研究所公開講座ポスター完成。

No.3778

 研究所公開講座のポスターが出来上がり、各方面に送付を始めております。

◇◆◇京都女子大学 宗教・文化研究所公開講座◇◆◇
     『平家の本拠・平家の鎮魂』(シリーズ 東山から発信する京都の歴史と文化⑦ )
 
    「「六波羅」から中世を考える」
       東京大学史料編纂所助教授 高橋 慎一朗 氏
  
   「小宰相の局と「耳無し芳一」伝承―いくさ語りから江戸怪談へ―」
       京都精華大学教授 堤 邦彦 氏
  
   日時 6月25日(土)13:00~14:30・15:00~16:30 終了17:00

   場所 J525教室(京都女子大学J校舎5F・市バス馬町バス停下車 東へ徒歩約5分)

 ※ ゼミメンバー諸姉兄、準備作業および当日の受付など、御助力をよろしくお願いいたします。機器担当の鈴木君、頼りに致しております。なお、録音テープ起こしのアルバイトを希望する人は申し出て下さい。
  終了後、例によってゼミ主催の懇談会と懇親会を開く予定です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ☆ 瀬野精一郎先生から、新刊の御高著『足利直冬』(吉川弘文館・人物叢書)を御恵送いただきました。
 興味津々の人物の伝記です。瀬野先生にあつく御礼を申し上げます。

源為朝・義経などを祭神とした神社。

No.3779

 九州大学大学院の高野信治先生より、科学研究費による研究『民俗神や民族神との関係分析を通した近世武家権力神の基礎的研究』の研究成果報告書および御高論「『葉隠』に関する一考察-その思想形成の諸契機をめぐって-」(『九州文化史研究所紀要』第40号)・「給人領主の知行地「御下」について-佐賀藩神代鍋島氏を素材に-」(『福岡工業大学研究論集』第24巻第1号)を御恵送いただきました。
 研究報告書の「Ⅳ.武士神格化分類データ」には源氏関係・平氏関係・曽我兄弟関係・南朝方関係などの武士が祭神として祀られている全国の神社が網羅されていて、実に貴重です。これは、国文学関係の研究に大いに役に立つ資料になると思います。小生、鹿児島に住んでいた頃、串木野のあたりを車で走っているときに「為朝神社」という額のかかった鳥居を見たことのあるのを思い出しました。
 武士論を日本文化論の中に位置づけるには、まず中世~近世全体を見渡した武士像の把握が必要です。高野先生のお仕事から多くのことを学ばせていただきたいと思います。 
 高野先生に、あつく御礼を申し上げます。

☆ 「御台様」こと当ゼミ代表:山内梓さんのパソコンが、ようやくインターネット接続復旧を果たしたとのことです。ゼミメンバーは、山内さんのアドレスを各自ご確認下さい。
 また、山内さんには、北条政子のごとく大いに「御家人」いや「ゼミメンバー」に指令を発してくださいますように、お願い申しあげます。恐惶謹言

☆ 山田ちさ子さんのHP「平安京探偵団」のアクセスが50万を超えました。驚くべき数字です。もはや商業目的に使えるレベルです。いうまでもなく、内容がすぐれているだけに社会に対する文化的貢献は多大なものがあると思います。
 それにしても、そのトップページに掲載していただいているにもかかわらず、復刊ドットコム『坂東武士団の成立と発展』は停滞。一方、『平安時代史事典』はいよいよ交渉開始でしょうか?(山田先生が投票100票目を狙っておられる由)。

☆ 書き込むのを失念していましたが、5月15日(日)付、朝日新聞読書欄に掲載された、二宮宏之著『マルク・ブロックを読む』(岩波書店)に対する柄谷行人氏の書評は、まさに「我が意を得たり」の内容で、山岡さん(もと丸善アルバイト店員さん)にお願いして、さっそくその本を買ってきていただきました。
 ゼミメンバー諸姉兄(とくに歴史学の院生)には御一読をお勧め、いや、「強制」いたしたいと思います。

ありがとうございます

No.3780

野口先生、過大なお褒めのことば、ありがとうございます。
先生がこちらの掲示板で宣伝くださる効果が絶大だと思っています。
山田は見事、平安時代史事典復刊投票の100票目をゲットして、意気揚々として東京の考古学協会大会へ向かいました。
次は先生の『坂東武士団の成立と発展』ですね!

『延慶本平家物語全注釈』、研究室でぜひともみせてくださいませ。

研究所公開講座チラシも完成。

No.3782

 ポスターを縮小する形で公開講座のチラシ(B4サイズ)を作りました。ゼミメンバーは適当な枚数を持ち帰って宣伝をお願いします。

 ☆ 宗教・教育センターの広報紙『芬陀利華』に拙文を掲載していただきました。例によって「手配写真」付きです。ゼミのみなさんのことにも些か触れておりますので、興味のある(心配な)方はご覧になってみて下さい。

 ☆ 本日の京都新聞・朝日新聞(地方版)に、宇治市街地遺跡の発掘調査成果についての記事があり、掲載された写真には、出土した近世の陶磁器とともに笑顔の大原さんが写っています。

 ☆ 吉田賢司君から御高論「書評・小谷利明著『畿内戦国期守護と地域社会』」(『日本史研究』512)、野口華世さんから御高論「『安楽寿院文書』にみる御願寺の構造-「安楽寿院文書」の翻刻とその検討-」(東京都立大学『人文学報』357)・「安楽寿院と高倉家-東京大学史料編纂所所蔵「安楽寿院文書」の紹介-」(『東京大学史料編纂所研究紀要』15)をいただきました。あつくお礼申し上げます。
 歴史学界における野口華世さんをはじめ、このところ、マラソンといい千円札といい、「野口」一族の活躍はめざましいものがあります。洋平君も小生もあやかりたいものですね。

 ☆ 東京文化財研究所の津田徹英先生から先生と青山学院大学の院生7名の方たちによる「<美術史料紹介>東寺観智院金剛蔵本(建武二年写)『諸説不同記』解題」掲載の青山学院大学史学会『史友』37を御恵送いただきました。
 青山学院大学大学院における津田先生御担当の「日本芸術史研究」の成果との由。青学で学部生時代に『史友』の編集を担当し、大学院では日本史の一期生だった小生としては、『史友』のステイタスアップ、後輩たちの活躍という点からも嬉しい贈物です。津田先生にあつくお礼を申し上げる次第です。

