平清盛は福原遷都断念後、京都に新拠点の構築を目指す

No.9501

 本日発行の『京都民報』(第2526号)に「清盛と京都」の第4回目として「九条末の新拠点」を載せました。福原遷都断念後の清盛の京都における新首都構想についてまとめてみました。御笑覧頂ければ幸いです。
 なお、私の担当はこれでおしまいです。

 朝日カルチャーセンター京都と古代学協会の共催講座ですが、私のお話しするテーマは「京都と義経」。
 日 時は 2012年 6月 1日(金)15:00~16:30です。
 くわしくは↓を御参照下さい。
  http://kodaigaku.org/topics/kyousaikouza.pdf

法住寺殿最勝光院の遺構が検出されたという情報

No.9500

 最勝光院(法住寺殿の域内に所在)は、後白河院の寵姫である建春門院(平滋子)の御願寺で、その造営にそなえて後白河院と滋子が連れ立って宇治の平等院を見に行き(『玉葉』)、藤原定家をして「土木の壮麗、荘厳の華美、天下第一の仏閣なり」といわしめた寺院で(『明月記』)、建春門院の御所も付属していました。養和元年(1181)に平清盛が九条河原口の平盛国亭で亡くなったときに、ここから今様の声がきこえてきたというのは有名な話です。
 その最勝光院跡と推定される場所(京都市立一橋小学校跡地)が、京都市埋蔵文化研究所によって発掘調査され、ここから整地層や建物基壇跡、それに大規模な濠跡が検出され、そしてそれに伴う土器や瓦などが出土したとのことです。

 現地説明会は3月10日(土)とのこと。くわしくは京都市埋蔵文化研究所のHPを御覧下さい。
 →http://www.kyoto-arc.or.jp/blog/jp-res-information/602.html?cat=6

 ゼミ関係者はぜひお出かけ下さい。
 京都女子大学から歩いて15分くらいのところです。

 なお、見学にあたっての参考文献として、髙橋昌明編『院政期の内裏・大内裏と院御所』(文理閣、2006年)を紹介しておきます。本書Ⅱの「後白河院御所論」に興味深く有益な論文(私のものを除く)が収録されています。

 【追記】 ☆ 神奈川県立金沢文庫の西岡芳文先生より、現在開催中の同館企画展「鎌倉めぐり」の図録を御恵送頂きました。
 当ゼミのメンバーも、最近続々と鎌倉に出掛ける人が増えているようです。
 西岡先生に、あつく御礼申しあげます。  
編集:2012/03/04(Sun) 08:40

いっきょうしょうがっこう

No.9503

久しぶりに母校の名前を見て懐かしくなりました。
父も、私自身も走り回って遊んでいた校舎のしたに、どんなものがあったのか大変気になります。

一橋小学校は、今は暗渠になっている音無川と本町通が重なるところ(銭湯、泉湯の斜め前です)にかかっていた『一の橋』が由来で、明治二年に下京第三十一番組小学校として開校されたところです。校舎も火事で燃えたりとかで、何回か建て替えられています。その時に遺構がつぶされてなければいいのですが‥。

以前、野口先生に最勝光院のお話を伺った時に、父にその話をしたところ「あそこは昔から竹やぶやった。古地図に載ってる」と、聞いてくれません。地元の認識はそのレベルです。この機会に、いろんなことがわかるとうれしいです。

ちなみに実家は、今回の発掘地点から100mほど真南のところです。掘ったら何か出るのでしょうか?

