謝辞。
No.310
みなさんお疲れさまでした。まさに、平治の乱における清盛の帰郷の如く(元木先生の御指摘による)、帰りは大変でしたね。まさか、九州に逃げようと思った人はいないと思いますが。小生は湯浅氏ならぬ湯浅道路を利用して戻りましたが、串本町のあたりの海のうねりは凄まじいものがあり、愛車も海水の洗礼を浴びて参りました。かくして、本日、六波羅に着到、二条天皇ならぬ長村君の「行幸」をお待ち申し上げている次第です。
さて、冗談はさておき、今回の旅行では幹事をつとめた永富さんに大いに感謝したいと思います。本当に至れりつくせりの御配慮で、おかげさまで、実に有意義な三日間を過ごすことが出来ました。永富さんの技術参謀の鈴木君にもあつく御礼申し上げます。
また、今回の見学の圧巻はなんといっても青岸渡寺・補陀洛山寺でしたが、高木さんにはいろいろお心配り、きわめて過分なおもてなしを頂いて、恐縮致しております。貴重な御所蔵史料を拝見して、とても勉強になったことはいうまでもありません。ご両親様ならびに瀬川様によろしくお伝え下さい。
旅行が盛況になったのは、美川先生をはじめとする摂南大学の先生方のご参加があったことによります。ゼミのメンバーも、多々学問的な刺激を与えていただいたようで感謝致しております。ただ、美川先生には、お別れした直後に、青岸渡寺の宝物館で白河法皇御幸のさいに使用した金剛界曼陀羅の成身会大坦具を拝見することになってしまったのが、ちょっと残念でした。
それから、源先生には急なアクシデントでお急ぎのところ、わざわざゼミメンバーの到着をお待ち下さり、またご丁寧なお心遣いまで下さって恐縮に存じました。掲示板にて失礼ですが、あつく御礼申し上げます。奥様・お嬢様にもよろしくお伝え下さい。
元木先生・近藤先生にもいろいろアドバイスを頂きましたし(海上からの那智山の景色も見ることが出来、神倉神社の石段は全員登頂に成功しました)、この旅行は多くの方たちに支えられ、多大な成果を生んだことと思います。ゼミの諸兄姉間同士で徹夜で語り合ったことは、きっと人生の財産になることでしょう。うらやましいことです。
なお、小生、生来の虚弱体質の上、いよいよ老化著しく、軽い疲労でもすぐに胃腸障害を発動し、しばしば雲隠れ(「雪隠」と「雲隠」は似ていますね)したり、深夜のディスカッションには参加不能であったことを衷心よりお詫び申し上げます。しかし、今回の旅行で熊野信仰とか紀伊半島の地勢が私の脳裏の中で実に具体化したことをひそかに喜んでいます。
ゼミのみなさん、ありがとうございました。さて、一休みしたら次は史料講読です。
校正
No.311
上記、1行目「帰郷」は「帰京」の誤りです。
運転ご苦労様でした。
No.317
Yahooニュースを見てみると、三重県南牟婁郡紀宝町、つまり熊野川を挟んだ三重県側のところの支流が氾濫し、民家の1階部分まで浸水だったようです。
まさか、台風に向かう方のコースだったとは、聞いてびっくりしていましたが、全員怪我も事故もなくよかったと思います。
次の機会があれば僕も誘ってください。(技術参謀として...)
