公開講座まであと一週間

No.9633

 23日の公開講座の懇親会には、大学の先生ばかりではなく、博物館の学芸員、出版社の編集者をされている方などもご出席になられるとのこと。学生諸姉はいろいろ質問を用意しておくとよいかも知れません。
 しかし、人数が多いので、会費の徴収など一工夫が必要。名簿を作って配付するのも一法か?
 幹事さんの腕の見せ所です。

 公開講座の翌週、名古屋の中世史研究会6月例会で長村君が研究報告をされるとのことです。
   報告者:長村 祥知 氏(京都府京都文化博物館)
   題目:「中世前期の在京馬政機関」
   日時:2012年6月30日(土) 14: 30~17:00 (開場14:00)
   会場:名古屋大学文学部127講義室
   (地下鉄名城線 名古屋大学駅下車1番出口より西へ徒歩5分)

 名古屋というと野口君を思い出しますが、お元気ですか?
 私も、この秋から半年ばかり、ほぼ毎月一度のわりで名古屋に出掛けることになりそうです。

 『史学雑誌』の「回顧と展望」が届きました。目次に尻池さんのお名前が。ゼミの出身者は既に、批評される側から批評する側へ。それにしても、たいへんなお仕事であったと思います。知らなかった論文も多く、たいへん助かりました。

 公開講座まであと一週間。さまざまな準備がひかえております。御協力・御助力を宜しくお願い申し上げる次第です。  

懇親会のお知らせ

No.9631

こんにちは。池嶋です。6月に入って二週間ほど経ち、いよいよ公開講座も近づいてきました。そこで本日は再度懇親会のお知らせをさせていただきます。
6月17日(日)まで募集いたしますので、皆さまぜひご参加ください。

   日時:6月23日(土)18:30~(2時間程の予定)
   場所:「里」(女坂上ってすぐです)
   費用:2600円+α  ※飲み放題付きコース料理

お手数ですが、参加をご希望される方は野口先生または池嶋(上記PCアドレスもしくは携帯)までご連絡下さい。
参加人数の正確な把握が必要ですので参加をお考えの方は、必ずご連絡を下さい。よろしくお願い申し上げます。

大河ドラマを上回る視聴率は確実?

No.9632

 懇親会は、ゼミの主催ですから、ゼミのメンバーと本学の学生さんにたくさんお出で頂きたいところです。
 「たくさん」とは申しましても限度がありますが。
 なお、広島から江波さんも出席されます。
 
 ところで、来週の水曜日(20日)、NHKテレビに岩田君が出演されます。ただし、京都限定。
 残念ながら、サスペンスの刑事役とか、バラエティー番組の司会とかではありません。
 撮影は本日終了の由。
 放送時間が分かったら、また書き込ませて頂きます。
 録画して、批評会を開きましょう。もちろん、23日の公開講座が終わった後にですよ。

 >陰陽道や安倍晴明に関心があるという方へ  まず、この本を読んで下さい。
  →山下克明『陰陽道の発見』(NHKブックス)。
   http://www.nhk-book.co.jp/engei//shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=00911592010
    歴史学者による、一般向けで最高水準の内容の文献だと思います。

明日の基礎演習Ⅰとゼミ史料講読会。

No.9629

 明日Ⅲ講時の「基礎演習Ⅰ」は、徳山さんの報告で、テーマは「K-POP事情と日韓の比較」です。この時間に、「基礎演習Ⅱ」と「演習Ⅱ」の配属決定手続きに関するマニュアルを配付する予定です。
 もし、私が忘れそうになったら、言ってください。

