髙橋昌明先生の新著、来月刊行

No.6857

 先日の新聞にPPMのマリー・トラバースが亡くなったという記事が載っていた。
 われわれが、君たちと同じくらい若かった頃、周囲にあったものが、どんどん遠ざかっていく。大学に入った年に買ったギターが、骨董品と言うより、まるで出土品みたいになって立てかけられている。
 本当に月日は人を待ってくれません。

 昨日、ひさしぶりに髙橋昌明先生と電話で話す機会がありました。来月、岩波新書で『平家の群像 物語から史実へ』という本をお出しになるそうです。
 短大基礎教養科目の参考書に追加します。先に御紹介した上横手雅敬先生の『平家物語の虚構と真実(上)(下)』(塙新書)と併読して下さい。

 今朝の『京都新聞』に京都女子大学の広告が載っていましたが、『朝日新聞』にはミネルヴァ日本評伝選の広告が破格の全面で載っていました。
 『北条時政』執筆の遅延、ちょっと後ろめたい気分でおります。

『源氏と坂東武士』第二刷が出来ました。

No.6855

 奥付の発行日は十月一日になっていますが、『源氏と坂東武士』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)第二版が手もとに届きました。そろそろ書店店頭にも並び始めたと思います。

 といっても、わずか800部の増刷ですから、配架される書店も大都市の大書店に限られてしまうと思います。なにしろ当節は、書店といっても並んでいるのはコミックものばっかりで、専門書どころか拙著程度の本すら置いてあるところは数少なくなりましたから。

 今回の増刷に際し、著者として気になるところの訂正のお願いを、版元はすべて聞き入れてくれました。吉川弘文館に感謝です。

 研究書は、版の新しいものほど中味がちゃんとしているはずです。本書に限らず、拙著には骨董品的価値が生じる可能性は、まず無いと思いますので、もし御購入下さる場合は、版の新しいものを選んでお求めください。

 ところで、本日の岩田君の研究報告は如何でしたでしょうか?

 私の方、「七条町」の論文は一向に進んでおりません。シルバーウィーク(老人週間?)に賭けたいと思っています。

本学新学長に川本重雄先生。

No.6852

 日頃、大変お世話になっている川本重雄先生(現、家政学部長)が10月1日付で、本学学長に就任されることになりました。

 川本先生には、「寝殿造」に関する御研究のほか、主催されたシンポジウムなどで多大な学問的恩恵を与えていただいていることは言うに及ばず、昨年度の当研究所公開講座で講師を引き受けていただいたり、先生の研究室の優秀な院生の方たちが当ゼミで活躍して下さったりで、公私ともに御教導・御助力にあずかっていること多大なものがございます。
 大変な時期の御就任ですが、川本先生なら必ず良い方向に導いてくださると確信しております。
 御活躍を期待申しあげるところです。

 ☆ 愛知大学の山田邦明先生より、新刊の御高著『日本中世の歴史5 室町の平和』(吉川弘文館)を御恵送いただきました。
 「あとがき」の室町時代の平和と今日の日本の共通性の御指摘は新鮮です。また、参考文献欄には京都で活躍されている若い方々(当ゼミ出身者のフィアンセを含む)のお名前が並んでいて、中世史研究の世界の世代交代を実感させられました。
 山田先生にあつく御礼を申し上げます。

15日(火)の『吾妻鏡』講読会は休止

No.6846

 直前のことで申し訳ありませんが、諸般の事情により、明日(15日)の『吾妻鏡』講読会は休止させていただきます。したがって、開始は29日からということになります。
 本日の『小右記』講読会ならびに木曜日の『吾妻鏡』講読会(治承四年)は予定通りです。

 なお、>>No.6831でお知らせしたように、18日(金)に、岩田君が大阪歴史学会の中世史部会で研究報告をされますので、時間のある人はこれに出席して下さい。

後期ゼミ始動。

No.6848

 イチローもエライが、大谷さんもすごい!

 昨日の『小右記』講読会は国文の院生のほかに史学科の学部生も参加。
 長和四年五月一日条の記事に関連して、「法華三十講」について大谷さんが詳細な報告をしてくださいました。大谷さんは研究の面白さを掴み、このところ絶好調なので、聴いている側も楽しくなります。もちろん、たいへん勉強になりました。
 さ来週も後半のお話しを楽しみにしています。

 山本みなみさんから、岡山のお土産「きび田楽」をいただきました。木曜日の『吾妻鏡』までは、無くならないように(一人で食べ尽くさないように)自重したいと思います。

 ☆ 先年の鹿児島ゼミ旅行で、隼人塚などを御案内頂いた霧島市教育委員会の重久淳一先生より、ミュージアム知覧の企画展「獣骨を運んだ仲覚兵衛と薩南の浦々~知覧・頴娃に残る海運資料と発掘調査速報展~」図録、ならびに、先生の御高論「貿易陶磁器の終着点-錦江湾奧部の遺跡-」収録の南さつま市坊津歴史資料センター輝津館企画展「海上の道と陶磁器」図録を御恵送いただきました。
 重久先生に、あつく御礼を申し上げます。

基礎教養科目も講義開始!

