平清盛・生涯と武者の世の生きざま

No.8299

 この秋、岩田君の担当する歴史講座が堺のよみうり文化センターで開講されます。

 11月12日スタート
 「平清盛・生涯と武者の世の生きざま」(6回)

 清盛出生の秘密から貴族社会の中で武士としてどのように出世していたのか。人心の掌握に長け、配慮の生き届いた人物として「平家物語」では語られなかった本当の清盛の姿を語っていきます。

 開講日時 第2(土)13:00~15:00
 
 講師 関西学院大学 非常勤講師 岩田慎平氏

 ※ 申込先などの詳細はこちらを御覧下さい。
  → http://www.oybc.co.jp/link/sakai/s-news7.html
  (岩田君の近影も見られます)

どっきりではありません-次回の『吾妻鏡』-

No.8300

 野口先生、宣伝していただきましてありがとうございます。歴史に興味のある方々のニーズにきちんとお応えできるよう、また、新たに歴史に興味を持っていただける方が少しでも増えるよう、一生懸命がんばりたいと思います。
 堺のよみうり文化センターでは、私の関学の先輩である中村直人先生も担当しておられるようですから、どうぞあわせてご覧下さい。

 さて、ずいぶん長いことご無沙汰しておりましたが、後期からの木曜日の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2011年9月29日(木)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建久十年(正治元年、1199年)二月六日、三月二日・五日・六日・十二日・二十三日、四月一日・十二日・二十日、五月七日・八日・十三日、六月八日・二十五日・二十六日・三十日、七月十日・十六日・二十日・二十五日・二十六日、八月十八日・十九日・二十日、九月二十六日、十月七日・二十四日・二十五日・二十七日・二十八日、十一月七日・八日・十日・十二日・十三日・十八日、十二月九日・十八日・二十九日の各条

 範囲はいちおう上記の通りですが、初回の9月29日(木)はいろいろな意見交換や諸々の説明なども実施する予定ですから、手ぶらでご参加いただいても結構です(「夏休みの思い出」などは持ってきて下さい)。

 木曜日の『吾妻鏡』は、頼家将軍期の建久十年(正治元年)に戻っていきたいと思います。一気に70年近く遡りますが、よろしくお願いいたします。

 木曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新学期から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

平清盛のバックグラウンドをとりあげます

No.8302

 岩田君の講座紹介に乗じて、後期にキャンパスプラザ京都で開講する私の担当講座も紹介させて頂きます。

◇ 特別講座科目1「『平家物語』と中世前期の京都」◇
    2011年09月27日(火)~2012年01月24日(火)
    2講時 10時40分~12時10分(毎週火曜日)

 12世紀末の源平内乱期に焦点を当て、『平家物語』に見えるエピソードを踏まえながら、この時代の京都の空間構造、政情、そして、そこにうごめいた人々について、歴史学の立場から考察を加えます。
 また、この時代の京都と地方との関係についても、流通や文化の伝播など様々な回路から明らかにしていきたいと思います。

 詳細は↓を参照して下さい。
   https://el.consortium.or.jp/cns301.php?kamoku_id=B005

メーチニコフは未だ学んでおりませんでした

No.8297

 かつての職場で苦境を共にした尊敬する考古学の研究者から、メーチニコフ『回想の明治維新』に、私にとって読むべき所があるということで、その部分のコピーを送って頂きました。
 なるほど、「源頼朝から日本史の新しい、じつに輝かしい時代が始まる」などという一節もあります。
 このコピーを送って下さったもうひとつの理由は、翻訳にあたった渡辺雅司氏が1986年の夏、宇治にお住まいであったということで、そのついでに、梅棹忠夫氏の御母堂も宇治に近い六地蔵の農家の出身であることも、そのことに触れた梅棹氏の著書『行為と妄想 私の履歴書』のコピーを添えて御教示下さいました。

 ところで、軍記・語り物研究会大会における藪本君の御報告は如何でしたでしょうか。きっと、大きな反響を得られたことと思います。国文学者による『吾妻鏡』研究の活性化の呼び水になってくれれば、よろこばしいところです。

