まず、絶版になっていた元木泰雄先生の『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)が、『保元・平治の乱 平清盛勝利への道』と改題して角川ソフィア文庫から刊行されることをお知らせ致します。正式な出版期日は25日のようですが、そろそろ店頭に現れ始める頃ではないでしょうか。
さて、建春門院(平滋子)ですが、藤原定家の姉をして「あなうつくし。世には、さは、かかる人のおはしましけるか」(『たまきはる』)と言わしめたほどの美女。
几帳面な性格で、思いやり深く、よく女房達の面倒を見、つねに威儀を正して端然とし、その横顔は「この世にまたさるたぐひをこそ見ね」という程であったと言います。
そして、「女はただ心からともかくもなるべきものなり。親の思ひおきて、人のもてなすにもよらじ。わが心を慎みて身を思い腐たさねば、おのづから身に過ぐる幸もあるものぞ」というのが、彼女の持論だったそうです(下記、角田論文による)。
建春門院についての専論としては、⇒
a.角田文衞「建春門院」(古代学協会編『後白河院』吉川弘文館,1993)
後白河院との関係、家政の運営、政治的位置については、すでに
>>No.9664で紹介した⇒
b.栗山圭子「二人の国母」(『文学』3巻4号,2002)
がありますが、興味深く、謎に満ちているのが、彼女の陵墓が何処に営まれたかという問題。⇒
c.野口実・山田邦和「法住寺殿の城郭機能と域内の陵墓について」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』第16号,2003)
d.野口実・山田邦和「六波羅の軍事的評価と法住寺殿を含めた空間復元」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』第17号,2004)
e.山田邦和「消えた建春門院陵を探る」(同)
f.山田邦和「後白河天皇陵と法住寺殿(髙橋昌明編『院政期の内裏・大内裏と院御所』文理閣,2006)」
山田先生の所説によれば、建春門院陵は現在の養源院(「血天井」で有名な)の参道を上がった辺りに比定されますが、この山田先生の説に対して一石を投じたのが、⇒
g.佐伯智広「建春門院陵はもと後白河院陵か?」(『紫苑』第10号、2012)
それにしても、『男衾三郎絵詞』に描かれた女性のような頭髪をした建春門院というのは、あまりにも奇を衒いすぎているように思えます。