六波羅は~今日も雨だった。

No.9649

 昨日の六波羅・法住寺殿跡の歴史散歩ですが、京都文博の植山先生(考古学)、私の補佐役を引き受けてくれた佐伯君、それに山本さん・池嶋さん・滝沢さんという精鋭メンバーで、鴨川河畔(珍しいものを見ました)を北上、松原通を東進(車が多くて歩きにくい)、六道の辻(幽霊飴のお店の前)から六波羅蜜寺の前を南進して池殿町、さらに五条通を渡って(東山郵便局の脇)、大和大路を南下して三十三間堂・後白河天皇陵(ここで池嶋さんから、院政期の「権門都市」の本質を突く、よい質問あり)、最勝光院跡、そして今熊野神社まで、ちょうど2時間程で歩きました。
 歩数でいうと1万歩弱くらいでしょうか。空は曇っていたのですが、蒸し暑く、耄碌と病み上がり(上がっていませんが)が重なって、私はとても疲れました。
 ほんの数年前までは、このくらい歩いても何でもなく、案内の話も陽気に楽しく弾んだものですが、これでは来週が思いやられます。ただ、今熊野神社で礼式に叶わないやり方ながらも、一応「茅の輪くぐり」をして参りましたので、健康の回復は叶うかも知れません。当日用のレジュメ原稿やおまけの配付資料も植山先生にお渡しできましたし、あとはお天気次第でしょうか。

 さて、本日のお話に関してですが、一事が万事とはよく言ったもので、
 「三条殿」は「さんじょうでん」では×。「さんじょうどの」○です。脚本のルビは正確にお願いしたいものです。
 
 平治の乱に関しては、いまだに『平治物語』に依拠した旧説が大手を振っておりますが、今日の歴史学の水準を知りたければ、元木泰雄先生の『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)・『平清盛と後白河院』(角川選書)・『河内源氏』(中公新書)を御覧なるに如かずです。それから、藤原信頼の評価については、通説は本当に不当なものであるとしか言いようがありません。
 平治の乱における平清盛と源義朝の合戦の様子や、とくに義朝の東国への逃走の過程、さらに頼朝の伊豆配流の問題については、拙著『武門源氏の血脈』(中央公論新社)の第2章「 調停する義朝―坂東の平和と平治の乱」2「平治の乱における義朝」と、第3章「 起ち上がる頼朝―軍事権門「鎌倉殿」の誕生」1「伊豆配流」に詳述してあります。 

南九州と東北から

No.9648

 ☆ 2005年夏のゼミ旅行の際に大変お世話になったミュージアム知覧の上田耕先生と新地浩一郎先生より、以下の御高論と共に、南九州の歴史に関わる多くの資料をお送り頂きました。
 新地浩一郎「『川邊名勝誌』(大正写本)一」(『南九州市薩南文化』3)
  同 「史料紹介「川邊村教授資料」(明治四十一年)」(同 4)
上田 耕「猿山陣跡の縄張構成について」(同 3)
  同  「知覧浮辺の愛宕講と将軍地蔵像について」(同 4)
同 「鹿児島 本土最南端の戦跡群-沖縄戦から本土決戦に向けて-」(『季刊考古学』116)
  同  「薩摩における在来製鉄技術-南九州の鉄づくりの歴史から-」(薩摩のものづくり研究会『集成館溶鉱炉(洋式高炉)の研究』薩摩藩集成館溶鉱炉跡発掘調査報告書)
  同  「鹿児島城(鶴丸城)二之丸跡から発見のキリシタン瓦とその背景(報告)」(『南九州の城郭』30)
  同  「【調査報告】猿山陣跡の発掘調査と縄張図」(同 31)

 新地先生・上田先生に、厚く御礼を申し上げます。
 機会があったら、また、鹿児島を訪れたいものですね。

☆ 東北福祉大学岡田ゼミナール・岡田清一先生より、『平成23年度 岡田ゼミナール研究年報 宮城県角田市調査報告書-地域研究の方法と課題-』および岡田清一「小高から中村へ-戦国武将相馬義稙の転換点-」(『東北学院大学経済学論集』177)を御恵送頂きました。
 岡田先生ならびに岡田ゼミナールの皆様に、あつく御礼を申し上げます。

