『尊卑分脈』安達系図に関して
No.5139
野口先生お久しぶりです。
と、申し上げてもご記憶にないかも知れません。以前、足立遠元に関する、ある論文の入手先をおたずねして、ご返事を戴いたことがあります。
足立遠元が盛長の年上の叔父、というのは今では定説のようになっていますが、小生いまだに納得がいきません。そもそも小生は「丹波國佐治庄地頭足立系図」の方が正しく、『尊卑分脈』は強引に安達に足立を繋いだものと考えています。
さて、表記安達系図に関して最近気づいたことがあります。
遠兼について、上部の欄外注記に「但小野田三郎兼盛子」とあります。なぜなのでしょうか、系図上で兼盛と遠兼は罫線で結ばれているのに、養子・猶子ならいざ知らず、わざわざ注記を書く必要はない、まして遠元が年上と云うことは遠兼も兼盛より年上の可能性が高いわけです。
『吾妻鏡』によりますと盛長は一貫して姓を以て呼ばれたことがなく、つねに盛長か、籐九郎盛長と呼ばれ、あたかも頼朝の郎党の扱いでした。かれが安達を冠して呼ばれたのは彼の死の直前、正治元年10月28日が初めてで、それが彼の『吾妻鏡』における最後の記録となっています。
私は洞院家が軽率に安達に足立を繋いだとしか考えられないのですか゛いかがでしょうか。
と、申し上げてもご記憶にないかも知れません。以前、足立遠元に関する、ある論文の入手先をおたずねして、ご返事を戴いたことがあります。
足立遠元が盛長の年上の叔父、というのは今では定説のようになっていますが、小生いまだに納得がいきません。そもそも小生は「丹波國佐治庄地頭足立系図」の方が正しく、『尊卑分脈』は強引に安達に足立を繋いだものと考えています。
さて、表記安達系図に関して最近気づいたことがあります。
遠兼について、上部の欄外注記に「但小野田三郎兼盛子」とあります。なぜなのでしょうか、系図上で兼盛と遠兼は罫線で結ばれているのに、養子・猶子ならいざ知らず、わざわざ注記を書く必要はない、まして遠元が年上と云うことは遠兼も兼盛より年上の可能性が高いわけです。
『吾妻鏡』によりますと盛長は一貫して姓を以て呼ばれたことがなく、つねに盛長か、籐九郎盛長と呼ばれ、あたかも頼朝の郎党の扱いでした。かれが安達を冠して呼ばれたのは彼の死の直前、正治元年10月28日が初めてで、それが彼の『吾妻鏡』における最後の記録となっています。
私は洞院家が軽率に安達に足立を繋いだとしか考えられないのですか゛いかがでしょうか。