 ちなみに、今月は名古屋の中世史研究会大会で山田邦和先生の研究発表が、
http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/~nihonshi/kenkyukai.html#Anchor56371

 また、大阪歴史学会の中世史部会では佐伯智広君の研究発表があります。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/historia/

 ☆ 群馬県立文書館の須藤聡先生より、御高論「中近世の上野国沼田をめぐる交通路と町場-勢多郡森下を中心として-」(群馬県立文書館研究紀要『双文』28)を御恵送頂きました。
 須藤先生に、あつく御礼を申し上げます。

角田文衞先生の部屋が教室に

No.8294

 本日の京都新聞の一面に載っていました。

 http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20110825000129

 角田先生は、この部屋から待賢門院(藤原璋子)を偲んでおられたのです。

 9月開講の「古代学講座」はこの部屋で行われるとのこと。

 この講座については、>>No.8268を参照して下さい。

あと一ヵ月が、待ち遠しいが・・・・・・

No.8293

 さきほど『日本歴史』の9月号が届きました。
 開いてみたら長村君の写真が載っていたのでビックリ。

 目下、原稿執筆のモチベーションが高まらずに、苦悶の日々を送っております。
 原因の基本は自らの「耄碌」にあるのですが、そんな私を尻目に、さすがは元木先生!!

 来月のちょうど25日に刊行される予定書目のなかに、

 元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』(中公新書 2127 販売価格 840円)

とあるのを発見いたしました。
 私からの、おすすめ度は、もちろん★★★★★。
 読まなくたってわかります。

 早く拝読したいのですが、この本が出ると、今私が書いている(書こうとしている)ことが無意味化するのではないかという心配もございます。
 
 一方、当ゼミ関係の某君御執筆の『平清盛』(副題は不明、都内の某出版社より刊行予定)は、すでに入稿済みで、近々初校が出るとの噂。

 関係する論文や史料、はては眼鏡を探しまわって(年寄りになると対象に応じて、異なった眼鏡が必要になります。私は生活上3つの眼鏡が必需品です)、一行を書くのに半日もかけている私と致しましては、羨ましくも妬ましい限りであります。

 ◎ 醍醐のイベントのお手伝いの件ですが、大学で非常勤講師をしておられる史学と国文の若手研究者各1名(計2名)、国文の院生1名、史学の4回生1名の御協力を頂けることになりました。
 ありがとうございます。

醍醐史跡散歩について、ゼミの皆さんへ

No.8290

 本日、11月に地方自治体主催で実施予定の史跡見学会への協力について、遠方の方も含めて広くゼミメンバー・関係者にお手伝いを依頼するメールを差し上げました。
 ところが、メールアドレスの変更などによるものか、送信不能でもどってきてしまうケースが相当ありました。
 そこで、もしメールが届いていない方で、協力するのにやぶさかではないという方、あるいは詳細な情報を知りたいという方がおられましたら、直接私まで連絡を下さるようにお願い致します。 
 対象とする史跡は日野法界寺・平重衡墓・頼政道・醍醐寺などです。
 
 なお、すでに連絡を受けられた方も、私宛に(メールの返信で)諾否を早々にお知らせ頂きたく、宜しくお願い致します。事務処理上、急いでおりますので、御協力下さい。
 すこしでも不都合な方は遠慮無く断って下さい。

太平の眠り?を覚ましてしまったようです。

No.8292

 また、蒸し暑くなりましたね。

 せっかくの夏休みだというのに、ゼミの関係者の皆さんには、「太平の眠り」を覚ますような問い合わせのメールをお送りしてしまったようで申し訳ありません。

 上記の件、11月の土曜日ですから、院生以上の方たちには研究会などの予定が、また学部生は授業も多くあるようで迷惑な話だったことと思います。
 しかし、なんと大学の講師クラスの方が複数も助っ人に来て下さるとのこと。広い範囲でお願いをしてよかったと思っています。
 これなら、いっそのこと、講演までお願いしたいくらいです。
 ほんとうに、有り難い。