 Ⅳ講時の『玉葉』講読会は治承四年五月二十一日の条から。Ⅴ講時の『吾妻鏡』は>>No.9622を参照。
編集:2012/06/11(Mon) 16:09

事前学習会のご案内

No.9630

 6月23日(土)は公開講座ですが、来週はその事前学習会を開催致します。

 日時:2012年6月19日(火)午後4時すぎ~(予定)
 内容:公開講座の事前学習会
    (元木泰雄先生と服藤早苗先生のご研究について予習しましょう)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 参考文献:元木泰雄先生『平清盛と後白河院』角川学芸出版、2012年
       服藤早苗先生「五節舞姫の成立と変容」(『歴史学研究』第667号、1995年)
       服藤早苗先生「平安朝の五節舞姫-舞う女たち-」(『埼玉学園大学紀要 人間学部編』第11号、2011年)

 また、火曜日の『吾妻鏡』は6月は19日・26日と開催予定です。よろしくお願いします。

 範囲:建仁三年(1203)十月八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日
    建仁四年(元久元年、1204)正月十日・十二日・十八日、二月十日・二十日、三月九日・十日・二十二日・二十九日、四月一日・十日・十六日・二十日・二十一日、五月六日・八日・十日・十六日・十九日、六月八日・十九日・二十四日・二十六日、八月三日・四日・十五日・二十一日、九月一日・二日・十三日・十五日、十月十四日・十七日・十八日、十一月四日・五日・七日・十三日・十七日・十八日・二十日・二十六日、十二月十日・十八日・二十二日の各条

 わけあって開始時間を四時過ぎに変更させていただいております。メンバーのみなさんにはご迷惑・ご不便をお掛け致しますが、よろしくお願い致します。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

田原総一朗氏の取材をうけました

美川圭
No.9626

この週末、都内某所で、田原総一朗氏の取材をうけてきました。

『中央公論』に、この1月号から連載されている「日本人にとって天皇とは何か」という記事の取材です。

すでに、復興推進委員会委員長の五百旗頭真先生、東京大学の大津透先生、お茶の水女子大学の古瀬奈津子先生などのもとを、取材しており、私のもとには、中公新書の『院政』を読んで、来たようです。

名刺交換をして、座るなり「先生は後白河をどのような人物と見ているのですか」「後白河はなんで天寿をまっとうしたのですか」「清盛や頼朝は、一時期あんなに権力があったのに何で天皇になろうとしなかったのですか」「後鳥羽は何で幕府を倒そうとしたのか、勝ち目があると思ったのか」「何で天皇制が今まで続いたのですか」と日本史の核心にせまる難問を矢継ぎ早に発し、45分間。まるで、サンデープロジェクトとか朝まで生テレビ、そのものの対談になりました。

たびたび言いよどむ私の態度に、これらの問題は簡単に結論の出ない難しい問題だ、ということは理解されたようです。ともかく、あまり味わったことのないスリリングな時間でした。テレビ出身の人ですから、とにかくいわゆる無駄話がなく、視聴者が聞きたそうなことを、自分がなりかわってどんどん聞くという姿勢で、おそろしく無遠慮でありながら、不思議に嫌な感じはまったくしないものでした。

はたして、私の登場回は、どんな内容になるのでしょうか。つぎは今谷明先生のところだそうです。

こういうイベントで、日本史の研究者と一般の人たちとのあいだが近くなることは、意味のあることだと思いました。

大河ドラマの真実 「皇子」の噂は清盛自身から

美川圭
No.9627

相変わらす、大河は見ていませんが、

産経新聞6月5日夕刊、一面に「NHK「清盛」低迷続く リアルさ裏目 かすむ主人公」という記事が載っています。

その文化面に、私の標題のような署名記事が掲載されました。興味がある方は、ちょっと前なので図書館などでご覧下さい。

サタデープロジェクト

No.9628

 美川先生、久しぶりの御登場、ありがとうございます。

 よく外国の研究者?から、「承久の乱で勝利した北条義時は、なぜ天皇にならなかったのか」というような質問をされます。語学の障壁もありますが、これを分かって貰うのは相当難儀な話です。