遅ればせながら…。
滑川敦子
No.309
皆様、熊野旅行本当にお疲れ様でした。鈴木君、絵里ちゃん、色々お気遣い頂きありがとうございました。とっても楽しかったです。
そして、山本さん、最初から最後まで楽しませて下さってありがとうございます(冗談ではなく、本当に。あれだけ度量の広い先輩をなかなかいませんよ)。
熊野は、機会があれば又行きたいと思っております。
那智の滝は本当に感動しました。私の場合は麓で見たのもさることながら、熊野古道から見えた滝なのですが。古道から滝が見えた時、しんどくなっていた気分が癒され、足どりが少し軽くなったような気がしました。何百年前の人も同じ光景を目の当たりにしていたに違いないと思いました(いささか空想(妄想?)に耽っておりますが)。那智大社と青岸渡寺の参詣曼陀羅も興味深いものでした。写真で何度か目の当たりにしてはいたのですが。他の展示物はそっちのけで、ずっと参詣曼陀羅の前に立っておりました(笑)。
美川先生とは色々お話できてとても光栄でした。
学部で先生の講義を受けていた時はまだ2回生でした。講義の前日は、同じ講義を受けている友人と夜遅くまで学校に残って予習に取り組んでいました(史料講読でしたので、史料の読みと解釈を)。
源先生とは、ご一緒出来ず、とても残念でした。「高坊」は気付けませんでした。古文書はわりかし読んでいたのですが。お嬢さんのことはお気になさらないで下さい。むしろかわいらしいなあとゼミのみんなと話していたくらいですから。
元木先生、いつも面白い書き込みありがとうございます。多田に行かれるという事は、旅行中、野口先生よりお聞きしました。多田は大学時代の友人が住んでいるところで、色々話を聞いておりましたので、一度行ってみたいと思っていたところです。
ご一緒させて頂けたら嬉しいです。
鈴木君、永富さん、帰りの電車で話していた例の件についてご検討頂けたら幸いです。また今回の旅行の先達を務めて下さった高木さんにも、宜しくお伝え下さい。
ていせい、テイセイ、訂正。
滑川敦子
No.313
大変失礼致しました。
・「度量の広い先輩を」→「度量の広い先輩は」
・「大学時代の友人」→「学部時代の友人」
の間違いです。すみません(ぺこり)。
お帰りなさい
美川圭
No.308
>田中さん
みなさん、無事のご帰洛、おめでとうございます。
一昨日の浦島の連絡バス運転手さんが、
台風が来ると、すぐに紀勢本線も、道路も止まる、といっていたので、かなり心配していました。
もうすこし、台風が早く来ていたら、足止めとなるところでしたね。
「祝着至極」
>源先生
熊野でお会いできずに、残念です。
前々回にうちの教員と熊野へ行ったときは、故杉浦勝先生と一緒。
(ちなみに杉浦先生は、京都府大出身で、藤井学先生のお弟子さん。もともとは日本史なんです)
前回は、もう彼は病のため、行けず。ただし、宿泊地や食事処などをすべて彼の「指定」。という風に、熊野は彼の想い出と、切っても切れない地でもあります。
ちなみに、
私は行ってないのですが、有久地(だったかな)という「冥界
」のような温泉地があるそうです。修験者がとまる一軒家の宿(宿坊)があるそうな。
うちの教員連中が、かつて、台風の風雨のなか、そこでこの世と思えぬ体験をしたそうで。そこに杉浦先生もいて、もはやこの世の人とも思えぬ宿の主と階下で「談笑」していた光景が、語り継がれています。やはり行っていない同僚の小川豊生先生(国文学)も、たいへん興味がおありだそうで「実は、そんなところ、数百年前になくなっていたりして・・・」とにたにたしながら、よろこんでいます。
先生もお疲れさまでした
No.318
美川先生、もとい美川上皇そして摂南大学の先生方、和歌山での長期滞在お疲れさまでした。初日の飲み会・二日目の熊野と、なかなか全員の先生とお話しすることは出来ませんでしたが、とても楽しく有意義な時間を過ごすことができました。ありがとうございました。小川先生はまたどこかの学会でお会いすることもあるかと思います。まだまだ学会は物見遊山ですので、知っている研究者が増えるたびにワクワクしますね(^^ゞ
どの先生方も、またお会いできることを楽しみにしています。勿論、この掲示板への登場もです(^u^)
P.S.