No.6850

 本日は短大の基礎教養科目「源平内乱の時代を京都で生きた人たち」の最初の講義。
 どんな学生さんが受講してくれるのか、いささか心配していたのですが、みんな熱心に楽しそうに聴いてくれて幸せでした。人数も適切。

 教室(A403)も眺望抜群。南側は新日吉神社、西側は京都タワーを望み。その向こうに西山が連なります。法住寺殿や八条院御所の跡地を遠望しながら、『平家物語』の時代の講義が出来るなどと言うのは・・・。
 あらためて、京都女子大学で教壇に立てる幸せを実感させていただきました。

 受講の諸姉に、どんな人物や事柄を取り上げて欲しいかと尋ねてみたところ、「熊野」という声あり。なぜか「熊野」は京女生に人気があります。これは「源為義」をテーマとする回に触れることが出来るでしょう。「新宮十郎行家」もいましたね。
 「和宮」というリクエストもありましたが、これは時代が離れすぎ。
 代わりに、和宮と同じように、関東の将軍に京都から嫁いだ坊門信清の娘「西八条禅尼」のお話しでも致しましょうか?

 今年度の後期。楽しくなって参りました(ただし、原稿執筆の遅延による憂鬱を除く)。

後期『小右記』ゼミ再開

大谷久美子
No.6851

私、京女生に人気という熊野出身。武蔵坊弁慶と同郷でございます。

14日(月)『小右記』講読会が再開されました。
後期は史学の御方が2名も御参加くださり、嬉しい限りです。
他学科の方との交流は大切にしたいものです。

先日は未熟な発表だったにもかかわらず、過分なお褒めにあずかり恐悦至極です。
次回からも気を引き締めて取り組んでいきたいと思います。
どうぞ宜しく御指導下さい。

さて、つに再開致しました『小右記』講読会。
次回講読範囲および場所は以下のようになります。

日時;9月28日(月)13時~14時30分
場所;L校舎3階共同研究室
講読範囲;『小右記』長和四年五月一日条

講読会参加を希望される方がいらっしゃいましたら、どうぞ気軽においでください。

『吾妻鏡』講読会(治承四年)も再開!

No.6854

 >大谷さん 頼りに致しております。

 さて、本日、『吾妻鏡』講読会(治承四年)もスタート。学部(史学科・国文学科)2回生6名、院生1名(家政学研究科)が集合。
 ちょうど、黄瀬川の陣で源義経が兄頼朝と対面を遂げたところから。さすがに、みんなスラスラと読めるようになりました。
 後期初回なので、郷里や旅行先でのお土産がいっぱい(スパイダーマンのチョコもあります)。ありがとうございました。

 ☆ 千葉県立浦安南高校の外山信司先生より、御高論「堀田正睦と藩校成徳書院」掲載の『風媒花』第22号(佐倉市教育委員会)を御恵送いただきました。
 堀田正睦は本来の名は正篤(まさひろ)だったが、将軍家定に篤姫が輿入れしたために、「篤」の名を憚って正睦に改名したということを始めて知りました。
 それから、幕末維新期の佐倉藩で城代家老をつとめた平野重久の著『佐倉藩雑史』に、ある時期の藩内の風潮について「少年の学問を好み勉強する者は、衆挙りて之を憎み、或いは之を辱め(中略)、多人数にて之を嘲弄し、言うべからざる恥辱を与え」とあるのは、「まさに、今日の学術研究を取り巻く環境、そのままじゃないか」と言いたくなってしまいました。
 また、同誌には近年発掘調査が進み、国史跡に指定された本佐倉城跡の鳥瞰図も載せられており、学生時代、まだ関心をもたれることの少なかった千葉県内の中世城郭跡を歩き回った私としては、興味津々たるものがございました。
 ちなみに、私の父方の祖父母はともに佐倉の生まれです。
 外山先生に、あつく御礼を申し上げます。