 「承久の乱」は、日本の文化・歴史・社会を解明するためのキーワードになると思うのです。

 しかし、たしかに、もう日本人も外国人もありませんね。

 ところで、>公開講座懇親会に出席される学生諸姉  懇親会には美川先生もご出席ですので、サンデープロジェクトならぬサタデープロジェクトを試みては如何でしょうか? ただし、「朝まで」はダメです。  

境界空間としての六条河原と船岡山

No.9625

 「梅雨空の合間の日曜日。久しぶりに部屋の窓を大きく開けて・・・、と思ったら、ついに近所で大騒ぎをしながらのバーベキューが始まりました。こんなに密集した住宅街の狭い庭でバーベキューをしたら、周囲にどのような災厄がもたらされるのか、少し考えれば分かると思うのですが・・・。共生の難しい時代になってしまいました。」
 ある親しい友人から、こんなメールが届きました。

 さて、義朝や清盛による親族の処刑。ドラマに仕立てるには「情愛」が重視されるのでしょうが、政治的な評価、それに、なぜ親族が処刑を担ったのか、どうして処刑の場が京域の外側だったのか、そして日本の貴族社会では死刑は行われない風潮のあったこと等については、以下の文献を参照してください。
 元木泰雄『河内源氏』p161~163
 元木泰雄『平清盛と後白河院』p43~44
 伊藤喜良「中世における天皇の呪術的権威とは何か」(『歴史評論』437)
 上横手雅敬「天皇と京都」(『ミネルヴァ日本評伝選通信』36)p6~8
 
 今週もコメント代わりの連載。もう6回目ですね
******************************************************
   平清盛の時代(通学路の歴史探索)           
  第六回 なぞの武将墓
 七条通を挟んで京都国立博物館の向かいにあるホテル、ハイアットリージェンシー京都は、一九七八年に建てられた京都パークホテルを改装したものです。このパークホテルの新築に際して、平安京の考古学的調査に先鞭をつけたことで知られる(財)古代学協会の手によって発掘調査が行われました。この地が後白河院の御所法住寺殿の一画を占めたことは既に述べたところですが、この調査ではその時代の武将のものと思われる墓が検出されました。ほぼ三㍍四方の土壙に漆の塗膜と若干の金属製品をのこすのみとなった鎧・弓箭・馬具などの遺物が見つかったのです。この墓は、一人の被葬者に対して五人分の甲冑が裏返した形で副葬され、しかも兜の鉢(ヘルメットの部分)がないなど、きわめて異様な埋葬形態がとられていましたが、出土した遺物は伝世品には見られない優品ばかりで、鍬形(兜の前立て)と鏡轡(かがみくつわ)は、現在、国の重要文化財に指定されています。
 被葬者としては、当初、法住寺合戦で討死した院方の有力武士源光長が候補にあげらましたが、この合戦で院は木曽義仲に敗北し、討ち取られた武士の首は五条河原に晒されていますし、墓には堂が付属していたと見られことなどから、この説は否定されました。そこで私は、墓の南側が院の墓所として用意された空間であったことから、これを守護しうるような院の信頼あつい有力武士を被葬者と想定し、『源平盛衰記』等の記事と埋葬状態の整合などを傍証として治承三年(一一七九)に死んだ平重盛説を提示したのです(拙著『武家の棟梁の条件』中公新書)。ところが、その後、京都市埋蔵文化財研究所の上村和直氏が、出土した土器の年代から武将墓の築造時期を十三世紀前半に特定されたので、この説は成り立たなくなりました。(同研究所『研究紀要』九)。文献史学の立場から、新たに被葬者を見つけ出す必要が生ずる事態となったのです。
 被葬者特定の手がかりとして、①この武将墓が院の墓所を守護するような位置にあること ②副葬された武器・武具が他に類例のない優品であること ③十三世紀前半の頃、人々が後白河院の霊をどのように意識していたか、などを考慮してみる必要があると思います。そのようなことを踏まえて、私は新しい説を古代学協会の会報『土車』第一二〇号に発表しました。今度こそ学界の承認を得たいところなのですが…。

 埋もれてしまった拙著の御紹介

No.9624

 日曜の朝、たまにはCMもよろしいかと?

