もしも暲子内親王が即位していたら。

No.9576

 後白河天皇が即位した事情については、元木先生の『平清盛と後白河院』(角川選書)31ページ以下をお読み下さい。この本は、近年における一般向けの政治史叙述における最高の業績だと思います。
 それにしても、「王者議定」。女帝誕生の可能性があったわけですね。

 「議定」は「ぎじょう」。信西が参加できる身分ではなかったことは、まえに美川先生がお書きになったとおりです。もちろん、・・・は言うに及ばず。  

 鎮西八郎為朝については、拙著『武門源氏の血脈』(中央公論新社)の45ページを御参照下さい。実は九州における武士成立史については一書を用意しており、8割がた完成しているのですが、いろいろ用事が重なっている間に・・・、という次第です。本当は編集者の方に、お名前をあげてお詫びしなければならないところなのですが。

 さて、先週で、「平清盛と京都」は終了となりましたので、今週からは、昨年、宗教部の『芬陀利華』に連載した記事を貼り付けることに致します。基本は京都女子大学の学生諸姉が対象の読み物ですが、それ以外の方にも十分楽しんで頂けるものと思います。
 原題は『通学路の歴史探索』でしたが、今回は仮に『平清盛の時代』というタイトルをつけました。

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 平清盛の時代(通学路の歴史探索)
   第1回 「七条町の借上の女」

 上りの新幹線で京都駅を出るとすぐ、左の車窓に清水寺の朱塗りの三重塔に並ぶようにして京都女子大の学舎が見える。そのたびにいつも本学の立地はなんと素晴らしいのだろと思います。でも、本学の所在地は単に風光明媚であるというだけではありません。周辺にのこる数々の文化遺産が語るように、そこは日本史の檜舞台でもありました。
 せっかく、そんな大学に通っているのに、それを楽しまない手はありません。そこで、皆さんの多くが通学のルートとしている京都駅から本学までの間が、どんな歴史を秘めたところであったのか、これから七回のシリーズで紹介していきたいと思います。それにしても、あまりに語るべきことが多いので、時代は私の専攻する中世前期を主たる対象に絞らせて頂くことにします。第一回の今回は、京都駅の北側にあった「七条町」を取り上げることに致しましょう。
 京都駅の北側に出ると、目の前に巨大な蝋燭形の京都タワーが立っています。この辺り、七条通り(七条大路)と新町通り(町尻小路)の交差点を中心としたエリアは平安時代末から鎌倉時代にかけて「七条町」と呼ばれ、日本経済の中心だったところでした。ここには武器や鏡などの金属加工の業者や仏像をつくる仏師の工房が立ち並び、また借上(かしあげ)という金融業を営む者も多く居住していました。
 ちなみに、当時の金融業界では女性が多く活躍していました。それを皮肉を込めて描いたのが『病草紙』の「七条わたりの借上」の図です。高利貸しで巨利を貪るこの女性は、裕福なために美味いものばかり食べていたので、ついに自分一人で歩くことが出来ないほど肥満になってしまったというわけです。同じ時代、鴨川の河原には飢餓の末に息絶えた人々の骸が無数に転がっていたことが伝えられています。そこから、ほんの数百メートルも離れていないところに、こんな飽食の世界が現出していた。現代における地球規模の南北問題のとんでもないほどの縮図がここに見出せるというわけです。
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☆ 立命館大学客員研究員の谷昇先生より、御高論「興福寺・和泉国司紛争と後鳥羽上皇-建久九年初度熊野御幸をめぐって-」(『立命館文学』624)を御恵送頂きました。
 谷先生に、あつく御礼を申し上げます。

こどもの日

No.9575

 今日は端午の節句。まだ幼稚園に行く前の頃、祖父が自宅の前の畑に大きな鯉のぼりを揚げてくれたことを思い出します。鯉のぼりの棹はとても高く、天辺でカラカラ回る矢車も大きなもので、棹になる材木を用意して、あんなに立派な鯉のぼりを自力で揚げてくれた祖父には、今さらながら感謝あるのみです。私は自分の孫に同じことはしてやれません。

