京都は厳寒。家で一番寒いのは玄関だ!

No.6990

 昨日・今日と並外れた寒さです。日本列島何処も同様のようですが、日本海側は大変だと思います。丸山さんこと、もと田中さんは豪雪に埋まってはいないでしょうね?

 今日は今年最初の『吾妻鏡』講読会。養和元年(1181)年閏2月の野木宮合戦の途中で終了。ここは、本当は寿永2年(1183)の話なので、説明が複雑になってしまいます。しかし、出席者の訓みも内容理解も相当なレベルに達しつつあって、頼もしい限りです。

 年末年始の帰省のお土産を沢山頂きました。火曜日に頂いたものもあり、しばし研究室はお菓子には事欠かなくなりました。私の好みを勘案して下さった方もあり、感謝感激です。
 ありがとうございました。

 久しぶりにゼミ旅行実施の声が上がっております。ちかく、岩田君から案内がされるとのことですから、卒業生の皆さんも是非ご参加下さい。

 今日は午後、基礎教養科目の採点が終わったので、論文執筆に時間を割こうと思っていたら、来年度のシラバスの入力作業を忘れていたのに気がつきました。ここで一首。

    やれやれと思う暇なき睦月かな

 どなたか、下の句を続けてくれませんか?
 明日の会議・研究会への参加が危ぶまれてきました。

 >長村君 紀要の三校、注の件、加筆して提出致しました。

『吾妻鏡』と鎌倉

No.6992

* 新年あけましておめでとうございます。今年も火曜日の『吾妻鏡』をよろしくお願い申し上げます。毎週火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられています。新年に何か始めてみようという方は、まずは見学からでもどうぞお気軽にご参加ください。

 日時:2010年1月19日(火)14:00~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建長四年(1252年)五月五日・十七日・十九日・二十六日、六月二日・十日・十七日・二十五日、七月四日・八日・九日・十四日・二十日・二十一日、八月一日・二日・六日・二十一日・二十二日、九月一日・二日・七日・三十日、十月十四日・十六日、十一月三日・十一日・十二日・二十日、
    建長五年(1253年)正月二日・三日、二月三日・二十五日、四月二十日・二十六日、五月四日・十三日、六月三日、七月八日・九日、八月十五日・二十九日、九月十四日・十六日・二十六日、十月一日・十一日・十三日、十一月二十五日・二十九日、十二月八日・九日・二十一日・二十二日、
    建長六年(1254年)正月十日、二月十二日・二十日・二十四日、三月十二日・十六日・二十日、四月十八日・二十七日・二十九日、五月一日・五日、閏五月一日・五日・十一日、六月三日・十五日・二十五日、十月二日・六日・十日・十二日・十七日、十一月十六日・十七日・二十一日、十二月一日・十二日・十七日・十八日・二十日・二十三日・二十五日・二十六日の各条

* 野口先生からも既に少しご案内をいただきましたが、鎌倉見学旅行を企画してみたいと思います。

   日時:2010年2月27日(土)~3月1日(月)(予定)
   場所:鎌倉とその周辺

 ご質問や参加ご希望などのお問い合わせは岩田までご連絡をお願いします。
 詳しいことはまたおいおいご相談して決めていきたいと思いますが、ご予定を調整していただきましてふるってご参加ください。

今日も京域の内外を東奔西走。寒い!

No.6988

 今日(12日)は朝から書類書き。予想外の仕事が増え、徒歩では間に合わなくなったので、公約破りでバスに乗ってキャンパスプラザへ。今期最後の授業はやや混乱気味。次週は期末試験です。
 
 大学に戻って書類提出。でも、押印漏れや記入漏れで、事務の方に迷惑をかけました。

 それから、山本さん・岩田君・藪本君と『紫苑』第8号の編集会議。掲載原稿と仕様、ページ数などを確定して、即、事務方に見積もりをお願いしました。今号は100ページの大台に乗る模様です。
 昨年は幻の100ページでしたが・・・。
 掲載論文のタイトルなどは近日紹介予定。乞う御期待!!