「冥界」のような温泉地・・・想像はふくらむばかりです(笑)
Re: お帰りなさい
No.322
こんばんは。昨夜無事全員熊野から帰洛することができました。
旅行から帰ってきてから今日一日家でぐったりとしておりまして、お礼の書き込みをするのが遅くなってしまい申し訳ございません。
メールの内容と重複いたしますが、こちらにもレスをつけさせていただきます。
今回は美川先生をはじめ摂南大学の先生方と旅をご一緒させていただき、色々とお話させていただくことが出来、光栄でした。
美川先生からの専門的なお話はもちろん、普段接することのない分野の先生ともお話をさせていただき、よい刺激を受けることができたとゼミ員一同喜んでおりました。
また、一日目の宴会では、連絡がうまくいかず長い時間お待たせしてしまったにもかかわらず、宴会の費用についてもお心使いいただき、ありがとうございました。
感謝いたしております。
またご一緒する機会があるかとは思いますがそのときはどうぞよろしくお願いいたします。
摂南大の先生方にもどうぞよろしくお伝えくださいませ。
冥界のような温泉・・・ぜひ行ってみたいものです。
ホテル浦島の忘帰洞からみた朝焼けも波が光に反射してキラキラ輝き、海にちょっと霧がかかる様子も私には十分神秘的に感じられました。
一番のり!
No.306
熊野から帰洛し、久々の美味しい「家ご飯」を食べて一息ついたところです。現在紀伊半島の西側(白浜あたり)が暴風域に入っていて、帰ってきたものも何とか逃げ切った・・・という感じです。
ともあれ、事故もなく旅行を終えることが出来て本当によかったです。全部の手配やお金の管理を一手(二手?)に引き受けてくれた永富さんと鈴木くん、本当にご苦労さまでした。まだパソコン画面では写真を見ていませんが、全部で100枚ほどの写真を撮っているので、あんまり写りの悪いモノは抜いて鈴木くんにお渡ししたいと思います。
まだまだ余韻に浸ってはいますが、那智・熊野という土地が宗教や文学作品に影響力を持っているという、その土地の「力」を感じることが出来た良い旅行でした。お疲れさまでした。
Re: 一番のり!
源健一郎
No.307
みなさんお帰りなさい。熊野でご一緒することを楽しみにしていたのですが果たせず、残念至極です。心配していたお天気の方も、何とか逃げ切られたようで何よりでした。
ところで、那智での史料見学は如何でしたか? 「高坊」という支院に関する記述をご記憶の方は是非ご一報を。「平家」関係で、ちょっと気になっているものですから…。
それでは皆さん、ゆっくりと旅の疲れをお癒しください。
PS 新宮駅でお会いした皆さん、娘が無愛想でゴメンナサイ。なぜか最近、初対面の人に弱いのです…とほほ。
Re: 一番のり!
No.316
ただいまです。
ふと掲示板をのぞいてみると、書き込みのインフレーションでどこにレスをつけていいやら...ということで、1番乗りなところにしました。
みなさんお疲れ様でした。
専門ではないですが、歴史の力なのでしょうか「昔も今もあの滝は流れ続けてるんだなぁ」という、動きのあるつながりがとても印象的でした。
ただ者ではない人と、ただ者じゃない旅行が出来たように思います。これこそ本当の「修学旅行」じゃないかと(^^
僕の分は、那智の滝など結構きれいに撮れていました。
あつめればデジカメだけで200枚近くになりそうですね。
P.S.源先生もばっちり撮れていましたよ☆
一足先に熊野から帰京
美川圭
No.305
美川です。
昨晩、ご一行さまより、一足先に帰京しました。
青岸渡寺でお昼をごちそうになってから、十津川経由で京都まで、約8時間かかりました。
私も楽しかったのですが、同僚の先生たちも、得難い体験をよろこんでおりました。
詳細は、みなさんがご帰京されてから、ということですが、
台風が心配です。
