今朝の『京都新聞』から。
No.8231
今日の京都新聞には面白い記事が沢山載っていました。
まず、3面の「点眼」欄には、宗教学者の山折哲雄氏が「金色堂と鳳凰堂」というエッセーを書いておられます。平泉が世界遺産に選ばれたことに触れて、その文化の独自性を指摘した内容ですが、平泉藤原氏の遺体が金色堂に葬られたことをもって、平安貴族との文化的相違を論じておられる点に違和感を感じました。
山折氏は平泉藤原氏と藤原道長・頼通を比較の対象としておられますが、時代が異なります。平泉藤原氏の時代なら、白河や鳥羽・法住寺殿を比較の対象としなければならないでしょう。これらの空間が平安京外に設定されたことは押さえておかなければなりませんが、鳥羽・法住寺殿ともに院の墓所(法華堂)を取り囲む形で造営されています。また、平家の六波羅は、平正盛の墳墓堂をとりこんだ泉殿を中心に一門と家人の居住空間が形成されていました。
平泉はこれら同時代の京都周辺の「権門都市」をモデルプランとして造営されたと見るべきでしょう。
平安時代の京都というと、研究者の間でも、すぐに平安京の条坊図と『源氏物語』や『枕草子』に描かれた世界が想起されてしまうようで、このあたりが中世前期の武士論研究の障害にもなっているように常々思っているところです。
24面(山城版)には、城陽市歴史民俗資料館で「あの世・妖怪」、府立山城郷土資料館で「中世やきもの風土記」という企画展がはじまったという記事がありました。
そして私の興味を一番そそったのは、25面(地域版)の京都神田明神で例大祭が行われたという記事。15年ほど以前、山田邦和先生に京都でただ一つ平将門を祀った祠があるというので案内して頂いた所だと思いますが、今は移設されて鳥居の立つ立派な神社になったようです。将門を祀った社が京都にあるというのは極めて興味深い事実ですが、「天下を夢見た平安期の豪族に思いをはせた」という、この記事の結びの文言も、研究と通説的理解の大きな乖離を示すものといえましょうか。
まず、3面の「点眼」欄には、宗教学者の山折哲雄氏が「金色堂と鳳凰堂」というエッセーを書いておられます。平泉が世界遺産に選ばれたことに触れて、その文化の独自性を指摘した内容ですが、平泉藤原氏の遺体が金色堂に葬られたことをもって、平安貴族との文化的相違を論じておられる点に違和感を感じました。
山折氏は平泉藤原氏と藤原道長・頼通を比較の対象としておられますが、時代が異なります。平泉藤原氏の時代なら、白河や鳥羽・法住寺殿を比較の対象としなければならないでしょう。これらの空間が平安京外に設定されたことは押さえておかなければなりませんが、鳥羽・法住寺殿ともに院の墓所(法華堂)を取り囲む形で造営されています。また、平家の六波羅は、平正盛の墳墓堂をとりこんだ泉殿を中心に一門と家人の居住空間が形成されていました。
平泉はこれら同時代の京都周辺の「権門都市」をモデルプランとして造営されたと見るべきでしょう。
平安時代の京都というと、研究者の間でも、すぐに平安京の条坊図と『源氏物語』や『枕草子』に描かれた世界が想起されてしまうようで、このあたりが中世前期の武士論研究の障害にもなっているように常々思っているところです。
24面(山城版)には、城陽市歴史民俗資料館で「あの世・妖怪」、府立山城郷土資料館で「中世やきもの風土記」という企画展がはじまったという記事がありました。
そして私の興味を一番そそったのは、25面(地域版)の京都神田明神で例大祭が行われたという記事。15年ほど以前、山田邦和先生に京都でただ一つ平将門を祀った祠があるというので案内して頂いた所だと思いますが、今は移設されて鳥居の立つ立派な神社になったようです。将門を祀った社が京都にあるというのは極めて興味深い事実ですが、「天下を夢見た平安期の豪族に思いをはせた」という、この記事の結びの文言も、研究と通説的理解の大きな乖離を示すものといえましょうか。