近所の三小学校と中学校が統合して、東山泉小中学校となるらしいです、母校の名前がなくなるのは寂しいですが、今年は辰年で、向かいの瀧尾神社もにぎわってます。今日の清盛でも最後に新熊野神社が出てきましたし、この界隈は何かありそうですね。

「歴史」の奥深さを感じながら、新しい命の誕生を寿ぐ。

No.9504

 鈴木君の御実家から直ぐの所だと書こうかと思ったのですが、「個人情報」云々のうるさい当節、遠慮したところでした。
 きっと、お家の敷地を発掘したら何か出て来ると思いますよ。改築などの際には、ぜひ山田先生に調査を委託したら如何?・・・かと。

 それにしても、一橋小学校も廃校になってしまったとは驚きでした。鈴木君やお父上が小学生時代を送った空間で、後白河院が今様を謡っていたわけですから、・・・そんなことを考えると、時の積み重ねというのは凄まじいものでありますね。

 ところで、さきほど、当ゼミの古参メンバー(九州の御出身)からメールで、第二子(女の子)御出産の御報告を頂きました。第二子ということで、どなたかお分かりですよね。そう、山本陽一郎君の「戦友」です。
 今は御実家におられるそうで、京都に戻ったら、二人のお子さんを連れて研究室にお出で下さるとのことです。
 当方の研究室にも、また新たな歴史の一コマが刻まれるわけで、楽しみにしています。

日本古文書学会見学会のお知らせ

元木泰雄
No.9498

 以前にもご案内いたしました、3月13日の日本古文書学会見学会、参加締切が近づきましたので再度掲示致します。国宝の東寺百合文書を間近に見ることができる得難い機会です。
 ぜひご参加ください。
なお、すでに口頭、メールなどでご連絡いただいた方も、メールで結構ですから、確認のご連絡をお願いいたします。

 場所 京都府立総合資料館(京都市営地下鉄烏丸線・北山駅下車)
 日時 3月13日火曜日13時~16時(12時45分受付開始)
 集合場所 京都府立総合資料館入口  
 参加費500 円
 東寺百合文書を上島有先生のご解説を承りながら見学します。今回は、当時百合文書の料紙見学会の4回シリーズの最後になります。
 中世文書全体のまとめをしますので、上島先生のご著書『中世日本の紙―アーカイブズ学としての料紙研究―』(日本史史料研究会刊)の、第二章から第六章まで目を通していただくとわかりやすいかと思います。
 お問い合わせは下記元木研究室まで。TEL075-753-6681
 参加希望者はお名前・連絡先明記の上、下記までハガキで申し込んでください。3月5日必着です。

申し込み先
〒606-8501京都市左京区吉田二本松町 京都大学大学院人間・環境学研究科 元木研究室
編集:2012/03/02(Fri) 07:23

岩田君の解説による「建永元年のフットボール」

No.9499

 元木先生。御案内、ありがとうございます。
 中世の古文書をじっくりと実見し、かつ上島先生のお話をうかがうことの出来る貴重な機会だと思います。
 ゼミのみなさん、とくに学部生は積極的に参加してください。

 昨日のゼミは、帰省されたり、旅行されたりした方からのお土産が沢山。また、手作りのケーキも、ありがとうございました。

 『吾妻鏡』は建永元年条を読了。2回生もだいぶ慣れてきた様子です。頼家将軍期の内容は書誌学的にも面白いと思います。岩田君や藪本君からのコメントからは学ぶところが多い。

 『紫苑』第10号、山本さんのお骨折りにより、初校校正ゲラを印刷屋さんにお渡ししました。

 ゼミの前、お昼休みに、京都文化博物館時代の同僚(今も現役)と後輩(近年、学芸員になられた方)が研究室を訪ねて下さいました。今年、同館で開催される平清盛展のイベントに関する用件だったのですが、7割くらいの時間を昔話に費やしてしまいました。
 このイベントについては、追って御報告したいと思います。準備や本番におけるサポーターをお願いするつもりなので、宜しく。

 もう一件、書面で講演依頼が届きました。四月からの土日は予定がいっぱいになりつつありますが、この機会をとらえて頑張るに如かずだと覚悟を決めています。 

平時子亭を中心に発展した西八条と経済を支えた七条町

No.9497

 機を失してしまいましたが、この前の日曜日(26日)に出た『京都民報』(第2525号)に「清盛と京都」の第3回目として「西八条と七条町」を載せました。
 「院・平家政権期の七条町周辺」という地図がお役に立つと思います。『別冊太陽』に載せた拙文の付図に、さらに工夫を加えました。

