謙虚さなき発言の思い出
No.9613
週半ばを過ぎて、すでに疲労甚大の有様で、情けないばかりです。
昨日は、Ⅲ講時の講義の後、テレビ局の方が来室。話が弾んで、というか、こちらが話し続けて、時計を見たら3時間半も経過していました。私もとうとう、「迷惑な話し好きの老人」の仲間入りです。
ちなみに、この件で出演可能な方の紹介を依頼されましたので、勝手に数名のお名前を挙げさせて頂きました。局から連絡がありましたら、私の策謀によるものですので、宜しく御対応頂ければ幸いとするところです。
さて、まだ30歳代の前半、私が千葉で高校の教員をしていた頃の話。
私は、短い期間だが、自治体史編纂の要職にあった某国立大学の先生の私宅で行われていた『玉葉』の講読会に参加させて頂いていた。このときの記憶で最も鮮明なのは、ある時、私の発言に対して、いつもは温厚な先生が急に色をなして激怒されたことである。私が、ある若手の(当時)研究者の論文について批判を加えたことに対するものである。
おそらく先生は、この局面をとらえて、視野が狭く謙虚さを失っている私に厳しく反省をせまられたものと思われる。その時、自分の置かれている境遇にひどく不満を持っていた私は些かの不快の念にとらわれたものだが、今にいたっては、あの一言の重みを実感せざるを得ない。
「上から目線」(「目線」ということばが登場して、「視線」という言葉が死語になりつつあるのに、私は抵抗感を感じているが、敢えて使う)が若者たちの間にも横行している今日、先行研究に対する畏敬のみならず、研究者にとって、あらゆる側面で要求されているのは謙虚さなのではないだろうか。
「分相応」という、若い頃には嫌いだった言葉があるが、端から見ると「分」を知らずに謙虚さを失い、前途を閉ざしてしまった人も少なからざるものがあるように思う。その点、私は幸運だったのかも知れない。
☆ 創価大学の坂井孝一先生より、御高論「曾我兄弟の敵討ちにみる史実から芸能への展開」収録の、小林健二編『中世文学と隣接諸学7 中世の芸能と文学』(竹林舎)を御恵送頂きました。
坂井先生に、あつく御礼を申し上げます。
☆ 奈良大学の河内将芳先生より、新刊の御高著『祇園祭の中世-室町・戦国期を中心に-』(思文閣出版)を御恵送頂きました。
河内先生に、あつく御礼を申し上げます。
昨日は、Ⅲ講時の講義の後、テレビ局の方が来室。話が弾んで、というか、こちらが話し続けて、時計を見たら3時間半も経過していました。私もとうとう、「迷惑な話し好きの老人」の仲間入りです。
ちなみに、この件で出演可能な方の紹介を依頼されましたので、勝手に数名のお名前を挙げさせて頂きました。局から連絡がありましたら、私の策謀によるものですので、宜しく御対応頂ければ幸いとするところです。
さて、まだ30歳代の前半、私が千葉で高校の教員をしていた頃の話。
私は、短い期間だが、自治体史編纂の要職にあった某国立大学の先生の私宅で行われていた『玉葉』の講読会に参加させて頂いていた。このときの記憶で最も鮮明なのは、ある時、私の発言に対して、いつもは温厚な先生が急に色をなして激怒されたことである。私が、ある若手の(当時)研究者の論文について批判を加えたことに対するものである。
おそらく先生は、この局面をとらえて、視野が狭く謙虚さを失っている私に厳しく反省をせまられたものと思われる。その時、自分の置かれている境遇にひどく不満を持っていた私は些かの不快の念にとらわれたものだが、今にいたっては、あの一言の重みを実感せざるを得ない。
「上から目線」(「目線」ということばが登場して、「視線」という言葉が死語になりつつあるのに、私は抵抗感を感じているが、敢えて使う)が若者たちの間にも横行している今日、先行研究に対する畏敬のみならず、研究者にとって、あらゆる側面で要求されているのは謙虚さなのではないだろうか。
「分相応」という、若い頃には嫌いだった言葉があるが、端から見ると「分」を知らずに謙虚さを失い、前途を閉ざしてしまった人も少なからざるものがあるように思う。その点、私は幸運だったのかも知れない。
☆ 創価大学の坂井孝一先生より、御高論「曾我兄弟の敵討ちにみる史実から芸能への展開」収録の、小林健二編『中世文学と隣接諸学7 中世の芸能と文学』(竹林舎)を御恵送頂きました。
坂井先生に、あつく御礼を申し上げます。
☆ 奈良大学の河内将芳先生より、新刊の御高著『祇園祭の中世-室町・戦国期を中心に-』(思文閣出版)を御恵送頂きました。
河内先生に、あつく御礼を申し上げます。