 この間、学習院の伊藤さんから修士論文提出報告の電話あり。お疲れ様でした。
 京女の文学研究科修士論文の締切は20日。大谷さんは最後の追い込み中でしょうか?
 
 Ⅴ講時は基礎教養科目の試験。この間、研究室ではゼミ旅行の計画が練られていた模様です。
 行き先はどうやら鎌倉方面??

 昨年の大晦日に速達で送付した拙文。世に出して頂ける旨の御連絡を頂きました。

そこが人文系研究者稼業のつらいところよ

No.6985

 娑婆の方たちと生活形態を異にする点で言えば、私どもは渡世人と一緒でございましょう。

 『男はつらいよ』の寅さんが、妹のさくらに、「今度のお正月くらいは柴又で・・・」と勧められても、そうはしたいが、「そこが渡世人の辛いところよ」というセリフをのこし、大きなカバンをぶら下げて旅に発つ。これは、まったく私どもと同様に思えるわけでございます。

 私どもには季節感を楽しむ余裕などございません。クリスマスもお正月も関係なく、ただひたすらPCをうつ毎日。それが人生の本務ですから仕方はありませんが、昔はまだ余裕がございました。今は周囲に遠慮しないで原稿書きに専念出来る季節といったら、年末年始くらいしかなくなってしまいましたからねぇ。

 そのお正月も終わってしまい、この間に仕上げようと予定していた二つの論文のうち、一つは完成、発送に漕ぎ着けたものの、もう一つは未だに七割程度。しかも不本意なる内容。それなりに身を削る思いで奮闘努力しているのではございますが、削ったはずの身は運動不足で肥え行くばかり。なんと理不尽な話ではございませんか。

 という次第で、例の論文集の掲載原稿、まだ未提出です。岩田君、長村君は如何ですか?

 ◎ 本日、山本さんは郷里で成人式とのこと。おめでとうございます。
  お酒のお誘いにはくれぐれも気をつけて下さい。

【追記】 トップページの今月の予定に、12日に『吾妻鏡』講読会があるように書いてしまいましたが、当日はⅤ講時に試験が予定されていますので、講読会はありません。
 かわりに、有志による『紫苑』の編集会議が行われます。

「デラ中」とは何か。50字以内で答えなさい

No.6984

 本学の平成22年度「一般入試前期」「大学入試センター試験利用入試前期」の出願受付は、すでに開始されています。くわしくは下記を御参照下さい。
      http://www2.kyoto-wu.ac.jp/detail.cgi?target=0&news_id=519  

 新年度の前期、私は今年度同様、現代社会学部1回生の基礎演習を担当させて頂く予定です。どんな学生さんにお目にかかれるか、今から楽しみです。

 当方の研究所ゼミへの参加を目的にして、京都女子大学に入学してくれる人が出てきたら、それはもう最高なのですが。

 ちなみに、今日はA地下で「デラ中」でした。京女の人以外には意味不明かも?

 いよいよ、明日から講義再開です。
 
 【追記】 関西から新幹線で千葉方面にお出かけの場合は、品川乗り替えが便利です。

キャンパスプラザ京都と京都勤労者学園

No.6983

 山本さんから『紫苑』の原稿が出そろったとの報告を頂きました(一太郎のファイルも事務に練達されているお母様の御助力を得てワードで開けたとのこと)。
 来週早々のうちに事務方にお願いして見積もりをとりたいと思います。
 ちなみに、山本さんは、9日午前の講義に出席するために日帰りで上洛し、それから地元で成人式に出席されるとのことで大変です。
  
 今日は、研究室で「さて、一仕事」と思っていたところ、教務課長さんから、来年度の授業を京都市内の大学に中継・配信することを依頼されました。大学コンソーシアム京都の事業の一環だそうです。「授業は対面に限る」というのが私の確固たる持論なのですが、何事も経験であり、メリットも見いだせそうなのでお引き受けすることにいたしました。後期開講の予定です。