 目下、以前御紹介した「元木プロジェクト」の一環として、短編ながら「千葉常胤」の伝記を書いています。

 >池嶋さん 次の講読会のとき(1日)、印鑑をお忘れなく。

 ☆ 愛知学院大学の福島金治先生より、御高論「密教聖教の伝授・集積と隔地間交流-「坊津一乗院聖教類等」の検討を通して-」(『九州史学』160)・「中世後期美濃国細目郷の領主古田氏と不二庵」(『愛知学院大学人間文化研究所紀要 人間文化』26)を御恵送いただきました。
 福島先生に、あつく御礼を申し上げます。

【追記】
 ☆ 東京大学史料編纂所の高橋慎一朗先生より、新刊の御高著『武士の掟』(新人物往来社)を御恵送いただきました。
 「武士がつくった都市の掟」・・・そこに住む人々の生活に視点を据えた中世都市論。
 髙橋先生に、あつく御礼を申し上げます。

業務連絡(プリンター)・吉野&神崎庄・為義亭・菊酒

No.9494

 今日はドラマ関連の書き込みがないようなので、まず業務連絡から。
 ゼミ関係の方で、プリンターにキャノンのPIXUSシリーズのip3600/ip4600/ip4700/MP540/MP550/MP560/MP620/MP630/MP640/MP980/MP990/MX860/MX870を使用されている方は、当方に御連絡下さい。とくにお願いしたいことがあります。

 3月8日の岩田君主催の見学会は吉野に行かれるようですが、事前勉強に疲れたら、このDVDを借りてきて御覧になるとよいと思います。蔵王堂もロケ地になっています。さらに、かつてゼミ旅行で訪れた伊勢の二見浦の夫婦岩も出てきます。
 『男はつらいよ』第39作「寅次郎物語」(マドンナは秋吉久美子)

 今日のドラマですが、神崎庄の倉敷が博多にあるということが視聴者には分かりづらかったのではないでしょうか。私は神崎庄で交易をする宋船の多くは有明海に来航したと考えているのですが。
 それから、為義の邸宅が出てきましたが、あれが六条堀河亭ということになるのでしょうか。地方の小領主の宅のイメージでは?
 菊酒は、この前のゼミの時間に講読した『吾妻鏡』建仁元年九月九日条に出てきましたね。

 それから、『台記』ですが、そんなに生やさしい史料ではありません。本気で取り組みたいのなら、元木先生に師事するに如かざるものがあります。

 つぎに宣伝です。
 ドラマの源為義はいかにも困窮の為体ですが、私は武士成立史の上で為義の役割を積極的に評価しています。拙著『武門源氏の血脈』(中央公論新社)を御覧下さい。また、佐藤義清の系譜や彼の武芸については、同じく『伝説の将軍 藤原秀郷』(吉川弘文館)に詳述致しました。御参照ください。
編集:2012/02/26(Sun) 23:54

博多の神崎荘?