 6月30日(土) 六波羅・法住寺殿跡見学会の案内

No.9645

 昨日は、一部の方はお気づきであったかも知れませんが、ゼミの途中(16:30頃)から体調に異変が生じておりました。痛み耐え難く、帰宅途中、内科の医院に駆け込むという事態に陥りましたが、幸い、症状そのものは軽快の方向に向かっております。

 痛みの再発はないであろうという楽観的観測を前提として、30日(土曜日)に予定している史跡見学会は予定通り実施するつもりです。
 この見学会は、ゼミメンバーを対象とする私的な勉強会として行いますが、7月7日(土)に予定されている京都文化博物館主催の特別展「平清盛」関連イベントの歴史散策『清盛ゆかりの地を巡る』の下見を兼ねたものといたしますので、その関係者(法住寺殿武将墓の発掘調査を担当された植山茂先生もお出でになります)や、当日お手伝い頂く立命館大学非常勤講師の佐伯智広さん等も同行して下さることになっています。
 行程は2時間の予定ですので、六波羅蜜寺とか三十三間堂の内部の見学はありません。六波羅・法住寺殿の立地空間について、かなり専門的な説明をしながら歩くつもりです。今回は一般市民の方が対象ではありませんから、「観光」気分ではない歴史散歩を意図しています。

 【集合場所等の確認】
 日時:2012年6月30日(土)
 集合場所:清水五条駅(京阪)の地上出口(五条通北・鴨川東)
 集合時間:13:30

※ 当日、直接お出でになっても構いませんが、資料が必要な人は参加の意志を事前に連絡して下さい。
編集:2012/06/28(Thu) 12:42

 うれしやみず~「法住寺合戦」へのお誘い

No.9646

 上記、6月30日の資料については、ゼミメンバーであっても事前連絡の無い方の分は用意できませんので注意して下さい(当たり前のことですが、そんな雰囲気なので)。

 なお、同じ6月30日には、名古屋で中世史研究会の例会が開催され、長村君が研究成果を発表されます。
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   ◇中世史研究会6月例会◇
   報告者:長村 祥知 氏
   題 目:「中世前期の在京馬政機関」
   日時:2012年6月30日(土) 14: 30~17:00 (開場14:00)
   会場:名古屋大学文学部127講義室
     (地下鉄名城線 名古屋大学駅下車1番出口より西へ徒歩5分)
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  ところで、昨夜、学習院大学の兵藤裕己先生から、夏休みのゼミ旅行で京都に行くので、先年のように、法住寺殿跡のあたりの史跡案内を願いたいという旨のお電話がありました。 旅行の日程は9月3日(月)~5日(水)とのことで、京都駅から近いので到着後すぐ、すなわち3日に、というお話でした。無論、了解いたしました。
 ゼミメンバーは帰省中の方も多かろうと思いますが、在京中の方は予定に入れておいて下さい。また、兵藤先生ゆかりの古参メンバーの方たちも、是非お出かけ下さい。
 なお、本年度、兵藤先生のゼミの人数は、大河ドラマの影響によるものか、大人数であるとのことです。なにも合戦を企てるつもりはありませんが、「衆寡敵せず」か?
編集:2012/06/28(Thu) 11:45

 大河ドラマの功罪

No.9647

 先日、公開講座で御講演を頂いた京都大学の元木泰雄先生が、6月26日(火)付『京都新聞』朝刊の文化欄に「大河ドラマの功罪」というタイトルの一文を寄せておられます。
 ぜひ、御一読下さい。

明日の基礎演習と史料講読会

No.9643

 ちょっとバテ気味のために、お知らせするのが、すっかり遅くなってしまいましたが、明日の「基礎演習Ⅰ」は辻本さんの発表。
 テーマは「低価格航空会社について」とのことです。
そういえば、最近、「スカイマーク・サービスコンセプト」が問題になったことがありましたね。

 ゼミ史料講読会の時間には、岩田君御出演のテレビ番組を見そこなった人のために、なんらかの対策を講じておくつもり。また、土曜日の公開講座の感想もうかがいたいと思います。