上越市と野口ゼミ

No.6840

 みなさまお久しぶりです。鈴木潤@同志社高です。
 しばらく野口先生の書き込みが連続しているので、リリーフとして登板です。

http://mytown.asahi.com/niigata/news.php?k_id=16000000909120005
↑新聞にもでかでかと掲載されていましたが、上越の話題がトップニュースですね。

 京都に住んでいると、新潟とか長野とか位置関係がさっぱり概念としてつかめていなかったのですが、今年の夏に丸山さんち(田中さん)へ遊びに行った際に、いろいろと連れて行ってもらい、地理的な感覚を実感できました。

 今年の夏休み(といっても教員は仕事ですが)は、出張やクラブ合宿で福井(鯖江)や仙台にいろいろととびまわっていたのですが、県民性というかその土地の雰囲気は、実際にその場所に立って感じるのが一番だと改めて思いました。

 そろそろ大学も秋学期or後期もスタートでしょうか。ぜひ野口ゼミ現役生も旅行・帰省報告を載せてください。
 ちなみに丸山さん(田中さん)、上越のほうの状況どうですか????

上越市民です

田中裕紀
No.6842

呼ばれて飛び出て・・!です
京都府立総合資料館で展示されていた、直江版『文選』も見逃してしまった残念に思っていたんですが、上越に引っ越して来て、まさかこんなに早く大発見に出会えるとは・・!
という感じです。今日は、我が家でとっている新聞3紙すべてで第1面でした。
天地人博だけで盛り上がってちゃダメなのです(ここ強調!)。
新潟県にほんの数ヶ月住んで思った事なので見当違いになるかもしれませんが、
こちらの文化事業への関心は大変に偏っています。今年は大河ドラマの影響が大きすぎて、やや食傷ぎみです。
なので、今回の屏風が、現段階の上越でどれくらいの知名度なのかは正直分かりません。
その辺も含めて、是非とも近いうちに観に行こうと思っていますし、
これが文化事業推進の一端になればいいなあと思います。

田中さんのお嫁入り道具説

No.6843

 京都では『朝日新聞』がスクープをとったようで、昨日夕刊の第一面でした。
 「えっ、上越市」ということで、田中さんがお嫁入り道具に京都から持って行ったのかと思いましたよ。
 米沢市立博物館所蔵の上杉本『洛中洛外図屏風』は、織田信長が上杉謙信に贈ったものと伝えられているので、これは豊臣秀吉が上杉景勝に贈ったものなのかも、と想像したりしていたのですが、伝来は複雑なようですね。
 ともかく、これはとんでもなく貴重な発見です。明らかに出来ることは山のようにあると思いますが、聚楽第の天守閣が、これほどはっきりと描かれているものは他にありません。
 みなさんもよく御存知の某女子大学の考古学の先生は、ひそかに法勝寺九重塔・東山大仏殿・二条城天守閣などなど、京都に建てられた歴史的高層建造物の復原を企てておられるとの噂を耳にしたことがあるのですが、この報道で、おそらく聚楽第天守閣もその対象に加えられたことと推測されます。

 それにしても、京都と上越の御縁がまた一つ増えたとことは間違いありません。
 京都出身の文化人である丸山夫人には、この屏風に描かれた通りや人物について地元の方々にしっかりと説明が出来るように、よ~くお勉強をお願い申しあげます。

『紀要』・『研究所だより』の在庫処分

No.6839

 当研究所の『研究紀要』ならびに『研究所だより』の拙稿掲載号の中で以下の巻号に在庫があります。
 必要な方は、残部のある限り差し上げますので、お知らせ下さい。ただし研究室に取りに来られる方に限ります。

 『研究紀要』第15号(平成14年3月)
     野口実「法住寺殿と小松家の武将たち」
     山下克昭「陰陽道と安倍晴明」公開講座講演録
     柳原敏昭「室町の王権と陰陽道」同上
                      など掲載(掲載順、以下同じ)
  同    第17号(平成16年3月)
     野口実「院政期における伊勢平氏庶流(補遺)」
     野口実・山田邦和「六波羅の軍事的評価と法住寺殿を含めた空間復元」
     佐伯真一「『平家物語』合戦談のリアリティー-橋合戦を中心に-」公開講座講演録
     山田邦和「消えた建春門院陵を探る」同上
                      など掲載
  同   第18号(平成19年3月)
     野口実「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」
     源健一郎「『平家物語』と風景-清盛の見たもの/清盛を見る者-」公開講座講演録
     川合康「治承・寿永内乱と伊勢・伊賀平氏-平氏軍制の特徴と鎌倉幕府権力の形成-」同上
                      など掲載
 『京都女子大学宗教・文化研究所だより』第45号(平成19年7月)
     野口実「頼朝の六波羅邸-鎌倉幕府と都市京都-」公開講座講演録要旨
     瀬田勝哉「秀吉が伐らせた木-東山大仏殿材木と富士山-」同上    
                      など掲載