大河ドラマの功罪
No.304
たびたび失礼します。
どうも芸能ネタが弾んでいるようで、ますますのめりこみそうです。美川氏が愛犬ぐるみで溝口健二の一族と関係があり、野口先生のお父上が東映にお勤めとは。
当方、東映時代劇では、悪役にして映画で水戸黄門を定着させた月形龍之介が大好きでした。京大の北にある居酒屋「住吉」(かの杉橋先生ご愛用)のお婆さんが月形氏の隣にすんでいたとか。
昔の時代劇は歌舞伎などと共通する型がありましたから、作りやすいし見る方も一種安心できるところがありましたね。
最近は学問の進化や、思想の変化がありますから、制作側もどのように消化したらいいのかわからないのかもしれません。
昨年の失敗作『時宗』も、昔でしたら、悪逆非道のモンゴルを撃退した大英雄時宗を単純に描けばよかったのですが、今はそうは行きません。さりとて、変に反戦思想を盛り込もうとすると、何とも奇怪な時代劇になってしまいます。時代の制約、今日との違いを明確にした上で、封建制の厳しさ、残忍さ、その悲劇を描かないとシーリアスな時代劇にはならないと思います。荒唐無稽な筋書きもさることながら、女性たちに安易に反戦を語らせた点に、時宗のつまらなさの原因があるように思います。
ただ、最近の大河ドラマ、実はあまり見ていませんので偉そうなことは申せません。当方の家には一台しかテレビがなく、あの時間帯は熱狂的巨人ファンの家族に占拠されているものですから。
そんなわけで太平記もあまり見ておりません。ただ、後醍醐が片岡孝夫では線が細すぎる、ほんとはビートたけしあたりがいいのにと思ったことでしたが、そんな演出をすれば、演出家の命が危ないことでしょう。そこに、野口先生がご指摘になった問題があると思います。
もっとも、66年の義経では法皇の姿さえ出せず、72年の新平家では法皇は顔を出したものの、天皇は御簾の中という演出、79年の草燃えるでも、法皇が中心で、天皇はほとんど出番ナシでした。それに比べると、後醍醐が登場し、女性を抱く場面さえもあったのは大変な進歩と思いました。
あれ以後の大河に、思想面の積極的な意味があるのかどうか。
ちなみに、吉川英治の『私本太平記』は、幕府滅亡までは面白いのですが、そのあたりで氏が病気に倒れ、あとはエピソードを拾うような内容となってしまいました。テレビがつまらなくなった一因は原作にもあったのかもしれません。
熊野旅行にお誘いいただき光栄です。残念ながらとても時間が取れません。お天気が気になりますが、良いご旅行になりますよう、お祈りしております。
それはともかく、現在満仲の伝記を書いている関係で、一度多田に行ってみたいと思います。興味のある方がおられたら、ご一緒しましょう。
多田より、帰りの梅田グルメが当方の真の目的なのですが。
帰京
No.303
今、和歌山南部の天気を見ていたのですが、明日はともかく、あさって、しあさっての午後は雲行きがあやしそうですね。台風が通過なんてことにならなければよいのですが…。心配です。
義経役
No.301
この場を借りるのも変ですが、元木先生、お久しぶりです。一部で弁慶役に決まった近藤です。
ところで、『新平家物語』等のキャスティングで盛り上がっていますが、義経役は、美男子、今でいうイケメンばかりですね。しかし、『平家物語』等によれば、義経は、運動能力は優れていたようですが、小柄で出っ歯の醜男のはず。一度は、イケメンでない義経も見たい気がします。たとえば、思いつきですが、ナイナイの岡村なんかどうでしょう?
それでは、ゼミのみなさん、楽しい熊野詣でを!
既成のイメージ
野口実
No.302
芸能話に花が咲き、アクセス3000も間近ですね。こうなると、直接の対話が必要で、元木先生も熊野にお出でになれれば良いのに、とつくづく思っております。明晩、那智勝浦のホテル浦島においでになりませんか?