 未だ詳細は伏せておきたいと思いますが、再刊予定の旧著は『坂東武士団と鎌倉』というようなタイトルになりそうです。研究者の責務として、旧版刊行後の研究成果を踏まえて大幅な改稿を加える必要があるのですが、様々な制約から、校正漏れの修正と20~30枚程度の補論で対応したいと考えています。
 埋もれてしまっていた旧著が日の目を見ることは嬉しいのですが、一方で、これから埋もれていきそうな拙著もあります。
  『武家の棟梁の条件』(中公新書,1994年)
   http://www.chuko.co.jp/shinsho/1994/11/101217.html
  『武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか』(新人物往来社、1998年)
   http://honto.jp/netstore/pd-book_01597876.html
  『伝説の将軍 藤原秀郷』(吉川弘文館,2001年) 
   http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34525.html
  『源氏と坂東武士』(吉川弘文館,2007年)
   http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33838.html
など。『源氏と坂東武士』は品切れ間近のようです。
 今年に入ってから出版した『武門源氏の血脈』(中央公論新社)
   http://www.chuko.co.jp/tanko/2012/01/004318.htmlも、最近は書店から姿を消しつつあるようです。
 はじめて自分の書いた本が書店の棚に並んでいたのを見たときは、何だか奇異に感じたものですが、今は、一冊もないと、大げさなようですが寂寥感を感じてしまいます。そこで、また本を出さなければと思うわけですが・・・。

 ☆ 青山学院大学大学院の鈴木沙織さんより、御高論「地域における中世交通の在り方-上・信堺地域における修験の道-」(『鎌倉遺文研究』29)を御恵送頂きました。
 青学大学院日本史専攻一期生の私としては、後輩の活躍を大変うれしく思う次第です。
 鈴木さんに、あつく御礼を申し上げます。

アスニーセミナー「源氏と平家-武士社会の夜明け-」

No.9620

 少しばかり頑張ってみたら、風邪をひいてしまって、咳と頭痛がひどく、こんな我が身の虚弱さ加減にウンザリさせられております。今後は「頑張らないように」頑張りたいと思います。

 そして、京都は梅雨入りです。

 そんな中、丸太町七本松の京都アスニー(京都市生涯学習振興財団)で「源氏と平家」と題するお話をさせていただきました。悪天候が予想され、しかも平日の午後のことゆえ、そんなに来聴される方は多くないかと思ったのですが、案に相違して事前申し込みが200名以上もあったとのこと。岩田君の京阪の講演会の申し込み数500名には叶いませんが、たしかに会場は超満員でした。
 体調がいまひとつでしたが、例によって話は脇道に逸れてばかり。したがって、いつも通りのお話しが出来たと思います。最後の方は、かなり端折ってしまいましたが、なんとか御質問を受け付ける時間もとることが出来ました。
 来聴の方々は、私と同世代か、それ以上の方が多かったので、昔の大河ドラマの話を交えても、お分かり頂けることが多く、この点は大学の講義よりもやりやすい。そして、多くの方がメモをとりながら熱心に聴いてくださって、とてもやり甲斐を感じました。
 最後に質問をされたのは若い方でしたが、その内容は「大番役は御家人にとって負担と考えていたが、それが権利であるという説を読んだ記憶がある。その点について説明して欲しい」という趣旨で、なかなか高度。これまたうれしく思いました。
 質問をされた方が、もしこの掲示板を御覧になっていたら、ぜひ私の名前をクリックして御連絡を頂ければと思います。あの場では御紹介できなかった参考文献をお知らせ致します。そして、こういう方が、当方のゼミに加わって頂ければ有りがたいと思いました。
 参考文献といえば、話の過程で、元木先生の御著書をおおいに「宣伝」させて頂きました。『平清盛と後白河院』(角川選書)と『河内源氏』(中公新書)。ついでに拙著『武門源氏の血脈』(中央公論新社)もよろしく、と。
 JRバス(珍しい)と市営地下鉄を乗り継いで帰宅しましたが、やはり体調は宜しからず。先ほど薬を飲んで少しばかり痛みが和らぎ、こうしてPCに向かっております。
 「身体髪膚これを父母にうく、あえて毀傷せざるは、孝の始めなり」なのであります。
編集:2012/06/08(Fri) 20:25