義経やっと2回分

美川圭
No.3773

一昨日夜半から高熱を発し、けっきょく2日間自宅謹慎。
昨日の小山先生のご葬儀にも参列できなかった次第です。

そのため、やっと今日、二回分の義経を見ました。

前回の清盛死の回。野口先生からの私めへの宿題がありました。
なんだか、野口先生ご自身が、平安時代史事典の知康項目を書かれているので、
模範解答はすでにご準備、とも思えるのですが、一応。

平知康は清盛が死んだ治承五年(1181)閏二月というと、
その年の正月4日に左衛門尉を解官、清盛に逮捕され禁獄(『玉葉』)。
ですから、清盛が死んだ時はおそらくまだ禁獄中。清盛死後、釈放され、
しばらくしてから本官復帰(たぶん清盛死後の院政復活による)。
しかも、北面下臈であり、叙爵もしておらず、検非違使でもない。
そんな人間がいくら「法皇近日第一近習」(『玉葉』正月七日条)としても、
平氏との伝奏取次役をつとめられるはずがありません。
清盛死後、後白河院政復活で、伝奏役として記録に見られるのは、
下郡剛先生の研究によれば、権中納言藤原成範、従三位藤原脩範、
参議藤原定能などの、すくなくとも公卿なんです。
ですから、その役を五位にもなっていない知康がやることはありえません。
もしもそんな男が取次に出てきたり、院の仰を伝えたら、
平家は、清盛が逮捕して解官したものでもあるし、とんでもないといって、
拒絶しなければなりません。そんなこともできないのなら、腰抜けだ。

ということで、野口先生、何点いただけますでしょうか。

清盛の死の回は、たしかに比較的よいできでした。
たぶんに、清盛役の渡哲也さんの熱演によるものでもありますが。
ただし、歴史的事実との相違は、野口先生のおっしゃる通りです。
なんだか、ぼけ老人のように死んでいく清盛像は納得できかねます。
時子の偽遺言も、演出としてはおもしろいけれど、歴史的事実とは、
考えられません。

次の回は、すっかり、もとの水準にもどりました。
まったくコメントがどなたからもなかったのもうなづけます。

私は、毎回、あの丹後局と北条政子にうんざりしています。
女性重視(あの時子の偽遺言も)路線も、わかりますが、
これじゃ逆効果ではないのかな。まさに、女が政治に口をはさむから、
国が乱れて、戦争になってしまうみたいな描き方です。
とくに、義経を前にした、政子の目のいやらしさ。
あんな女の演説で、いったい承久の乱で勝てるのか疑問です。
ついでに、頼朝も一流の政治家とは思えない台詞。
義経や範頼を前にして、自分は一門を重んじない、などど。
あんなこと目の前で言われたら、義経や範頼は働きませんよ。
少なくとも、平氏滅亡までは、命をかけて兄のために闘うのだから、
それなりの台詞をはかせないと。
それとも、義経・範頼は、「日勤なんとか」を恐れて、
突っ走ったとでもいうのでしょうか。

簡単に終わるつもりが、また長くなってしまいました。

『延慶本平家物語全注釈』刊行開始!

No.3775

 このところ各方面から邪険にされ、美川先生からも忘れられてしまったのかと嘆いていたところ、丁寧な御回答をいただいて感謝感激です。
 じつは小生も『平安時代史事典』では「平知康」について誰が何と書いているのかと頁をめくったのですが、自分で書いていたとは・・・。
 それに致しましても、演習でいい加減な内容の報告をした学生さんに「君、それ何で調べたの?」と問う。「『平安時代史事典』です」とこたえが返される。そこで再び、「じゃあ、その項目誰が書いてるの?」と問う。すると、すこしの沈黙の後、「野口先生です」・・・というケースが、よくございます。
 ですので、採点など、とてもとてもです。
 ちなみに、復刊ドットコムで、『平安時代史事典』は、いよいよ交渉開始の100票にせまっているとのこと。もし、再刊が決まった場合は、ぜひ相応なギャラを前提に各項目の補足修正の機会を頂きたいものと考えます。
 しかし、あの編集作業は大変でした。今さらながら、小生が編集室から去った後、刊行に漕ぎつけてくださった編集スタッフの皆さまの御苦労に対し、頭(こうべ)を垂れたいと思います。

 事典の編集作業はもとより、単著も編著も本を出すことの苦労は多く経験しているつもりですが、大部の古典籍の注釈を複数の研究者の共同作業で作り上げることは並大抵のことではないと思います。
 本日、そうした大変な研究・作業の御成果をいただきました。延慶本注釈の会編『延慶本平家物語全注釈 第一本(巻一)』(汲古書院)です。652頁箱入りの立派な装丁の本です。釈文も注解もたいへん充実したもので、国文学のみならず歴史学研究に裨益するところは多大であると思います。
 連名で御恵送下さった佐伯真一先生・清水眞澄先生・平藤幸先生・大橋直義先生にあつく御礼を申し上げる次第です。

 ☆ 大河ドラマ評は、馬鹿馬鹿しくも思えますが、樋口大祐先生の御高論にあった「物語と史実との緊張関係」という観点、あるいはかつて自分自身が「NHKの大河ドラマで取り上げられるような歴史上の事件についても、日本史研究者は一般市民の歴史認識の形成という点においては小説家・作家と称するアマチュアの前に明らかに屈服している。僭越な言いようだが、私はその日本史研究者の一員として苛立ちを隠せないでいる」(「日本史に見る老人像-「たくましい老人」再生のために-」染谷俶子編『老いと家族』ミネルヴァ書房、2000年)と書いた(書いてしまった)手前もあり、しばらく撤退は控えたいと考えております。美川先生をはじめ、諸先生方、ゼミメンバーのみなさん、宜しくお付き合い下されば幸いです。

