浜辺をさまよう
No.9791
先週、神奈川県立歴史博物館の特別展に、私の恩師である貫達人先生が鎌倉で集めた青磁片が展示してあることを書きましたが、そのことについて青山学院大学史学科史学会の機関誌である『史友』第3号(1971年)に先生御自身による「浜辺をさまよう」と題するエッセーが収載されています。
「この秋は日課のように海岸に行った。朝の浜は静である。体操やゴルフの練習をしている人、釣人、海苔の業者などが数人見える。雨の日などは人一人見えぬ。浜に出て何をしたのか?汀までいって、足下を見ながらさまようのである。なぜ?ホラ、そこに青磁のかけらが濡れているじゃありませんか。」と書き出され、鎌倉の海岸に青磁片のあることを知った背景や、和賀江島にたいする当時の研究状況、神奈川県立博物館(現、歴史博物館)で三上次男先生の指導を得て宋磁片出土の分布図を作るに際し、青磁片を寄贈したこと、作家竹山道雄氏宅に糸底のついた青磁のかけらが置いてあったことなどを紹介しながら、「青磁片には不思議な魅力がある。眺めていてあきない。これが七百年も前のものかとおもうほどみづみづしいかけらもある」などと青磁の魅力を語り、「もう海岸に行きたくてたまらない」「青磁をひろう楽しみは、きのこ狩に似ている」と言われるのである。
そして、最後に「日曜の午後、天気がよいと、海岸はかなりの人出である。家族連れもあるが、たいがいは若いアベックである。こちらが目をそむけたくなるような組もあるが、まあそれはよいとして、あの人たちはキタナイ格好をした人品イヤシカラヌおやじさんが、下を向いてさまよい、時々腰をかがめて何か拾っているのを見て、どう思っているかなと思う。もっともアベックは二人だけの世界に閉じこもっている様だから、これはこちらのおもいすごしかな。」と貫先生らしい締めくくり方をされている。
さて、当時若いアベックの側の世代でありながら、その「地位」を得ることの出来なかった私は、先生のようにもいかないで、いまや「キタナイ格好をした人品イヤシイおやじさん」になってしまいました。
ちなみに、このエッセーの掲載された『史友』第3号の編集担当は史学会の委員であった私で(学部2年生)、御多分に漏れず非力をもって苦労しておりました。東洋史の宇津木章先生とともに、貫先生は私の依頼(口には出さぬ懇願?)に応じて執筆してくださったのだと思います。当時の先生方は、まったく学者そのものでありましたが、「教育、教育」などと急かされなくても、ちゃんと教育をして下さっていたのだと、最近しみじみと思います。
あれが本当の大学における教育だったのでしょう。
「この秋は日課のように海岸に行った。朝の浜は静である。体操やゴルフの練習をしている人、釣人、海苔の業者などが数人見える。雨の日などは人一人見えぬ。浜に出て何をしたのか?汀までいって、足下を見ながらさまようのである。なぜ?ホラ、そこに青磁のかけらが濡れているじゃありませんか。」と書き出され、鎌倉の海岸に青磁片のあることを知った背景や、和賀江島にたいする当時の研究状況、神奈川県立博物館(現、歴史博物館)で三上次男先生の指導を得て宋磁片出土の分布図を作るに際し、青磁片を寄贈したこと、作家竹山道雄氏宅に糸底のついた青磁のかけらが置いてあったことなどを紹介しながら、「青磁片には不思議な魅力がある。眺めていてあきない。これが七百年も前のものかとおもうほどみづみづしいかけらもある」などと青磁の魅力を語り、「もう海岸に行きたくてたまらない」「青磁をひろう楽しみは、きのこ狩に似ている」と言われるのである。
そして、最後に「日曜の午後、天気がよいと、海岸はかなりの人出である。家族連れもあるが、たいがいは若いアベックである。こちらが目をそむけたくなるような組もあるが、まあそれはよいとして、あの人たちはキタナイ格好をした人品イヤシカラヌおやじさんが、下を向いてさまよい、時々腰をかがめて何か拾っているのを見て、どう思っているかなと思う。もっともアベックは二人だけの世界に閉じこもっている様だから、これはこちらのおもいすごしかな。」と貫先生らしい締めくくり方をされている。
さて、当時若いアベックの側の世代でありながら、その「地位」を得ることの出来なかった私は、先生のようにもいかないで、いまや「キタナイ格好をした人品イヤシイおやじさん」になってしまいました。
ちなみに、このエッセーの掲載された『史友』第3号の編集担当は史学会の委員であった私で(学部2年生)、御多分に漏れず非力をもって苦労しておりました。東洋史の宇津木章先生とともに、貫先生は私の依頼(口には出さぬ懇願?)に応じて執筆してくださったのだと思います。当時の先生方は、まったく学者そのものでありましたが、「教育、教育」などと急かされなくても、ちゃんと教育をして下さっていたのだと、最近しみじみと思います。
あれが本当の大学における教育だったのでしょう。