七月の吾妻鏡

No.9644

 先日の公開講座では、元木泰雄先生、服藤早苗先生のお話を伺うことができました。大河ドラマで関心の集まるテーマにも多く触れられた、まことに時宜にかなったご講演をしていただいたと存じます。
 両先生とご来場いただきました皆さまに御礼申し上げます。

 さて、次回は7月となる『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年7月3日(火)午後4時すぎ~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁三年(1203)十月二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日
    建仁四年(元久元年、1204)正月十日・十二日・十八日、二月十日・二十日、三月九日・十日・二十二日・二十九日、四月一日・十日・十六日・二十日・二十一日、五月六日・八日・十日・十六日・十九日、六月八日・十九日・二十四日・二十六日、八月三日・四日・十五日・二十一日、九月一日・二日・十三日・十五日、十月十四日・十七日・十八日、十一月四日・五日・七日・十三日・十七日・十八日・二十日・二十六日、十二月十日・十八日・二十二日の各条

 また、火曜日の『吾妻鏡』は7月は3日、10日、17日、24日に開催予定です。よろしくお願いします。

 わけあって開始時間を四時過ぎに変更させていただいております。メンバーのみなさんにはご迷惑・ご不便をお掛け致しますが、よろしくお願い致します。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

 公開講座の御礼&京都女子大学から眺める平家

No.9642

 昨日の公開講座http://www.saigaku.ac.jp/outline/upimg/201205221616221189201657.pdfは、前代未聞の盛況ぶりでした。御来場者数は300名に近かったようです。
 講師の先生方、コメントをお願いした先生方、それから宗教教育センターの職員のみなさん、そしてゼミメンバ-・関係者諸姉兄に、さらに御来場下さった皆様すべてにあつく御礼を申し上げます。
 また、広島・熊本などからお出で下さった方やゼミの古参メンバーから、たくさんのお土産を頂いたことにも、あわせて御礼を申し上げます。

 当方、情けないことに、一夜明けた後も、すっかり疲れ果ててしまっておりますので、今回も以前に『芬陀利華』に書いた拙文を貼らせて頂くことにします。
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           ◇ 京女から眺める平家 ◇
【平家の六波羅】
 今年はNHKの大河ドラマで平清盛が放送されています。その主人公である平清盛が本拠にしたのは六波羅。鴨川の東、現在の五条通の北側を中心にした一帯がその故地です。
 清盛の率いた一門を平家と称しますが、平家がこの六波羅に関係をもったのは清盛の祖父正盛のときでした。十二世紀の初め、正盛はここに自分のための墓堂を建てました。六波羅は平安京の左京六条の末(すえ)、すなわち左京六条を鴨川の東岸に延長したところにあって、ちょうど、葬地である鳥辺野(とりべの)への入口にあたりますから、鴨川が三途(さんず)の川にオーバーラップするというわけで、平安京に住む人々にとって、ここは、この世とあの世の境界として意識されていた空間だったのです。
 この正盛の堂を取り込むかたちで一町規模(約一二〇メートル四方)の邸宅を造営したのが、正盛のあとを継ぎ、瀬戸内海の海賊討伐のみならず、白河・鳥羽両院の近臣として並々ならぬ手腕を示した忠盛です。
 その子清盛は、平治の乱後、国家の軍事警察権を掌握して、公卿の地位に昇り、ついには王家(天皇家)の外戚となって国政をも掌握しました。これと並行するように、六波羅の拡大も著しいものがあり、本邸である清盛の泉殿(いずみどの)を中心に、弟の頼盛の池殿(いけどの)、教盛の門脇殿(かどわきどの)をはじめとする一門の居邸がたちならび、周辺には平家に仕える家人・郎等の宅が軒を連ねることになります。六波羅の東南の角で、山科に抜ける道路(渋谷越)に面した場所には、清盛の子で内大臣に任じた重盛の邸宅小松殿(こまつどの)がありました。その位置は、おおよそ現在の馬町交差点の辺りに比定することが出来ます。現在、その近くの東山武田病院には広大な池を備えた積翠(しゃくすい)園という名庭があり、小松殿の遺構である可能性が指摘されています。