家宅捜索の日々

No.6838

 昨日は『台記』研究会で、久しぶりに京大に行きました。あまり早く着きすぎたので、総合人間学部(旧・教養部)正門脇のベンチで、しばし持参の抜刷に目を通していたのですが、風が心地よく、ようやく秋の訪れを感じることが出来ました。これなら、ものを考え、書く意欲も湧こうというものです。
 今夏、関西は猛暑続きでしたが、関東はだいぶ涼しかった由。来春あたりに刊行される学術雑誌は関東以北の方たちによる論文で満たされることになるでしょう。

 ようやく気候がよくなったので、執筆が捗らなければならないのですが、「あるはずの本がない。FDに保存したはずのファイルがない。」というわけで、連日「家宅捜索」を続けるばかりで、ちっとも進んでおりません。

 研究室と自宅に本や資料を「分置」してあるのですが、実態は「分散(散逸?)」と呼ぶに相応しい状態。これを、必要に応じて車で運んで、双方の仕事場で利用しているうちに、どこにあるのか訳が分からなくなるのです。最近は、並行して複数の原稿を書いていることが多いので、頭の中も混乱状態。若い頃は、自分の蔵書については、どの書棚のどのあたりにあったのかくらい、すぐに見当がついたものですが、数が増え、引っ越しを重ね、それに<耄碌>が加わりましたから、もういけません。

 一昨日から、本日にかけては秋山國三・仲村研『京都「町」の研究』、村井康彦『古代国家解体過程の研究』、野口徹『京都町屋の研究』を捜索。前二者はようやく発見いたしましたが、野口氏著は未だに行方不明です。『朱』に書いた七条町に関する拙文を収めたFDも消息不明です。

 すぐに諦めて、新たに書き始める方が賢明なことは分かっているのですが、「あるべき物がない」というのは、たいそう気になるものです。そして、そうこうしているうちにアイデアも執筆意欲も失せていってしまうというのが、いつものパターンなのであります。

 ◇ 気分転換に、石浜さんからお送り頂いた光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』(NHKブックス)を読んでいるのですが、これがとても面白い。一読をお勧めいたします。

「女坂」に学生さんの姿が増えてきました

No.6835

 昼休みのA地下がだいぶ混雑するようになりました。
 寮生の方たちも、そろそろ帰洛されたのでしょうか?

  当方、今夏3本目の、「京都七条町」をテーマにした論文にとりかかりましたが、暗礁に乗り上げているところです。
 もう20年以上も前に京都文化博物館の紀要や関西電力京都支店の発掘調査の報告書に書いた拙論があるので、何とかなるだろうと考えていたのですが、やり直してみると結構おもしろく、和鏡の生産や権門付属の細工所とかに関する文献を探しては読みあさっていて、勉強にはなりますが、執筆は少しも捗っておりません・・・という次第です。
 20余年前の旧稿ですが、当時は中世京都のことなど殆ど無知でしたから、よくこれだけのものが書けたものだと、30歳代の私に敬意を払いたくなるのですが、しかし、さすがに、あの、京都文化博物館開館前の前途不安と激務の中で執筆したものだけに、細かいところでいくつかのミスが見つかります。やはり、余裕なきところに、ろくな結果は生まれません。もっとも、切羽詰まった情況だったからこそ、まったく未知の領域でも、これだけのものが書けたのかも知れませんが。
 おっと! 今も切羽詰まっていることに変わりはないのでした。

◇  吉川弘文館から、拙著『源氏と坂東武士』初版が完売されたことを意味する書類が届きました。多くの読者を得て、ありがたく存じております。
 かかる次第で、目下、本書は市中に出回ってはいないかと思いますが(本学図書館の蔵書も貸出中になっていました)、今月末~来月のうちには、しっかりと正誤訂正を加えた第二版(少部数ですが)が刊行されますので、こちらを御利用くだされば幸いです。

九月が苦月でなく「楽」月になりますように

No.6831

 元木先生と岩田君から詳細な伊予旅行記を頂戴致しました。ありがとうございました。

 あたかも、同一の出来事に関する一次史料が二つ揃ったという観あり。岩田君の旅行記には「謎」の記述もありますし、これはテキスト・クリティークの教材に使えそうですね(笑)。