ご無沙汰しております。

山本 陽一郎
No.9621

 ご無沙汰しております。度々「古参メンバー」で名前の出る福井の山本陽一郎です。
 
 本日、『紫苑』10号とカラー印刷された思い出アルバムや「ふんだりけ」等が届きました。
全く最近はゼミ活動(掲示板の書き込みを含め)に貢献していないにも関わらず、たくさんの思い出の品ありがとうございました。特にカラー印刷のアルバムは、ノスタルジックになりながら、閲覧しております。

 自分が野口先生のゼミにお邪魔させていただいのがもう10年前になるのかとおもうと、感慨深いです。
特に26歳の頃、自分は大学へ入って自分のしたかった勉強ができなかったという悩みを抱えておりました。そして野口ゼミの門を叩き、自分のようなどこの馬の骨とも分からない部外者を野口先生は暖かく迎えていただいたことを昨日のように覚えております。特に昨今の就職予備校と化した大学にあって、本来の大学の目的である学問をすることを、ほんの少しでも学ばせていただいたことは、生涯の宝にしたいと思っております。
 また自分の創設した『吾妻鏡』の講読会が岩田さんのおかげでこれまた続いておりますことを本当に嬉しさとともに感謝の気持ちでいっぱいです。

 ところで自分は今は昨年度と同じ小学校で、2年生の担任をしております。
学校の規模はとても小さく、全校児童合わせて37人というとてもアットホームな学校です。
児童もみんな素直でいい子で、職員の方もいい人ばかりで、自分のような経歴が謎の自分をこれまた野口ゼミと同じように暖かく迎えていただきました。
 毎日試行錯誤しながらですが、なんとかやっております。
  
 『紫苑』や野口先生の書かれたものをを読んでいると、平安時代の昔に紫式部が越前国にいた時に都を恋しく思ったという話がありましたが、その気持ちが少し分かる気がします。
 また機会がありましたら、上洛したいと思います。それでは。
編集:2012/06/08(Fri) 23:45

山本さんの研究会でした

No.9622

>山本さん
 掲示板におかえりなさい。
 お元気でご活躍のご様子、ご同慶の至りです。
 僕が『吾妻鏡』に参加させていただくようになってから、まる八年が経ちましたよ。山本さんが創設してくださったおかげで、いまもたくさんの後輩さんたちが『吾妻鏡』を読むことができています。
 ご上洛のおりにはぜひお声掛け下さい。


 そんな火曜日の『吾妻鏡』ですが、6月は12日・19日・26日と開催予定です。よろしくお願いします。

 日時:2012年6月12日(火)午後4時すぎ~(予定)

 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁三年(1203)九月十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日
    建仁四年(元久元年、1204)正月十日・十二日・十八日、二月十日・二十日、三月九日・十日・二十二日・二十九日、四月一日・十日・十六日・二十日・二十一日、五月六日・八日・十日・十六日・十九日、六月八日・十九日・二十四日・二十六日、八月三日・四日・十五日・二十一日、九月一日・二日・十三日・十五日、十月十四日・十七日・十八日、十一月四日・五日・七日・十三日・十七日・十八日・二十日・二十六日、十二月十日・十八日・二十二日の各条