【平家の女たち】
 ところで、平家の繁栄が清盛をはじめとする男たちによって担われたのに対して、一門の女たちは、父や夫に従うばかりで、主体的意志を発現する機会などなく、歌を詠んだり、楽器を奏でるような風雅な毎日を送るに過ぎない存在であったかのようにイメージされがちです。しかし、それは『平家物語』の情緒的なエピソードや近代の家族制度を前提にした理解であって、正しいものではありません。過去の事実を解明するのは歴史家の仕事ですが、歴史家も歴史的存在なのです。つまり、「男社会」が常識の時代の歴史家は、その価値観で歴史を解釈してしまったのです。
 たとえば、平治の乱(一一五九年)の後、謀反人として六波羅に連行されてきた源頼朝を見た池禅尼(いけのぜんに・清盛の継母)が、早世した息子に姿形が似ているのに心を動かされて、清盛に頼朝の助命を泣いて嘆願したという逸話について、従来は、池禅尼の母性と清盛の寛大さという次元で評価されていました。しかし、近年、中世における女性のあり方に関する研究が進んだ結果、このとき、平家一門の家長権は故忠盛の正妻であった池禅尼に属しており、しかも彼女は頼朝の母方に連なる人々との政治的関係が深く、その意志を代弁する形で清盛に助命を働きかけたという事実が明らかにされています。
 同じように、清盛の妻時子(二位尼・にいのあま)は、清盛が福原に退隠すると京都に常住。清盛の死後、プライベートな立場におけるリーダーとして、平家一門の要のような役割を果たし、ついには安徳天皇とともに壇ノ浦で入水するに至るのです。また、彼女の異母妹で後白河院の寵愛を一身に集めた建春門院(滋子)は、かつては「美貌」のみによって語られるような存在でしたが、実は院が熊野詣などで不在の間は、彼女が政務を代行していた事実が解明されました。彼女は、ただの飾りのお人形などではなかったのです。さらに、ともすれば悲劇のヒロインのように描かれがちな建礼門院(徳子・清盛の娘で安徳天皇の母)も、一門都落ちの後、公的な形で宗盛と並んで平家を代表する立場にありましたし、晩年を鎌倉幕府の支配下に置かれた六波羅を見下ろす東山鷲尾(現在、高台寺のある辺り)で過ごしたのでした。

【女性の視角】
 平家を滅ぼした後、鎌倉に幕府を樹立した源頼朝の仕事を完成させたのも、彼の妻政子でした。彼女は頼朝の後を受けて将軍の座に着いた息子たちの死後の混乱を見事に収拾して、幕府に安定をもたらしています。彼女は朝廷との交渉にも臨み、そのために上洛も遂げていますが、そのときに滞在したのは六波羅でした。平家滅亡後、頼朝はかつて池禅尼が住んでいた池殿の場所に、南北二町という広大な将軍邸を造営していたのです。
 ところで、この三月、建春門院の御所のあった最勝光院跡の現地説明会が行われました。場所は大谷高校の西側、本学から歩いて十五分ほどのところです。最勝光院は蓮華王院(三十三間堂)とともに後白河院の御所法住寺殿(ほうじゅうじどの)の一画を占めていました。院の御所は現在の国立博物館の辺りにも広がっており、六波羅はその北端に接していたのです。本学は、その全域を見わたすことのできる、素晴らしい場所に立地しているというわけです。
 「男社会」史観を脱して振り返ると、これまでとは違った歴史が見えてくる。こうした取り組みは、男社会の呪縛から解放された、とくに女性の研究者によって近年、精力的に進められました。おそらく、「男社会」というフィルターは、歴史学のみならず、あらゆる学問ジャンルに存在するものと思います。そうした意味からも研究主体としての「女子大」の存在意義はつよく主張できるのではないでしょうか。
 以上、満開の桜の木々の隙間から六波羅や法住寺殿の故地を眺めながら、思いつくままに綴ってみました。最後になりましたが、平家がその全盛から滅亡にいたる時期が、まさに親鸞聖人の幼・少年期に重なることを確認しておきたいと思います。
        (『芬陀利華』第317号より )
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☆ 東北福祉大学の吉井宏先生より、御高論「日欧の城郭について」(『東北福祉大学生涯学習支援室年報』13)および『宮城県岩沼市鵜ケ崎城跡(岩沼要害)』の第9~11次発掘調査報告書(各1冊)を御恵送頂きました。
 吉井先生に、あつく御礼を申し上げます。