 この連休は、編集者とのお約束を何とか履行するべく、一日中、分厚い『平安時代史事典』をめくりながら、PCに向き合っております。おかげて、またウェストの辺りに余分なものが付着し続けているようなので、昨日は、午後になってから、運動を兼ねて、今、法性寺で一般公開している千手観音像を拝観に行きました。美川先生が絶賛されていたので、ぜひにと思った次第です。
 ところが、行ってみると寺の門前には長蛇の列。30分待ちとのこと。
 それならばという次第で、近くの東福寺に行き、最勝金剛院にある九条(藤原)兼実の廟に参拝。ミネルヴァの『日記で読む中世史』に『玉葉』について一文を書かせて頂いたこと、そして、来週からゼミで『玉葉』の講読会を始めることを報告いたしました。
 それから六波羅門を出て、皇嘉門院の陵墓に向かいました。『玉葉』には、兼実が皇嘉門院の墓に詣でた記事がありましたが、あの条は何年何月何日だったかは失念。しかし、この場所からの京都の眺望は絶景。西山が大学辺りから見るのとはまったく異なって峻厳に見えました。
 ここからさらに、坂を上り、北側の谷を下ってから再び坂を上がって泉涌寺に出、戒光寺(丈六釈迦如来像を拝観)、即成院を経て帰路につきました。予定していた法性寺には入れませんでしたが、運動量は予定以上。しかしながら、後の過食で元の木阿弥となったことは例の如しです。

 ※ 東福寺の周辺を散策しようとする方には、中央公論新社『日本の中世 8 院政と平氏、鎌倉政権』のp227~237(上横手先生の御執筆部分です)がよきガイドになります。

 ☆ 立命館大学衣笠研究機構の花田卓治君より、御高論「観応・文和年間における室町幕府軍事体制の転換」(『立命館文学』624)を御恵送頂きました。
 花田君にあつく御礼を申し上げます。

 鴨川の床開きの日に

No.9573

 メーデーの昨日、京女は「調整・集中補講日」のため、基礎演習Ⅰもゼミもお休み。
 岩田君は草津へ。おそらく関東の方は、草津というと、「草津よいとこ~♪」の草津温泉を思い出されるかも知れませんが、関西人にとっての草津とは滋賀県の草津市のことです。
 私の方は夜に、当ゼミもいつも大変お世話になっている先生の御栄転のお祝いの会に、鴨川べりの木屋町まで。日本古代・中世史学界の重鎮の先生方とともに美味しいお料理を頂きました。おりしも、納涼床の床開きの日だったので、隣のお店の床には凄い髪飾りをつけた楊貴妃のような舞妓さんの姿が見えたりいたしました。
 久しぶりにすこしばかり本物のビールも頂いて満腹になったのですが、この<満腹>の周囲の長さを計測するに、おそらく学生時代のそれよりも20センチ以上増加しているに相違なく、大問題であることを自覚せねばなりません。このところ、ひどい倦怠感と眠気に苛まれ続けているのは、かかる事態と連動しているのでありましょう。とはいえ、運動をすると酷く疲れますし、困ったことであります。
 本日、京女は創立記念日。「初心忘るべからず」です。

 ☆ 青山学院大学の佐伯真一先生より、御高論「「ひとつはちす」考」(『青山語文』42)および『紫苑』第10号掲載の論文等に対する貴重なコメントを頂きました。
 佐伯先生にあつく御礼を申し上げます。
編集:2012/05/03(Thu) 20:58

新緑の季節の『吾妻鏡』

No.9574

 先日ははじめて草津へ行って参りました。滋賀の草津もよいとこでした。
 世は連休ですが、来週の『吾妻鏡』のご案内を再掲します。

 日時:2012年5月8日(火)午後4時すぎ~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁三年(1203)九月二日の残り・三日・四日・五日・六日・七日・十日・十二日・十五日・十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日の各条

 今年度から火曜日開催となった『吾妻鏡』購読会、5月は8日(火)、15日(火)、22日(火)、29日(火)に開催予定です。

 前回は九月二日条をすべて読めませんでしたので、次回はその続きからとなります。
 また、次回以降はわけあって開始時間を四時過ぎに変更させていただいております。メンバーのみなさんにはご迷惑・ご不便をお掛け致しますが、よろしくお願い致します。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

