お約束の『平清盛の時代』第4回目です
No.9607
源為義・義朝・為朝や、保元の乱に動員された坂東武士のことは、こちらで、
→http://www.chuko.co.jp/tanko/2012/01/004318.html
→http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33838.html(表紙は源義朝です)
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『平清盛の時代』(通学路の歴史探索)
第四回 法住寺合戦
寿永二年(一一八三)十一月十九日、後白河院の御所法住寺殿は、木曽義仲の軍勢の襲撃を受けました。この事件が、いわゆる「法住寺合戦」です。
この年の七月に平家を逐って入京した義仲でしたが、彼の率いた軍勢は烏合の衆であったために統制が取れず、飢饉直後の京都の貴賎の反感を買ってしまいました。さらに義仲は、皇位継承にまで介入しようとしたために、院とも反目することとなったのです。院は義仲を平家追討に向かわせておきながら、鎌倉の頼朝と手を結びました。これに怒った義仲が、院政の停止をはかって起こしたのがこの事件です。
平家の本拠地である六波羅と同様、東に山、西に鴨川をひかえた法住寺殿は、すぐれた城郭性を有していました。院は義仲の襲撃にそなえて、御所の周囲に堀を掘り、バリケードを構えただけでなく、院政期最大規模といわれる調伏法による宗教的武装も整えたのです。しかし、院方は有能な指揮官を得られず、法住寺南殿に全軍が立て籠もる態勢をとってしまいました。そのために、鴨川は水濠としての役割を果たせず、むしろ七条河原は義仲軍本隊の集結・出撃地点となり、醍醐路・瓦坂方面も今井兼平(義仲の乳兄弟)の率いる一手におさえられて山科・近江方面との連絡も遮断されてしまい、その機能をまったく発揮できなかったのです。一方、義仲配下の武士たちの院・貴族に対する怨みは凄まじく、多くの貴人が容赦なく殺害されました。
合戦に敗れて七条の末から鴨川を渡って京内に逃げ込んだ院方の武士たちを待ち受けていたのは、夥しい石礫でした。義仲配下のそれと誤解した在家人(都市民)たちが、家上に楯をついて投石を加えたのです。
合戦の舞台となった法住寺南殿(みなみどの)は、三十三間堂の南から大谷高校敷地の辺りにありました。大谷高校グラウンドは大きな池のあったところで、合戦に際して、幼い後鳥羽天皇は、この池に浮かべた小船の中に避難していたと伝えられています。
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『平清盛の時代』(通学路の歴史探索)
第四回 法住寺合戦
寿永二年(一一八三)十一月十九日、後白河院の御所法住寺殿は、木曽義仲の軍勢の襲撃を受けました。この事件が、いわゆる「法住寺合戦」です。
この年の七月に平家を逐って入京した義仲でしたが、彼の率いた軍勢は烏合の衆であったために統制が取れず、飢饉直後の京都の貴賎の反感を買ってしまいました。さらに義仲は、皇位継承にまで介入しようとしたために、院とも反目することとなったのです。院は義仲を平家追討に向かわせておきながら、鎌倉の頼朝と手を結びました。これに怒った義仲が、院政の停止をはかって起こしたのがこの事件です。
平家の本拠地である六波羅と同様、東に山、西に鴨川をひかえた法住寺殿は、すぐれた城郭性を有していました。院は義仲の襲撃にそなえて、御所の周囲に堀を掘り、バリケードを構えただけでなく、院政期最大規模といわれる調伏法による宗教的武装も整えたのです。しかし、院方は有能な指揮官を得られず、法住寺南殿に全軍が立て籠もる態勢をとってしまいました。そのために、鴨川は水濠としての役割を果たせず、むしろ七条河原は義仲軍本隊の集結・出撃地点となり、醍醐路・瓦坂方面も今井兼平(義仲の乳兄弟)の率いる一手におさえられて山科・近江方面との連絡も遮断されてしまい、その機能をまったく発揮できなかったのです。一方、義仲配下の武士たちの院・貴族に対する怨みは凄まじく、多くの貴人が容赦なく殺害されました。
合戦に敗れて七条の末から鴨川を渡って京内に逃げ込んだ院方の武士たちを待ち受けていたのは、夥しい石礫でした。義仲配下のそれと誤解した在家人(都市民)たちが、家上に楯をついて投石を加えたのです。
合戦の舞台となった法住寺南殿(みなみどの)は、三十三間堂の南から大谷高校敷地の辺りにありました。大谷高校グラウンドは大きな池のあったところで、合戦に際して、幼い後鳥羽天皇は、この池に浮かべた小船の中に避難していたと伝えられています。