 わけあって開始時間を四時過ぎに変更させていただいております。メンバーのみなさんにはご迷惑・ご不便をお掛け致しますが、よろしくお願い致します。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

山本君がいたころのゼミが懐かしいです。

No.9623

 >山本君  近況のお知らせありがとうございました。貴兄と同窓の長村君・野口君もそれぞれの道をしっかり歩んでいる様子で頼もしい限りです。
 なお、「カラー印刷された思い出アルバム」は特別サービスです。鈴木(旧姓永富)さんからお送り頂いたデータをもとに、研究室のプリンターで印刷したものです。
 それにしても、このアルバムを見ると、初期のゼミにおける山本君の存在の大きさがよく分かります。山本君は、(みんなに心配をかけながら、〈笑〉)実は彼ら・彼女らから慕われて兄貴分の役割を担ってくれていたのですね。
 昔、『若者たち』というテレビや映画になったドラマがありましたが、その中で田中邦衛の演じた、素朴で優しい「長男」の姿が山本君とオーバーラップするように思えます。
 そして、貴兄の「生涯の宝にしたいと思っております」という言葉は、私にとって生涯の宝になりました。ありがとうございます。
 そのうちに是非、上洛して元気な姿を見せて下さい。


 >岩田君  講読会の御案内をありがとうございました。これからも、山本君の遺産をさらに発展させていって下さい。

 ところで、12日の次の19日には、公開講座の事前勉強会を予定しています。講師の先生方の御研究の概要の理解をゼミメンバーにはかりたいのが目的です。

 それから、23日の公開講座には、昨年度講師をつとめて下さった坂井孝一先生もお見えになり、懇親会にもご出席下さるとのことです。今日、メールを頂きました。嬉しい限りです。

今秋も「もちもちぃんウォーク」のお手伝い。

No.9619

 6月に入ったと思ったら、あっという間に一週間が過ぎてしまいました。いよいよ、公開講座がせまってきましたね。
 懇親会の参加者ですが、昨日の池嶋さんからの報告だと19人。今日一回生が参加したいと言っていましたから、すでに20名をオーバー。あの女坂の「里」に入りきれるのか、心配になってきました。申し込みが未だの方は、幹事さんが大変ですから、どうぞお早めに。とくに古参メンバーの皆さん。
 
 古参メンバーといえば、先日久しぶりに山本陽一郎君から消息が届きました。小学校のクラス担任として充実した毎日をお過ごしの様子です。それにしても、「3Y」諸氏の人生は、これからが佳境に入るようで、ドラマを見ているようで目が離せません。

 本日は、伏見区の職員の方と今秋の「もちもちぃんウォーク」について打ち合わせをしました。今年は『方丈記』800年の年ですから、『方丈記』関係の史跡をメインにして、重源ゆかりの「栢の森遺跡」や、あの大きなお地蔵様のいる恵福寺などを歩く会にしようというプランを提案させて頂き、その方針で大筋の話が決まりました。
 昨年は佐伯君や藪本君、粟村さん、山本さん、それに岩田君の御協力をいただきましたが、今年もゼミメンバー・関係者の助力を期待すること大なるものがあります。滝沢さんにも是非参加頂いて、写真をお願いしたいところです(区の方には、もう紹介してしまいました)。
 11月10日(土)ですので、皆さんお忘れなく。もちろん、プレ見学会も実施したいと思います。私は「方丈石」までたどり着けるかどうか、心もとない限りでありますが、楽しみにしています。
 ちなみに、「もちもちぃん」さんと私は誕生日が一緒です。

明日の基礎演習Ⅰのテーマなど。

No.9617

 明日Ⅲ講時の「基礎演習Ⅰ」は戸川さんの発表で、テーマは「新選組について」だそうです。中村武生先生の出講日なら、ちょっとコメントを頂きたいところだったのですが・・・、残念!
 ストレートに幕末史に斬り込むのか、それとも京都観光に関連づけるのか、楽しみです。