 佐伯智広「鳥羽院政期王家と皇位継承」をゼミ生は必読のこと

No.9640

 最近、樋口健太郎氏らによって、院政期の摂関家の存在形態について、従来の理解に再検討をせまる優れた研究がつぎつぎと発表されていますが、院権力の継承に関する説得力に満ちた実証的な論文が昨日届いた『日本史研究』598号に掲載されていました。保元の乱前夜の政治過程に関心のある方は必読。通説というのは、こうやって克服されていくものだということを示す着実な研究で、院政期を専攻する学生さんには、よいお手本になる論文でしょう。私自身、とても勉強になりました。
 ゼミメンバー・関係者で、すぐに『日本史研究』の最新号に手の届く人は、今日のうちに読んでおくことをお勧めします。佐伯君には明日、お目にかかれるはずですから。

 「こういう論文を若いうちに書いてみたかった。でもあの環境では仕方なかったよなぁ」などと、『能力』という基本的要素を無視して手前勝手な感慨(弁解的妄想)にふけっておりましたところ、宅急便で大きな封筒が届きました。
 若くなくなってから、・・・というより、数ヶ月前に悪戦苦闘して書いた原稿が初校ゲラとなって届いたのでした。校正、頑張りたいと思います。
 ちなみに、この本が世に出る予定は9月末とのこと。日本史教科書で有名な出版社さんからの刊行です。

 ☆ 東京都葛飾区郷土と天文の博物館の谷口榮先生と新宿歴史博物館の今野慶信先生の御連名で、埼玉県嵐山歴史博物館・葛飾区郷土と天文の博物館編『秩父平氏の盛衰 畠山重忠と葛西清重』(勉誠出版)を御恵送頂きました。
 谷口先生は「畠山重忠と葛西清重-博物館から秩父平氏を考える-」・「葛西清重の軌跡」、今野先生は「武蔵国南部の秩父平氏-豊島氏と江戸氏の動向を中心に-」という御高論をお書きになっています。
 谷口・今野両先生に、あつく御礼を申し上げます。
編集:2012/06/22(Fri) 16:55

さて、明日はいよいよ『公開講座』です。

No.9641

 昨日の午前、近畿圏で放送された岩田君出演のNHKテレビの番組。昨夜、録画しておいたものを視聴致しました。NHK京都放送局の山内さんが、生で出演されていて、20日放送分よりも具体的に取材の様子が想像できました。

 冒頭、山内さんが岩田君を紹介したときに、御著書に触れたのが奏功したのか?さきほどAmazonの本の売り上げランキングを見たら、岩田君の『平清盛』(新人物往来社)は、〈畏れ多くも〉元木先生の『河内源氏』(中公新書)より上位にありました。スゴイ!
 かくいう私の『武門源氏の血脈』(中央公論新社)は、ずぅ~っと下の圏外に落ちているようです。

 この際、あらためて御紹介致しますが、岩田君の『平清盛』は学術的な水準を踏まえながら、一般の方にも、とても分かりやすく書かれた、初学者向け「清盛」関連本の決定版です。「『平家物語』でしか、あの時代のことは知らないが、最近の歴史学の方ではどんな評価がされているのだろうか?」というような疑問をお持ちの方にも最適な本だと思います。

 さて、明日はいよいよ『公開講座』。
 御出講頂くお二人の先生はもとより、多くの皆様の御助力を頂くことになると思います。
 何卒宜しくお願い致します。
 とりわけ、岩田君・山本さん・池嶋さんをはじめ、ゼミメンバーの諸姉(兄)には、いろいろ面倒をおかけ致しますが、宜しくお願い申しあげます(頼朝ならば、一人ひとり閑所でお願いするところだと思うのですが、掲示板にて失礼)。