山田邦和(同志社女子大学)
No.9495

野口先生、こんばんは。

今晩の大河ドラマ、のっけから「博多の神崎荘」と出てきて、目を剥きました。ただ、最後の紀行コーナーになって、博多にあった神崎荘の倉敷であると種明かしがされてましたので、一応の説明はつきました。しかしあれが倉敷ですかな。あれは完全に貿易港の市場になってしまっています。平家荘園の博多の倉敷に多数の商人や民間人が出入りして自由闊達に商売をやっているというのは理解に苦しみます。それに、おいおい、忠盛さんよ、院宣を偽造しちゃマズいだろ!、とツッこみたくなりました。清盛が博多で始めて宋銭のことを知るというのもアホすぎますね。確かに平安京に銭が入ってくるのはまだ一般的ではないのですが、それでも皆無というわけではない。銭という存在すら知らないとは、この清盛君、世間知らずもほどがあります。
 それに、平安京のシーンが必ずあのケッタイな市場なのは、そろそろどうにかならないですかね。「一遍聖絵」に鎌倉時代の平安京の東市が描かれていますが、それと似ても似つかないボロボロの市場ですね。だいたい、市場の向こうに崩壊寸前の門があるが、あれは何だ! 羅城門だなんて言ったら怒るぞ! そんな市場が当時の平安京に存在しなかったとはいいませんが、それだけが平安京と思われるのは心外だ。この時期の京都をワザと惨めに見せようという悪意が感じられ、不快きわまりないものです。
 加藤あいさん演ずる高階明子、もう後の重盛の妊娠を報告してましたね。さっさと退場せずに、じっくりと出てくださるよう、お願いします。

 >石浜さん、ごぶさたしております。お目にとまり、恐縮です。またお目にかかりたいですねm(_ _)m

追記:すみません、改めて考えると、上記は説明不足でした。平忠盛が院宣を詐称して神崎荘で貿易をおこなったことは史実ですが、違和感があったのは、単なる詐称ではなく、院宣を「偽造」して、しかもその証拠物件を易々と相手に渡すかな?、というところでした。おわびして追記します。
編集:2012/02/27(Mon) 12:50

美川先生は京都新聞で語っておられました。

No.9496

 美川先生の御出座がないと思っていたら、今朝の京都新聞に「崇徳上皇の出生の謎は事実か」という記事があり、そこに角田文衞説に対する美川先生の御見解が、要領よくまとめられていました。
 美川先生の御説が今日の、政治史研究の成果の水準を示すものと言えましょう。
 在京のみなさんは、御一読下さい。

富士山の日

No.9491

 昨日は、諸方より御丁寧なメッセージをいただき、恐縮致しております。
 ありがとうございました。
 小学生の頃は、この日が嬉しかった。よく廊下に立たされていた時代です。しかし、今は老化あるのみ。

 >石浜さん 久方ぶりの御登場、嬉しい限りです。
 山田先生は相変わらず多方面で御活躍です。四月からは、さらにお忙しくなられるようですが、諸事、颯爽とこなして行かれることと思います。充実した日々をお過ごしゆえの「若さ」、とお見受け致します。

 新聞にマスクのポイ捨てが多いという投書が載っているのを読んで、「まさか」と思ったのですが、宇治も例外ではありませんでした。各町内毎に「規律委員」を設置して取り締まりにあたらせるなどという世の中にならないことを祈るばかりです。

 ある図書館では、最近出版された、ある新書本に予約が集中して、数ヶ月後にならないと読めないとのこと。新書でも本屋さんで買わずに図書館の本で済ませるというのが21世紀的な生き方のようです。
 やはり消費の対象はグルメということになるのでしょうか?
 数ヶ月もしたら読みたい本も変わるでしょうに。
 図書館には街中の本屋さんでは手に入らないような専門書や学術雑誌を置いて貰いたいと思うのですが。
 本が売れないのも道理というものです。

 ☆ 近藤好和先生より、御高論「与一所用の太刀と矢」・「那須家伝来の甲冑」収録の山本隆志編著『那須与一伝承の誕生』(ミネルヴァ書房)を御恵送いただきました。
 近藤先生に、あつく御礼を申し上げます。 
編集:2012/02/25(Sat) 07:52

2月もあっという間の『吾妻鏡』

No.9492

 ぼんやりしているうちに2月も終わろうとしています。『「如月」とかじゃなく「不廻首」とかに改名したほうがよくないか』という声も仄聞しますが、大いに同意します。

 次回の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年3月1日(木)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:正治三年(建仁元年、1201)九月二十日・二十二日、十月二日・六日、十一月十三日、十二月二日・三日・二十八日・二十九日の各条
    建仁二年(1202)正月十二日・十四日・二十八日・二十九日、二月二十日・二十九日、三月八日・十四日・十五日、四月二十七日、六月一日・二十五日・二十六日、八月二日・十五日・二十三日・二十四日・二十七日、九月十五日・二十一日、十月八日・二十九日、閏十月十三日・十五日、十一月二十一日、十二月十九日の各条

