年度末の今日は原稿の締切日

No.9535

 先ほど、なんとか本日締切の原稿を書き上げました。まだ、書式を調えたり図版を考えたりしなければならないのですが、一応、御依頼下さった方には、その旨、連絡を差し上げたいと考えています。本当は本日までに原稿をお届けしなければ、締切を守ったことにならないのですが、今回は季刊誌のようですので、ひとまずこれで御安心頂けるものと思います。私も編集サイドに立った経験がありますから(今も立っている)、その辺の事情はよく認識しているつもりです。

 ちなみに、大阪の出版社からシリーズで出版する人物史に関する本(私が担当の第二巻)について、御依頼している原稿の締切日も本日です。御執筆をお願いしているみなさま、何卒宜しくお願い致します。遅延の場合は、脱稿の予定など、出版社宛てにお知らせ下されば幸いに存じます。

 私自身、単著の執筆では、御依頼を頂いてから、すでに長期間お待たせしてしまっているものもあるのですが(本当に申し訳ありません)、共著の場合には、一人の遅延が他の執筆者の方々(とくに若手)に大変な御迷惑をおかけすることに繋がりますので、心しているつもりです。
 
 ところで、季刊誌で思い出しましたが、昨日、待望の『古代文化』第63巻第4号が届きました。
     論攷に山岡瞳さんの「侍長考-院宮の家政機関と侍-」
     書評に岩田慎平君の「谷昇著『後鳥羽院政の展開と儀礼』」
が掲載されています。 
 山岡論攷は「武士論」研究の上から高く評価されるものと思います。

 さて、>>No.9533に元木先生のおゆるしを得て(事後承諾ですが)拙著『武門源氏の血脈』(中央公論新社)の紹介記事を転載させて頂いたのですが、効果は有りや無しや?

 そんなことを考えていたら、京都府立大学の岡本隆司先生が『京都新聞』29日付夕刊の「現代のことば」の「新しい図書館」と題するエッセーの中で、こんなことを書いておられるのを目にしました。

 「読む本を借りるのも、ケチな了見である。本はたえず手元に置いて、何度もくりかえし読み返し、線を引いたり書き込みをして、はじめて愛着が出てくるし、内容も頭に入ってくる。借りてきた公共の本で、そんなことはできない。このように印刷出版が発達し、しかもネットや通販で簡単に入手できる以上、本はいよいよ身銭を切って買うべきものとなった。
 とくに新刊の週刊誌、文庫・新書・選書を借りて読むなど、言語道断である。著作者に対する権利侵害であるのみならず、ほんとうに図書館で必要な本を読みたい人を、多かれ少なかれ妨害して省みない行為だからである」

 私が日頃考えていたのと同じことを明解・率直に書いて下さった。拍手喝采です。
 ある公立図書館の方にうかがったら、人気のある新書(元木先生の『河内源氏』のことらしい)は予約しても数ヶ月先にならないと借りることが出来ないのだそうです。「読みたい本」というのは「今読みたい本」だと思うのですが。

 ☆ 奈良女子大学の前川佳代先生から、御高論「奈良と平泉-なら学談話会報告-」(『奈良女子大学文学部 研究教育年報』第8号)を御恵送頂きました。
 平安時代の庭園文化論。興味深い内容です。
 前川先生に、あつく御礼を申し上げます。

『武門源氏の血脈』を、元木先生に御紹介いただきました。

No.9533

 > 山田先生 ローマからの御返信、ありがとうございました。
 それにしても、ローマで「くわばら、くわばら」などという呪文を唱えたのは、山田先生が初めてなのではないでしょうか?
 角田先生は・・・?(長い滞在中に、そんなことも一度くらいは、あったかも知れませんね)
 
 もう明後日は来年度ですから、山田先生もすでに帰国の機中でしょうか?
 ・・・などと、暢気に書き込んでいるこの私は、はたして原稿の締切を守れるのでありましょうか?

 昨日は今年度最後の『吾妻鏡』講読会。私はこのところ、余計な話をし過ぎるので、なるべく口を挟まないようにしているのですが、やっぱりいけません。老耄極まれり。

 『紫苑』第10号の仕事は終了。山本さんも仕事納め。お疲れ様でした。

  ところで、元木先生が『京都民報』に御執筆下さった、拙著の紹介記事ですが、私が申し上げるよりも、この本の内容を的確に要約されており、その上、勿体ないほどの高い評価を下さっています。これはぜひ、京都の方以外にも読んで頂きたい。
 これを自分で御紹介するのも、どうかと思いましたが、これでお一人でも拙著を手にとって下さる方が増えるのなら、厚顔無恥の謗りも甘受のし甲斐があるという次第で、ここに転載させて頂くことにいたしました。
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 『武門源氏の血脈 為義から義経まで』(中央公論新社)
     著・野口 実