 なお、金曜日(26日)に行政の方と打ち合わせの予定がありますので、御返事がまだの方は宜しくお願い致します。
 
 学部生の中には海外研修中の方もおられるので、そうした方たちには、後期に入ってから、また声をかけたいと思っています。

【追記】 ☆ 神戸大学の樋口健太郎先生より、御高論「白河院政期の王家と摂関家-王家の「自立」再考-」(『歴史評論』736)を御恵送頂きました。
 樋口先生や尻池さんのお仕事で、中世前期の摂関家像がつぎつぎと塗り替えられていくのは、ほんとうに楽しみです。
 樋口先生に、あつく御礼を申し上げます。

すいません、忘れておりました。

No.8289

 19~21日に京都を会場にして古代史サマーセミナーが開かれることを告知し忘れてしまいました。
 どんな様子だったかは、大会実行委員長をつとめられた山田邦和先生のブログ(http://heike.cocolog-nifty.com/kanwa/2011/08/39-10e4.html)を参照して下さい。

 在京の学部生の方たちなどに、見学会への参加を呼びかければよかったのですが、多忙にかまけて忘れておりました。

 それだけなら、私の耄碌のなせる業ということで済まされるかもしれませんが、初日の分科会で広島大学大学院に進学された尻池さんが「摂関宇治入りの成立と展開」という報告をされることは、確実にお伝えすべきことであり、本当にうっかりしていたと思います。

 昨日はその尻池さんが、研究室に立ち寄って下さいました。
 摂関家の中世的展開に関する研究の進展が目覚ましい中で、積極的に論文発表に取り組んで下さるようにお願いしておきました。

 ☆ 明治大学大学院の小野真嗣さんと築地貴久さんから、編纂事業に参画、分担執筆された『町史 五霞の生活史 資料Ⅰ』(茨城県猿島郡五霞町)および、小野さんの御高論「初期軍記と高望流平氏の奥羽進出」(『古代学研究所紀要』14)ならびに築地さんの御高論「円観房恵鎮の北朝方への帰順時期について」(『法制史学』75)を御恵送頂きました。
 若い頃に書いた拙論が、最近の自治体史編さんにお役に立っているのは嬉しいことです。
 小野さん・築地さんにあつく御礼を申し上げます。

読売新聞社版『人物・日本の歴史』

No.8286

 研究室旅行、多大な収穫を得られて、無事に終了とのこと。お疲れ様でした。
 とても羨ましく存じております。

 ところで、戦後における日本通史のシリーズの傑作は中央公論社の『日本の歴史』だと思いますが、それ以前に共同執筆の形で出された読売新聞社版もたいへん優れた内容です。
 どうも、執筆者として表に出ている先生方以外にも、下請けの形で執筆に参加された先生(当時の若手)も多かったようで、第4巻「鎌倉武士」(1959年)の一部を拙論で紹介したところ、石井進先生から、「そこは私が書いた」というお葉書を頂いたことがありました。

 その読売新聞社版の人物史バージョンともいえるのが『人物・日本の歴史』。その第3巻 は川崎庸之編『王朝の落日』(1966年)で、土田直鎮・橋本義彦・貫達人・高田実氏など錚々たる執筆者が、それぞれ「藤原道長」「白河法皇」「藤原頼長」「平清盛」などの人物について格調高く語ってくれています。読み応えは十分。
 これから出される人物史の著作は、これらを超えなければなりません。ハードルは高いものがあります。

 ☆ 日本大学の関幸彦先生より、新刊の御著書『その後の東国武士団 源平合戦以後』(吉川弘文館)を御恵送頂きました。
 さっそく、拙著を参考にしていただいたと思われる房総の武士団の部分を拝読。千葉氏系図に曽我氏をつなげたり、千田親政を下総目代とするなど、やや荒削りなところも散見されますが、このような、時代・地域を巨視的にとらえる叙述は、関先生でなければ出来ないお仕事と、おおいに感服させられました。
 今、一般の読者からは、こういう著作が求められているのだと思います。
 関先生にあつく御礼を申し上げます。 