 3月は1日、22日、29日と開催予定です。
 
 木曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 昨今は、“ポップでライトな”歴史が流行っているようですが、そんなポップでライトで楽しげなイメージも、もとはといえば何らかの史料に依拠して形作られたはずです。そのもとの部分の史料に当たって事実関係をきちんと踏まえて整理するという作業に慣れておくことも、いろいろな角度から楽しむのに役立つかもしれません。
 ただ、そうすると今度は“ポップでライトな”歴史を楽しめなくなってしまうのかもしれませんが…

 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、2012年、何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

吉野山、峰の白雪踏み分けて・・・。

No.9493

 3月1日は『紫苑』の校正ゲラ返却の日です。お忘れなきように。校正は完璧を期したつもりでも、必ず漏れの出るものです。だからこそ、しっかりやって下さい。
 若い人の論文で校正漏れが多いというのは、将来性において、即アウトの判定を受けざるを得ないと思います。

 8日は当方に所用発生のため、ゼミは休止とせざるを得ないことになりました。申し訳ありません。
 ただし、当日は、岩田君が私的に日帰りの見学会を主催して下さるとのこと。ありがとうございます。

 本日、分厚い封書でお手紙をいただきました。東京の私大の先生から。和紙風の便箋に万年筆で書かれたもの。
 達筆で拙著『武門源氏の血脈』にたいする御感想がつづられていました。
 しっかりと御精読下さったとのことで、ここで、御紹介したくなるような内容でした。
 こういうお手紙をいただくことは滅多になくなりましたが、清々しい気持ちになります。

 IT社会になって、失ったものは計り知れない。
 私も出来るだけ万年筆を使うようにしたいと思います。

「ポップでライトな<歴史>」と「歴史学」

No.9489

 「ポップでライトな<歴史>」が人気を集めている中で、「歴史学」との乖離というか、その狭間で心を悩ませている方が多い。
 「大学論」にも波及する問題だと思います。

 ☆ 千葉県立佐倉高校の外山信司先生より、御高論「戦国の房総を訪れた連歌師宗長-「東路のつと」を読む-」掲載の『城西国際大学日本研究センター紀要』第6号を御恵送いただきました。
 外山先生に、あつく御礼を申し上げます。

ラボール学園(京都労働学校)2012年春期講座より

No.9488

 日本史講座-京都の戦乱と災害<古代・中世>
 開講日 毎週月曜日 14回<4/2~7/9>
 開講時間 午後6時30分~午後8時30分

 ① 4月 2日 薬子の変                井上満郎(京都産業大学名誉教授・京都市歴史資料館館長)
 ② 4月 9日 大内裏焼亡               野口孝子(同志社女子大学講師)
 ③ 4月16日 永長・康和の大地震           美川圭(摂南大学教授)
 ④ 4月23日 保元・平治の乱             野口実(京都女子大学教授)
 ⑤ 5月 7日 太郎焼亡と福原遷都          山田邦和(同志社女子大学教授)
 ⑥ 5月14日 承久の乱と寛喜の大飢饉       木村英一(滋賀大学講師)
 ⑦ 5月21日 南北朝の戦乱と北畠親房       山田徹(京都大学助教)
 ⑧ 5月28日 天正・文禄の大地震と京都      三枝暁子(立命館大学准教授)
 ⑨ 6月 4日 嘉吉の乱                 野田泰三(京都光華女子大学教授)
 ⑩ 6月11日 源平内乱と飢餓地獄          高橋昌明(神戸大学名誉教授)
 ⑪ 6月18日 1185年、京都激震す         高橋昌明
 ⑫ 6月25日 徳政一揆と牢人・飢饉         早島大祐(京都女子大学准教授)
 ⑬ 7月 2日 中世人は応仁の乱からいかに復興したか  早島大祐
 ⑭ 7月 9日 織田信長の京都焼き討ち       尾下成敏(京都橘大学講師)