 講義といえば、ラボール学園(京都勤労者学園・京都労働学校)から、例年のように新年度の「日本史講座」への出講の依頼を頂きました。今回の統一テーマは「検証・京の転換点(ターニングポイント)」。
 私は5月24日(月)に「源頼朝と京都-なぜ、鎌倉を去らなかったのか-」というテーマでお話をさせていただきます。「去った」(もちろん、京都に)可能性は十分にあったという内容です。
 なお、ほかの先生方(美川圭先生や山田邦和先生をはじめ、関西のオールスターキャストです)の講義テーマなどについては、後日、お知らせしたいと思います。

 本日のA地下食堂は高校生でいっぱい。その中で、学長も食事をしておられました。

 大学宛てにお送り頂いた年賀状は本日拝受。ありがとうございました。

Re: キャンパスプラザ京都と京都勤労者学園

山田邦和
No.6986

>ほかの先生方(美川圭先生や山田邦和先生をはじめ、関西のオールスターキャストです)

すみません。
指定された日時には、同志社大学の講義が重なってしまっており
(同志社大学では夜の授業〈変な意味ではありません!〉もある)、
今年のラボール学園はお断りせざるをえませんでした。
あしからず、ご了承くださいませm(_ _)m。

『中世前期女性院宮の研究』を頂いて。

No.6982

 ここ数日、自らの文章表現力の乏しさにウンザリさせられております。大学院生の頃に書いたものの方がずっと良い。これは手書きであったこともありますが、何よりも意欲の差によるものであろうと思います。私など問題外ですが、若い方たちは、往年のすぐれた研究者たちが何歳の時にどのような論文を執筆したのか、調べてみると良いと思います。

  ☆ 明治大学の山田彩起子先生より、御高著『中世前期女性院宮の研究』(思文閣出版)を御恵送頂きました。博士論文の御公刊です。まさに意欲溢れる論文が並んでいます。「あとがき」を拝見すると、院生時代には、聖心女子大学・慶應義塾大学・学習院大学・東京大学などで開かれた記録の講読会に参加された由。やはり、自ら学んでいく場を開拓する気持ちがなければ、学問は大成しないのだと思います。
 かつて、私が学位を頂いた際、恩師の一人である岡田章雄先生から、博士論文の次の作品が研究者としての評価の分かれ目であるというお言葉を頂戴致しました。
 山田先生の今後の御活躍に期待したいと存じます。
 御恵送にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 広島大学の渡邊誠先生より、御高論「年紀制の消長と唐人来着定-平安時代貿易管理制度再考-」(『ヒストリア』217)・「日本古代の対外交易および渡海制について」(専修大学社会知性開発研究センター『東アジア世界史研究センター年報』3)・「平安末・鎌倉初期の宋銭流通と国家」(『九州史学』153)・「年紀制と中国海商-平安時代貿易管理制度再考-」(『歴史学研究』856)を御恵送頂きました。
 もはや、日本史の枠をこえた東アジア史。旺盛な御研究ぶりに敬意を表します。
 渡邊先生にあつく御礼を申し上げます。

 当ゼミ出身者からも、いよいよ学位請求論文を提出しようとする方があらわれようとする段階になりました。博士号は、最近の風潮を反映して日本国内では評価は低いのですが、海外では恐ろしい程高い評価を受けます。そもそも、現実的には研究職につく前提でもあります。しっかり頑張ってください。

論文に行き詰まって、年賀状談義(2)。

No.6981

 いよいよ京都女子大学の年末年始休日は終了。冬期休暇は6日までですが、そろそろ学務始動という次第です。

 お正月休みのうちに仕上げたかった論文は、やはり時間不足(学問や研究は「時間さえあればできる」というものではありませんが、時間がなければ確実にできません!)。出版社や編者の先生はもとより、すでに脱稿・提出された共著の方々に御迷惑をお掛けすることを怖れるばかりです。