『吾妻鏡』講読会について

No.3771

 遅くなってすいません。
 来週の『吾妻鏡』講読会の範囲のお知らせです。
日時:5月23日(月)・15時半
 場所:共同研究室
 範囲:承元4年(1210)①6月20日条・②7月8日条・③7月20日条・④8月12日条
    の以上です。
>岩田さん
 先週は岩田さんに急遽、古文書学を担当していただきましたが、ありがとうございまし た。
 

ゼミの先輩から、頂きもの。

No.3774

 ☆ 博士論文と主婦業(子育てを含む)、さらに御自宅の新築まで手がけておられる前川佳代さんから、兵庫県立歴史博物館で開催される『義経展』(会期5月28日~7月10日)のチケットをお送り頂きました。前川さん、ありがとうございました。
 希望したメンバーは、小生が無くしてしまわないうちに取りに来てください(できれば23日の『吾妻鏡』の時までに)。
 ちなみに、展覧会開催翌日の29日(日)には、元木先生による「義経の実像」と題する講演会があります。

 ☆ 研究所公開講座、「東山から発信する京都の歴史と文化」の初回(2000年12月)に司会をしてくださった中村晃子さんから御高論「陰陽頭と「陰陽師第一者」-十世紀から十三世紀初頭に於ける陰陽頭の位置-」(『文化学年報』第54輯)を御恵送頂きました。あつく御礼を申しあげます。2月から新天地で御活躍の由、ご健闘を祈ります。

Re: 『吾妻鏡』講読会について

岩田慎平
No.3777

>山本さん 岩田が当番したのは今週ですよ。先週は立花さんと山岡さんが読んで下さいました。また来月もどこかで古文書させてください。
 次週の講読範囲ですが、善光寺が出てくるようなので、それっぽい史料も併せて持参したいと思います。

木曾義仲関係の書籍。

No.3767

 木曾義仲に注目するメンバーが多いようなので、関連書籍の紹介。
  ① 下出積與『木曾義仲 日本の武将6』人物往来社、1966年
  ② 畠山次郎『木曽義仲』銀河書房、1981年
  ③ 島田安太郎・舟木慎吾『木曾義仲の隠れ城』龍門堂、1973年
  ④ 神村鳴路編『朝日の将軍 木曽義仲公の生涯』私家版、1973年
  ⑤ 木曽教育会社会科研究委員会『木曽の歴史』木曽教育会、1972年
 ③~⑤は地元の出版物です。
  本格的な研究書と言えるのは、
  ⑥ 淺香年木『治承・寿永の内乱論序説』法政大学出版局、1981年
くらいのようで、新たなるチャレンジの意義は大きそうです。

 ☆ 京都精華大学の堤邦彦先生から御高論「怪異小説の伝承性と地域性-中世から近世へ-」(『国文学 解釈と教材の研究』50-6)の抜刷を御恵送いただきました。
 また、昨日(15日)に開かれた平安京文化研究会に於いて京都大学の西山良平先生を研究代表者とする「平安京における居住形態と住宅建築の学際研究」(科研基盤研究C)の報告書をいただきました。
 あわせて、あつく御礼申しあげます。

 >元木先生  古文書学会の見学会、参加申し込みに至らず、申し訳ありません。

本日は史料講読会がありました。

No.3768

 本日の史料講読会は岩田師範にしっかり取り仕切っていただきました。適切な「教材」が用意されており、出席者はたいへん勉強になったことと思います。名古屋から高速バスで駆けつけてくれた野口君も読解を当てられていました。
 次回(来週)は『吾妻鏡』です。範囲などについては追って山本君から書き込みがされるはずです。

 ☆ 神戸大学の樋口大祐先生から、御高論「清盛の「悪行」を読みかえる-王法・仏法と海港の論理-」(『日本文学』1月号)抜刷をいただきました。読者の「物語と史実の緊張関係に立つ自覚」という観点に、おおいに触発されました。
 また、『寝屋川市史 第三巻 古代・中世資料編』を拝受いたしました。藤原秀康関係の史料が掲載されています。中世担当の専門委員として編集にあたられた美川圭先生の御高配によるものと存じます。
 樋口先生、美川先生にあつく御礼を申し上げます。

 >山田邦和先生  もう一週間が経過してしまいましたが、先週は援軍を派遣せず申し訳ありませんでした。

 >佐伯君  葵祭に供奉の御すがた。山岡さんがキャッチされ、画像も保存されているようです。

葵祭に参加してきました。

No.3769

日曜日は葵祭で白丁と化していた佐伯です。
装束を着たのは初めてだったのですが、なかなか楽しかったです。
行列の中でも、最後尾の牛車の後ろについてました。
牛車は重かったです。牛が牽くには牽くのですが、
牛といえども一匹で牽き続けるのは不可能なので、後ろから人がぐいぐい押します。
なので、実際には半牛力・半人力のハイブリッド車です(笑)。
交代で押していたとはいえ、それで御所から上賀茂社まで移動ですので、
かなり良い運動になりました。

何事も、やってみないとわからないこともあるので、良い経験になりました。
京都の学生の特権ですので、ぜひみなさま一度どうぞ。

>山岡さん
ぜひぜひ画像を下さいませ~。

Re: 木曾義仲関係の書籍。

No.3770

>野口先生
「援軍」の件、どうかお気になさらないでくださいませ。なんとか片づけることができました。中世都市研究会への参加申し込みも続々と届きつつあります。わが大学からの援助金もいただけることになりました。ともあれ、会の成功に向けて発進!です。
とはいうものの、大学での「雑用」の渦に巻き込まれています。使命感もないではないのですが、やっぱりトホホ・・・です。

木曾義仲関係の書籍、再刊なる。

No.3772

 >北陸中世史を縄張りとする山本君  上に紹介した⑥ 淺香年木『治承・寿永の内乱論序説』(法政大学出版局、1981年)が、オンデマンド版で購入できるようになったとのことです。

 >山内さん  予定通りなら、本日、御自宅にインターネット接続完了のことかと存じます。おおいに「指令」を発してください。

 >佐伯君  白丁、御苦労様でした。好天に恵まれて、沿道はたいへんな人出だったことと思います。小生の出席させていただいた研究会も、予想以上の参加者でレジュメが足りなくなっていました。それにしても、牛さんと心が通じ合うようになられたのではないでしょうか?モウ、焼肉屋さんには行けないのではありませんか?・・・となると「死活問題」でしょうか?