 ※ 詳しくは、こちらを→http://www.labor.or.jp/gakuen/kouza_school/school_index.html
編集:2012/02/21(Tue) 22:15

山田邦和先生をニュースで

石浜哲士
No.9490

今朝のNHKBSニュースで山田邦和先生をお見かけしました。用明・推古天皇陵などの立ち入り調査に関するニュースでした。若々しいお姿を久しぶりに目にし、しびれた次第です。

海賊追捕の賞?

美川圭
No.9483

 よくわからない小細工。『中右記』保延元年(1135)8月19日条には、忠盛が海賊26人を検非違使に引き渡したとあり、21日に忠盛の海賊追捕の賞として清盛が従四位下になったとあります。ふつうは、検非違使に海賊を渡したので、その恩賞が朝廷から与えられる。この場合嫡男の昇進というわけです。

 ところが、今日のドラマでは、検非違使に引き渡さなかった。清盛の従四位下は、上皇が忠盛を公卿に昇らせないためであるというようなやりとりがあるわけです。検非違使に引き渡さなかったら、たぶん恩賞は出ないでしょう。それから、嫡男の昇進が父の昇進に対する妨害というのは、よく理解できません。一般視聴者は理解できるのでしょうか。

 重盛の母となる高階基章の娘、この人との和歌のやりとりというまったくのフィクションが出てきます。清盛があまりに粗野で歌などわからないので、西行がかわりに詠んで、それでもふられるが、清盛の率直さにうたれた基章娘が結婚に応ずる。身分が低い者との恋愛結婚に、忠盛夫妻も見合い結婚話を院近臣家成通じて(たぶんその娘)進めていたが、あきらめるというような話でした。

 私はあんな「単細胞」が長じて、のちの清盛になることはまったくありえないと思います。脚本家が「単細胞」粗野おとこが趣味という次元の問題でしょう。

 それから、時子がまるで基章女とお友だちみたいな雰囲気でした。時子は大治元年(1126)生まれですから、現在で言うとまだ満9歳です。時子との最初の子宗盛が生まれたのは久安3年(1147)です。たぶんその少し前に結婚したのでしょう。あんな風にお友だちではありえないのです。しかも時子の家は代々摂関家に仕える名門家司の家。基章のところとは家柄がかなり違う。このあたりも、脚本家の勉強不足はあきらかです。

 さらに、得子が鳥羽院の上にのしかかるようなシーンもやめていただきたいものです。あのシーンで、私の娘は自分の部屋にもどって行きました。ありえないシーンですし、日曜8時です。今上陛下も心臓の大手術されたばかりです。あんなことで、八条院が生まれたとか、近衛天皇ができたとか・・・・。考えるだけでもおぞましいので、やめていただきたい。

高階基章女

山田邦和(同志社女子大学)
No.9484

 美川先生、みなさま、こんばんは。本日の「平清盛」、メロドラマでしたね。見ていてちょっと恥ずかしかった。

 清盛の最初の妻で重盛と基盛の母となる高階基章女(ドラマでは明子という名になっている)が初登場! この女性については、角田文衞先生と高橋昌明先生の考証がありますが、やっぱり決め手に欠けており、実体がもうひとつよくわからない。
 でも、せっかくドロドロぐちゃぐちゃの人間関係が大好きな脚本家と演出家だし、高橋先生が時代考証をされているということもあるのに、どうして高階基章女については高橋説を採用しなかったのかな? 高橋説は、重盛母である高階基章女は「基章(摂関家の家人)の妻と摂関家の大殿・藤原忠実の不倫の結果、生まれた娘であり、清盛の父の平忠盛はそうした事情をすべて承知して、大殿の不始末の尻ぬぐいをするためにその娘を清盛の嫁に迎えた」というショッキングなものなのですから。
 そういえば今日のドラマでは忠実と清盛が院御所ですれ違うシーンが出てきましたね。ちょっと前後関係を操作して、忠実の清盛を見る目に「おお、こ奴が俺の不始末の尻ぬぐい役か!」という感情を含ませればおもしろかったのに・・・ と無責任なことをいいます(高階基章妻と忠実の不義の娘がいたことは事実だが、それは重盛母とは別人だという可能性の方が高いという気がするのですが・・・)。