 ゼミは平常通りですが、DVDの再生なるか?という一件もございましたね。
 それから、6月23日(土)の公開講座のための事前勉強会や、準備作業、当日のお手伝い、それに懇談会・懇親会のことなど、少し詰めておきましょう。

 古参メンバーの方たちも、お手伝いの可否や懇親会の出席について、早急に御連絡頂ければ幸いです。

 >2010年度「基礎演習Ⅰ」のメンバー諸姉  1日のコンパの写真をプリント致しましたので、ついでの折り、研究室でお受け取り下さい。明日の午後以降は、研究室のドア脇のボックスに入れておきます。名前を確認してお持ち帰り下さい。

 ☆ 東北大学の柳原敏昭先生より、『東北文化資料叢書第六集 史学史・民俗学史資料 東北中世史の開拓者 大島雅隆資料集』(東北大学大学院文学研究科東北文化研究室)を御恵送頂きました。
  柳原先生に、あつく御礼を申し上げます。
編集:2012/06/04(Mon) 16:57

そろそろ梅雨時の『吾妻鏡』

No.9618

 梅雨どころか真夏のようなお天気ですが、6月は12日・19日・26日と開催予定です。よろしくお願いします。

 日時:2012年6月12日(火)午後4時すぎ~(予定)

 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁三年(1203)九月十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日
    建仁四年(元久元年、1204)正月十日・十二日・十八日、二月十日・二十日、三月九日・十日・二十二日・二十九日、四月一日・十日・十六日・二十日・二十一日、五月六日・八日・十日・十六日・十九日、六月八日・十九日・二十四日・二十六日、八月三日・四日・十五日・二十一日、九月一日・二日・十三日・十五日、十月十四日・十七日・十八日、十一月四日・五日・七日・十三日・十七日・十八日・二十日・二十六日、十二月十日・十八日・二十二日の各条

 わけあって開始時間を四時過ぎに変更させていただいております。メンバーのみなさんにはご迷惑・ご不便をお掛け致しますが、よろしくお願い致します。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

 源為義も平忠正も宇治に住んでいたのです。

No.9615

 >長村君  小生の古巣の住み心地はいかがでしょうか?

 さて、清盛の叔父忠正は、そもそも忠盛家からは独立した存在で、摂関家の忠実・頼長の家人であり、子息長盛は崇徳院の蔵人になっていたのですから、清盛は躊躇すること少なく、処刑を行ったはずです。ちなみに、忠正は摂関家の権門都市である宇治に邸宅を有していました。どの辺りだったのでしょうね?
 同じく摂関家に祗候していた源為義も宇治に宿所を有していたようです。そういえば、私はかつて、こんな論文を書いたことがありました→「中世前期における宇治の軍事機能について」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』第22号,2009年)。
 御参照下されば幸いです。

 ところで、保元の乱後の処刑について、元木泰雄先生は御高著『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)において、以下のようなことを指摘しておられます。
 ○ 武士相互の私合戦において、敗者やその一族を殺害するのは、自力救済を断ち切るもっとも有効な手段であり、朝廷の命令で行われた追討でも、危険な謀叛人の処刑は当然のこととされた。
  ○ 義朝の場合、父や弟たちは嫡流の地位や東国における武力の基盤をめぐって鋭く対立する関係にあった。義朝は為義一族を葬り去ることで、長年にわたる河内源氏の内紛を克服し、嫡流の地位を確立するという大きな利点があった。
 ○ 義朝が元服前の幼い弟たちを処刑したとことは事実として確定できず、もしそうであった場合、それは将来の反抗などを恐れて、義朝が独自に行ったものと見るべきである。

 当時の武士の社会は、想像以上に過酷であったようです。一方、貴族達の意識もシビアであり、あれほど寵愛していた頼長を、父忠実は天に見放された者として、スッパリとうち棄てるのである。こうした行動をとれたからこそ、貴族階級は長く命脈を保ち得たのだと、ある著名な先生の御著書で読んだ記憶があります(何に書かれていたか、坂口君、御記憶にありましたら御教示頂けないでしょうか)。