 >山岡さん  佐伯君の写真、写メールされましたでしょうか?
 
 >山田先生  三浦氏の援軍が間に合わず、石橋山で敗れても、安房に脱出してから、あっという間に南関東を制圧してしまった頼朝の例もありますから、ぜひ頼朝になって下さい。となると、小生、さしずめ衣笠城で討死の為体ですね。
 それにしても、「火中の栗拾い」は大変だと思います。何れにしても、くれぐれも御健康に御留意下さい。

写メールの件。

山岡 瞳
No.3776

>野口先生
昨日のうちに田中さん経由で写メールしました。

>佐伯さん
判別が難しい写メールですみません。私が見ていた場所はちょうど反対側だったもので…。

御礼が遅れましたが…

No.3781

>山岡さん
書き込みに気づくのが遅れてすいません。
写メールいただきました。どうもありがとう!
よくあんな見づらいところにいたのを見つけて下さいました。感謝感謝。

追悼・小山靖憲先生

No.3763

 昨日、14日、また日本史学界はかけがえのない先達を失ってしまいました。
 小山先生のお加減がよくないということは、ごく最近仄聞したばかりでした。まさか、こんなに早くご逝去になるとは、思ってもみませんでした。突然のご訃報に接し、ただただ驚き、仰天するばかりです。
 昨年の12月に故・熱田公先生を偲ぶ会でお会いしたのが最後でした。
 その時は至ってお元気で、「タバコのみは肺がんで死ねれば本望」などと冗談を飛ばされながら、実に楽しそうに飲食しておられたのですが・・・。
 先生は荘園制研究を中心とされ、最近は紀伊などをフィールドとされて、多くの業績を残されたのは周知の通りです。そのご研究は、東京で研鑽を積まれたころの領主制的な面と、関西に来られて権門体制論の影響が顕著となった寺社領研究まで、実に幅広いものでした。東西双方の学風を身に付けられた先生は、まさに学界の重鎮とよぶに相応しい存在でした。
 こうしたメインのご研究のほか、様々な分野に興味深い先駆的な業績を残されました。
 従来、未解明だった荘園絵図に中世史の側から初めて挑まれたのも先生でした。そして戸田先生のあとを受けて、熊野古道のご研究では、まさに「先達」の地位に上られました。
 また意外なところでは、85年の講座日本史では中世身分制に挑まれましたし、さらに遡って75年の岩波講座日本歴史で公表された「中世初期の東国と西国」は、鋭い着想で、後の網野善彦氏の研究を導いた面もあったようと思われました。いわば、社会史ブームの口火を切られたと評して差し支えないと思います。
 お人柄は、親分肌でがらっ八、口は悪いが、決して後に不快感を残さない、そんな感じの方でした。
 学問的な懐の深さ、そしてお人柄を思うに、さらに学界の中心として、後進をご指導いただきたかったと、痛切に思う次第です。

 やや不謹慎ですが、先生のお人柄の一こまをご紹介します。
 泉佐野市史でご一緒した時、何度か梅田のバーにお供しました。最初は「新御堂の向こう側」。「どうだ、ここのママはきれいだろう」と仰るのですが、当方のような小心者は隣席の「小指のない客」ばかり気になり、酔っ払うどころではありませんでした。
 その次は「お初天神商店街から少し入ったところ」。入るや否や、「アラ、先生オヒサシブリネ」と、たどたどしい日本語をしゃべる東南アジア系の女性が群がってきました。カラオケを薦められたのですが、声も出なかったような記憶があります。
 何とも、豪放磊落?な面もお持ちの先生でした。
 今頃は親しくしておられた熱田先生と、冥界での御再会を喜んでおられることでしょう。
 「エー、小山君、使いやすい助手役を一人、こっちに呼ぼうやないか。あれは大手前の時も役に立ったよ」
 「そうですな、あれは太りすぎの焼き豚みいな奴だから、すぐ来ますよ」
 「それはええね。すぐに呼ぼう」・・・・・
 月曜のお通夜に出かえると、今週唯一の休日が消滅です。かくして、5月10日から6月4日まで全く休日なし。やはりお呼びがかかっているのでしょうか。

 心より、ご冥福をお祈り申し上げます。

※昨日、動転しながら酩酊状態で記したため、不備な文章になっておりました。15日15時51分に訂正いたしました。ご了承ください。 
 

Re: 追悼・小山靖憲先生

No.3764

…タイトルを見た瞬間、何の事かうまく理解できずに呆然としてしまいました。
昨年度までの、日本史研究会の研究代表としてお元気に活動されている姿しか
存じ上げていなかったので。
委員会の場では、何も細かいことはおっしゃらずに、大まかな大事な点のみを話されて、
委員会全体の雰囲気は、本当に自由にのびのびとしたものでした。
こちらは研究委員になりたての駆け出しで、お話をする機会はありませんでしたが、
何とかしてそういう機会を得ておくのだったと、今にして思います。

熱田先生がおなくなりになられた時もそうでしたが、
「その気になればお話することが出来たはず」の方がなくなられると、
どうしてその機会を自分で作ろうとしなかったのか、痛切に後悔します。
研究者を目指すものにとって、引っ込み思案は罪悪ですね…。

心から、ご冥福をお祈りします。

Re: 追悼・小山靖憲先生

美川圭
No.3765

 昨年末、ボン大学での中世史シンポジウムで、ドイツとフランスをいっしょに旅行したのが、小山さん(あえて「先生」ではなく「さん」とよばせていただきます)の最後の海外旅行だったとは・・・・。
 ボンのホテルの朝食で、小山さん「じゃあ美川さん、お先に帰りますね」と言われたのが、今生の別れとは。
 