 しかし、今日のドラマの不満を全て払拭してくれるのは、高階明子役の加藤あいさんの清楚な美しさ!! いやあ、こんな美人に出会ったならば、身分がどうのこうのと四の五の言う前に一目惚れしてしまうキヨモリ君の気持ちがよくわかります! 史実からすると高階基章女はふたりの男子を産んですぐに死んでしまい、時子に清盛の嫡妻の座を譲るということになるのでしょうね。しかし、個人的な感情からすると、もうこうなればどんなに史実をねじ曲げねじ曲げてもかまわないから、ちょっとでも長く加藤あいさんが登場し続けることを願っています(^^;)。

 追伸:そうそう、もうひとつ。あの汚かった漁師の兄ちゃん・鱸丸、上川隆也というイイ俳優さんを使っていると思っていたら、まさかの大逆転で平盛国に大変身!! あぁ、スズキ丸というケッタイな名前も、スズキが出世魚なのだからだというダジャレだったのですね。このシーンで、ブッ飛んだ人、いませんか?
編集:2012/02/19(Sun) 22:53

便乗して告知します-次回の『吾妻鏡』-

No.9485

 ◆美川先生の大河ドラマ評は「視聴率」が高いと大変評判ですので(関学にも視聴者多数)、便乗させていただいて次回の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年2月23日(木)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:正治三年(建仁元年、1201)六月二十八日・二十九日、七月六日、八月十一日・二十三日、九月七日・九日・十一日・十五日・十八日・二十日・二十二日、十月二日・六日、十一月十三日、十二月二日・三日・二十八日・二十九日の各条
    建仁二年(1202)正月十二日・十四日・二十八日・二十九日、二月二十日・二十九日、三月八日・十四日・十五日、四月二十七日、六月一日・二十五日・二十六日、八月二日・十五日・二十三日・二十四日・二十七日、九月十五日・二十一日、十月八日・二十九日、閏十月十三日・十五日、十一月二十一日、十二月十九日の各条

 木曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 昨今は、“ポップでライトな”歴史が流行っているようですが、そんなポップでライトで楽しげなイメージも、もとはといえば何らかの史料に依拠して形作られたはずです。そのもとの部分の史料に当たって事実関係をきちんと踏まえて整理するという作業に慣れておくことも、いろいろな角度から楽しむのに役立つかもしれません。
 ただ、そうすると今度は“ポップでライトな”歴史を楽しめなくなってしまうのかもしれませんが…

 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、2012年、何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。


 ◆昨日2月18日(土)は、関西学院大学図書館で、日本古文書学会の見学会が開催されました。30名をこえる多くの参加者の皆さまをお迎えできましたことを、関学関係者の一人として大変光栄に存じます。
 ご来場いただきました皆さま、見学会をお世話してくださった元木泰雄先生、漆原徹先生、関学の中村直人先生、そのほかご協力いただきました皆さんに、この場をかりて御礼申し上げます。

 今回は、上島有先生が紹介(「関西学院大学図書館蔵東寺文書について」『東寺・東寺文書の研究』思文閣出版、1998年。初出は1981年)されました東寺文書18点と、灘の酒造業関連と紀州牢番頭釘貫家の近世文書、明治維新元勲書簡など、関西学院大学図書館所蔵の文書を見学致しました。
 私もこれらの文書をじかに閲覧することははじめてでしたので、大変貴重な機会をいただくことができました。