 何はともあれ?「清盛・平家とその時代」

No.9571

 源氏の為義・義朝・義賢については、元木先生の『河内源氏』(中公新書)や拙著『武門源氏の血脈-為義から義経まで-』(中央公論新社)を御覧下さい。

 さて、今週も何はともあれ・・・。
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 「平清盛と京都」 ④ 九条末の新拠点
 還都後の清盛
 周囲の猛反対にもかかわらず福原への遷都を企てた清盛が、それを断念して京都への還都に踏み切ったのは富士川合戦の敗報が届いた直後、治承4年(1180)11月のことであった。東国における反乱勢力の追討と福原遷都の両立の困難を悟ったのであろう。しかし、清盛は失意に打ちひしがれていたわけではなかった。清盛にとっての還都とは、従来彼が本拠としていた福原を離れ、京都への復帰を意味するものであり、内乱鎮圧のために政治の最前線に立つ意志を示したことにほかならなかったのである。ここで清盛は新手の追討軍の派遣や貴族たちに兵士を進上することを命じるなどの方策をとるとともに、京都近郊における反平家の武装宗教勢力に対して容赦のない攻撃を仕掛けたのである。12月には園城寺、ついで東大寺をはじめとする南都寺院が焼き討ちを受けて壊滅に至っている。
 同時に清盛は、反乱軍の攻撃に備えて京都の要塞化を企てたようである。それは、九条末(すえ)・八条河原にあらたな軍事拠点を設定する策であった。 

 新首都の構想
 治承3年6月、清盛の子宗盛は、亡き妻の菩提を弔うため、九条の末・鴨川の東(一の橋の西辺)に一堂を建立しているが、同5年正月、清盛は宗盛とともに、この堂(おそらく付属の御所)を居所とするようになる。それにともなって、周辺の河原の地に平家の郎従を住まわせるために、右大臣の九条兼実にまで、その所領の割譲を求めている。実際、平家家人のこの地への移住も進められたようで、二の橋の辺りに「悪七兵衛」の異名で知られる平家の有力家人藤原(伊藤)景清が宿館を構えたことを確認することができる。
 さらに清盛は、2月に安徳天皇を弟頼盛の八条室町亭にうつしている。貴族たちは天皇を京外に住まわせることを忌避したので、妥協したのであろう。一方、後白河院も八条の末に位置する最勝光院南御所(法住寺殿の南の域内)を居所とすることになった。ちなみに、後白河院の子で安徳天皇の父にあたる高倉上皇は、この正月に亡くなっている。
 清盛は、いったんは高倉・安徳の王権と一体化した「福原王朝」を構想したが、その実現に失敗した段階で、また京都に戻り、内裏(天皇の御所)は京域内に置くにしても、六波羅・法住寺殿から九条の末におよぶ大きなエリアを新しい首都とすることを意図したのではないかと思われるのである。

九条末の空間
 清盛が九条末の地に平家の新拠点を設営しようとした事情として、反乱勢力の追討に備えて諸国から徴集した大軍の宿営地を確保する目的のあったとする意見があるが、そればかりではないだろう。この辺りは、宇治方面から大軍が入京しようとする際にどうしても通過しなければならない地点で、鴨川と東山にはさまれた要害の地である。実際、清盛は最勝光院の南境の「法性寺一ノ橋」と通称される地点の付近に堀をめぐらせた城郭を構築しており、建久7年(1196)、平知忠ら平家の残党がここに籠城して幕府に反旗を翻している。また、寿永2年(1183)7月の都落ちの際にも、平家軍の一部が引き返して法性寺の最勝金剛院に城郭を構えるという情報が流れたこともあった。
 中世前期の城郭は主要交通路を遮断する機能をもつもので、武士の居館は河川・山麓・大道などを前提に立地していた。すなわち平泉や鎌倉・福原は城郭によって遮断された空間に存在した要塞都市として評価され、その条件は六波羅・法住寺殿・九条末を含む鴨川の西にして東山の西麓の地にも適合するのである。従来、平家にたいしては貴族的な側面を重視する見方がなされがちであったが、こうした拠点の立地の問題も踏まえて、軍事権門としての側面を評価していくことが今後の課題となるであろう。