『源氏と坂東武士』(吉川弘文館)は売り切れのようです。

No.9637

 京都は台風一過ですが、お天気はパッとしません。

 非常勤の先生方との競合を避けるために、今日は早朝出勤して資料の印刷に精を出しました。例によって印刷機が用紙の大きさを識別してくれなかったり、必要な大きさの用紙がなくなっていたりで、思うに任せませんでしたが、A3を半分に断裁してA4用紙を確保するなどして、なんとか終了しました。
 しかし、最近の印刷機は手が汚れることが少なくなりました。なにしろ、謄写版時代を経験しておりますから。ガリ切りというのも味があってよかった。職人芸みたいな技術を持つ先生(たいてい国語科の老先生)が各校に一人、必ずおられたものでした。

 ところで、吉川弘文館のHPによると、2007年に刊行した拙著『源氏と坂東武士』は「在庫なし」「再版未定」とのこと。それで、お問い合わせを頂くことがあるのですが、私の手許には若干の保存分があるばかりです。まだ書店などに流通している分があると思いますので、それをお探し頂くか、図書館を利用して頂きたく、お願い致します。

この番組は宗教・文化研究所の提供でお送りします(うそです)

No.9638

 昨日は暴風警報発令による休講措置のため、ゼミもお休みになりました。
 事前勉強なしで公開講座を迎えることとなってしまいましたが、当日は先生方のお話を直接伺うことで、たくさん学ばせていただきたいと思います。

 ひとまず来週の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年6月26日(火)午後4時すぎ~(予定)
 範囲:建仁三年(1203)十月八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日
    建仁四年(元久元年、1204)正月十日・十二日・十八日、二月十日・二十日、三月九日・十日・二十二日・二十九日、四月一日・十日・十六日・二十日・二十一日、五月六日・八日・十日・十六日・十九日、六月八日・十九日・二十四日・二十六日、八月三日・四日・十五日・二十一日、九月一日・二日・十三日・十五日、十月十四日・十七日・十八日、十一月四日・五日・七日・十三日・十七日・十八日・二十日・二十六日、十二月十日・十八日・二十二日の各条
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室

 また、火曜日の『吾妻鏡』は7月も開催予定です。日程はまたあらためてご相談させていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。

 わけあって開始時間を四時過ぎに変更させていただいております。メンバーのみなさんにはご迷惑・ご不便をお掛け致しますが、よろしくお願い致します。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

 ※野口先生の『源氏と坂東武士』は、Amazonでは古本で25,000円ほどの値が付いていますね。

 ※ご案内いただきましたテレビ放送ですが、本日の初回放送(?)は京都ローカルです。明日のリピート放送(?)は近畿圏内で放送されるそうです。

見ましたよ。→ 視聴率の一翼をにないました。

No.9639

 今日も早起きしたので、もうクタクタです。土曜日までもつかどうか、心配。
 しかし、今日は1回生・3回生と少しばかりお話しが出来たのが収穫。
 
 急いで帰宅して、テレビをつけたら、まだ間に合いました。岩田君登場!! さすがに、ちょっと緊張しているのが分かりました。インタビュアーの山内さん(本学卒業生)は、ちゃんと岩田君の著書のことにも触れてくれました。
 動物園の観覧車(法勝寺八角九重の塔)。法住寺(法住寺殿)。京都駅(美福門院→八条院御所)。そして、よかったのが七条新町の交差点(七条町)。岩田君の案内は、きちんとした学問的検証を踏まえたもの。そして新鮮味もありました。まぁ、番組の目的はおくとして、なかなかに律儀に制作されていると思いましたよ。
 「七つの肩書きを持つ岩田君」は、京都市内で通りのよい肩書きを使われました。NHK「京都」放送局の番組ですしね。
 これで岩田君は「テレビでもお馴染みの」有名人です。明日から外出するときはサングラスとマスクが必要かも知れません。
 明日の午前に放送される分についても、また録画で見たいと思います。

