平重衡の鎌倉連行と大姫のことなど。
No.3955
本日は祇園祭の山鉾巡行で、四条通の辺りは大変な賑わいだと思います。おそらく、当ゼミメンバーの何割かは、その賑わいを構成していることでしょう。楽しそうな顔が浮かびます。
ところで、久しぶりに些かの朝寝をして新聞を開くと、テレビ欄に本日放送の大河ドラマのストーリーが出ていました。平重衡の鎌倉連行と、清水冠者義高を頼朝が殺害させるというのが、今日のお話しのようですが、驚いたのは義経が重衡を鎌倉まで連行したという筋立てになっていることです。時代劇ではなく、一応歴史ドラマなのですから、これはフィクションの度を超しています。ここで義経が京都を離れては、鎌倉方の既得勢力が失われるばかりでなく、後白河院・王朝政府にとっても、それは絶対に容認しがたいことであったからです。
義経は鎌倉幕府の「京都守護」の初代と考えてよい存在で、一ノ谷合戦後は屋島出陣まで約一年間、在京して京中守護と畿内近国における武士の非法狼藉停止などの職務遂行にあたっていました(藤本元啓「京都守護」『藝林』30-2)。『吾妻鏡』によると、重衡の鎌倉護送は梶原景時によって行われたようです。
なお、義経の在京活動が高く評価できることは、菱沼一憲「源義経の再評価」(『国史学』179)に指摘されています。
もう一方の義高殺害の事件と、この時の北条政子・大姫母子の対応については、野村育代『北条政子』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー)に適切な叙述がされています。ぜひ、お読み下さい。
大姫はこの事件がきっかけで精神を病み、短い生涯を終えることになったと伝えられていますが、大姫というと、1972年6月、母校・千葉県立千葉東高校で、一緒に日本史の教育実習をしたIさん(当時、早大教育学部4年、私にとって高校の一年先輩)のことを思い出します。彼は大姫の熱烈なファンで(なぜかは、想像がつくことと思います)、おりしも授業が鎌倉時代にさしかかったところでしたので、熱くこの話を生徒達に語っておられました。
Iさんとは、もう30年も音信不通ですが、きっと今も千葉県の公立学校で(もう管理職になられたことと思いますが)、この話を生徒達に昔のように熱く語っておられるのではないかと想像します。
ところで、久しぶりに些かの朝寝をして新聞を開くと、テレビ欄に本日放送の大河ドラマのストーリーが出ていました。平重衡の鎌倉連行と、清水冠者義高を頼朝が殺害させるというのが、今日のお話しのようですが、驚いたのは義経が重衡を鎌倉まで連行したという筋立てになっていることです。時代劇ではなく、一応歴史ドラマなのですから、これはフィクションの度を超しています。ここで義経が京都を離れては、鎌倉方の既得勢力が失われるばかりでなく、後白河院・王朝政府にとっても、それは絶対に容認しがたいことであったからです。
義経は鎌倉幕府の「京都守護」の初代と考えてよい存在で、一ノ谷合戦後は屋島出陣まで約一年間、在京して京中守護と畿内近国における武士の非法狼藉停止などの職務遂行にあたっていました(藤本元啓「京都守護」『藝林』30-2)。『吾妻鏡』によると、重衡の鎌倉護送は梶原景時によって行われたようです。
なお、義経の在京活動が高く評価できることは、菱沼一憲「源義経の再評価」(『国史学』179)に指摘されています。
もう一方の義高殺害の事件と、この時の北条政子・大姫母子の対応については、野村育代『北条政子』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー)に適切な叙述がされています。ぜひ、お読み下さい。
大姫はこの事件がきっかけで精神を病み、短い生涯を終えることになったと伝えられていますが、大姫というと、1972年6月、母校・千葉県立千葉東高校で、一緒に日本史の教育実習をしたIさん(当時、早大教育学部4年、私にとって高校の一年先輩)のことを思い出します。彼は大姫の熱烈なファンで(なぜかは、想像がつくことと思います)、おりしも授業が鎌倉時代にさしかかったところでしたので、熱くこの話を生徒達に語っておられました。
Iさんとは、もう30年も音信不通ですが、きっと今も千葉県の公立学校で(もう管理職になられたことと思いますが)、この話を生徒達に昔のように熱く語っておられるのではないかと想像します。