 ところで、その我等が岩田君が大阪歴史学会中世史部会の9月例会で研究報告をされます。
  日時:9月18日(金)18:30~
  報告者:岩田慎平氏
  テーマ:「鎌倉幕府研究をめぐって」(仮)
  会場:西宮市大学交流センター(ACTA西宮東館6階)・セミナー室
  (阪急神戸線「西宮北口」駅下車、北出口2階から徒歩2分)
   ※ 詳細は→http://wwwsoc.nii.ac.jp/historia/

 ◇ 7月4日、本学で開催された和歌文学会関西例会で、院生の山本さんが「延喜七年大堰川行幸の詩歌と『菅家文草』――〈秋水に泛かぶ〉の表現をめぐって――」と題する研究発表を行いました。
      →http://www2.kyoto-wu.ac.jp/gakubu/cgi/detail.cgi?news_id=112

「ラ・九月」のリニューアル、時給もUP

No.6833

 昨日は岩田君がお出で下さり、写真を見せていただきながら8月中に参加された列島各地でのイベントのお土産話をうかがいました。土産話こそが最高のお土産です(と言いつつ、しっかりお土産物も頂きました)。
 
 ところで、九月に入り、研究室のあるL校舎の改装工事もだいぶ進みました。まず、階段とエレベーターホールが明るくきれいになり、エレベーターも新しくなりました。歩いた方が健康的なのですが、つい乗りたくなってしまいます。

 それから、9月1日より、学部生・短大生アルバイターの時給が20円高くなりました。大した額ではありませんが、「チリも積もれば山となる」というやつです。ちなみに、院生さんや一般の方の時給は据え置きだそうです。

 なお、後期のゼミ日程は先にお知らせしたとおり(月Ⅲ→『小右記』、火Ⅲ~→『吾妻鏡』宝治二年、木Ⅱ→『吾妻鏡』治承四年)ですが、学部・短大対象の講義については、火Ⅱに大学コンソーシアムの特別講座科目「『平家物語』と中世前期の京都」(於、キャンパスプラザ4F、第4講義室、9月29日開講)と火Ⅳの基礎教養科目18「源平内乱の時代を京都で生きた人たち」(A403、9月15日開講)を担当します。

超?豪華トイレも完成

No.6836

 L校舎のリニューアル工事はほぼ終了したようです。
 3Fの、あの20世紀の貴重な遺構であった「公共」トイレもリニューアル工事が終了。見違えるようになりました。ドアまで立派で、3Fでは一番豪華な空間かも知れません。
 京都大学総合人間学部の校舎リニューアルで、トイレが一新したのに驚かされたことが思い出されますが、これはそれ以上。一見(?)の価値ありです。

 今日は付属高校で体育祭が行われています。高齢の先生には、暑い中、大変だと思います。

2009年伊予旅行

元木泰雄
No.6826

 掲示板に久しぶりに書かせていただきます。
 20日の古文書見学会には野口先生にもお越しいただき、感謝しております。それにしても、国宝の文書の実物を手に取りながら、上島先生のご解説をいただくとはなんと贅沢なことでしょうか。紙の質、墨の色、折り方など、古文書の非文字情報は、なんと豊かなことでしょうか。こうした古文書分析の方法を切り開かれた上島先生のご研究を、関西の研究者が継承しないわけにはゆきません。若い方々のご活躍を期待致します。

 さて、野口先生も予告された伊予旅行。充実した楽しい旅行になりました。
 今回は東京から漆原徹、佐藤秀成のレギュラーともいうべき両先生に、近藤好和先生もご参加になりました。関西からは小林基伸先生、当方、院生では岩田、花田、伊集、坂口、米沢の諸君、そして地元から元近藤先生の受講生宇野さん、そして山岡さんが参加されました。今回は強烈晴れ男、土佐の豪快先生こと池内敏彰先生が体調不良でご欠席になり天候が懸念されましたが、幸いほぼ好天に恵まれました。