 清盛の死と新首都構想の消滅
 治承5年(1181)閏2月4日の戌の刻(午後時8頃)、九条河原口にあった平家の重臣平盛国の家において清盛は死んだ。彼は閉眼の時、子孫らに最後の一人まで戦い抜けと命じたという。
 盛国の家の位置は「八条河原」とも伝えられており、清盛は平家の新拠点の設営に邁進する中、その現場で波乱に満ちた64年の生涯を終えたことになる。 清盛の死によって、宗盛が平家一門の総帥になった。しかし、彼は父の所行を否定するとともに、後白河院に政治権力を返上してしまう。これによって、八条室町にいた安徳天皇も左京の中央にあった閑院内裏に戻って、整備されつつあった新首都の機能も消滅することになったのである。
 平家一門があわただしく京都を落ちていったのは、それから2年半ほど後の、寿永2年(1183)7月のことであった。
          (『京都民報』2012年3月4日付 より)
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 6月23日(土)の午前に京都文化博物館で、髙橋昌明先生の御講演があるようです。
         http://www.bunpaku.or.jp/exhi_kiyomori.html
おりしも、同日の午後には本学で当方の公開講座が予定されております。
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  シリーズ「東山から発信する京都の歴史と文化」⑭
        『平家・王権・儀礼』
      元木泰雄氏(京都大学大学院教授)「平清盛と後白河院」
      服藤早苗氏(埼玉学園大学教授)「院政期の五節」
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これは、京都に来る甲斐があるというものではありませんか。
編集:2012/04/30(Mon) 00:23

美の共犯者、平清盛

美川圭
No.9572

「重盛に 基盛それに 清三郎 清四郎みな われらの子なり」あきれる人たちに向かい清盛は、自分が家族や家人たちをなにより大事に思っていること、歌会よりケンカした妻に一刻も早く謝りたいという思いを述べた。

 なんなんだ、これは。あきれてものが言えなくなってしまった。とにかく、幼稚である。少なくとも、大人がつくっているとは思えない。

 昨晩は、これを18:00からのBSで見て、そのあと、20:00から、同じ局でつくっているとは思えない「セザンヌ」の特集を、日曜美術館で見た。そこから、平安貴族社会の美の世界ということが、脳裏をめぐりはじめた。そこで、予定を早めて、今日、京都国立博物館でやっている陽明文庫名宝展を見に行き、そのあとこのゴールデンウィーク中一般公開している法性寺の千手観音像を見てきた。

 とにかく、近衛家のつたえた品々は美しい。摂関家、とく九条家がたいせつにしていた千手観音像もすばらしい。この美意識は平安中期から後期につくられたもので、完全に時代をこえている。セザンヌがフランスの美意識の頂点にあるのと、近いのではないかと考える。

 この平安貴族社会の美の世界に、清盛はなんとか入り込んだのである。それは、父忠盛の涙ぐましい努力の成果をうけたものであった。そして、その美の共犯者となったのである。そのことは、平家納経、あるいは後白河のためにつくった蓮華王院(三十三間堂)などを見ればわかる。

 しかし、貴族社会の美の世界は、薄汚い庶民の世界の対極にある。その美の世界は、その庶民からの富の徹底的収奪の所産である。清盛をその庶民の側にあると見誤ってしまったために、この大河ドラマは支離滅裂になり、崩壊した。

 「俺たちに休みはない」

No.9570

  「世間」は連休ですが、私たちにとっては、(僅かにのこされた)研究に集中できる貴重な期間です。

 7月7日(土)の史跡見学会について、お手伝いをお願いしたところ、「お手伝い」をお願いするのが憚れるほどの専門研究者の方が手を挙げて下さり、恐縮しています。ありがとうございました。
 平清盛関連の京都における史跡見学の案内は、11月19日(月)にも御依頼を頂いております。こちらは参加人数も見学先も多いので、またお手伝いをお願いする事になろうかと思います。こちらも、また宜しくお願い致します。

 本日、『軍記と語り物』の48号が届きました。長村祥知君の「木曾義仲の上洛と『源平盛衰記』-近江湖東路の進軍と反平家軍の連携-」が掲載されています。武士論および治承・寿永内乱に関心のある方は必ずお読み下さい。長村君による木曾義仲に関する単著の刊行が待望されるところです。
 なお、同誌に掲載されている【軍記物研究文献目録】は、歴史学の研究者にも大いに参考になる資料で、重要な研究成果がしっかりと網羅されています。

