたいと考えております。

 本日、研究室に出てみたら暖房が故障。午前中は作動していたのに午後からはストップ。南側のラーニングセンターなどは暖かくて、まさしく別世界。共同研究室には暖房用の灯油ヒーターが運ばれてきましたが(当分修理されないということでしょうかね?)、木曜日の講読会はドアを開放しておけば、勉強には適温かもしれません。

 今月もあと数日を残すのみ。日暮れて道遠し。

『ああ 無情』 と 『とよとみ ひでよし』

No.9858

 本日は,老朽化したレーザープリンターの後継機を探しに街中に出かけ、一番安い機種を購入。予算内で何とかなりました。
 このところ、こんなことばかりしていて、本業は疎かになる一方です。しかし、無情にも時間は刻々と過ぎてゆく。ほんとうに、嗚呼無情。

 今日、ゼミで『レ・ミゼラブル』の話が出ました。私は少年時代に『ああ無情』や『三銃士』を読んだのですが、サッパリ筋がつかめませんでした。
 それに対して『とよとみひでよし』(偕成社版)はとても面白く、これが今の職業に繋がったことは間違いありません。岩波書店の『エミールと探偵たち』という本も父が買ってくれましたが、これもよく分からず。子ども向きにせよ、翻訳物は性に合わなかったようです。その後、英語も苦手。根っからの国粋主義者・・・というより、よく言えば単純明快、要するに複雑な話にはついて行けない性格なのでしょう。

 今日読んだ『吾妻鏡』に、上総国の姉前社が出てきました。元・千葉県立姉崎高校教諭の私としては黙っているわけには行かず、ホワイトボードに房総半島の地図を書いて、関東の社会・風俗などについて執拗に解説してしまいました。もっとも、30年以上前に仕入れた材料による話ばかり。若い頃に頭に入った情報は、不思議なほどによく出てくるものです。

 今日のゼミは、3回生と4回生各一名が帰省していて少し寂しかったのですが、再校ゲラを受け取りに満田さんが来て下さいました。ちなみに、帰省中のお二人の実家はいずれも雪深く、3メートルも積もっているところもあるのだそうです。
編集:2013/02/22(Fri) 00:03

あぁ 無題

No.9859

 『Les Misérables』はクロード・ルルーシュ監督・ジャン=ポール・ベルモンド主演作品の映画(1996年、フランス)で、『三銃士』はアニメ『ワンワン三銃士』(1981年、TBS系)でそれぞれすませてしまう(?)というインスタントな人生を送ってまいりました。どちらもすばらしい作品なんですけどね。原作をきちんと読んでいれば、そのすばらしさをもっと味わえたんだと思います。
 信長も秀吉も、龍馬も卑弥呼も、はじめは小学校の図書室の漫画から知識を得ました(そしてそれ以上に深まってはおりません)。

 次回の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2013年2月28日(木)午後3時頃~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建永二年(承元元年、1207)六月二十二日・二十四日・二十九日、七月十九日・二十三日、八月十五日・十七日、九月二十四日、十月二日、十一月十七日・十九日、十二月三日の各条
     承元二年(1208)正月十一日・十六日、二月十日、四月二十三日・二十五日・二十七日、閏四月二日・三日・二十五日・二十六日・二十七日、五月二十六日・二十九日、六月十六日、七月五日・十五日・十九日・二十日、八月二十日、九月三日、十月十日・二十一日、十一月一日・十四日、十二月十四日・十六日・十七日・十八日・二十日・二十六日の各条

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、春に向けて何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

 また、寒い日も続いておりますので、みなさまどうぞお大事にお過ごしください。私は今週末にしんどい思いを致しました。

ひどいぞNスペ「崩れ落ちる兵士」

美川圭
No.9856

2月はじめに放送されたNHKスペシャル「沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚~戦場写真 最大の謎に挑む~」を録画しておいた。時間ができたので、やっと一昨日見ることができた。