     斬新な分析で武士の実像解明

 東国武士団研究の第一人者である野口実氏が、源為義、義朝、頼朝、義経という河内源氏の武将四人を取上げた書物を刊行された。概ね既発表の原稿であるが、大きく改稿されたものもあり、最新の研究成果に基づいて河内源氏歴代の姿が描かれている。

 第一章では、まず義家が神格化された背景が紹介され、ついでその後継者為義が多角的に分析される。河内源氏の衰退期とされ、失策ばかりが目立つ為義であるが、彼が河内源氏復興のために様々な方策を講じたことが指摘される。とくに権門の家政機関を媒介としながら、水上・陸上交通の掌握を目指したとする点は注目に値する。薩摩国の持躰松遺跡の発掘成果等を援用しながら、河内源氏と貿易をはじめとする流通との関係を綿密に分析した点は本書の大きな特色である。

 第二章では、坂東の調停者として活躍した義朝が描かれる。河内源氏が調停者として期待された背景、頼朝の前提となった義朝の地位の分析などは、東国と中央との関係を丹念に分析してきた著者ならではのすぐれた研究成果である。また義朝が拠点とした鎌倉についても、頼義以来の伝統とともに、地理的な側面からも詳細な分析が加えられている。

 第三章では、鎌倉幕府を樹立した頼朝が取上げられる。ここで最も注目されるのは、明確な根拠もなく頼朝を「王」とする近年の研究に対し、頼朝自身は王朝権威に依存する面が強く、頼朝を王とするのは後世の歴史認識によるものであると厳しく批判した点である。また、鎌倉時代における京の構造と六波羅の位置に関する分析も興味深い。

 第四章では、悲劇の英雄義経の人脈が分析される。系図・伝承を駆使しながら、義経に関係する人々を浮き彫りにした点は、他の追随を許さない、著者の独壇場といえる。

 以上のように本書は河内源氏歴代について、斬新な視点から分析を加え、河内源氏の、そして武士そのものの実像を鮮やかに解明した、まさに「目から鱗」の書物である。
                                     (元木泰雄・京都大学大学院教授)

             (『京都民報』2012年3月25日付より、一部の改行を変更して転載)
編集:2012/03/30(Fri) 14:54

次回は2012年度です-次回の『吾妻鏡』-

No.9534

 紫苑10号ももうすぐ完成ですね。できあがりが楽しみです。

 次回、新年度の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年4月5日(木)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁二年(1202)九月十五日・二十一日、十月八日・二十九日、閏十月十三日・十五日、十一月二十一日、十二月十九日の各条
    建仁三年(1203)正月二日、二月四日、三月十五日、四月六日、五月十九日・二十日・二十五日、六月一日・三日・四日・二十三日・二十四日、七月二十日・二十五日、八月二十七日、九月一日・二日・三日・四日・五日・六日・七日・十日・十二日・十五日・十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日の各条

 4月5日以降の開催日・開催時間等は、参加者の皆さんのご都合を伺いながら考えてみたいと思います。
 
 木曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 昨今は、“ポップでライトな”歴史が流行っているようですが、そんなポップでライトで楽しげなイメージも、もとはといえば何らかの史料に依拠して形作られたはずです。そのもとの部分の史料に当たって事実関係をきちんと踏まえて整理するという作業に慣れておくことも、いろいろな角度から楽しむのに役立つかもしれません。
 ただ、そうすると今度は“ポップでライトな”歴史を楽しめなくなってしまうのかもしれませんが…

 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

面白いの一言につきる! ふたたび。

No.9531

 このところ、急にITALYからのアクセスが急増とのこと。なんでかなぁ?

 本日の研究会は西園寺公経に関する御報告。「な~るほど」ということが多く、とても勉強になりました。

 帰宅すると、元木先生の御新著『平清盛と後白河院』(角川選書)が届いていました。早速、拝読中ですが、前著『河内源氏』(中公新書)に、ある作家の方が呈した「面白いの一言に尽きる」という賛辞を本書にもお送りしたいと思います。
 とくに、平治の乱後の高倉天皇の即位や鹿ケ谷事件については、まさに「目から鱗が落ちる」内容です。
 これで『平家物語』の読まれ方もだいぶ変わるのではないでしょうか。
 また、藤原成親や平重盛に対するイメージは大きく修正されることになるでしょう。
 明日は早起きしなければならないというのに、これは困りました。

 明日のゼミでも、この本の紹介をさせて頂きたいと思います。先週の岩田君に続いて。

 私の方は、目下、一ノ谷合戦から屋島合戦の間の平家勢力の動向について再検討を加えています。これまた、今まであまり追究されていないところですので面白い。記録と軍記物の突き合わせの中から、少しずつ新しい事実が浮かび上がってきます。
 しかしながら、一人で楽しんでいる分にはよいのですが、論文にするのは難しい。