近藤先生のおっしゃるとおり、義経は歌舞伎役者みたいな人にはもう演じて貰いたくありませんね。しかし、人口に膾炙している既成のイメージというのは恐ろしいもので、そこからはずれると視聴率が極端に低くなるようです。『太平記』も社会史全盛の時期に、戦後歴史学のリーダー永原慶二先生の考証のもとで放映され、絵巻にあるような場面が出てきたり、出産や元服といった儀式の様子はほぼ忠実に描かれ、片岡鶴太郎の北條高時やフランキー堺の平頼綱のような適材適所の配役もあって楽しめたのですが、どうも後半からつまらなくなってしまいました。その背景には、大楠公史観とでも言いましょうか、皇国史観教育を受けた人たちのイメージとのあまりに大きな乖離のあったことが指摘できるようです。上横手先生も、以前、NHK教育テレビの太平記の講座で護良親王をモリヨシシンノウと呼んだことで、大きな反発を視聴者から受けたそうです。だから、義経も人選は難しいでしょうね。大方の義経ファンというのは、既成のイメージに乗っかっているでしょうから。こうしたことは、若い世代でも再生産されていて、その良い例が安倍晴明でしょう。この場合、皇国史観ではなくて、漫画・オカルト小説史観によるものとでも言えましょうか。ちなみに、安倍晴明展開催中の京都文化博物館は大入りで、これまで閑古鳥の鳴く中にいたコンパニオンさんたちが、かつて見せたことのない笑顔をふりまいているとの情報が元同僚から届いております。
まあ、東国武士は無骨で粗野で純朴で、京都の公家は女々しくて白粉だらけで、気持ち悪い・・・といった既成イメージをNHKさんが、いつになったら克服してくださるのか楽しみでありますね。
こうしたことに対して、研究者は非力ですが、でも、大河ドラマはだめでもNHKブックスがありますよね、石浜さん。おっと、藪蛇でした。
とはいえ、再来年の『義経』、近世・近代の男社会を中世前期に引き写したかたちでホームドラマに仕立てることだけは止めていただきたいと切に願うものであります。なにしろ、今日、社会人向けの歴史教育に果たす大河ドラマの役割は甚大なのですから。
などと、遊んでいて、ちっとも書評が進まず、焦燥にかられる毎日ですが、そんな中、熊野旅行の成功のために地道な努力をされておられる、永富さんにお詫びとお礼を申し上げたいと思います。
新平家あれこれ
No.297
新平家の話題で盛り上がっているようなので、黙過できず一言。
この小説の冒頭は、清盛が叔父忠正宅に借金に行く場面で始まります。吉川英治は、意図的に清盛の若年期を貧しく描いたのではなく、本気でそう思っていたとのことです。これは、小学館日本の歴史の安田元久著『院政と平氏』の月報で、安田、上横手両先生と対談した吉川門下の杉本苑子氏が証言しておられます。たしか両先生は驚かれたような発言をしておられました。
言うまでもなく、吉川は平家物語「西光被斬」における、西光の罵詈雑言を事実と思ったのです。そういえば、当方の小学生時代の世界文化社とか言う会社が出した歴史の副読本に、清盛が壊れた門から出入りしている挿絵があったのを思い出します。
ところで、映画の新平家で時子だった久我美子さん(彼女は久我家の嫡流で、本名は字はそのままで「こがはるこ」と、読むそうです。最近は第一線を退いたようですが、先年の久我家文書の展覧会のテープカットの姿を見せていました。やっぱり「また逢う日まで」の印象が消えませんね)は、1972年のテレビの新平家では待賢門院、中村玉緒さんは時子役になっておりました。映画で長谷川一夫が演じた義仲は、テレビでは親戚の林与一氏でした。
テレビの新平家は大河10周年の特別企画で、すごいメンバーでした。平氏一門は以下の配役です。
清盛・仲代達矢、忠盛・中村勘三郎(勘九郎の父)、池禅尼・先代水谷八重子、経盛・少年時代・郷ひろみ、成人・古谷一行、頼盛・山本学、忠度・中尾彬(当時は二枚目だった)、時忠・山崎努、重盛・原田大二郎、宗盛・勝呂誉、知盛・松山政路、敦盛・勘九郎
祇園女御・新珠三千代、常盤・若尾文子、建春門院・村松英子、建礼門院・佐久間良子、祇王・波乃久里子。時子は上記。