【追記】 >>No.9561の末尾に記した件については、「もう大丈夫」とのことです。
    私も安心致しました。よかった、よかった。

 平家関連の史跡見学

No.9569

 滝沢さんがツイッターで情報を流してくださいましたが(*)、7月7日(土)に京都文化博物館の特別展『平清盛』関連のイベントとして、六波羅から法住寺殿跡周辺の史跡を御案内する予定です。
 全行程徒歩なので、どなたかに、お手伝いをお願いしようかと考えているのですが、如何ですか?

 ちなみに、今日(26日)の『朝日新聞』夕刊に私の「人相書」?or「手配写真」?が掲載されているそうです。京都版だけなのだと思いますが、如何ですか?

 本日(26日)はⅢ講時の講義で熱弁?を振るってしまい、後で疲れて大変でした。痛切に老化を感じております。周りから見て如何ですか?

 『紫苑』第10号の発送もなかなか進んでおらず、申し訳ありません。

 『玉葉』講読会に参加を希望される方は、御連絡ください。第一回目に使用する九条家本のコピーを用意します。

 (*) 正しくは「情報をRTしてくださいました」でした。(お詫びして訂正しますwww)
    いずれにしても、その情報のもとは↓にあります。
              http://www.bunpaku.or.jp/exhi_kiyomori.html

 5月8日から、『玉葉』の講読会も始めます

No.9568

 岩田君、昨日は御多用の所、ありがとうございました。
 また、『吾妻鏡』講読会の御案内もありがとうございました。>>No.9567
 昨日は、3回生のメンバーも勢揃いして、盛会になりました。

 御案内のように次回のゼミ史料講読会は5月8日(火)の開催になりますが、『吾妻鏡』が16時過ぎから開始ということなので、Ⅳ講時(14:45~)の時間を利用して『玉葉』の講読を行うことに致しました。この終了後に小休止してから『吾妻鏡』講読会という段取りです。
 
 というわけで、これからのスタートですので、『玉葉』そのもや、記録の読解力を身に着けたい方、さらに治承・寿永内乱期の歴史に関心をもつ方など、ぜひ加わって頂きたいと思います。院生・学部生、所属大学や専攻は問いません。治承四年(1180)の以仁王の挙兵辺りから、内乱関連の記事を拾いながら読み進める予定です。
 場所は研究所共同研究室(L校舎3F)です。

 ☆ 青山学院女子短期大学の清水眞澄先生より、御高論「願文を読むということ-『平清盛願文』の注釈と醍醐寺の法脈をめぐって-」(『聖徳大学 言語文化研究所 論叢』19)を御恵送頂きました。 
 清水先生に、あつく御礼を申し上げます。

「基礎演習Ⅰ」の発表テーマ

No.9566

 本日24日火曜日の「基礎演習Ⅰ」はいよいよ研究発表開始。
 寺田さんの発表テーマは「どうしてガールズイベントは人気があるのか?」
 内藤さんの発表テーマは「方言について」

サツキとメイの『吾妻鏡』

No.9567

 つい先日、「一枚羽織れるものがほしい」というようなことを書いたのですが、一転、すっかり初夏のような気候ですね。次回は五月、文字通り初夏の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年5月8日(火)午後4時すぎ~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁三年(1203)九月二日の残り・三日・四日・五日・六日・七日・十日・十二日・十五日・十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日の各条

 今年度から火曜日開催となった『吾妻鏡』購読会、5月は8日(火)、15日(火)、22日(火)、29日(火)に開催予定です。

 本日(4/24)は九月二日条をすべて読めませんでしたので、次回はその続きからとなります。
 また、次回以降はわけあって開始時間を四時過ぎに変更させていただいております。メンバーのみなさんにはご迷惑・ご不便をお掛け致しますが、よろしくお願い致します。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

『清盛・平家とその時代』

No.9562

 何はともあれ、元木先生の『平清盛と後白河院』(角川選書)をお読みください。いろいろな面で安心できるはずです。
 余裕のある方はこちらも、どうぞ。
http://www.chuko.co.jp/tanko/2012/01/004318.html