 ※ 御新著を御恵送下さった元木先生に、あつく御礼を申し上げます。
編集:2012/03/29(Thu) 00:19

イタリアより

山田邦和
No.9532

みなさまこんばんは。この掲示板、どこからアクセスしているかもわかるのですね。くわばらくわばら・・・

私のイタリア旅行も終盤です。しばらくはローマのローマ時代遺跡を歩き回り、昨日はヘルクラネウム(エル・コラーノ)とポンペイ、本日はオスティアと、ローマ時代の都市を味わっています。日本の古代都市との比較研究を、などと意気込んでみるのですが、都市としてのレヴェルが違いすぎて、どう比較していいのか、半分途方にくれます。

もちろん大河ドラマは見ていませんが、待賢門院が崩御されたのですね。加藤あいさんに続き、壇れいさんまでもがご退場ですか・・・ ドラマを見る楽しみが半減しますね・・・

春休みの宿題

No.9530

すでにお知らせしましたように、6月23日に開催される当研究所公開講座のテーマ・演題が下記のように決まりました。

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   シリーズ「東山から発信する京都の歴史と文化」⑭
       『平家・王権・儀礼』
     元木泰雄氏(京都大学大学院教授)「平清盛と後白河院」
     服藤早苗氏(埼玉学園大学教授)「院政期の五節」
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 つきましては、ゼミの席でも話が出ましたが、新年度に入ってから事前学習会を開催したいと思います。日程や報告者などは後日決めたいと思いますが、とりあえず、両先生の御講演を理解(あるいは質問を)する上で、まず読んでおくべき参考文献(本屋さんで入手出来るような書籍は除く)をお知らせしておきます。
 図書館等でコピーをとり、精読しておいて下さい。

 ◇ 元木先生
  「藤原成親と平氏」(『立命館文学』第605号、2008年)
  「平重盛論」(朧谷壽・山中章編『平安京とその時代』思文閣出版、2009年)

 ◇ 服藤先生
   「五節舞姫の成立と変容」(『歴史学研究』第667号、1995年)
  「平安朝の五節舞姫-舞う女たち-」(『埼玉学園大学紀要 人間学部編』第11号、2011年)

 追加すべき文献は、またゼミの席でお知らせしたいと思います。
 
※ 服藤早苗先生より、上記「平安朝の五節舞姫-舞う女たち-」を御恵送頂きました。
 服藤先生に、あつく御礼を申し上げます。

「正四位上」の意味?高橋説?

美川圭
No.9526

 先週は会津若松から東京への道程でしたので、見ませんでした。ビデオに録ってあるのですが、それも見ていません。

 今週は何とか見ました。

 忠盛が正四位下から正四位上に昇進した話を前半でやっていました。これって、時代考証を担当している高橋昌明先生の説?
 
 でも少しおかしい。

 普通、正四位下から正四位上を飛び越えて、従三位、つまり公卿になるのに、ならなかったのは、院や貴族たちの武士に対する差別だとかどうとか、ということになっていました。武士を公卿にさせないための。

 しかし、高橋説ではたしか、正四位上にするのは、忠盛を公卿に昇進させるため、という記憶があります。従三位昇進をたくさんの貴族が正四位下で待っているので、少しでも早く昇進させるため、あえてあまりつかない正四位上にして、すこしでも有利な立場にしておいたというふうに理解していました。

 ドラマが終わってから、高橋先生の『清盛以前』(平凡社ライブラリー)を確認しました。たしかに、227頁につぎのようにあります。

 「正四位上への叙位は、忠盛が公卿昇進のⅢβのコースにのったことを示す。従三位に昇進せず四位にとどまる官人は、正四位上に叙せられることがなかったといわれ、先の分析結果からも従三位への昇進を促進する措置とみなせる。」

 と確かに書かれています。つまり、ドラマではまったく高橋説と逆の意味に、この「正四位上」をとっているわけです。つまり、正四位上への叙位は、鳥羽院あるいは貴族が忠盛を公卿に昇進させない気だと。たぶん、一般視聴者は、ほんとうはそのまま正四位下から従三位に昇進させなかったのは、公卿にさせないため、という説明に納得してしまったかもしれません。
 
 しかし、高橋説のすごいところは、それを打ち破ったところにあり、たぶん高橋先生の実証のもっとも冴え渡ったところなのです。この正四位上への叙位は、いかに忠盛が鳥羽院近臣として重用されていたかということを示しています。鳥羽院は何とか忠盛を公卿にしようとしていた。と少なくとも私は今まで考えてきました。
 
 ところが、それが大河ドラマでは正反対にされ、しかも高橋先生がいったいこれにOKを出したのか?

 こんな不可思議なことはありません。高橋先生は自らの学説を撤回したのでしょうか。私はあの緻密な議論を知っているので、まさかと思います。どう考えたらいいのでしょうか。

 もう1回ビデオに録ってあるところを見なおしてみようと思いますが、それはまだやっていません。こんなおかしなことはめったにありません。

岩田慎平著『乱世に挑戦した男 平清盛』を推薦します。

No.9527

 今回は、まず質問ですが、強訴する山法師たちの先頭に、のちに天台座主になる、貴族出身でバリバリの学侶であるはずの明雲がいましたが、あのような設定は可能なのかどうか?

