もしも暲子内親王が即位していたら。
No.9576
後白河天皇が即位した事情については、元木先生の『平清盛と後白河院』(角川選書)31ページ以下をお読み下さい。この本は、近年における一般向けの政治史叙述における最高の業績だと思います。
それにしても、「王者議定」。女帝誕生の可能性があったわけですね。
「議定」は「ぎじょう」。信西が参加できる身分ではなかったことは、まえに美川先生がお書きになったとおりです。もちろん、・・・は言うに及ばず。
鎮西八郎為朝については、拙著『武門源氏の血脈』(中央公論新社)の45ページを御参照下さい。実は九州における武士成立史については一書を用意しており、8割がた完成しているのですが、いろいろ用事が重なっている間に・・・、という次第です。本当は編集者の方に、お名前をあげてお詫びしなければならないところなのですが。
さて、先週で、「平清盛と京都」は終了となりましたので、今週からは、昨年、宗教部の『芬陀利華』に連載した記事を貼り付けることに致します。基本は京都女子大学の学生諸姉が対象の読み物ですが、それ以外の方にも十分楽しんで頂けるものと思います。
原題は『通学路の歴史探索』でしたが、今回は仮に『平清盛の時代』というタイトルをつけました。
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平清盛の時代(通学路の歴史探索)
第1回 「七条町の借上の女」
上りの新幹線で京都駅を出るとすぐ、左の車窓に清水寺の朱塗りの三重塔に並ぶようにして京都女子大の学舎が見える。そのたびにいつも本学の立地はなんと素晴らしいのだろと思います。でも、本学の所在地は単に風光明媚であるというだけではありません。周辺にのこる数々の文化遺産が語るように、そこは日本史の檜舞台でもありました。
せっかく、そんな大学に通っているのに、それを楽しまない手はありません。そこで、皆さんの多くが通学のルートとしている京都駅から本学までの間が、どんな歴史を秘めたところであったのか、これから七回のシリーズで紹介していきたいと思います。それにしても、あまりに語るべきことが多いので、時代は私の専攻する中世前期を主たる対象に絞らせて頂くことにします。第一回の今回は、京都駅の北側にあった「七条町」を取り上げることに致しましょう。
京都駅の北側に出ると、目の前に巨大な蝋燭形の京都タワーが立っています。この辺り、七条通り(七条大路)と新町通り(町尻小路)の交差点を中心としたエリアは平安時代末から鎌倉時代にかけて「七条町」と呼ばれ、日本経済の中心だったところでした。ここには武器や鏡などの金属加工の業者や仏像をつくる仏師の工房が立ち並び、また借上(かしあげ)という金融業を営む者も多く居住していました。
ちなみに、当時の金融業界では女性が多く活躍していました。それを皮肉を込めて描いたのが『病草紙』の「七条わたりの借上」の図です。高利貸しで巨利を貪るこの女性は、裕福なために美味いものばかり食べていたので、ついに自分一人で歩くことが出来ないほど肥満になってしまったというわけです。同じ時代、鴨川の河原には飢餓の末に息絶えた人々の骸が無数に転がっていたことが伝えられています。そこから、ほんの数百メートルも離れていないところに、こんな飽食の世界が現出していた。現代における地球規模の南北問題のとんでもないほどの縮図がここに見出せるというわけです。
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☆ 立命館大学客員研究員の谷昇先生より、御高論「興福寺・和泉国司紛争と後鳥羽上皇-建久九年初度熊野御幸をめぐって-」(『立命館文学』624)を御恵送頂きました。
谷先生に、あつく御礼を申し上げます。
それにしても、「王者議定」。女帝誕生の可能性があったわけですね。
「議定」は「ぎじょう」。信西が参加できる身分ではなかったことは、まえに美川先生がお書きになったとおりです。もちろん、・・・は言うに及ばず。
鎮西八郎為朝については、拙著『武門源氏の血脈』(中央公論新社)の45ページを御参照下さい。実は九州における武士成立史については一書を用意しており、8割がた完成しているのですが、いろいろ用事が重なっている間に・・・、という次第です。本当は編集者の方に、お名前をあげてお詫びしなければならないところなのですが。
さて、先週で、「平清盛と京都」は終了となりましたので、今週からは、昨年、宗教部の『芬陀利華』に連載した記事を貼り付けることに致します。基本は京都女子大学の学生諸姉が対象の読み物ですが、それ以外の方にも十分楽しんで頂けるものと思います。
原題は『通学路の歴史探索』でしたが、今回は仮に『平清盛の時代』というタイトルをつけました。
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平清盛の時代(通学路の歴史探索)
第1回 「七条町の借上の女」
上りの新幹線で京都駅を出るとすぐ、左の車窓に清水寺の朱塗りの三重塔に並ぶようにして京都女子大の学舎が見える。そのたびにいつも本学の立地はなんと素晴らしいのだろと思います。でも、本学の所在地は単に風光明媚であるというだけではありません。周辺にのこる数々の文化遺産が語るように、そこは日本史の檜舞台でもありました。
せっかく、そんな大学に通っているのに、それを楽しまない手はありません。そこで、皆さんの多くが通学のルートとしている京都駅から本学までの間が、どんな歴史を秘めたところであったのか、これから七回のシリーズで紹介していきたいと思います。それにしても、あまりに語るべきことが多いので、時代は私の専攻する中世前期を主たる対象に絞らせて頂くことにします。第一回の今回は、京都駅の北側にあった「七条町」を取り上げることに致しましょう。
京都駅の北側に出ると、目の前に巨大な蝋燭形の京都タワーが立っています。この辺り、七条通り(七条大路)と新町通り(町尻小路)の交差点を中心としたエリアは平安時代末から鎌倉時代にかけて「七条町」と呼ばれ、日本経済の中心だったところでした。ここには武器や鏡などの金属加工の業者や仏像をつくる仏師の工房が立ち並び、また借上(かしあげ)という金融業を営む者も多く居住していました。
ちなみに、当時の金融業界では女性が多く活躍していました。それを皮肉を込めて描いたのが『病草紙』の「七条わたりの借上」の図です。高利貸しで巨利を貪るこの女性は、裕福なために美味いものばかり食べていたので、ついに自分一人で歩くことが出来ないほど肥満になってしまったというわけです。同じ時代、鴨川の河原には飢餓の末に息絶えた人々の骸が無数に転がっていたことが伝えられています。そこから、ほんの数百メートルも離れていないところに、こんな飽食の世界が現出していた。現代における地球規模の南北問題のとんでもないほどの縮図がここに見出せるというわけです。
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☆ 立命館大学客員研究員の谷昇先生より、御高論「興福寺・和泉国司紛争と後鳥羽上皇-建久九年初度熊野御幸をめぐって-」(『立命館文学』624)を御恵送頂きました。
谷先生に、あつく御礼を申し上げます。