 お約束の第3回です。
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   清盛と京都 ③ 西八条と七条町

 時子亭を中心とした西八条
平家が西八条に邸宅を有したのは忠盛の時代に遡るが、その全盛期に占有した空間は左京八条一坊五・六・十一~十四町の計六町と推定され、さらに周囲には重盛(小松殿)・宗盛ら一門の居亭や家人・郎等の宅が軒を連ねていた。『延慶本(えんぎょうぼん)平家物語』は、平家の西八条について「大小棟の数五十余に及べり」と述べている。福原遷都の頃には、平知盛に仕える侍二人が、八条坊門北・坊城西(八条一坊二町にあたる)にあった藺草(いぐさ)田を押領して、そこに住み着いたという事実があり、六波羅と同様に、西八条の周辺にも平家の一門・家人・郎等たちが、ベースキャンプを形作っていたもののようである。
 西八条の中心は十一町の邸宅「二品(にほん)亭」であった。「二品」とは清盛の妻時子のことで、西八条は時子の居亭を中心に発達したものと見ることができる。平家が西八条を本拠にしていた時代、清盛は福原にあり、在京して実質的に平家一門を束ねる役割を果たしていたのが時子だったのである。十二町には時子の建てた仏堂があり、十三町には娘の盛子(関白・摂政をつとめた藤原基実の妻)が居亭を構えていた。
 西八条は京中に位置することから六波羅のような自然地理的な要害性は認められない。しかし、武器・武具および馬にかかわる流通・生産の拠点である七条町(まち)に近接し、山陽・山陰道方面(西国)への出入り口であり、元暦元年(1184)、一ノ谷合戦の際に源義経が摂津国の軍勢をここに集結させたことで知られる「七条口」の付近に位置したことは、やはり軍事権門の拠点にふさわしい立地であることを示している。

武門を支えた七条町
 七条町は七条大路と町尻(まちじり)小路(現在の新町通)の交差点を中心とした商工業区で、平安末期には三条・四条町と並んで、京都で最も画期にあふれる地域に成長していた。このあたりは平安京の区画でいえば左京七条と八条に属する。現在の京都駅北側の一帯をしめる地域である。
 中世の武士、とりわけ多数の家人・郎等を率いて国家の軍事・警察を担う武門にとって、馬・武器・馬具等の調達といった物質的問題こそ、その存立にとって最も重要な課題の一つであった。したがって、その居住地もそれに規定されるわけで、武具・馬具を専売品とした律令制下の平安京東市(ひがしのいち)の機能を継承・発展させた流通の拠点である七条町周辺に武門の居亭が集中するのは当然の成り行きであった。
 院政期、源氏が六条大路沿いに住んだのは、六条に白河院の御所が置かれていたことともに、七条町の至近であったからであろう。この時代の七条町が源平二氏に代表される軍事権門の需要に支えられていたことは、考古学的にも明らかにされており、新京都センタービル(下京区塩小路烏丸西入ル)建設に伴う調査では、ほかに前例をみないほど大量の刀装具の鋳型(いがた)が出土しており、その生産時期のピークはほぼ平家の全盛期に重なることが判明している。
 
 最大の荘園領主八条院
 ちょうどこの平家全盛期に、七条町の近く、現在の京都駅のあるところには、後白河院の妹である八条院暲子(あきこ)内親王の御所があった。彼女は鳥羽院の皇女で、母は美福門院藤原得子(なりこ)。後白河院にとっては異母妹にあたるが、230箇所にも及ぶ王家領の荘園を伝領し、当時最大の荘園領主であった。彼女の御所は八条三坊十三町に、家政機関の置かれた八条院庁(いんのちょう)は十一町に、御倉町(みくらまち)は十四町にあった。御倉町は倉庫群のほか、宿所・厨(くりや)・細工所(工房)等を併設した家産経済の中心であり、その門前は、ここで働く工人・雑人のほか、遠く東国にも散在する八条院領荘園から山のような貢物を伴って上洛した人びとであふれかえっていたことであろう。ほかに、八条院領として八条二坊十二町・三坊四町・六町・十五町・四坊二~五町が附属しており、さらに周辺には八条院の関係者である平頼盛(池殿)が三坊の五町、九条良輔が十二町、といった具合に居亭を所有していたから、八条東洞院を中心とする一帯は、あたかも八条院の都市といってもよいほどの景観を作り上げていたといえる。
 かくして、12世紀末の七条町には、八条院や平家領からの生産物のみならず、ひろく東アジア各地からの舶載品も大量にもたらされた。このことは、当地域から大量の輸入陶磁器が出土することが直截に物語ってくれる。日宋貿易の主催者である平家や大荘園領主である八条院が近くに本拠を置き、国内の流通の結節点でもあった七条町は、日宋貿易の終着点としての機能を担っていたのである。
                  (『京都民報』2012年 2月26日付 より)