 つぎに、明らかに俗説に迎合してしまったのが、頼朝を尾張の生まれとしたこと。これを支持する研究者は、まずおられないでしょう。名古屋で、この時代の歴史を真面目に研究されている方たちが一番困ると思います。

 この調子でいくと、義朝の下野守補任を、院に水仙を届けた功績によるとでもしてしまうのではないかと心配したのですが、さすがにそれはなくて一安心
 ・・・等々、いろいろ申し上げることはあるのですが、何よりもこの時代の政治・社会がどんなものであったのかを理解することが肝要。それを、読者に媚びるような形でなく、この時代を専門にする研究者が誠実に分かりやすく提示した本を御紹介致します。

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 岩田慎平著『乱世に挑戦した男 平清盛』(新人物往来社)

 日本史教育の衰退した今日、毎年NHKで放送される大河ドラマはその市民向け教科書のような役割をになっている。高視聴率をあてこんで、前年の秋頃から、ドラマのテーマに即した内容の書籍が続々と出版される。しかし、その多くは歴史作家と呼ばれる人たちによって書かれたもので、ここぞとばかりに、謎解きのような話が展開されるのだが、歴史の骨格そのものは分かりやすいステレオタイプの旧説が再生産されることになる。

 歴史への関心や理解ということについて、一般市民と研究者との間に深い断絶が生じていることは長く指摘されている。大河ドラマがらみの出版は、研究成果の市民への還元を行う上で絶好の機会のようにも思うのだが、大学に所属する中堅の研究者は多忙で書き下ろしの余裕などはなく、若手研究者もポストを得るためには研究論文を優先する。しかも学界の一般的風潮として、テレビドラマの人気などに便乗した一般向けの本を書く行為をさげすむようなところもある。

 そんな状況に一石を投じるかのように本書は出版された。著者の岩田慎平氏は一九七八年の生まれ。コーヒー店のアルバイトで生活を支えながら日本中世史の研究に立ち向かっている頼もしい若者である。すでに、平安~鎌倉時代の武士に関する論文もいくつか発表されており、大学院では平氏政権の研究者として令名高い田中文英氏に師事し、現在は院政期政治史研究の第一人者である元木泰雄氏の主宰される研究会で、その謦咳に触れている。したがって、本書は最新・最高の研究成果を反芻した上に、彼自身の視点を織り込み、しかも、一般の読者に対する心配りが籠められた内容であり、源平内乱期の政治史に関する入門書としても最適な本といえる。大河ドラマとの関わりで刊行されたにせよ、モチベーションの高い若い研究者によってこそ世に出すことの出来た出色の本である。
 将来に希望を持って真摯に研究に取り組んでいる若い研究者に白羽の矢を立てた編集者の見識にも心よりの讃辞を送りたい。
               (『京都民報』2011年12月25日付より、一部の改行を変更して転載)
編集:2012/03/26(Mon) 00:16

水仙を宅配便で送らないと枯れます

美川圭
No.9528

 今回のメインは待賢門院の死だったのでしょう。檀れいさんは綺麗ですし、待賢門院も美しい人だったのでしょう。水仙エピソードを創作して、視聴者を泣かせようという魂胆らしいのですが、あんなもんでは泣きません。だいたい、何で武士に水仙をつんでこさせるのか、わけがわかりません。しかも、義朝が陸奥から水仙をもってくるという話。あほらしい。宅配便でもあったのでしょうか。枯れるにきまってるではありませんか。何をとちくるっているのか。

 白河法皇は目の前で家来に清盛の母を射殺させたのに、鳥羽法皇は待賢門院の死の床から家来に抱きかかえられて排除。白河も鳥羽も大きな権力をもっているのに、どうしてケガレに対する描き方が全く違うのか。鳥羽法皇と待賢門院の関係は、このドラマではわけがわからなく、完全に破綻しています。両者ともにおかしい。愛は人を狂わすからどう描いてもいいと考えているのでしょうか。

 相変わらず、清盛も単細胞で、激高するばかり。馬鹿者です。院御所の中らしきところで、完全武装で、義朝と喧嘩するのは、何だかもうあほらしくて。昔、殴り合ってから、仲良くなるという浅薄なドラマがよくありました。

 相変わらず、貴族や寺社勢力は腐敗堕落していて、武士だけが新しい世の中を作れると思っているらしいです、貴族社会にどっぷり浸かっているはずの武士が、土にまみれているような雰囲気なのは、そのせいなのでしょう。土深い農村から生まれた武士たちが世の中を変える。60年ぐらい前の歴史観です。