 いっしょにフランクフルト空港へ着き、空港駅から二人で、どの列車にのるのかいな、とうろうろ。それから、ほとんどずっと小山さんといっしょに動いていたのです。あまりうまくないボンのオーケストラをいっしょに聴きに行ったし。そのあとバーで小山さんと地理の吉田さんと、ずいぶん飲んでもりあがりました。小山さんがいたので楽しかった。
はっきりいって、珍道中でした。
 あまりの喫煙量だったのが、ひどく気になってはいたのですが。死ぬまで毎年夏ヨーロッパのクラシック音楽祭に行くと言っていたのに。飛行機のなかで、朝からビールを注文していました。それから、小山さんの英語がちっとも通じない。笑いました。

 実は1週間ほど前、手紙がきたのです。旅行の写真が同封されたものです。小山さんの報告のとき、ちょっと撮って、というので、報告姿を、小山さんのカメラでぼくが数枚撮ったのです。その写真がとてもよく撮れていた、ありがとうという短い手紙が入っていました。思いっきり演台に近づいたので、たしかにぼくにしてはよく撮れた写真でした。あれが彼の最後の報告姿だったのかな。それからお礼に、去年の夏のザルツブルグ音楽祭の写真を数枚入れときますね、と、コンサートと町の写真が同封されていました。舞台写真にはいま絶頂のサイモンラトルとアーノンクールが写っていました。私がデジカメで撮ったボンの写真を、お礼にお送りせねば、と思いながら、いつものばたばた生活で、まだお送りしていませんでした。小山さんの手紙を読み返したら、「ちょっと重病入院で送付が遅れました」と書かれていました。昨年末のお元気なおすがたゆえ、まったくこちらは死の病だなんて考えもしなかった次第です。

 地方史の場で発言力がおありで、地方博物館設立時の学芸員充実など、たいへん力を発揮した学者、という話を、寝屋川市史のかたなどにお聞きしました。寝屋川市史の古代中世史料編がちょうどできたので、お送りしたばかりです。ご臨終の場にお届けすることになってしまったようです。

 私にとっては、えらい先生という感じがまったくなく、ただの気安い大阪の、ちょっと品の悪い、口の悪いすけべおじさん(ごめんなさい)、としておつきあいした、というのが実情です。喪ってみると、ほんとうに心にぽっかり穴が空いたようです。あちらの世界には、ほんとうに楽しいかた、すごい方がいるので、もうお呼びしていただいてもいいですよ。でもぼくみたいに人付き合いのわるいのはお呼びじゃないか。

Re: 追悼・小山靖憲先生

No.3766

 御病気のことなどまったく知らないでおりましたので、昨晩、訃報のメールをいただいて、愕然とするばかりでした。
 慈光寺本『承久記』について書いた拙論に、歴史学の側からの先行研究として小山先生の「椋橋庄と承久の乱」(『市史研究 とよなか』1)があったのに、それを落としていたことをお詫びする手紙をその拙論抜刷に添えてお送りしなければならないと考えていた矢先のことでした。
 小山先生とは直接ゆっくりとお話しをするような機会は得られませんでしたが、小生の研究に関連する内容の御著書・御高論は必ずお送り下さっていて、お心遣いには大変ありがたいものを感じておりました。
 小山先生は関西の研究者の中では珍しく、東京教育大学の御出身で、院生の頃には高田実氏などと茨城県で常陸大掾氏の所領支配などについてさかんに現地調査をされていたようです。小生がはじめて小山先生の御高論に接したのは、その成果である「鎌倉時代の東国農村と在地領主制-常陸国真壁郡を中心に-」(『日本史研究』99)でした。
 多くの研究をのこされた小山先生のお仕事のうち、こうした東国における在地領主制研究の成果をこれからの中世武士論研究に活かしていくこと、また上記の「椋橋庄と承久の乱」や「源平内乱および承久の乱と熊野別当家」(『田辺市史研究』5)のような治承・寿永内乱や承久の乱下における地域勢力のあり方の解明が、小生の継承させていただくべき仕事と考えています。
 本当に、余計な気を遣うことなく、出会ったらすぐに声をおかけしたくなるような先生でした。逝かれるにはまだ若すぎました。御冥福をお祈り申し上げます。

14日:当麻寺練供養・15日:葵祭

No.3758

 タイトルに示したように、この週末は一度は見ておいた方がよい、祭礼が続きます。
 当麻寺には門屋君が行かれるはずですから、詳細は門屋君にうかがうと良いでしょう。
 
 葵祭については解説の要はないと思います。
 平日に実施されると、せっかく京都にいる方たちも見に行けないのですが、今回は日曜ですから、とくに学生のみなさんはじっくり鑑賞してください。装束について解説したパンフレットが路上で販売されるはずなので、それと行列を対象させながら見物すると、たいへんよい勉強になります。
 ちなみに、この行列には当ゼミの研究指南役である佐伯君が参加されるそうです(役どころは未定の由)。どこにいるか、佐伯君を探しながら御覧になるのも一興かと思います(役どころが良い場合は眼鏡をはずしているとのこと)。
 今年の斎王代は同志社大学の学生さんがつとめられるとのこと。葵祭も大学の街・京都にふさわしい年中行事になってきたようです。
 この日の午後には京大会館で平安京文化研究会が開催されます。小生も勉強させていただきに行こうと思っています。

 22日は、元木先生に御案内いただいたように、宮津で古文書学会の見学会がありますが、日本史研究会および大阪歴史学会の中世史部会共催による卒論報告会もこの日に開催されます。昨年は山本君が発表されましたね。今年卒論を書く4回生はぜひ行ってみると良いと思います。
 詳細は、大阪歴史学会のHPを御覧下さい。

>元木先生  片岡仁左衛門さんというと、永原先生が時代考証をされた『太平記』で後醍醐天皇を演じられた役者さんですね。
 そういえば、先代の片岡仁左衛門さんは、映画「男はつらいよ」の第29作「寅次郎あじさいの恋」に清水の陶芸家の役で出ておられましたが、その寅次郎との出会いの設定が葵祭の日の鴨川畔でした。あの映画には丹後半島・伊根の船屋も出ていました。

Re: 14日:当麻寺練供養・15日:葵祭

No.3759

 明日の当麻寺練供養ですが、どうしても授業の振り替えや、試験範囲まで進まなければならないという制約で断念せざるをえなくなりました。非常に残念です。
 なかなか空いている日がなく、何かイベントがあっても時間がとれないことが多いのですが、何か企画できそうな時は掲示板でお知らせいたします。