 ところで、いただいた年賀状ですが、先に御紹介( >>No.6979)したもの以外にも、考えさせるもの、お手本になるもの、面白いものが沢山ございました。

 同業の先輩方からは、そろそろ定年というお知らせが多く、些か寂しいのですが、一方で若い同業者の方からは長いフリーター生活を嘆く声もありますから、円滑なポジションの交代が必要なのかも知れません。

 しかし、なによりも健康が第一で、左手書きで、脳出血後のリハビリ生活を語って下さった方もおられます。明るい内容ながら、筆跡が日々の闘いを伝えてくれました。南極旅行にもチャレンジするような方なので、きっと完治されることと思います。

 高校生の時の古典の先生からは「八十二才、元気です」の一言。ホッとさせられます。

 私が高校教員をしていた時の教え子も、もうかれこれ40代半ば。すでに子どもさんが高校に進学という人も出てきました。

 大学の教え子からは、ついにバツイチの知らせが。でもバツは世間の物差し。御本人は一時の落胆を克服して至って意気軒昂。自立のために資格を取り、すでに就職先も確保した由。「アカデミア・サバイバル」とか「高学歴ワーキングプア」などという言葉に踊らされて前途を悲観している一部院生諸君は、この前向きな姿勢を見習うべきでありましょう。

 その一方で結婚のお知らせも。中にはファッション雑誌のグラビアを思わせるようなカレシ(彼氏)とのツーショット写真のものもあり。妬みを招きそうですよ(笑)。

 それから写真で多いのが、海外の旅行先で撮影されたもの。けっこう一人旅に出掛けられた人も多いようで、さすがは野口ゼミの出身。私は未だに1996年5月、アジア歴史学者会議でバンコクに出掛けたのが唯一の国外旅行だというのに(しかも保護者同伴で)、最近の若い女性は凄い。
 
 一番こわい年賀状は出版社の編集者の方からのもの。
 「○×△□お待ちしています」というやつです。でも、尊敬する同業の大先達は、40年以上も、かかる年賀状を受け取り続けておられるとのこと。見習いたいのですが、私の場合は、身捨てられるか、寿命が保たないかです。

 愛犬・愛猫の写真も多かったのですが、犬に車を運転させているのもありました。寅は飲酒運転になるが、犬の場合は?(答えを知りたい人はメールにてお問い合せ下さい)

 それにしても、年に一度の年賀状だけで半世紀近く繋がりを保っている人もありますから、この慣習は長く続いてほしいと思います。
 「今どき、メールだ・・・」な~んて言っている人は、後できっと後悔しますぞ。

足立氏と籐九郎盛長について

足立 勗
No.6980

ご無沙汰いたしております。
昨年末、今まで見たこともない足立氏の系図を発見いたしましたので紹介いたします。
それは鈴木真年編静嘉堂文庫蔵『百家系図』六十二というものですが、この系図の中では安達籐九郎盛長は次のようにかかれています。
   高藤ー定方ー朝忠- - - - - 忠兼T遠兼ー遠元

                  |
L 実兼ー景盛ー
                     「籐九郎入道」
                      後盛長改
メールではうまく表示できませんが、要するに遠兼の弟となっているのです。
そもそも研究者の間に流布している「丹波国佐治庄地頭足立系図」が世に出たについては次のようないきさつがあったといいます。昭和四十六年に「足立氏の先祖を語る会」が開かれ、そのときの速記録を手に入れました。それによると現丹波市青垣町山垣の足立九郎兵衛氏が、その本家が村を離れるときに紙くずとして捨てていたものを拾ったことから始まります。
彼はその紙くずを報恩寺に持ち込み住職に清書してもらったそうです。それが後に東大歴史編纂所に収蔵されたといいます。
 此の「百家系図」が信頼できる根拠は遠元の子とされている遠光の傍注に書かれた「先子父死去」の文言に私が疑問を抱いたところから始まります。此の系図では「先于父死去」となっているのです。これは『尊卑分脈』の佐々木系図の盛綱の曾孫の資実が「先于父死」と書かれて、信重の子でありながら「為祖父子」と書かれているのに相当するものだったからなのです。
 此の系図は『尊卑分脈』の模倣でない証拠に山陰流ではなく高藤流であることです。そして一般に流布している山垣系のものと違って、天正時代に福知山市夜久野町直見に逃れた足立氏の子孫から明治時代に採集されたものであろうと考えられ、足立氏系図としては全く新しいものです。
とりあえずご報告まで。現在私のメールは使用不能です、念のため。