そのあとにあった、藤原家成の台詞

美川圭
No.9529

 「正四位上」問題について、かなり気になったので、その部分などをもう一度ビデオで見なおしました。そうしたら、出家した信西の回想シーンで、「武士を参議?三位?に昇進させる気が無い」と叫ぶ信西に対し、平家に近い院近臣藤原家成が、「正四位上は三位昇進を促す意味もある」と発言していました。

その前にあったシーンでは、「正四位上」で武士を三位に昇進させない意図はあきらかであった、というナレーションがあるので、全体の方向性はそれで決まっています。私の推定、あるいは想像ですが、あの家成の一言は、あとで脚本にむりやり挿入されたのではないでしょうか。そこが時代考証の高橋先生の一言で。でも家成のその発言も、信西や鳥羽法皇の続く台詞でかき消され、ほとんど印象に残らなかったのです。「どうせ武士を公卿に昇進させる気は無い」ということです。

 いちおう、その辺りは、謎はとけたような気がするのですが、それにしても付け焼き刃というか、変なやりとりです。いちおう高橋先生の御説には配慮しておりますよ、という感じです。でも私どもは違う解釈をさせていただきます、というのかな。

千葉常胤の生誕から832年。

No.9524

 岩田君や滝沢さんが呟いておられるように、3月24日(ただし旧暦の)は千葉常胤の命日です。
 『吾妻鏡』建仁元年三月二十四日条には「千葉介常胤卒。年八十四。従五位下行下総介常重一男。母平政幹女。鳥羽院御宇元永元年五月廿四日生云々。」とあります。
 元永元年(1118)生まれということは、平清盛・西行と同い年ということになります。同じ年に生まれたのに、歴史的に活躍する時期はまったく異なる。常胤が飛躍を遂げるのは清盛が死ぬ半年ほど前からです。人の一生というのは分からないものです。
 そして、この人は私の人生を決めた人でもあるのです。常胤も、自分の存在が、まさか800年も後になってから、同郷の少年の人生を左右するとは思わなかったでしょう。もっとも、私と同じようなことを言い出しそうな人は、千葉には何人かいそうですが。

 まあ、そんなわけで、今秋千葉市での講演のテーマには、この千葉常胤をとりあげることにしました。ただし、千葉からの視角からではなく、グローバルな観点からの評価を語りたいと思っています。ベースにするのは、未刊ですが、拙稿「千葉常胤 列島を転戦した清盛・西行と同い歳の東国武士」(野口実編『中世の人物(京・鎌倉の時代編)第二巻 治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』清文堂)。

 ちなみに、この『中世の人物』というシリーズについては近々お知らせできると思います。ついで乍ら、執筆をお願いしているみなさま、どうぞ宜しくお願い致します。

 それから、これから出る本ではなく、旧著の話を2件。
 まず、このお正月に刊行した『武門源氏の血脈-為義から義経まで-』(中央公論新社)ですが、その書評を元木泰雄先生が執筆して下さいました。明日発行の『京都民報』に掲載されます。
 すでに、掲載紙を拝見しているのですが、とても的確に拙著の内容を紹介して下さっています。私が言いたいことを、私よりも明解に語って下さっており、これは是非、多くの方に読んで頂きたいと思っています。
 アマゾンのカスタマーレビューとともに、このような評価をいただけると、苦労のし甲斐を感じます。

 もう一件は、2007年に刊行した『源氏と坂東武士』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)について。
 さきほど、Amazonでのランキングを見てみたら、新刊の『武門源氏の血脈』よりも売れているようですが(喜ぶべきか、悲しむべきか?)、版元からの連絡によると、増刷した分についても、一週間ほど前の段階で、もう倉庫在庫数は106冊しかないということですので、(投機筋のみなさまへ)お知らせしておきます。

 目下、月末締切の原稿の執筆が進まず、焦燥感に駆られる一方で、そろそろ送られてこなくてはならないはずの『古代文化』と『立命館文学』の到着を楽しみにしているという、矛盾した状況にあります。 

 ところで、山田邦和先生は、しばらく「ローマの休日」中です。 私は「メタボの忙日」。
編集:2012/03/24(Sat) 23:55

メキシコの青い空-次回の『吾妻鏡』-

No.9525

 千葉常胤と清盛・西行が同い年であることは、少し前の『吾妻鏡』でも話題になりましたね。これを呟きましたら、少しですが歴史好きな方から反応がありました。思わず「えっ、そうなの」と言ってしまうようなあまり知られていない事柄に食い付きがいいようですね。

 今年度担当させていただいた大学の授業でも、元木先生や野口先生の御著書をいくつか紹介させていただくことがありました。映画の寅さんのようにはまいりませんが、“実況席の寅さん”のようなかんじをささやかに目指しております。

 次回、今年度最後の『吾妻鏡』のご案内です。
 日時:2012年3月29日(木)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁二年(1202)六月一日・二十五日・二十六日、八月二日・十五日・二十三日・二十四日・二十七日、九月十五日・二十一日、十月八日・二十九日、閏十月十三日・十五日、十一月二十一日、十二月十九日の各条
    建仁三年(1203)正月二日、二月四日、三月十五日、四月六日、五月十九日・二十日・二十五日、六月一日・三日・四日・二十三日・二十四日、七月二十日・二十五日、八月二十七日、九月一日・二日・三日・四日・五日・六日・七日・十日・十二日・十五日・十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日の各条