Re: 読売新聞社版『人物・日本の歴史』

美川圭
No.8287

 またまた親族自慢なのです。すいません。このシリーズ、私の父親が編集に関わっていたようです。父は認知症で、もう昔の話を詳しく聞くことができないのですが、当時、読売新聞の図書編集部にいて、このシリーズの編集をやっていたと以前話していました。よいシリーズだったのに、その後の中公日本の歴史によって、影が薄くなってしまったのが残念だったそうです。この読売のシリーズ、実は我が家にもないのです。貫先生が「後白河」を担当されたのは、この読売シリーズだったのでしょうか。そんなことも知らず、お恥ずかしい次第なのですが・・・・。私がこの分野で仕事をすることになったのは、たぶん父親の影響だと思います。「何をやってもいいよ」といいながら、歴史学者になることを一番望んでいたのは父親であったようです。私は、マスコミに入りたい、銀行に入りたい、などと主張したこともあるのですが、我が家では、父親が「ばかを言え、ぜったいあわない」と相手にしてくれませんでした。「何をやってもいいよ」と言っていたはずなのに・・・・。

読売新聞社版『日本の歴史』の思い出

No.8288

 この読売新聞社版は、なかなかのシリーズでありました。ちょうど、私が小学生の高学年の頃、伯父が全巻を揃えており、中味は難しくてサッパリ分かりませんでしたが、学問の権威の臭いのようなものを感じ取った記憶があります。
 大学院生の頃に読みなおして、欲しくなりましたが、既に手に入らず、なんとか第3巻のみ、ペーパバックス風の普及版で手に入れましたが、今はもうボロボロです。
 最近の通史は、一般の読者には分りずらく、面白くないのではないかと思われるものが多いので、再刊しても売れるのではないかと思います。なにしろ、戦後、ようやく正しい歴史を語ることが出来るようになった時代の研究者たちの喜びと意気込みが感じられますから。
 美川先生のお父上は、よいお仕事をされたと思います。

 なお、我が恩師である貫達人先生が後白河について書いたのは、朝倉書店の『日本人物史大系』第一巻(1961年)で、タイトルは「後白河院と源平二氏」です。
 ちなみに貫先生は、読売新聞社版の『人物・日本の歴史』第3巻では「藤原頼長」を執筆されています。同巻収録の高田実「平清盛」は、清盛落胤説を正当に評価した最初の論考なのではないかと思います。今でも落胤説を否定する論者には、ぜひ一読をお勧めしたいと思います。

 ついでに申し添えますと、人物史のシリーズには、小学館版もあり、これは小説家も執筆者に加わっています。たとえば、第5巻「源平の確執」(1975年)では、白河法皇を角田文衞、藤原頼長を上横手雅敬、後白河法皇を村上元三、信西を杉本苑子、源義朝を安田元久、源義経を和歌森太郎氏、というラインナップです。

 ところで、中世前期の人物史については、21世紀に相応しい新しいシリーズが大阪の書店より、来年から刊行の予定とのことですね・・・と、他人行儀な紹介をしてしまいました。

拙宅の放射線量は0.05マイクロシーベルト

No.8284

 美川先生、貴重な情報をありがとうございました。
 私もそのうち、千葉の漁師さんたちの中で苦労した曾祖父の話などを披露したいと思っております。遠い昔の歴史ばかりでなく、数代前の声が聞こえる時代の近親者の記録も、のこしておく必要を感じています。

 さて、今夏は酷い猛烈な暑さ。好調だったPCもついに電源が入らなくなったりしております。もっとも、使う側に問題があったのかも知れません。鈴木君のアドバイスを仰ぎ、即、復調致しました。

 研究室旅行で、信州に出掛けている皆様、そちらの天候は如何でしょうか?
 昔、むかし、青山学院大学で非常勤講師をしていたとき、ゼミ合宿で南志賀高原や清里に行きましたが、実に涼しくて、学生たちが宴会をやっている間に、地名辞典の原稿執筆が捗ったことを思い出します。
 昔も今も付き合いの悪い教師です。もっとも、この間に、学生さんたちは周囲の方々にだいぶ御迷惑をお掛けしたようで、翌朝、気まずい思いをいたしましたっけ。