 21日、新幹線で福山駅集合。レンタカー二台に分乗してしまなみ海道を通ってまずは生口島の向上寺三重塔を見学。朱塗りが鮮やかな室町の塔で、瀬戸内海を背景にした姿はまさに一幅の絵画でした。もっとも、非観光寺院のため駐車場がなく、駐車場探しで時間を大幅にロス。駐車場から寺院に行く道にも迷い、保育園の子供に不審者扱いされたり散々でした。ただ、駐車場前のイタメシが鄙には稀なしゃれた店、質はもちろん、量も近藤先生を満足させるものでした。
 その近藤先生の御解説で、大山祇神社の宝物を見学できたのも、これまた贅沢な時間でした。大鎧や太刀などの武具に関する認識を大いに改めたことでした。あの神社にあれだけ鎧があるのは奉納ではなく、実は略奪的な性格が強いとのこと。これまた予想外のことでした。
 近藤先生のご解説に聞き惚れながら(?)じっくり見学するうちに時間も経過、最後に予定していた大島の村上水軍資料館は時間切れ寸前、しかし伊集君の必死の電話が奏功して何とか入れてもらえたばかりか、館員の方に丁寧な解説をしたいただくなど、充実した時間を過ごしました。村上水軍の歴史をコンパクトに解説した興味深い資料館でした。
 水軍の根拠地となる海城は小さな島にあったとのこと、生活拠点と軍事拠点は異なっていたようです。
 その夜は、今治市に宿泊。市内中心街の焼き鳥「世渡」で夕食。まさに鳥のフルコース(刺身はなし)、甘めで濃厚なタレが鳥の味を引き立て、堪能致しました。もっとも、近藤先生曰く「食ったのは鳥肉とキャベツばっかりじゃん」。確かにそうですね。ちなみにキャベツは食べ放題。
 なお、付近はすっかりシャッター商店街の様相で、いかにもさびれた感じが否めません。40年余り前、家族とともに親戚を訪ねた折、「四国の大阪」と称された今治はもっと活気があったように思えたのですが。本家大阪に合わせたわけでもないのでしょうが・・・

 翌22日。まずは糸島公園。しまなみ海道の終点来島海峡大橋のたもとにあり、橋の景色も素晴らしいのですが、ここに来た目的は村上水軍の拠点のひとつ来島を見ることです。展望台から見えたのは別の島と判明、本物を探して若干右往左往でしたが、潮流の速い海峡に面した小島と確認。早い潮流が堀の代わりだそうです。
 ついで今回の旅行のハイライト、今治周辺の中世の石塔群を見学しました。付近の石塔(五輪塔、宝篋印塔)11基を集めた乗禅寺をはじめ、多数の石塔を見学致しました。最大のものはなんと3.6メートル。銘のあるものはいずれも正中、元亨など、鎌倉末期に集中しており、この時期に何か大きな動きがあったことをうかがわせます。律宗などの石工集団がこの地に登場したのでしょうか。なお、野間神社の2.8メートルの塔は土台が崩れ傾いており、早急な手当てが必要と思われました。野間の斜塔ではしゃれになりません。
 ついで国分寺近くの脇屋義助の墓所を見学。彼がこんなところで亡くなったとは知りませんでした。新田の子孫を称する徳川幕府の時代に墓所はずいぶん立派に整備されたようです。
 そうこうするうちに12時を回り、早起きの近藤先生が空腹を訴えられたので、昼食のための食堂を探すのですが、バイパスなど幹線道路にも全く見当たらず。あのあたりの人は外食をしないのでしょうか?そうこうするうちに次の目的地西山興隆寺に到着。
 延々と続く厳しい上り勾配の参道を息を切らして登ると、堂々たる室町時代の本堂。その傍らに、またまた頼朝の供養塔と称する鎌倉末期の宝篋印塔が。この地域では、集中的に多くの石塔が造られたようです。頼朝のような不人気の人物の供養塔とは珍しいことですが、頼朝が所領を寄進したことと関係するようです。
 険しい参道で、まさに膝が笑う思いを致しました。
 そこから松山へ向かったのですが、田舎のこととて沿道に食堂がありません。松山まで我慢かと思った刹那、山岡さんから緊急電話。「空腹の余り近藤先生が暴れそう」との一大事。幸いに見かけたラーメン屋に飛び込み事なきを得たことでした。
 松山では、戦国時代の本堂のある浄土寺、道後に近く、国宝の仁王門や重文の建築物を多数有する石手寺を見学致しました。いずれも札所で、多くのお遍路さんが参拝しておられました。石手寺の境内では、当方が猫好きの本領発揮。撫で方が気に入ったのか、猫に何度もすり寄られる一幕もありました。我が家の猫もあれくらい愛想が良ければ、と思ってしまいました。
 その後、道後温泉の入り口にあり、河野氏の拠点となった湯築城跡を見学。資料館、復元した武家屋敷など、展示も工夫が凝らされており、なかなかうまく整備された公園でした。
 その晩は松山泊。前日とは打って変わって、まことに夜の街も賑やか。
 出かけたのは郷土料理の「五志喜」。五色そうめんやタイ飯を含む盛り沢山お料理で、満足致しました。近藤先生は、名物「鯛そうめん」がないことに若干ご立腹。
 真面目に宿に帰った若者を尻目に、漆原、小林、佐藤の諸先生と当方は宿近くのジャズバー「Monk」にまいりました。「もう腹いっぱいだし、一杯だけ」などと口々に言いながら、店の居心地の良さについついグラスを重ね・・・植木等の有名な歌が思い起こされます(笑)。かくして全員二日酔い。
 洒落たバー、にぎわう夜の繁華街。前日とは大違いでした。地方は県庁所在地だけが繁栄するという最近の傾向を如実に見せられた思いでした。
 