 岩田君の出演番組の放送時間と「お手伝い」のお願い

No.9636

 今日は警報発令のためⅢ講時で授業終了。「基礎演習Ⅰ」は全員出席で、東川さんの報告を聴きましたが、私としては、AKBのことなど、たいへん勉強になりました。
 なるほど、アイドルはあのように作られているわけですね。背景に「大衆化」あるいは「ネット」社会があることもよく分かりました。アイドルとの握手もお金次第か。大衆社会にも市場原理が横行。前回のK-POPの話とも対応して、いろいろ考えることが出来たと思います。

 警報発令のため、Ⅳ講時以降の時間に設定されていたゼミの史料講読会と公開講座の事前学習会は中止のやむなきに至りました。それぞれ、自習をしておいて下さい。
 それでも、池嶋さんは懇親会出席者の名簿を届けて下さり、また、岩田君は草津から、山本さんも吉田山の麓から駆けつけて下さいました。ありがとうございました。

 23日の公開講座については、講師の先生方から資料も届き、懇親会の申し込みの受付も終了。出席者は32名となりました。あの「里」の地下室は満員になりそうですね。

 ところで、当ゼミ師範代をつとめてくれている岩田君出演のテレビ番組(NHK京都)の放送日時ですが、担当の方(京女の卒業生)からお知らせを頂きました。
 あす6月20日(水)18:10~19:00「ニュース610京いちにち内『京これ!』、あさって6月21日(木)11:30~12:00「ぐるっと関西おひるまえ」内『京都情報』の予定とのこと。ただし、「突発のニュースがあれば内容変更される可能性もありますのでご了承ください」という但し書きが付いています。
 とりあえず、録画のセットをしておきましょう。

 それから、以前少しお話をさせて頂きましたが、研究所ゼミの1回生~3回生に、手伝って頂きたい仕事があります。明日20日(水)と明後日21日(木)の午後、授業の空き時間にお手伝いをして頂ける方は、E・メール(必ず研究室のアドレスへ)で、その日と時間をお知らせ下さい。折り返し、お願いしたい日・時間などをお知らせ致します。

明日の基礎演習・ゼミ講読会および諸連絡の方法について

No.9635

 台風4号が接近中です。明日、Ⅲ講時の「基礎演習Ⅰ」(東川さんの「アイドル戦国時代」というテーマの発表の予定)の実施については、台風などに際しての、京都女子大学の休講措置規定にしたがって下さい。
 Ⅳ講時のゼミ講読会(『玉葉』)とⅤ講時以降に予定していた公開講座事前勉強会も、これに準拠いたします。
 
 また、講読会・勉強会が中止された場合、そこで連絡する予定であったことは、この掲示板(BBS)あるいは各個人宛のE・メールにて行いますので、かならず確認をお願い致します。
 
 私に対する連絡は、研究室のE・メールアドレス(上記、名前をクリックするのと同じ)に送信して下さい。
 なお、今のところ、私は明日の午前中は、研究室または学内にいるつもりでおります。

 相撲人は一宮の神主さんだったり、郡司クラスの地方武士

No.9634

 「雨あがりの日曜日。窓を開けて、くつろいでいたら、またも近所でバーベキューが始まってしまいました。」
 先週に続いて、ある親しい友人から、また、こんなメールが届きました。
 不条理な我慢が平和を保つということなのでしょうね。彼はだいぶストレスをため込んでいるようで気の毒です。

 19日、火曜日のゼミ講読会ですが、すでに御承知の通り、『吾妻鏡』の時間は公開講座の事前勉強会に変更。元木先生の御講演については真鍋さん、服藤先生の御講演については岩田君に報告して頂きます。
 それから、当日の運営についての打ち合わせなども致しますから、「御用とお急ぎでない」ゼミメンバー・関係者は、普段参加されていない方も是非ご出席をお願い致します。
 ちなみに、懇親会参加希望の受付は池嶋さんが布告されたように、本日24時にて締切です。