 ☆ 近藤好和先生より、御編著『建内記註釈2-応永三十五年正月二日~二十三日条-』(日本史史料研究会研究叢書7)を御恵送頂きました。
 地道で着実な御研究の成果。頭が下がります。
 近藤先生に、あつく御礼を申し上げます。

小説家としての石原慎太郎氏の評価

美川圭
No.8282

 最近の原発に関するマスコミの報道に、いろいろ疑問をもっていますが、ふと、
祖母の原爆に関する「あの日のこと」という小説がたしか、戦後GHQの検閲に
よって全文発禁になり、その後、朝日ジャーナル誌上で、堀場清子さんが、メリー
ランド大学のブランゲ文庫にのこっている(日本では消滅)ことに気がつき、そ
れを紹介したことがあったな、それは何年だったかな、というので、インターネ
ットで調べてみました。それは1982年であることはすぐわかりました。その朝日
ジャーナルがうちにもあったはずなのですが、ちょっとすぐにはみつかりません
でした。それはそれでいいのですが、祖母の名前などで検索していたので、思い
もかけず、50年以上も前(奇しくも私が生まれた年)にデビューしたての石原
慎太郎を辛辣に批判する文章がひっかかってきたのです。それは祖母の文章が、
斎藤貴男『東京を弄んだ男「空疎な小皇帝」石原慎太郎』(講談社文庫)に引用
されている部分です。もともとは『世界』に連載され、2003年に岩波書店か
ら単行本として発刊、今回文庫になったようです。ちょっと、嬉しかったので、
その部分を引用します。
 
 デビュー当時の辛辣な石原批判を、そこでもうひとつだけ紹介しよう。美川き
よ氏の「操り人形にならないで」。今日では画家・鳥海青児氏の「押しかけ女房」
として記憶されていることが多いが、『デリケート時代』『恐しき幸福』などの
代表作を持ち、1938(昭和13)年の三田文学賞を受賞したこともある実力
派作家だった。57歳だった彼女は週刊誌の「私の年賀状」という企画に応じ、
見ず知らずの石原氏に宛てるというスタイルで、
 〈「太陽の季節」の中で例の障子を突き破る場面がもし無かつたらば、あの作
品はああまでもてはやされるというか、嬉しがられなかつたのではありますまい
か。自分の女を兄貴に金で売買することなども、二十年前三十年前の日本の男性
達が若い頃はそれと似たことを云つてみたり、事実やつた連中もおりました。あ
なたの年頃は、どぎついことを一度云つてみたり試してみることで、自分の力を
試そうとする季節があるものですから。〉
 〈あなたの年頃の男性に注文をつけるのは無理ですが、女の心理をこんなもの
だろう位に書かれるのは、不愉快よりもまだ坊やだなあって感じがします。女性
の行動と裏を書かれたつもりでしょうが、女の心の裏の裏までをのぞく眼力はま
だ無くて、甘いセンチな感情のひ弱さを感じました。これはうちへ来る若い女性
達にも当つてみたのですが、女を甘く見ていると云う意見の方が多いので、実は
近代女性がしつかりして来たことに、安堵の胸を撫でおろしたのですが-。〉
 と石原氏の坊やぶりをからかい、また痛烈にたしなめた。結びは次のような言
葉で締めくくられていた。
 〈今の青年の悩みは、「太陽の季節」や「処刑の部屋」ではまだまだ底が浅い
のではありますまいか。それと何卒真剣に今年は取りくんで下さい。人気のあや
つり人形にならぬように自愛と自戒を切に祈ります。〉(「操り人形にならない
で」『日本週報』57年1月5日号)
 美川氏の忠告は石原氏に届いたろうか。

医学博士渡辺淳一『天上紅蓮』

美川圭
No.8277

 昨日の朝日新聞夕刊を読んでいたら、渡辺淳一氏の小説『天上紅蓮』がとりあげられていました。あの白河法皇と待賢門院のあいだの性愛をあつかった小説です。自分の研究分野に関係が深いといっても、いちいち小説家の歴史小説に関心をもつことはないのですが、今回はちょっと気になります。渡辺氏が「医学博士」だからです。歴史的知識はともかく、医学的知識は私よりはるかに上であるはず。しかも、新聞の記事によると、角田先生の本をとりあげながら「法皇も自分の子を生ませやすい時期を調べさせたはずです」と述べているのです。受胎時期を推定できる荻野久作先生の世界的な学説を角田氏は知っていて(本質を理解されていなかったことは『古代文化』の論文で論証したつもりですが)、あの本を書いたのですが、白河法皇はこの学説を知るよしもない。いったい、それではどうやって受胎時期を推定できたのか。そのことが、この小説に書かれているのか。時間を見つけて読んでみることにします。