 23日は先に帰宅される近藤先生を空港にお送りし、国宝建築二箇所を見学。鎌倉の瀟洒な和様の本堂を持つ大宝寺。本堂正面にある桜の古木の名称が「うばざくら」。ただし、乳母桜だそうです。
 ついで松山北部の太山寺。ここは7間9間という信じがたい巨大な国宝本堂があります。これも鎌倉末期の建造。鎌倉末期の伊予に何があったのか、どなたか研究してみてはいかがでしょうか?
 道後近くの伊佐爾波神社は華麗な桃山建築。蛙股の中にユニークな絵画があるのですが、そのひとつが一遍上人像。まさに神仏習合ですね。
 その後、「坂の上の雲」の宣伝一色の市街地を抜けて松山城に登り、旅行を締めくくりました。
 来年は、美濃、あるいは信濃別所温泉などが候補になっております。
 ぜひ奮ってご参加ください。
 老耄で書き忘れたり、間違えも多いと思います。岩田君はじめ、旅行参加各位のご修正をお願い致します。

2009年伊予旅行/追伸

元木泰雄
No.6827

 変換ミスや打ち間違えを修正しようとしたのですが、いつもの暗証番号を入れ間違えたらしく、修正できません。恥をさらすことになり、情けないことです。
 今年度は「執行部」のはしくれ、教務委員長。重要な委員会の委員5つを兼任させられ、すでに24日から会議の打ち合わせ。
 おまけに神戸市史では自分の原稿の校正はともかく、他の方が書かない、投げ出す、書いたけれど難しすぎる、市史に不適当、昔のままのデータといった事態に対処させられる有様。夏休みの研究どころではありません・・・と書いたのですが、2004年以来、公私にわたる大事件、混乱の連続で、暇な年などありませんでした。
 つまり、暇になったら原稿を書こうと思えば、定年まで待たないといけません。それまでのんびり構えていれば、もう第一線の研究には復帰できるはずもありません。どんなに忙しくても石にかじりついて研究成果を公表するしかないと思いいたりました。
 その気にさせてくださったのは中央公論新書の編集者の高橋さんです。感謝します。ちなみに、石浜さんを大変尊敬しておられるとのことでした。石浜さんとの約束もありましたね。その前に論文集。塙と吉川・・・
 さりとて、「懲戒を喰らわない程度に学務は手抜き」なんてこともできず、酒も飲みたいし、とらぬ狸の何とかになるかも・・・・

伊予旅行・番外地

No.6829

 元木先生による詳細な旅行記のあとではなんとも書きづらいところですが、ご一緒させていただきました伊予旅行と高野山での中世史サマーセミナーのことなどを少しご報告します。

 20日の古文書学会見学会(於、京都府立総合資料館)には私も参加させていただきました。国宝・東寺百合文書の実物と上島先生のご解説はもちろん、それを多くの高名な先生方と並んで見学させていただけましたことは大変貴重な経験となりました。

 21日からが伊予旅行。昨年の「ゴール地点」がちょうど今年の「スタート地点」となるという奇縁もあり、福山を訪れるのはこの四年ほどの間で三度目となりました。はじめて当地を訪れたのは2006年3月頃で、広島県立歴史博物館や鞆の浦などを見学し「次はいつ来られるかな…」などと思っていたのですが、どっこいすっかりなじみの街になった気がします。
 しまなみ海道では橋の上から静かな海や、そこに浮かぶ島々、船などを見ることができ、いかにも瀬戸内の風情であると思いました。村上水軍資料館で解説していただいた水軍のことは、交通・流通の拠点を押さえる中世武士の研究と関わる点も非常に多く、大いに学ばせていただきました。また、資料館からの眺めも、学芸員の方がおすすめしてくださった来島海峡からの夕景も本当に見事でした。
 今治市での宿(今治プラザホテル)では、喫煙室が上階にあったためそこからは今治城の勇姿が眺められたそうです。が、参加者の大多数は禁煙室に宿泊していたのでした…。焼き鳥「世渡」ではおかみさん(?)がやたらとサービスして下さったのが印象的でした。四国のおかみさんはみなさんサービス精神旺盛なんでしょうか。