王家:鳥羽・野村万之丞(万斎の爺さんか)、美福門院・小山明子、崇徳・田村正和、後白河・滝沢修、以仁王・北大路欣也、高倉・片岡孝夫(現仁左衛門)、待賢門院・上記
摂関家:忠実・森雅之、忠通・原保美、頼長・成田三樹夫(ヤクザ映画みたい、実はインテリ俳優なのだが)
源氏:為義・佐々木孝丸(築地小劇場依頼の名優)、義朝・木村功(ミスキャスト)、為朝・伊吹吾郎、頼朝・高橋幸治、頼政・芦田伸介、義経・志垣太郎、弁慶・佐藤充(東宝系ヤクザ映画で活躍)、北条時政・加藤大介、政子・栗原小巻、巴・古城都(宝塚の男役だった)、熊谷直実・岡田英次(「また逢う日まで」で久我美子の相手役)
信西・小沢栄太郎、西行・蜷川幸夫(元々は俳優なのです)、藤原秀衡・加藤嘉
麻鳥・緒形拳、妻蓬・和泉雅子(北極に行く前のまだかわいかったころ)。この夫婦が、いわば狂言回しの役でした。
こうしてみると、物故者も多いし、30年の時の流れを痛感いたしますね。映画、歌舞伎、新劇といったジャンルの実力者がそろって折、それだけに迫力がありました。高校時代の忘れがたい思い出の作品です。
Re: 新平家あれこれ
No.299
元木先生はじめまして。同志社大学の山本と言います。
以前もぐらせてもらった先生の授業(木曜日)の時に挨拶はしたのですが、緊張して上手く自己紹介できなかったのでご記憶にないかもしれません。先生の火曜日と木曜日の授業の両方にもぐらせてもらっていました。その授業の際に時々、時代劇風の解説もしくは
セリフみたいなのが出てくるのが気になっていたのですが、それは
やはり大河ドラマの影響なんでしょうか?
『新平家』の清盛の家が貧しいというのは、吉川英治の創作かと思っていました。下書き込みの発言は訂正させていただきます。
あと一つお伺いしたいのですが、自分にとっての生涯忘れられない大河ドラマは91年の『太平記』です。未だに引きずってますが、
元木先生をはじめ、野口先生や美川先生がたは、あの大河ドラマの評価はどうなんでしょうか?一度歴史学者の諸先生方にお聴きしたかったのです。
いろいろおききして申し訳ございません。
後期も先生の授業に出席させていただくことになりますがよろしくお願いします。
よしつね、ヨシツネ、義経。
滑川敦子
No.296
元木先生
書き込み、楽しく読ませて頂きました。とても豪華なキャスティングですね。66年の大河ドラマ『源義経』は、祖母からも話を聞いた
ことがあります。確か弁慶が緒方拳でしたでしょうか??
野口先生
『義経』キャスティング検討が本格化してきましたね。
もし先生が映画監督でしたら、どのような映画を作っていらっしゃったでしょうか??
私は小学生の時、正月に、源義経や平清盛を主人公にした時代劇スペシャルを見た記憶があります。
覚えている方はいらっしゃいますでしょうか?
源義経
義経:野村宏伸(今では懐キャラ)静御前:安田成美(憲武の奥さん)頼朝:榎木孝明(第二の故郷・鹿児島出身の俳優、絵が上手い)弁慶:里見浩太朗(最近は黄門さま)後白河院:平幹二郎(シブイ)政子:高橋ひとみ(口元のホクロが素敵)富樫:高橋英樹(特別出演)宗盛:あおい輝彦(実はジャニーズ事務所)
平清盛
清盛:松平健(暴れん坊将軍。今度、先輩よりマツケンサンバのMDを借りる予定)時子:かたせ梨乃(ナイスバディ。憧れ)後白河院:高橋英樹(ちょっと以外でした)忠盛:丹波哲郎(霊界の人)
義朝:夏八木勲(大好きな俳優さんの一人です)清盛の恋人・阿耶
(厳島の巫女):名取裕子
だったでしょうか??調子乗って書いてしまいました。
今、正月時代劇って言うと、何かと忠臣蔵ばかりやっておりますが、中世(特に前期)も又やってほしいですね。
長村君、20日のご報告楽しみにしております。
山本さん、色々ご迷惑をおかけします。
そして、内容が題名とあまりあってなくてすみません。
Re: よしつね、ヨシツネ、...
No.298
滑川さんの投稿を読まずに、新平家のことを投稿しました。大変失礼しました。清盛の方の一場面で、夏木勲の義朝と、高松英夫の為義が、保元の乱でどっちにつくかもめている場面がありました。少しは勉強して脚本を作れ、と思ったことでした。