オギノ式避妊法を実践していた璋子

美川圭
No.8278

 気になったので、急遽買ってきて、いそいで読んでみました。白河法皇も璋子も、荻野説をご存知だったようです。璋子さんは鳥羽天皇とのあいだに子供ができないように、バースコントロールをしていたということです。何百年も前にオギノ式避妊法実践していた。はっきりいって、トンデモ本です。

 医学博士っていったって、もう医学の学会にもでていないだろうし、考えれば当然かもしれません。医学のことなんてもう何にも知らないということが、166頁で角田先生の誤った荻野説理解をそのまま踏襲しており、よくわかります。少なくとも、医者だったんだから、しっかりしてほしいですね。

 まあ、そんなもんか、と予想はしていましたが、現代作家のレベルにもがっかりです。荻野説がよく理解できていないのなら、一応、歴史学の最新研究も見ておかないと、こういうトンデモ本を出版してしまうことになります。角田先生って、渡辺さんよりどれくらい年上。父親世代でしょ。その人の本に今頃触発されて、本書くってどういうことなんでしょうか。若い人の研究に触発されたというんなら、りっぱですが。

 1600円返してほしいです。

小説家と歴史学者との懸隔?

No.8280

 美川先生の御論文とは、『古代文化』第56編第10号の巻頭に掲載された「崇徳院生誕問題の歴史的背景」です。

 私はてっきり、渡辺氏は美川先生と音信を取り交わした上で、この小説を書かれたのだと思っておりました。
 そんな内容だったとは・・・、ちょっと驚いております。

 ちなみに、昔、『新平家物語』を執筆した吉川英治氏が、中世史研究の大家だった豊田武先生(私もお世話になりました)とともに取材旅行に行ったときの写真というのを拝見したことがあります。

JINー仁ーと比べると?

美川圭
No.8281

 子供のときから、医者にだけはなるまいと思っていたのですが、この10数年医学というのがとてもおもしろいことに気がつきました。まわりが病気になったり、自分が病気になったりすることが多くなり、そのたびごとににわか勉強をすると、興味がつきませんね。人間の身体というか、生命というのは。
 待賢門院の生きた時代、子供はいつできると考えていたのでしょうか。男性の「射精」は目に見えますから知っていたでしょうが、女性の「排卵」は見えませんね。また「受精」もわからないはずですね。それこそ、謎に満ちていたのではないかと思います。そこに宗教が介在する余地が大きかったのでしょう。日本でいえば、それこそ「神仏のご加護」ということになるのでしょう。とても、オギノ式避妊法に近いことを考えたとは思えないのです。そういうことを、渡辺氏は考えたのでしょうか。
 今年の前半、大河ドラマの時間のあと、民放で「JINー仁ー」というドラマをやっていました。ずいぶん評判が高かったので、ご覧になった方も多いのではないでしょうか。幕末にタイムスリップした現代の脳外科医が、引きおこすさまざまな事象を描いた作品でした。単なる興味本位のドラマではなく「医の倫理」の問題などについても踏み込んだみごたえのあるものでした。大河ドラマ「江」などお話にならないほどの「大人のドラマ」でした。これの原作は村上もとか、という人のマンガなんです。現代というのは、いろいろと変化が激しいのですが、かつては子供のものだったマンガが、もっとも大人のドラマを生みだし、NHKの大河ドラマは子供だましにもならない。そして、渡辺氏の小説は、出来の悪いポルノ小説なのですが、『文藝春秋」という立派な雑誌に連載されていたのです。まったく何の問題意識もない小説で、白河法皇はただのスケベ老人に描かれています。残念なことです。