ドラマとしてのできが悪いのです

美川圭
No.9563

今週も野口先生のいわれる「何はともあれ」の部分の話をしなければなりません。

まず、きのうの土曜日、朝日新聞夕刊に「清盛」低迷のワケ、という記事が出ていました。大河ドラマ歴代最低レベルの視聴率なのは、なぜなのかという内容です。これを読むと、関係者の認識がかなりピントがずれていることがわかります。

理由のひとつが「NHKは今作でリアルな平安時代の再現にこだわった」とあり、その一例として「衣装」の問題があげられています。私にはこの「リアル」という意味がよくわかりません。何よりも「リアル」にこだわっているのは、元木先生をはじめとした歴史学者なのです(私も、その1人であるという自負はさすがにあります)。しかし、そうした成果を無視して、何が「リアル」でしょうか。

 「例えば衣装」などといっていますが、あんな薄汚いかっこでうろうろする「安芸守平清盛」のどこが「衣装」の面で「リアル」なのでしょうか。どこか別の星の「平安時代」(パラレルワールドというべきか)ならいざしらず、あんなもので平安時代をリアルにえがいたなどと、冗談ではありません。「絹などの生地が豊富になかったことを踏まえ、登場人物の衣装を意図的に汚し、使い古した感じを出した」などといい、時代劇研究家の春日太一さん(この人を私は知りませんが)の「映画のようなリアルさを求めたのは評価できるが、違和感を感じた視聴者が離れてしまったのだろう」というコメントが載っています。これもよくわからない。私もけっこう映画を見てきたのだが、だいたい「映画のようなリアルさ」という意味がまったくわからないのです。映像のトーンのことだろうか。たしかに黒澤映画では身分の低い人は汚いかっこをしています。しかし、なにか「映画」を誤解しているのではないか。

実際は、身分の高い人はよい着物を身につけているはずであり、また少なくとも宮中に汚れた姿では行かないというのが「リアル」ということです。少なくとも服は洗濯をして、体も綺麗に洗っていく(清めていく)はずです。その意味で当時の貴族社会ではまったくありえない状況を描いたいるのであって、逆に「リアル」ではないからこそ、視聴者は離れていくのです。

「時代になじみがない」というNHK会長のコメントも載っている。しかし、『平家物語』という日本の古典屈指の作品がある時代であり、しかもその主人公を描いているのであって、ほんとうに時代になじみがないのであろうか。たまたまNHK会長自身に、残念ながら古典の素養がない、という程度のことにすぎないのではないか。

それに関連して、「序盤の展開が複雑で人間関係も入り組んでおり、武士の勇ましいサクセスストーリーを期待した視聴者は『ちがうじゃないか』と思ったのかもしれない」というチーフプロデューサーのコメントが載っている。今回、このコメントがもっとも見当外れであると思いました。複雑で入り組んだ人間関係を、その本筋を改変せず、場合によっては登場人物を限定させて、整理して、いかにわかりやすく示せるか、というのがドラマづくりの見せ所でしょう。それができていないのは、作り手の(つまりこのプロデューサーを含めた)未熟さのはずです。しかも、わけのわからないフィクションを、唐突に付け加えれば付け加えるほど、ますますドラマが方向性がわからなくなってしまう。「武士の勇ましいサクセスストーリーを期待している視聴者」とあきらかに視聴者を小馬鹿にしていますが、こういう姿勢だからよいドラマが作れないのです。作り手の歴史認識の方が単純すぎて、視聴者はその低級なレベルにあきれはてているというのが、実情でしょう。