トラ年のネコたちと年賀状。

No.6979

 年明けに呼応するかの如く、新しい論文(と言っても、締切は昨年末のもの)に取り組んでおります(昨夜はサボってBSで「マイ・フェア・レデイ」を見てしまいましたが)。
 予想通りに、書いた紙数の数倍の勢いで順調に体重は増加しております。

 今年はトラ年ですが、当家の白ネコ母子はネコ科に属するトラが十二支に入っているのに、その本家本元であるネコ様がこれに漏れていることに不満を抱いているらしく、新年になって、あまり機嫌が良くありません。

 もっとも、今年で母(名はペン)14歳、娘(クゲ)13歳の高齢ネコでありますから、そうそう人間の機嫌をうかがう元気も失せてくるのは理解できるところです。しかし、娘ネコのおクゲさんは、このところ認知症気味で粗相・徘徊が多くなり、困りものです(明日の我が身を見るようで、他人事とは思えません)。

 このおクゲですが、「ネコ年がないのなら、自分が虎になってしまおう」と思ったらしく、電気ストーブにはり付いて、見事な黄色い焦げ目を作りました。おクゲ変じておコゲです。
 画像を掲示できないのが残念です。


 ※ さて、今年もたくさんの年賀状をありがとうございました。

 御結婚・御出産・学位論文提出、それに「中古住宅を購入しました」といった慶事から、転職、お引っ越し。なかには、学芸員として就職したはずなのに、なかなか博物館が建たなかったのが、17年目にしてようやく完成したという御報告もありました。
 いろいろ大変な局面に遭遇している方もおられますが、ものは考えよう。
 「子育て、ヘトヘトですが、これ程面白いものもありません」・・・こういう人を見習いたいものです。

 それから、「京都になかなか行けない」と残念がる人もいれば、「昨年は結局、東京-京都間を52回往復しました」という方も。

 また、この掲示板を毎日読んで下さっているという方もたくさんおられました。中には、記事内容についての御心配も。
 もちろん、私の書いたものに対してではございません。 

 >大谷さん 山本さんに送信された『紫苑』の原稿ですが、一太郎では開けないとのことですので、当方に添付ファイルでお送り下さい。

こいつぁ、春から・・・「法住寺殿」!

No.6977

 あけまして、おめでとうございます。
 今年も宜しくお願い致します。
 ゼミの今月の予定はすでにトップページに掲出しました。『紫苑』の編集作業も始まります。

 元日の分厚い新聞を開くと、「法住寺殿の建物跡か」という見出しが目に飛び込んできました(京都新聞)。京都国立博物館敷地で法住寺殿の遺構が出土したことは既報なのですが(読売新聞2009,12,8)、この記事では、後に豊臣秀吉が建立した方広寺のプランが法住寺殿の区画の影響を受けていた可能性があるという、京都市埋蔵文化財研究所の見解が報じられています。
 イデオロギー的な側面から、秀吉がこの地に執着した可能性については、以前書いたことがあるのですが(「法住寺殿造営の前提としての六波羅」髙橋昌明編『院政期の内裏・大内裏と院御所』文理閣)、区画も踏襲していたとなると、殿舎配置などを明らかにする手がかりが得られることになるかと思います。
 今年も「郷土史」(?)の一環として、法住寺殿を考えていきたいと思います。
 6月の公開講座では、京都・六波羅と北条氏との関係がテーマになります。こちらも楽しみです。