 4月以降の開催日・開催時間等は、参加者の皆さんのご都合を伺いながら考えてみたいと思います。
 
 木曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 昨今は、“ポップでライトな”歴史が流行っているようですが、そんなポップでライトで楽しげなイメージも、もとはといえば何らかの史料に依拠して形作られたはずです。そのもとの部分の史料に当たって事実関係をきちんと踏まえて整理するという作業に慣れておくことも、いろいろな角度から楽しむのに役立つかもしれません。
 ただ、そうすると今度は“ポップでライトな”歴史を楽しめなくなってしまうのかもしれませんが…

 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

  日本史学会の寅さん

No.9523

 一昨日は、かつて当ゼミで活躍してくれた方の壮行会が、元木先生の主催で行われました。彼女は、四月から県立の歴史系博物館の学芸員に就任されます。
 本当は当ゼミでも「追い出しコンパ」を企画しなければならなかったのですが、往時のメンバーは遠方にお住まいだったり、校務に追われていたりで実現できませんでした。
 ちなみに、当ゼミメンバーだった方では、もうお一人、御出身地の近くの公立博物館に赴任が決まっている方もおられます。
 当節、なかなか採用されないお仕事に就かれたのは流石。これまでの研鑽と努力が結実した結果にほかなりません。
 お二人にお祝いを申し上げると共に、おおいなる御活躍を祈念する次第です。

 昨日は二週間ぶりの『吾妻鏡』講読会。
 四月からのゼミの日程や公開講座の実施にあたっての協力依頼の話をさせて頂いてから、講読会が始まろうとしたその時、やにわに岩田君が取り出したのが、まだ本屋さんに並んでいないはずの元木先生の御新著『平清盛と後白河院』(角川学芸出版)。
 http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=201106000402
の内容を口舌鮮やかに説明して下さいました。
 それはまさしく、かの、映画『男はつらいよ』で寅さんが路頭で商売をするときのような、あるいはテレビショッピングの司会者のごとし。学術的水準を保ちつつも、話がウマイ。

 こんな名調子で、このところ売れ行きがストップしてしまった拙著      
 http://www.chuko.co.jp/tanko/2012/01/004318.html
の宣伝でもして下さったならば、まだ少しは売れるのではなかろうかと期待してしまいました。  

 なお、>>No.9522でアイディアを募集させて頂いた今年度公開講座のテーマですが、元木先生からお知恵をお借りして、「平家・王権・儀礼」に決定させて頂きました。

 >現2回生のみなさん  新年度、新たに企画したい講読会とか、史跡見学、ゼミ旅行の計画を、ぜひ積極的に提示して下さい。
 また、お仲間も誘って下さい。
 2回生以外の方たちはもちろん、また他大学所属のみなさんの参加も大いに歓迎致します。

《速報》  2012年度 研究所公開講座の演題決まる

No.9522

 すでにお知らせしたように(>>No.8957)、今年も例年通り6月第4土曜日(23日)に当方の研究所主催の公開講座を実施致します。
  講師は元木泰雄先生(京都大学大学院教授)と服藤早苗先生(埼玉学園大学教授)ですが、両先生の演題が決まりましたのでお知らせ致します。

 ◇ 元木泰雄先生「平清盛と後白河院」
 鹿ケ谷事件に関する新解釈も含め、事件に至る重盛・成親と後白河の関係、清盛や時子一門との関係といったことに焦点を絞り、平氏の弱さ、後白河の基盤の強固さ等から、六波羅幕府論に対する批判にも触れることになる-とのお話です。

 ◇ 服藤早苗先生「院政期の五節」
 先生は、現在、五節舞姫と遊女・白拍子・傀儡女等の研究をすすめておられるとのこと。そこで、「殿上の闇討ち」等も含めて、五節舞姫や童女御覧等の五節儀礼のジェンダー分析をしたいと思っておられるとのことです。

 両先生の御講演内容に即して、学術的でありながら市民の関心を呼びそうな、講座そのもののテーマを目下思案中です。何かよいアイディアがありましたらお知らせ下さい。

 また、遠方の方は、今から予定を立てられ、ぜひこの機会を利用して、京都女子大学にお出かけ下さい。すでに新潟の方から、必ず出掛ける旨の御連絡が届いております。

 例年のように、講座終了後、講師の先生方とゼミメンバー・関係者との懇談会と懇親会を計画していますので、とくに服藤先生ゆかりの東京の若手の方々の御上洛、御出席を期待致しております。例年ですと、翌日の日曜日には大阪歴史学会の大会が開催されています。