宣伝です。

No.3760

佐伯です、こんばんは。
野口先生、卒論報告会をご紹介いただいてありがとうございます。
せっかくですので、ぜひ詳細の宣伝をさせていただこうかと思います。
(決して葵祭の宣伝をしにきたわけではありません。笑)

日本史研究会中世史部会・大阪歴史学会中世史部会合同企画 第5回 卒論報告会
【日時】 5月22日(日) 13:30~17:30
【会場】 西宮市大学交流センター 講義室1
(阪急西宮北口駅すぐ。http://www.nishi.or.jp/~daigaku/info/accessmap.html
【報告】 (各報告は報告30分、討論20分)
 報告① 13:30~14:20
  芳澤元氏「中世禅林の飲酒に関する一考察」
 報告② 14:20~15:10
  森榮倫氏「『悪党』問題と地域社会」
( ―――――――――――― 休憩 20分 ―――――――――――― )
 報告③ 15:30~16:20
  根ヶ山泰史氏「南北朝期荘園における身分の変化について―播磨国矢野荘の場合
―」
 報告④ 16:20~17:10
  八代醍ひとみ氏「矢野荘の海老名氏と守護による国人統制 -足利将軍近習の視点
から-」
 懇親会 17:30~

多数のご参加お待ちしております。よろしくお願いします。

少年老いやすく、学成り難し。

No.3761

>門屋君  それは残念至極でした。ぜひ、また次の機会に。練供養は京都の即成院でも行われます。
 ちなみに、山岡さんは自宅前で葵祭の行列を楽しめるのだそうです。「桟敷」ですね。
 
☆ 昨年の卒論報告会は山本君のデビュー戦ということで、この掲示板でもずいぶん話題になったものです。
 また、5月というのは永富さんをはじめ、お誕生日を迎える人が多かったように記憶しますが、山本兄もいよいよ、でしょうか?
 タイトルの言葉に従わず、「学」の成就を期待するところです。とりあえずは修論ですね。平田さんも、長村君も。

 小生の場合は、「日暮れて、道遠し」です。

レンタルサイクルダイアリーズ

No.3762

 当麻寺練供養でもなく葵祭でもないですが、今日は関学の仲間と共に東山周辺をレンタサイクルで走り回ってきました。新緑が気持ちよかったです。
 その関学の仲間というのは戦国時代の京都周辺を跋扈した足軽を研究しているので、史料は彼に用意してもらって、道案内だけ僕がしました。深草、稲荷、藤森、山科、渋谷、・・・と史料に見える地名を辿ってきたのですが、後から考えれば京女大の周りをぐるりと一周してきたわけでした。

 ところでその自転車はレンタル屋さんによると「アメリカ製」だということで、右ハンドルに前輪のブレーキがあるのはいいとして、後輪のブレーキはペダルを逆回転させることで効かせるというものでした。自転車に乗っていてうっかりペダルをぐるぐる逆回転させることはあると思うのですが(僕はよくやる)、この自転車でそれをやるとブレーキが効いてしまいます。
 そんな自転車ですが、慣れてしまえば乗り心地はとてもよかったです。1500円/日。ちょっと高いですけどね。

第2回根来寺講座

阪本敏行
No.3756

また,宣伝させてください。

既に新聞などでご存じの方も多いかと思いますが、和歌山地方史研究会が主催する連続講座「根来を知ろう!!」の2回目のお知らせを致します。
今回は、「根来大工」の活躍ぶりから往時の根来の隆盛を知ることをテーマに、下記の予定で行います。

 日時:5月15日(日)
    13時~15時
 会場:岩出町民俗資料館2階大会議室
 講師:鳴海祥博氏(和歌山県文化財センター建造物課長)
 テーマ:根来大工と根来の建築

前回は、新聞各紙で詳しく取り上げていただき、それを読んだ方からの反響も大きなものがありました。
今回のお知らせも、地元紙などで報じられると多くのお問い合わせがありました。主催者側で想像している以上に、「根来って何?」「根来ってどんなだったの?」という、一般の方の関心は高いようです。この講座を、あえて研究者向けというより、一般の方に向けてのものにして良かったと改めて思っています。また、そういう方々に向けてこれまでの研究成果を、よりかみくだいて還元していくのが、地元の研究団体としての役割なのかな、と感じています。
今回も多くの方々のご参加をお待ち申し上げております。

古文書学会、片岡仁左衛門丈

No.3755

 古文書学会見学会の参加希望者は12日で締め切りました。
 残念ながら今回は参加者が少ないようです。
 以前ご案内したとおり、平安、鎌倉の貴重な文書が多数展示されるだけに、お一人でも多くの方に参加してほしかったのですが。
  
 本日(正確には昨日)、サントリーバーで片岡仁左衛門さんにお会いしました。
 素顔も実に颯爽として、若々しく腰も低い、ジェントルマンでした。
 あそこのオーナーは着物関係で、歌舞伎役者と親しいとのこと。とくに仁左衛門さんは奥様とのご縁を取り持った関係もあって、お親しいようです。関西に来られた時は、必ず立ち寄られるそうです。
 そんな関係で、顔見世も良い席が安く手に入るとのことです。
 横に侍らせて?おられたご婦人に関しては、あまり芳しい印象を受けませんでしたが、まあそういう方面のご趣味は人それぞれで・・・。

次回、吾妻鏡の講読につき

No.3750

 次回の『吾妻鏡』講読会ですが、吾妻鏡の講読は一旦お休みにして、久しぶりに岩田の当番で古文書を読んでみたいと思います。

 日時:5月16日(月)・15時半~
 場所:共同研究室
 内容:古文書の読解(主に「奉書」形式の文書を扱う予定です)

