六波羅は~今日も雨だった。
No.9649
昨日の六波羅・法住寺殿跡の歴史散歩ですが、京都文博の植山先生(考古学)、私の補佐役を引き受けてくれた佐伯君、それに山本さん・池嶋さん・滝沢さんという精鋭メンバーで、鴨川河畔(珍しいものを見ました)を北上、松原通を東進(車が多くて歩きにくい)、六道の辻(幽霊飴のお店の前)から六波羅蜜寺の前を南進して池殿町、さらに五条通を渡って(東山郵便局の脇)、大和大路を南下して三十三間堂・後白河天皇陵(ここで池嶋さんから、院政期の「権門都市」の本質を突く、よい質問あり)、最勝光院跡、そして今熊野神社まで、ちょうど2時間程で歩きました。
歩数でいうと1万歩弱くらいでしょうか。空は曇っていたのですが、蒸し暑く、耄碌と病み上がり(上がっていませんが)が重なって、私はとても疲れました。
ほんの数年前までは、このくらい歩いても何でもなく、案内の話も陽気に楽しく弾んだものですが、これでは来週が思いやられます。ただ、今熊野神社で礼式に叶わないやり方ながらも、一応「茅の輪くぐり」をして参りましたので、健康の回復は叶うかも知れません。当日用のレジュメ原稿やおまけの配付資料も植山先生にお渡しできましたし、あとはお天気次第でしょうか。
さて、本日のお話に関してですが、一事が万事とはよく言ったもので、
「三条殿」は「さんじょうでん」では×。「さんじょうどの」○です。脚本のルビは正確にお願いしたいものです。
平治の乱に関しては、いまだに『平治物語』に依拠した旧説が大手を振っておりますが、今日の歴史学の水準を知りたければ、元木泰雄先生の『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)・『平清盛と後白河院』(角川選書)・『河内源氏』(中公新書)を御覧なるに如かずです。それから、藤原信頼の評価については、通説は本当に不当なものであるとしか言いようがありません。
平治の乱における平清盛と源義朝の合戦の様子や、とくに義朝の東国への逃走の過程、さらに頼朝の伊豆配流の問題については、拙著『武門源氏の血脈』(中央公論新社)の第2章「 調停する義朝―坂東の平和と平治の乱」2「平治の乱における義朝」と、第3章「 起ち上がる頼朝―軍事権門「鎌倉殿」の誕生」1「伊豆配流」に詳述してあります。
歩数でいうと1万歩弱くらいでしょうか。空は曇っていたのですが、蒸し暑く、耄碌と病み上がり(上がっていませんが)が重なって、私はとても疲れました。
ほんの数年前までは、このくらい歩いても何でもなく、案内の話も陽気に楽しく弾んだものですが、これでは来週が思いやられます。ただ、今熊野神社で礼式に叶わないやり方ながらも、一応「茅の輪くぐり」をして参りましたので、健康の回復は叶うかも知れません。当日用のレジュメ原稿やおまけの配付資料も植山先生にお渡しできましたし、あとはお天気次第でしょうか。
さて、本日のお話に関してですが、一事が万事とはよく言ったもので、
「三条殿」は「さんじょうでん」では×。「さんじょうどの」○です。脚本のルビは正確にお願いしたいものです。
平治の乱に関しては、いまだに『平治物語』に依拠した旧説が大手を振っておりますが、今日の歴史学の水準を知りたければ、元木泰雄先生の『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)・『平清盛と後白河院』(角川選書)・『河内源氏』(中公新書)を御覧なるに如かずです。それから、藤原信頼の評価については、通説は本当に不当なものであるとしか言いようがありません。
平治の乱における平清盛と源義朝の合戦の様子や、とくに義朝の東国への逃走の過程、さらに頼朝の伊豆配流の問題については、拙著『武門源氏の血脈』(中央公論新社)の第2章「 調停する義朝―坂東の平和と平治の乱」2「平治の乱における義朝」と、第3章「 起ち上がる頼朝―軍事権門「鎌倉殿」の誕生」1「伊豆配流」に詳述してあります。