 先週、木曜日Ⅲ講時「女性視点の日本史」の講義終了後、この講義を聴講してくれていたタイからの留学生が、「近く帰国するので、これが最後の出席です」と、挨拶に来てくれました。見ると、配付した資料にはびっしりとタイ語でメモが加えられており、熱心に受講してくれたことがうかがえました。
 私は、1996年5月、慶應大学(SFC)に勤務する畏友の助力を得て(私は外国語か苦手なので、かれに報告の翻訳や、質疑応答の際の通訳、さらには往復の飛行機やホテルの手配までお願いしたのでした)、バンコクのチュラロンコン大学で開かれたアジア歴史学者会議で研究報告をしたことがありますが、その際、タイが理系のみならず、人文系の学問・研究にも国を挙げて力を入れていることを実感させられたことを思い出しました。
 帰国した彼女が、タイに日本中世史の小さなタネ一つでも撒いてくれることを願っています。

 ところで、保元の乱後の相撲の節会には、その後の治承・寿永内乱の際に活躍を見せる地方武士の一族(一~二世代上)も「相撲人」として姿を見せています。このことについては、拙稿「相撲人と武士」(中世東国史研究会編『中世東国史の研究』東京大学出版会、1988年)で詳しく触れていますので御笑覧下さい。
 一部の方からは、「あの野口も、若い頃は、いちおう、しっかりした論文を書いていたんじゃねぇか」と思って頂けるかも知れません。
 ちなみに、左馬頭はけっこうエライけど、大宰大監はあんなにエライわけはない。
 それに、原田は地元では「ハルダ」ですね。

 さて、今週もコメント代わりの連載。これで、ひとまずおしまいです。
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   平清盛の時代(通学路の歴史探索)                  
  第7回 六波羅の小松殿

 今年のNHK大河ドラマの主人公は平清盛。本学の立地は平家の本拠であった六波羅に隣接しますから、近くにたくさんの観光客が押し寄せることでしょう。

 『延慶本平家物語』に「六波羅殿とてののしる所は故刑部卿忠盛世に出し吉所也。南門は六条末、賀茂川一丁を隔つ。元方町なりしを、此相国の時四丁に造作あり。是も屋数百二十余宇に及べり。是のみならず、北の倉町より初て、専ら大道を隔て、辰巳の角の小松殿に至まで廿余町に及まで、造営したりし一族親類の殿原及び郎従眷属の住所に至まで、細に是を算れば屋敷三千二百余宇」と描かれた六波羅の中心は、現在の五条通(平安京六条坊門小路の末)の北側にあたり、平家一門の邸宅の所在は一帯にのこる町名から推定することが出来ます。北御門町は六波羅の北の惣門にちなみ,門脇町には平教盛(清盛の弟)の門脇殿がありました。三盛町は、もと泉殿町と呼ばれたところで、ここには平家の本邸である泉殿があり,その南方の池殿町は,清盛の継母藤原宗子(池禅尼)とその息子の頼盛が住んだ池殿のあったところです。池殿は泉殿より規模が大きく、清盛の娘徳子(建礼門院)はここで安徳天皇を出産しています。

 『平家物語』に後白河院に対する「忠」と父清盛に対する「孝」の狭間で苦悩した理想的な人物として描かれる重盛の邸「小松殿」は、六波羅の「辰巳(東南)の角」にありましたが、その地は現在の東山区常盤町・馬町交差点の辺りに比定することができるでしょう。ここは平安京から山科に抜ける苦集滅路(くずめじ。渋谷越とも。平安京六条大路の末にあたる)の通る小松谷の入口にあたる交通・軍事の要衝でした。重盛の邸は平家一門の邸宅の中では院御所である法住寺殿に最も近いところにあったことになり、彼が平家の軍事力を統轄しながら、後白河院と男色関係も想定されるほどの近臣であったことを考えると、その居所として実に相応しい位置と言えましょう。

 現在、馬町交差点東南にある東山武田病院の敷地内には、広大な池を備えた積翠(しゃくすい)園という名庭がのこされています。この池庭は平安末期の浄土様式で作られており、これを小松殿の遺構と見なす説があります。その位置は『延慶本平家物語』の記すところと一致しますし、後世の手が入っているにしても妥当な推測であると思えます。春夏の美しさは素晴らしく、知られざる京都の平家関連史跡と言えるでしょう。