 毎度のことですが、講読にお付き合いいただける方(メンバー)も随時募集しております。

昨日の例会は充実していました。

No.3753

 昨日は『百錬抄』の講読会で、清盛の葬儀の際に最勝光院から今様の声が聞こえてきたというあたりを読んだ後、例会が開かれ、京大院MCの辻浩和君が「後白河院と都市民」という研究発表をされました。まさしく学際的且つじつに興味深い内容で、このような発表ですと歴史・国文と専攻が異なってもおおいに生産的な議論が展開できると思いました。辻君にあつくお礼を申し上げます。
 例会には久しぶりに山本兄もお出でになり、また門屋君も阪大から駆けつけてくれ、佐伯君の例の如き適切なコメント、長村君の名?司会、田中さんの間髪入れぬつっこみ、岩田師範の教育的配慮・・・等々もあって大変充実したものになりました。楽しく過ごさせていただき、ありがとうございました。
  
 ☆ 国文学研究資料館の田渕句美子先生から、御高著『物語の舞台を歩く 十六夜日記』(山川出版社)および御高論「『物語二百番歌合』の方法」(『源氏研究』9)・「『新古今和歌集』序の成立」(『文学』4-2)・「『物語二百番歌合』の成立と構造」(『國語と國文學』81-5)・「鎌倉時代の歌壇と文芸」(近藤成一編『日本の時代史』9、吉川弘文館)、「阿仏尼の『源氏物語』享受」(『国文学「解釈と鑑賞」別冊 源氏物語の鑑賞と基礎知識』)・「歌合の構造」(兼築信行・田渕句美子編『和歌から歴史を読む』笠間書院)、座談会「源氏的なるもの」(『文学』4-4)抜刷を御恵送いただきました。
 また、国立歴史民俗博物館科研協力員の菱沼一憲先生から、御高著『源義経の合戦と戦略』(角川選書)および御高論「源義経の挙兵と土佐房襲撃事件」(『日本歴史』684)・「中世海老名氏について(3)」(『海老名市史研究』15)・「大河ドラマ『義経』を観て思うこと」(『本の旅人』5月号)抜刷を御恵送いただきました。
 田渕先生・菱沼先生にあつくお礼を申し上げます。

 >佐伯真一先生 『古典遺産』掲載の大津論文のコピー、拝受いたしました。御多忙の所、ほんとうにありがとうございました。

例会

田中裕紀
No.3754

 昨日の辻さんの発表、質疑共に本当に楽しく聞かせて頂きました。
「後白河院と都市民」と題された今回の発表が、今後どんな風に展開・発展していくのかとても楽しみです。
 例会の前に『百錬抄』の講読にも途中参加しました。仕事を始めて、研究発表を聞いたり本を読んだりする事が以前よりも楽しく感じられます。苦手な史料読みすら楽しい。何とか時間を作って、出来るだけ勉強したいと思います。

今回の義経

No.3745

 まったく恒例になってきましたね。義経ネタ。 と、いうことで、今回も悪口を書こうと思ったけれど も・・・ しかし! 悪くなかった!(今回だけは)。

 もともと今回は、清盛病に伏す→死ぬ→みんな、涙にくれる、という単純な構成ですから、変な小細工はしたくてもできない、というところはあったと思います。
 でも、平盛国邸でしみじみと酒を酌み交わしている時に発作をおこして倒れる、というのは、なかなか良い設定です。そうでもしなければ、なぜ清盛が盛国邸で死去した(これは歴史的事実)のかの説明が難しい。それから、「頼朝の首を墓前に供えろ」という清盛の遺言を時子の創作としたところも、従来の無理無体の辻褄をなんとかあわせましたね。今回のドラマの温厚で優柔不断な清盛があの強烈な遺言をどうやってするのかと思っていましたが、なんとか破綻を回避しました。めでたしめでたし。
 と、いうことで、今回は合格点。中井貴一の頼朝もなかなかサマになってきましたし。

 とはいうものの、これは今回の放映に限ったことであって、歴史的事実と比べると物足りないところがあります。それは、養和元年(治承5年、1181)閏2月4日の清盛の薨去の直前に、もうひとり、大事な人物が世を去っていることがまったく描かれていないことです。それは、その2ヶ月前の1月14日に崩御した新院・高倉上皇その人です。今回のドラマでは新院がまったく描かれていません。しかし、私が以前から強調しているように、高倉上皇こそは清盛の政権の要ともいえる人物であり、彼が崩じたことによって清盛の政権構想はガラガラと音をたてて崩れ去るのです(ところで、今回のドラマで高倉上皇を演じていたのは誰でしたっけ・・・ それほど影が薄いんですね)。

 細かいことでケチをつけると、熱を下げるために清盛のまわりに立てられていた氷柱。まったくの氷の塊ですね。氷はあってもいいのですが、冷蔵庫はないのですから、氷は板状であったような気がします。どうでもいいことですが・・・

 あと、清盛が眺めていた西八条第の「蓬壺」という蓬畑。なんか変なシーンですが、ウチの奥さんによるとやっぱり変だったようです。詳しくは彼女から聞いてくださいませ。

追記:今回の「義経」について、東京都立大学の川合康先生が好意的な評価を書いておられます。同感です。http://blogs.yahoo.co.jp/kibamusya2005/MYBLOG/yblog.html

猛き者も、ついには滅びぬ。

No.3746

 元木先生は、すっかりお見捨てになられましたが、小生は「或る人」からの要請もあることなので一言。
 史実という点から言えば、落とせないのは高倉上皇の死とともに、還都後の平家がかなり積極的に動いているという点です。まずは八条~九条末における新首都構想の実現に向けて動き出している。平盛国の邸で清盛が死んだのは、たまたま滞在していたからではなく、その新首都の中核的位置に盛国邸があったからであることは明らかです。この点については、盛国邸が九条河原ではなく八条河原に位置していたことともに、高橋昌明先生が最近の論文(↓で紹介)で指摘されるところです。
 また、宗盛が畿内近国の総官に、家人の平盛俊が丹波国諸荘園総下司職に補任されて独自の総力戦体制を構築し、それがある程度成功していた状況もドラマとはだいぶ異なります。
 清盛の遺言も右大臣九条兼実の日記『玉葉』に「我が子孫、一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に曝すべし」という武士の棟梁らしい恐ろしくも気迫に満ちたものであったことが伝えられていて、これは富士川合戦敗戦後の彼の態度などから考えても事実と見てよいと思います。
 なにしろ治承五年二月段階で、平家は近江・美濃の反乱軍の鎮圧に成功しており、あらたな体制作りに邁進する段階でした。
 これらの点については、ドラマに呆れてしまわれた元木先生の『平清盛の闘い 幻の中世国家』(角川書店)を是非ともお読み下さい。
 ところで、清盛の葬儀の際に、鴨川を挟んで八条河原対岸にあって後白河のいた最勝光院御所(現在の一橋小学校のあたり)から今様乱舞の声が聞こえたというストーリー構成上、好都合な事実があるのですが、これをドラマに取り入れないのは実に勿体ないと思いました。変なフィクションを考えなくても史実の中に面白い材料はゴロゴロしていると思うのですが。もっとも次回の放送に出て来るのかも知れませんね。