元木泰雄先生の新著『平清盛と後白河院 』の刊行迫る

No.9518

 元木先生の『平清盛と後白河院』(角川学芸出版、¥ 1,680 )もうすぐ刊行です。

 拙著『源義家』は、もうしばらくお待ち下さい。『武門源氏の血脈』に書いた時代をさらに遡りました。

 元木先生が、その『武門源氏の血脈』の書評(紹介)を『京都民報』に書いて下さいました。掲載は今月末頃になるでしょうか。

 今日の大河ドラマには波多野義通が出てきましたが、波多野氏は相模国波多野庄(摂関家領)を苗字の地とはしていますが、蔵人所などに出仕して「京武者」に近い存在形態をとっていましたから、源氏への従属度は相対的に低いものであったと思います。
 義通の妹と義朝の関係も、実際はドラマの描かれ方とはだいぶ異なるはずです。あれは、『吾妻鏡』治承四年十一月十日条にある葛西清重の頼朝への奉仕ぶりをモチーフにしたのでしょうか。

 それにしても、清盛の子の名前には違和感を感じざるを得ません。「清太」は史料では見た覚えがありませんが、当時の慣行から普通に解釈すると「清原氏」系の家の長男につける名前です(ただし、訓みは「セイタ」になるでしょう)。
編集:2012/03/18(Sun) 23:52

高階明子(加藤あい)死去(泣)

山田邦和(同志社女子大学)
No.9519

昨晩の大河ドラマ、私の願いもむなしく、加藤あいさん演ずる清盛の妻・高階明子が死去しました。登場は僅かに3回!! 早く死ぬのは史実と違わないのですが、やっぱり〔泣〕です。確かに加藤あいさん、いかにも薄幸の美女といった風情でしたね。

チラリとですが、幼い平滋子(後の建春門院)が初登場。時子に叱られていましたね。
ただ、どうなんしょう。平時信くらいの地位の貴族だと、異母姉妹は同居してるんですかね? というのも、角田文衞先生のご研究があるのですが、時子・時忠の姉弟の母は身分の低い「半者(はしたもの)」です(角田先生もよくこんなところまで気がつかれますね)。それに対して滋子の母はれっきとした貴族です。このあたり、私は家族制度には疎いので、よくわかりません。どなたかご教示願えれば幸いです。

国際化時代    ♪ ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー

No.9520

 美川先生のコメントをお待ちの方も多いと思いますが、先生は目下、ご旅行中のことと思います。
 お帰りになったら、書き込んでいただけることでしょう。乞うご期待!

 山田先生も、近くローマにご出発の由。
 かくいう私も、明後日はミュンヘンに行く予定があります。

 昔、CMソングに♪ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー・・・というのがありましたね。これは、さすがに岩田君でもご存じないでしょう?
 ノンアルコールのは置いてないでしょうねぇ?
 できれば車で行きたいのですが。

 明日はTOKYOで、久方ぶりにワシントンから帰国している大学時代の友人と国際経済?・・・等について語り合う予定です。
編集:2012/03/19(Mon) 21:55

Peking・Berlin・Dublin・Liberia

No.9521

>野口先生
 それはさすがに旧世紀人の私も存じません…。
 『泣かせる味じゃん』や、『タコが言うなよ〜』ならば知ってるのですが。

 ところで、22日(木)は久しぶりに『吾妻鏡』です。皆さんよろしくお願いします。
 気がつけば3月も下旬、そして年度末となりました。

 日時:2012年3月22日(木)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁二年(1202)正月十二日・十四日・二十八日・二十九日、二月二十日・二十九日、三月八日・十四日・十五日、四月二十七日、六月一日・二十五日・二十六日、八月二日・十五日・二十三日・二十四日・二十七日、九月十五日・二十一日、十月八日・二十九日、閏十月十三日・十五日、十一月二十一日、十二月十九日の各条

 3月は22日、29日と開催予定です。
 
 木曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 昨今は、“ポップでライトな”歴史が流行っているようですが、そんなポップでライトで楽しげなイメージも、もとはといえば何らかの史料に依拠して形作られたはずです。そのもとの部分の史料に当たって事実関係をきちんと踏まえて整理するという作業に慣れておくことも、いろいろな角度から楽しむのに役立つかもしれません。
 ただ、そうすると今度は“ポップでライトな”歴史を楽しめなくなってしまうのかもしれませんが…

 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、2012年、何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

卒業生、修了生に幸あれ。

No.9516

 今日は京都女子大学の卒業式の日です。晴天ですが、風が強くて、いささか寒い。
 私は10時開式の文学部・現代社会学部の式に出席致しました。
 川本先生の学長式辞は、原発事故にたいする報道のあり方に触れる内容で、例年の如く大変考えさせられる中身の濃いお話でした。