 翌朝、私は宿のすぐ近くにあった第五十五番札所である南光坊や港のほうを少し散歩してから朝食(バイキング形式)に向かいました。南光坊は山門に迎え鐘(?)があり、静かな境内に鐘の音が低く響きました。朝食は元木先生・近藤先生とご一緒させていただきました。
 今治市から松山市の移動は一般道を桜三里を経由して向かいました。浄土寺門前では天からチャリンと落ちてきたものを拾った人がいたかと思えば、私は物理的にも精神的にも「ヘコむ」事態を引き起こしました…。とほほ
 湯築城跡は公園として整備され住民の皆さんの憩いの場となっているようでした。ただ、「ヘコ」んだ直後にあの駐車場から出庫するのには困りましたが…(泣)松山では軽自動車がスタンダードなのでしょうか。
 松山市での宿(チェックイン松山)には奥道後温泉引湯という浴場があり、夜遅くまで入れるということなのでじっくり浸かりました。夜はわからなかったのですが、浴場からは松山城を眺めることもできました。

 最終日の23日も大宝寺・太山寺など鎌倉・南北朝期に遡る史跡を見学しました。帰路のしまなみ海道では、海側から尾道の浄土寺などを眺めることもできました。昨年の岡山旅行でも実感したのですが、瀬戸内地域は本当に多くの中世遺構が残っており、またそのどれもが壮麗であることにとても驚きました。貴重な見学の機会を共有させていただき、元木先生や諸先生方に深く御礼申し上げます。

 その翌日は、第47回中世史サマーセミナー二日目のシンポジウム「鎌倉幕府と地域社会」(於:高野山大学201教室)を拝聴するため高野山へ参りました。パネラーの生駒孝臣さんらとともに南海高野線とケーブルを乗り継いでの「登山」となったのですが、木幡を出てから三時間ほどで高野山頂に辿り着き、思いのほか近いことを知りました。シンポジウムでは生駒さんが畿内、田中大喜氏が九州、七海雅人氏が東北をそれぞれ取り上げ、鎌倉幕府体制下における地域社会の動向が分析・比較されました。近年の武士論研究の成果は鎌倉幕府研究にとっても重要な鍵になると思われます。
 ところで高野山は世界遺産に登録されていることもあってか外国人旅行者の方が多く見受けられました。山頂は夕暮れ時になると少し肌寒いくらいでしたが、昼間歩き回るにはちょうど良い気候と思われ(実際に歩き回っていないでわかりませんが…)、図らずも良好な季節に訪れることができて良かったと思います。また、会場では茨城(>>No.6032>>No.6475)で大変お世話になった前川さん・額賀さんや、今年度・昨年度の公開講座でお会いした下村さんといった関東の方々にもお会いすることができました。みなさんはシンポジウムにどのような感想をお持ちだったでしょうか。

 高野山から日帰りした翌日は、京都もすっかり秋を思わせる気候になっていました。またそろそろ火曜日の『吾妻鏡』も再開の準備に入らねばと思います。日程は未定ですが、ひとまず範囲は以下のとおりです。

 範囲:宝治二年(1248年)正月三日・七日・二十五日、二月五日・十八日、三月十八日、四月七日・二十九日・三十日、五月十五日・十六日・十八日・二十日・二十八日、六月五日・九日・十日・十一日・二十一日、七月三日・七日・九日・十日、八月一日・十日、九月七日・九日・十九日・二十日・二十二日・二十六日、十月六日・二十四日・二十五日・二十七日、十一月十三日・十五日・十六日・十八日・二十三日、十二月五日・十二日・二十日、閏十二月十日・十六日・十八日・二十日・二十三日・二十五日・二十六日・二十八日
     建長二年(1250年)二月五日・二十六日、三月一日・三日・五日・十三日・十六日・二十日・二十六日、四月二日・四日・五日・十六日・二十日・二十五日・二十九日、五月十四日・二十日・二十七日・二十八日、六月三日・十日・十五日・二十四日、七月一日・五日・八日・二十二日、八月七日・十八日・二十六日、九月十日・十八日、十月七日、十一月十一日・二十八日・二十九日、十二月三日・五日・七日・九日・十一日・十五日・二十日・二十三日・二十七日・二十八日・二十九日の各条

 毎週火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、夏が明けたら何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでもどうぞお気軽にご参加ください。