 さて、以下は先週の続きです。ここに取り上げた藤原師長は、例の悪左府頼長の子息です。
           ********************************************************
 『平清盛の時代』(通学路の歴史探索)

  第五回 音楽のメッカ、東山妙音堂
 前回お話しした法住寺合戦のとき、後鳥羽天皇が船を浮かべていた大池の西岸、現在、一橋(いっきょう)小学校のある辺りには最勝光院がありました。これは、後白河院の寵愛深い建春門院(平滋子)の御願御堂で、その建立にそなえて院と女院が連れ立って宇治に平等院を見に出かけていますから、平等院を模した建築であったと考えられ、嘉禄二年(一二二六)六月、この御堂が火災で失われたとき、藤原定家は「土木の壮麗、荘厳の華美、天下第一の仏閣なり」(『明月記』)と惜しんでいます。

 この最勝光院の南限を区切ったのが、法性寺(ほっしょうじ)境域の背後の東山から鴨川に注ぐ三筋の川のうち最北を流れる一の橋川(今熊野川)でした。一の橋は山城国愛宕郡と紀伊郡の境界で、最勝光院を含む広義の法住寺殿は、これより北側に展開したことになるわけです。

 最勝光院と向かい合うようにして、大池東岸の台地上には今熊野社が勧請されました。ここには、院がしばしば参籠しており、その間の政務は女院の手に委ねられていました。現在地から動いていませんが、往時は広大な社域を占め、関東にも荘園を領有していました。今熊野社は城郭を築くのには絶好の地形上にあり、実際、南北朝内乱期に足利義詮がここに陣して細川清氏軍を迎えようとしたことがありました(『太平記』巻第三十六)。

 今熊野社とともに法住寺殿の鎮守であった新日吉(いまひえ)社は、院御所の東北に勧請されたもので、今は京都女子大学に隣接するところに位置していますが、当時はやや南の瓦坂のあたりにあったと推定されています。後鳥羽上皇の時代、ここでは毎年小五月会(こさつきえ)が催されました。そこでは流鏑馬(やぶさめ)が行われ、それは院に直属する武力の閲兵式の意味をもつものでした。承久の乱の後、流鏑馬は鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題によって主催されるようになります。

 法住寺殿を芸能の空間たらしめる上で決定的な役割を果たした、前近代日本音楽史上最も重要な存在と評される藤原師長の妙音堂(太政入道御所)は、この新日吉社の近隣にあったことが確認できます。ひょっとしたら、その位置は、京都女子大学の音楽棟のある辺りだったかも知れず、歴史の奇しき因縁を感じさせるものがあります。
編集:2012/06/03(Sun) 23:17

追而書き

No.9616

 上記の処刑ですが、すべて京外で行われたことが重要です。船岡山とか六条河原というように。
 ちなみに、馬町の理髪店の御主人のお話によると、渋谷通り北側の谷(J校舎の西北方向)は、地元で「牢の谷」と呼ばれていたのだそうです。「六波羅」関係の遺址でしょう。
 
 それから、貴族の意識に関する話の出典ですが、上横手雅敬先生の『壇之浦合戦と女人たち 赤間神宮叢書13』(源平シンポジウム委員会、平成14年)でした。

 ☆ 栃木県立宇都宮商業高校の松本一夫先生より、新刊の御編著『下野小山氏 シリーズ中世関東武士の研究第六巻』を御恵送頂きました。
 本書第1部の最初に収録された和久井紀明氏の「中世東国の在地領主制の展開-下野国小山氏について-」は、私が院生時代、秀郷流藤原氏の研究に着手したときに大きな指針を与えてくれた思い出深い優れた論文です。
 松本先生に、あつく御礼を申し上げます。