高橋説を脚本家は知らなかった説

美川圭
No.9486

山田先生、こんばんわ。お久しぶりですね。

 私の推測では、脚本家は高橋説など知らなかったのだと思います。それどころか、忠実と基章妻との関係も知らなかった。だからああなったのだと。やはり、事実のほうがおもしろい。山田先生のおっしゃるように、高橋説を採用した方が、脚本家のどろどろ路線には合っていたはずなのですが。

 まあ、勉強不足というのは、そういうことです。現在学界で言われている説をすべてあつめて、勉強したうえで「おはなし」つくったほうがいいと思うんですがね。

 ドラマができてから、時代考証者に見せているという話を聞いたことがありますが、それじゃいくらなんでもだめですよ。脚本段階でみせなければ。

ほんとうは平盛康の父が「盛国」なのでした。

No.9487

 私も何か言わないといけませんね。でも今夜のお話は平安時代ファンの女性をターゲットにした演出の様なので、取り上げるとしたら、やはり高階基章の娘が実は藤原忠実の子であるという髙橋先生の御説でしょうか。
 1997年に出た『女性史学』第7号掲載の「重盛の母」で読んだとき、重盛と頼長の顔が似ている(もちろん絵ですが)という御指摘に「なるほど!」と思ったことを思い出します。

 あえて私が今回の話に口出しするとなると、劇中で清盛の乳母夫の役回りを負わされている平盛康と、その後継者という設定の平盛国についてということになりますか。
 面白いことに『尊卑分脉』・「桓武平氏諸流系図」によると、史実において盛康の父の名は「盛国」だったようです(もちろん清盛の郎等の盛国とは別人ですが)。盛康の官歴は、同時代史料から、刑部丞→兵衛尉→検非違使・右衛門尉、保延三年正月に叙爵されたことを知ることが出来ます。平家の家人とはいえ、れっきとした「京武者」ですね。彼の子としては、盛範・盛長・盛仲の存在が確認されます。

 一方、清盛の郎等の盛国の方ですが、こちらは『延慶本平家物語』に、平権守盛遠の子とあります。『吾妻鏡』に平季衡の七男とあるのは世代的に整合しませんが、文治2年(1186)に鎌倉御家人である岡崎義実のもとで断食によって74歳で死去したことは事実と考えられ、それに従えば生年は永久元年(1113)ということになります。

 盛康・盛国の出自・官歴などの詳細については、拙稿「院政期における伊勢平氏庶流-「平家」論の前提作業-」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』第16号、2003年)および「院政期における伊勢平氏庶流(補遺)」(同 第17号、2004年)を御参照下されば幸いです。

 校正の攻勢に立ち向かう日

No.9482

 本日はちょっと大変な仕事を担当しなければならなくなる可能性があったために、元木先生が御案内下さった古文書学会の見学会には参加できませんでした。
 先ほど、とても充実した見学会であったと、関学の学部生の方からメールを頂きました。
 行けずに残念。
 結局、その仕事はしなくて済んだのですが、世の中、そう甘くはなく、代わりに様々な校正の仕事が、速達・Eメールなど、ありとあらゆる手段で押し寄せて参りました。
 20世紀の私は、便利になったら仕事が減るものだと思っていたのですが、便利になるということは仕事が増えるということたったのですね。
 「昔はよかった!」
  一番困ったのは、英文要旨の校正です。英語が苦手なので、わかりやすい日本語で要旨を書いて、これを翻訳して頂いたものが届けられたのですが、英語の苦手な私がみても、どうもおかしい。こういうときに頼りになるのが「友」であります。
 よき師、よき友、よき教え子との出会いは人生の僥倖です。

 さて、明日は日曜日。美川先生の辛口批評が楽しみです。 

【追記】 19日付の『京都民報』7面に「六波羅と法住寺殿」(清盛・平家とその時代 第2章 清盛と京都)と題した拙文が掲載されています。
 短文ながら最新の成果を盛り込みました。
 御笑覧頂ければ幸いです。