 スペイン内戦において撮影されたとされるロバートキャパの有名な写真「崩れ落ちる兵士」が実はヤラセ写真であったことを、克明な現地取材であきらかにする。さらに、この写真にはもう一人の撮影者がいたことをCGを駆使して実証し、それがキャパの恋人で数ヶ月後に戦車に轢かれて早世するゲルダタローであることを推定する。つまり、この負い目がキャパをしてノルマンデーをはじめとする危険な前線に身をさらさせ、インドシナでの最期につながる。「愛の物語」である。その謎解きの鮮やかさに、すっかり感心してしまった。

 ところが、この番組がでたらめであるというブログを偶然みつけた。その論は大きく言って2つからなる。

 1つは、この写真がヤラセであることは、欧米のカメラマンのあいだでは、常識であること。それをカメラマン沢木がしらないはずがないという。つまり、パクリだという。そんなこと謎でも何でもないというのだ。

 もう1つは、1936年9月にフランスの雑誌に掲載されたもう1つの写真が存在するという。それは、ほぼ同じ場面を撮っている。有名な写真は、写真としてできがよかったので、採用されたというのである。番組では演出写真でありながら、たまたま兵士が倒れたというのは「偶然」という前提だが、実は倒れたのも「演技」だったということになる。撮影者が2人いたとしても、2人はその場面を協力して撮影したことになる。そして、反ファシズムの立場で世界に発信しようとした。こちらの方が重大で、番組であえて反証となる資料を隠蔽して、「愛の物語」にねじまげ、でっち上げたというのだ。

 このブログの意見、たいへん説得力がある。そして、歴史をやるものにとって、大きな教訓ともなる。あまり知らない分野については、その無知ゆえに、「常識」を知らないで、「新説」に騙されてしまう。また、有力な反証資料にきがつかない。そして、CGのような技術に幻惑されてしまうのである。「愛の物語」にも弱い。気をつけよう。


http://blog.goo.ne.jp/zaurus13/e/5b8cdef408ac2df624c6f23d567527aa
編集:2013/02/20(Wed) 13:18

すごいぞ、研究室PCの復活

No.9857

 この番組、私も録画して見ました。私は素直ではないので、見た段階から訝しさを感じておりました。この件については、石浜さんが早々にRTしておられましたね。
 
 研究室では、昨日、鈴木君御夫妻がPCの更新作業を行ってくださいました。人間もあんな風に蘇れたら・・・。鈴木君はまさに「神」でした。

 ラボール学園の日本史講座<古代・中世編>の募集が始まったようです。今年のテーマは「職をめぐる日本史」。開講日は 毎週月曜日、全14回で、開講時間は 午後6時30分~午後8時30分 。受講料 11,500円(資料代含む)とのことです。
 各回のテーマと講師は下記の通り
 ① 4月 1日 職業人としての渡来人
 井上 満郎(京都産業大学名誉教授・京都市歴史資料館館長)
 ② 4月 8日 遊女と女房
 辻 浩和(日本学術振興会特別研究員)
 ③ 4月15日 古代・中世の医師と宗教者
 上野 勝之(京都大学講師)
 ④ 4月22日 平安時代の流通業
 佐藤 泰弘(甲南大学教授)
 ⑤ 5月13日 検非違使と武士-平安時代の警察-
 野口 実(京都女子大学教授)
 ⑥ 5月20日 冷泉家の歌人たち
 美川 圭(立命館大学教授)
 ⑦ 5月27日 借上-鎌倉時代の金融業-
 伊藤 啓介(立命館大学講師)
 ⑧ 6月 3日 僧侶の「家」
 横内 裕人(文化庁文化財調査官)
 ⑨ 6月10日 室町期京都の職人と「町人」
 三枝 暁子(立命館大学准教授)
 ⑩ 6月17日 茶をめぐる人々
 橋本 素子(京都光華女子大学講師)
 ⑪ 6月24日 同朋衆―室町文化のプロデューサー―
 橋本 素子(同上)
 ⑫ 7月 1日 さまざまな芸能者
 野田 泰三(京都光華女子大学教授)
 ⑬ 7月 8日 出頭人―天下人の側近たち―
 尾下 成敏(京都橘大学准教授)
 ⑭ 7月22日 海商と倭寇―東シナ海交流を担う人々―
 中村 翼(日本学術振興会特別研究員)
 ※ 詳しくは⇒http://www.labor.or.jp/gakuen/kouza_school/school_2013haru.html#no6