 話はかわりますが、最近、「政治過程は偶因によって決定されるから、政治史は社会経済史をベースに語られるべきものである」という意見のあることを知りました。こう考える人はけっこう多いのかも知れません。だから近年、私のイメージする「政治史」が低調なのかも知れないということも分かりました。
 しかし、政治過程が偶因で説明されるということになると、小説・漫画の類が「歴史学」の世界に跳梁跋扈する事態に陥ってしまうのではないでしょうか。
 けっこう研究者の間にも、発想の面で、深くて暗い大きな溝があるのだ、ということを実感させられる話でした。

 上横手先生の『日本中世政治史研究』や元木先生の『院政期政治史研究』は、政治史研究の真骨頂を示したものだと思うのですが。中公新書の『河内源氏』も、また然り。

 ところで、明日は『紫苑』第10号の再校ゲラの提出日です。執筆者のみなさん、くれぐれもお忘れなきように。

 ☆ 國學院大學の松尾葦江先生より、松尾先生御編の科研報告書『「文化現象としての源平盛衰記」研究-文芸・絵画・言語・歴史を総合して-』第二集を御恵送いただきました。
 松尾先生にあつく御礼を申し上げます。
編集:2012/03/15(Thu) 14:32

大河ドラマに対する歴史学者のスタンスの背景

No.9517

 昨日は、A地下で、裏返しになってしまった京女弁当の注文券をひっくり返してくれた親切な学生さんに遭遇したのですが、滝沢さんでしたね。帰省はされないのかな?

 15日の卒業式の日には、御両親共々御挨拶に来て下さった卒業生の方もあり、恐縮に存じました。
ゼミメンバーの進学先などの情報は新年度に入ってから、また追々にお知らせ致します。

 当方のゼミメンバーもしばしば出席させて頂いている中世戦記研究会の次回開催日は5月19日(土)に予定されていますが、ここで、この度、修士課程を修了された粟村亜矢さんに御報告頂くことになりました。先輩・後輩諸兄姉も応援に駆けつけてほしいところです。

 それから、10年ほど前にゼミに所属していたと名乗る人から、当方に相談事があるとのお電話を頂いたということを事務の方からうかがいました。耄碌のためか、お名前に記憶がなかったので、こちらから連絡は差し上げませんでしたが、また、あらためてE・メールででも御連絡下されば幸いです。

 昨年執筆した「東国武士研究と軍記物語」という拙文の中に、上欄で指摘した問題に関係する部分がありましたので、ここに抄出しておきます(注は省略)。
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 史実の解明は実証の作業であるから、あくまでも科学的に行われなければならない。しかし、研究者は常に、彼(彼女)の生きる時代の常識や思潮に制約される。前近代以来、『平家物語』は源平内乱期の歴史そのものとして受容され、その歴史観は血肉化するにいたっていた。平家政権の評価、鎌倉幕府の成立事情、そして東国武士認識という観点から、その影響を考えてみよう。
 面白いことに、滅び行く平家と新興の源氏、勇敢な東国武士と軟弱な平家(西国武士)を対比させた『平家物語』史観は、近代以降今日にいたるまで、その時々の要請する歴史観と整合しながら存続し続けているのである。
 明治維新後、西欧から近代史学の方法が伝えられたとき、平家は古代国家の武力と理解される一方、東国武士は西欧史におけるゲルマンの如く中世を切り拓く存在として位置づけられた。ついで、軍国主義教育が隆盛を極めるようになると、『平家物語』に示された質実剛健な東国武士のイメージが再生産、強調されるようになる。マルクス史観(唯物史観)が主流を占めた戦後歴史学は、皇国史観を徹底的に排撃したにもかかわらず、あたかも東国武士を農民・労働者、京都の貴族と貴族化した平家を地主・資本家になぞらえ、武士が貴族との階級闘争に勝利していく図式をもって古代から中世への展開過程として理解しようとした。戦前戦後一貫した、この歴史認識は広く国民一般に流布・再生産され、現在にいたっている。
 しかしながら、戦後歴史学は社会経済史中心で「下部構造」を重視するものであったから、人物史や具体的な政治過程に関する研究が停滞・退歩することとなったのは否めない。系譜や人的なネットワークの研究は、政治的に反体制の立場に立つ硬派の第一線研究者の間では、軽視というよりも「枝葉末節の軟弱な議論」として侮蔑の対象とする雰囲気も醸成されたのである。しかし、一般市民の歴史に対する関心は社会構造や理論にではなく、人物や事件にあるから、こうした歴史学の研究は社会還元されにくいものとなり、研究者と一般市民の歴史認識の乖離・断絶は広まる一方となった。こうした二重構造を補完する役割を国文学が担った側面は否定できない。歴史学が社会科学の一ジャンルとして位置づけられることにより、市民的な歴史理解は史学よりも文学に委ねられる結果となったのである。人物史・事件史など、国文学研究に受容される研究を行った歴史学者もあったが、彼らは歴史学界では主流の位置からはずれ、旧守的な存在と位置づけられるような状況が続いた。
 (千明守編『平家物語の多角的研究』ひつじ書房、2011年、233~234頁)