今回も、何も言いたくもありません。源為義がまるで火付け盗賊のように描かれています。天皇や貴族のために、火付け盗賊の役割をさせられている武士が、その立場を脱して「武士の世をつくる」ドラマのようです。そんなのはあきらかに絵空事で、「リアル」でも何でもありません。そのために、ずいぶん無理をして、変な事実を付け加えていました。摂関家の朱器・台盤がまるで、盗賊のような為義に奪われていました。その前に、忠実・頼長による整然たる東三条殿接収の事実があるのに、それを描かないので、視聴者には何がなんだかわからないはずです。頼長の家人による家成邸襲撃も、あれでは強盗に入られただけのように映ってしまいます。ドラマのプロならば、もっと説得力のある映像にしなければなりません。たんなる「ならず者同士」のあらそいではなく、「権力者」のこわさを感じさせるのが「演出」というものでしょう。

忠盛は中井貴一の演技によって、立派な人物に描かれていますが、けっきょくなぜその人が、粗野で単細胞の「バカ盛」を後継者に指名したのか、けっきょくドラマとしての説得力はありませんでした。

今回も20分過ぎから、時計を見い見い、苦痛の45分でした。残念ながら、現在のスタッフでは、今後のドラマの好転は望めないでしょう。5月打ち切りぐらいがベストではないでしょうか。とにかく、ドラマとしてのできが悪すぎるのです。

「映画のようなリアルさ」

滝沢智世
No.9564

美川先生はじめまして。史学科3回の滝沢と申します。

春日太一さんのコメントについてなのですが、どうやらそのコメントは朝日新聞の記者による勝手な解釈で要約され、付け足された言葉なのだそうです。記事自体の内容も春日さんの意図するものとは違うものになってしまっているそうです。偶然twitterで春日さん自身がこの記事で時代劇研究家・春日太一を判断して欲しくないと言っておられるツイートを見たので一応ここに書かせて頂きました。

春日太一さんのツイッターアカウントとこの件に関しての春日さんのブログの記事です。→ tkasuga , http://jidaigeki.no-mania.com/Entry/102/

春日さんのコメント

美川圭
No.9565

滝沢さん、はじめまして。京都女子大学文学部の学生さんですね。

春日さんのツイッターご紹介いただき、感謝しています。

私も、新聞の取材を数回うけたことがあるのですが、幸いにいずれも優秀な記者さんで、よく勉強されており、このような目にあったことはありません。しかし、よく話には聞きますが、こんなこともあるのですね。私も今後、気をつけたいと思います。

春日さんのコメントについて、新聞記事を鵜呑みにしたので、私自身反省しております。

 来週の予定など

No.9561

 月曜日はラボール学園で「保元・平治の乱」をテーマにお話をさせて頂きます。この両乱に対する認識も以前に比べてだいぶ変わりました。
 やはり、「武士がどうのこうの」という前に、当時の中央政界の実態、貴族社会の身分秩序や制度的理解なしでは話になりません。元木先生の御著書から学ぶところ多大でした。 月曜日、その成果をどの程度反映してお話しが出来るかどうか。
 レジュメはA3で7枚にもなってしまいました。

 火曜日の「基礎演習Ⅰ」はいよいよ研究発表開始。寺田さんの発表テーマは「どうしてガールズイベントは人気があるのか?」とのことです。

 この週から、ゼミの講読会は火曜日に設定。中心メンバーの週予定にまだ不確定なところがありますので、また5月以降については開始時間など、再検討が必要かも知れません。 3回生の都合によって、Ⅳ講時に『玉葉』を読み。Ⅴ講時以降の時間に『吾妻鏡』を読むという案も浮上してきています。

 水曜日は京大で元木先生主催の研究会に出席させて頂きます。『紫苑』や抜刷などを御出席の諸賢にお渡しできればと思っております。

 木曜の教養科目は、日本史全体の流れの中で女性の占めた位置について概説するというのが予定するところなのですが、どうなることか。

 研究業務のほか、連休前に片付けなければならない雑務も多く、また来週も忙しい日々が続きそうです。

 今、とても重大な問題も発生しているのですが、今は、あとで笑って振り返れるような結果になることを祈るばかりです。