 ☆ 神戸大学名誉教授髙橋昌明先生より、新刊の御高著『平家と六波羅幕府』(東京大学出版会)を御恵送頂きました。
 高橋先生に、あつく御礼を申し上げます。
 平家の「六波羅政権」を「幕府」と評価すべきかどうかは、さらに議論の余地があるように思います。

 ☆ 大阪大学大学院の芳澤元さんから、御高論「室町期禅宗の習俗化と武家社会」(『ヒストリア』235)を御恵送頂きました。
 芳澤さんに、あつく御礼を申し上げます。
 下総東北部に本拠を置いた東氏や国分氏といった千葉氏一族から、京都で活躍する禅宗僧が排出しているのは興味深いところです。そういえば、旧稿『鎌倉時代における下総千葉寺由縁の学僧たちの活動」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』24)で紹介した、兼好法師と親しい関係にあった渡元僧道源も東氏一族の木内氏の出身でした。

 ☆ 神奈川県立金沢文庫の永井晋先生より、DVD『武家の都・鎌倉と金沢文庫』を御恵送頂きました。
 ゼミで視聴させて頂こうと思います。
 永井先生に、あつく御礼を申し上げます。

親鸞の見た東国の景色の中を歩いてきました

No.9854

 今日の京都は雨模様です。

 相変わらず、後になってから人違いに気がついて、ゾッとするやら申し訳ないやら・・・といった恥ずかしい耄碌を進行させながら棲息しております。

 先週末、茨城県笠間市の楞厳寺・西念寺(稲田御坊)、それに栃木県の下野国衙跡周辺や栃木県立博物館なとを見学してまいりました。宇都宮氏や笠間時朝、そして親鸞の研究を進める上でどうしても行っておかなければならないところを、急ぎ脚で回ったという次第です。笠間周辺は中世前期の東国における文化的先進地であることを、現場で確認することが出来ました。ここから筑波山麓に至る地域もまた同様でしょう。
 八田氏(小田氏)・宇都宮氏、そして常陸平氏の活躍の舞台となった背景や親鸞来住の理由について大いに納得するところがございました。

 年度末なので、ほかにもやらなければならない仕事が多いのですが、後回しになってしまっております。諸方に御迷惑をおかけしているのではないかと怖れております。

 ☆ 武蔵大学の高橋一樹先生より、新刊の御高著『東国武士団と鎌倉幕府』(吉川弘文館)を御恵送頂きました。新鮮な中世前期の東国史研究の成果が展開されています。
 巻末の参考文献欄には、当ゼミのメンバーだった(現役の方もおられます)若手研究者3名の論文があげられています。これは何にも増してうれしいことでした。
 高橋先生に、あつく御礼を申し上げます。

 ☆ 愛知学院大学の福島金治先生より、御高論「鎌倉中期の京・鎌倉における漢籍受容者群-『管見抄』と『鳩嶺集』のあいだ-」(『国立歴史民俗博物館研究報告』175)を御恵送頂きました。
 福島先生に、あつく御礼を申し上げます。 

 ☆ 東京文化財研究所の津田徹英先生より、御高論「佛光寺本『善信上人親鸞伝絵』の制作時期をめぐって」(『美術研究』408)を御恵送頂きました。
 津田先生に、あつく御礼を申し上げます。

 福島・津田両先生の御研究は、ダイレクトに当方の共同研究に活用させて頂ける内容で、有り難い限りです。

☆ 栃木県立博物館の江田郁夫先生より、御高論「足利尊氏の魅力」掲載の栃木県歴史文化研究会会報『歴文だより』86(特集 足利尊氏)を御恵送頂きました。
 江田先生に、あつく御礼を申し上げます。