主上のお供をしなさい!
No.3702
恒例の「義経」ネタです。
今日は福原から平安京への還都でした。元木先生が怒り心頭になられそうなシーンがいっぱいでした。そのあたりは元木・美川両先生におまかせするとして・・・
還都というのに、平家の皆さん、えらくのんびりした出発ぶりでしたね。だいたい、みんな三々五々に福原を出立しているのはなんとしたことか。頼盛は三日前、宗盛は昨日、知盛は本日出立します、などと呑気に語っていました。これはいけませんね。これは、個人の引っ越しでもなければ単なる物見遊山の旅でもありません。恐れ多くも主上・新院・法皇揃っての還御であらせられるのですよ! 公卿たるもの、まずは天皇の行列に供奉するのが第一であって、個人的なことは後回し、後回し!
史料的に言っても、宗盛・知盛・時忠・清経は確実に還御の列に加わっているはずです(『吉記』)。特に。宗盛は前右大将としての資格で数千の軍兵を率いて行幸の警護にあたり、知盛は百メートルほど離れて後陣を勤めています。だから、知盛さん、宗盛より1日も遅れて出立したら完全に職務怠慢になってしまいます。
そもそも、福原から平安京に帰る主体は、あくまで天皇・上皇でなくてはなりません。したがって、出立前に知盛が清盛に挨拶に行くのは結構ですが、清盛「主上の警護に手落ちなきように」、知盛「心得ております」くらいの会話がなくては話になりますまい。このドラマの脚本家は、平安時代の宮廷社会をどのように考えているのか、よくわかりません。
あと、気づいたこと。鎌倉の街造りが始まり、頼朝の前に鎌倉の図面が広げられていました。面白かったのは、小町小路や今小路は見えたのですが、若宮大路が描かれていなかったことです。若宮大路の造営は寿永元年ですから、演出家がそこまで勉強した結果としてわざと同大路を書かなかったとすると、それは賞賛に値します。でも、治承4年末の段階ですから、着工はしていなくても、若宮大路の計画くらいはないとおかしいとは思いますが・・・
今日は福原から平安京への還都でした。元木先生が怒り心頭になられそうなシーンがいっぱいでした。そのあたりは元木・美川両先生におまかせするとして・・・
還都というのに、平家の皆さん、えらくのんびりした出発ぶりでしたね。だいたい、みんな三々五々に福原を出立しているのはなんとしたことか。頼盛は三日前、宗盛は昨日、知盛は本日出立します、などと呑気に語っていました。これはいけませんね。これは、個人の引っ越しでもなければ単なる物見遊山の旅でもありません。恐れ多くも主上・新院・法皇揃っての還御であらせられるのですよ! 公卿たるもの、まずは天皇の行列に供奉するのが第一であって、個人的なことは後回し、後回し!
史料的に言っても、宗盛・知盛・時忠・清経は確実に還御の列に加わっているはずです(『吉記』)。特に。宗盛は前右大将としての資格で数千の軍兵を率いて行幸の警護にあたり、知盛は百メートルほど離れて後陣を勤めています。だから、知盛さん、宗盛より1日も遅れて出立したら完全に職務怠慢になってしまいます。
そもそも、福原から平安京に帰る主体は、あくまで天皇・上皇でなくてはなりません。したがって、出立前に知盛が清盛に挨拶に行くのは結構ですが、清盛「主上の警護に手落ちなきように」、知盛「心得ております」くらいの会話がなくては話になりますまい。このドラマの脚本家は、平安時代の宮廷社会をどのように考えているのか、よくわかりません。
あと、気づいたこと。鎌倉の街造りが始まり、頼朝の前に鎌倉の図面が広げられていました。面白かったのは、小町小路や今小路は見えたのですが、若宮大路が描かれていなかったことです。若宮大路の造営は寿永元年ですから、演出家がそこまで勉強した結果としてわざと同大路を書かなかったとすると、それは賞賛に値します。でも、治承4年末の段階ですから、着工はしていなくても、若宮大路の計画くらいはないとおかしいとは思いますが・・・