 もうひとつ気になったのは、鼓判官こと平知康の位置。院の近臣とはいえ、たかだか検非違使の尉が内大臣宗盛に尊大な態度をとっていましたが(大会社の社長秘書が系列会社の社長に対するがごときものでしょうか?)、あのような場面設定は可能なものかどうか、美川先生にお教えいただければ幸いです。
 ちなみに、先頃鎌倉で開かれたシンポジウムの講演において、上横手雅敬先生が在京中の義経を「後白河近臣の武官として平知康と同様な存在」と評価されたとのことで、これは一部の義経ファンにショックを招いたようです。

義経は平知康にあらず

前川佳代
No.3747

 ショックを受けた(というか逆上した)義経ファンの前川です。おそらく上横手先生がおっしゃりたかったのは、後白河院の側近でいうなら知康と同じ立場ということであったかと想像されたのですが、上横手先生の応援に駆けつけた身としては、我が耳を疑いつつ、その真意を質問してしまった次第です。冷静に考えるなら鎌倉で、しかも鶴ヶ岡八幡宮の境内で催されたシンポジウムだったので、リップサービスもあったことと存じます。他の先生方も義経には冷たく、まるで大河「義経」の鎌倉滞在中の義経をみるがごとくでした。鎌倉は鬼門です・・・
 昨日の義経では、頼朝の大倉御所の一郭に義経館が設けられてあり、頼朝の家人も「九郎御曹司」と呼んでいたところが印象的でした。上横手先生が注目されていることですが、『玉葉』や『平家物語』に頼朝と義経は「父子の契り」をなしたと出て参ります。養父子関係を結び、曹司住まいだったのでしょうか。『玉葉』には頼朝の代わりに「九郎御曹司」が上洛してくるらしいとの記事を載せており、「九郎御曹司」という呼び名であったことがわかります。次回登場の範頼は鎌倉でどうしていたのでしょう?小山氏、安達氏の近くにいたのでしょうか。
 土曜に亀岡で開催され、元木先生が基調講演された「頼政と義経」のシンポジウムでは、会場から「政子は本当に義経をいじめていたのですか?」という質問がありました。私の従兄弟からも、「毎回義経はみているけれど、本当に義経はかわいそうね」とメールがきてます。どうしてあんなに「可哀想な義経」にする必要があるのですか。
 普通に『平家物語』や『義経記』を読んだだけでも「可哀想」な人生と理解でき、判官びいきが生まれたのだから、これ以上「可哀想」を演出する必要などありません。あまりにも義経が気の毒すぎる。それゆえか、タッキーらしい義経が出てこない。対平家戦の初陣で、なぜにあのような愁いをこめた表情をせねばならぬのか。
 義経のすごさは、「可哀想」ではなくて、「可哀想」な人生であっても精一杯彼なりに生きたという証を八〇〇年を越えて残しているということです。私は、義経は逆境に負けない、もっと強く明るく、そして優しい人だと思っています。そこを強調して欲しいと願います。
 「義経展」のチケットが手に入りました。ご入り用の方はおっしゃってください。

義経展のチケット

No.3748

 前川さん、昨日は近藤好和先生ご登場の週刊誌をありがとうございました。ようやく拝見することが叶いました。また、上の書き込みで、いかに前川さんが義経に心酔されているかが、多くの方々に理解されたことと思います。前川さんの義経がらみの歴史叙述は黒板勝美著のごとしと、言われるてしまうかも知れませんよ。
 
 また、ありがたいお申し出に感謝します。
 義経展のチケットの必要なゼミメンバーは、明日のゼミ史料講読会・例会のときか研究室宛のメールで今週中に小生まで御連絡下さい。前川さんに一括して必要な枚数をお願いすることにします。
 なお、義経展では、元木先生の御講演も企画されています。できれば、その日に合わせて出掛けられたらよいと思います。

西八条殿の蓬壺。

No.3749

 タイトルの件について、山田ちさ子さんがblog「平家物語」に卓見を示しておられます。
 
 http://heike.cocolog-nifty.com/heike/

 ここに示された山田さんの御見解、これはまさしく正解だと思います。すでに趣味の域を脱していますね。
 

ありがとうございます

No.3751

わ~い。
野口先生、ありがとうございます。
ちゃんと立証できる史料を探そうと鋭意努力中です。

義経、せっかくのタッキーなのだから、もっとがんばって欲しいです。
わたしの中の義経を志垣太郎からタッキーに変えたいのですが、これでは志垣太郎のままかも。

蓬壺

No.3752

蓬壺と言えば、つぎの漢詩を思い出します。

  晁卿衡を哭す
  日本の晁卿 帝都を辞し
  征帆一片 蓬壺を遶る
  明月帰らずして 碧海に沈み
  白雲愁色 蒼梧に満つ

友人の阿倍仲麻呂の乗った帰国船が転覆し、死んだものと思った唐の李白が、その死を悼んで詠んだ「哭晁卿衡」の詩。結局仲麻呂は助かっていたのですが(^^;)
ここでいう「蓬壺」は、東の海中にある神仙の島ないし蓬莱山がイメージされていると思いますが、それを朝廷や宮殿を指すものとして利用した可能性はあるかも…、ですね。また中国との関係が深い平氏の邸宅に、この語句を用いたのは面白いなぁと思います。ちなみに『宋史』芸文志には『陶植蓬壺集』三巻・『蓬壺集』一巻という書物が載っております。