元木先生の『保元・平治の乱を読みなおす』を読みました
No.3017
ご無沙汰しています。久しぶりに掲示板を拝見しましたら、元木先生の『保元・平治の乱を読みなおす』の合評会が二月三日にあるとか。当日は、私の勤務先では入試真っ最中のため、参加できませんので、仕方なくこの掲示板を介して、参加させていただきます。年末から年初にかけて、データベースに項目を取り込みながら読み進めましたので、時間は掛かりましたが、さすが期待に違わぬもので、一気に読み通しました。『保元物語』『平治物語』本文の引用も、新大系の古態本を中心に引いておられますし、日下力さんの最新の成果も参照されていますので、さすがです。
以下、第一読解の浅い理解でしかないのですが、感じたり気付いたり、疑問に感じたことをメモ風に記します。
保元の乱について。
頼長を摂関にするという忠実や頼長との約束を破り、摂関家内紛の原因を作ったのは忠通であるとの指摘について(三六頁)。頼長サイドからすればそうした見方も可能かもしれませんが、一般論からしても、やはり忠通の行為は約束破りなのでしょうか。頼長が忠通の養子となったのは天治二年(一一二五)四月二十三日、忠通二十九歳の時。頼長を摂関にするという約束とは、これまでに頼長が「摂関家嫡流の処遇をうけていた」ことを指すのでしょうが、忠実が忠通に摂関職を頼長に譲るよう慫慂した時には、忠通には既に実子の基実(一一四三生)がいた。故に、基実が生まれた時点で、長らく摂関家嫡流の処遇をうけていた頼長との約束は、反故にされても仕方のないことと私は理解していましたが、それは『愚管抄』的な見方であって、一般的には約束破りなのでしょうか。その点の説明がもう少しほしいと思いました。
長男義朝が後白河陣営に参陣しただけに、為義は、参戦に最後まで逡巡したとする点について。ここは、やや腑に落ちない部分です。義朝は、「廃嫡」(五二頁)されていたわけですし、これまでの説明によっても、為義は、忠実の家産機構に組み込まれ、頼長にも臣従の礼(五一頁)を取っていたとするわけですから、参戦に迷う理由は見あたらないと思うのですが。『保元物語』金刀比羅本では、確かに為義は、「しぶしぶなり」(七六頁)「ちからなくしてりやうじやうし」(七七頁)と描かれるように、参戦には消極的ですが、古態本の半井本では、必ずしも参戦には消極的ではありません(この点については、今年一月刊の大学紀要に発表予定)。
保元の乱において、後白河軍の中核は義朝であり、崇徳院に親近感を持つ(重仁の乳母子であった)清盛は、今回の参戦には消極的であったとする指摘(一〇四頁)。『保元物語』では、為朝に対した清盛は、軍勢を引いて北門に移っていますが、必ずしも臆病風に吹かれたのではなく、物語においても、こうした側面から見直すことが必要かもしれません。例えば、退却に憤った重盛に対する結語「今モ昔モ余リニ剛ナル者ハ、帰テ嗚呼ガマシクゾ有ケル」なども、一方の清盛の冷静な対応と対照させようとするのかもしれません。いずれにしても、清盛は、今回の参戦には消極的であったという提言の検証を他の研究者によっても、さらに押し進めていただきたいと思います。ただ、今回の御論では、その清盛が、最終的に後白河方についた理由の説明がもう少しほしいように思いました。
包囲して放火し、脱出する敵を討滅する方法は、東国における合戦に見られるものという指摘(一一一頁)。夜討を含めて、元木さんの一貫した主張なのですが、疑問に思っています。夜討については、以前個人的にメール交換しました。放火して敵を討滅するという方法は、例えば、平重衡による南都焼討をとってみても、東国における合戦方法とは簡単には言えないと思っています。
他に、乙若等の処刑は、将来の反抗を恐れて、義朝が独自に行ったかとする指摘(一二八頁)はそうかもしれません。
保元の乱については、些末なことばかりの指摘で申しわけありません。今回の御論の根幹(保元の乱は、院政期の王家・摂関家という二代権門が解体されることにより勃発した事件)については、全く異議ありません。本当に勉強になりました。
平治の乱について。
平治の乱については、これまでにもメールを通じて色々と質問をさせていただいていましたが、今回の御論により、かなり明確になってきました。義朝と信頼との関係は保元の乱以前にまで遡るが、その義朝の軍事力を背景に、院の近臣であった信頼が、後白河院政を否定し、院を内裏内の御書所に幽閉して政務から隔離し、二条天皇に政務を行わせようとした(一八五頁)とする。信西親子を抹殺するためだけではなかったのだ。そう考えれば、三条殿に火を懸けたことも合点がゆく。決して失火ではないのだ。まさに、「武力で後白河を幽閉した信頼の蜂起」は、『平家物語』の序章にも語られるように、「清盛の先例」(二三四頁)とも見なしうるものであった。ただその際にいくつか気になることがあるのも確かです。例えば、幽閉されていたはずの後白河院の御書所は、『愚管抄』によれば、車も用意してあったようですし、「院ノ御方ノ事ハサタスル人モナク、見アヤム人モナ」いという状況と説明されている。ここはどう考えるべきところでしょうか。果たして幽閉されていたのでしょうか。それ以外の可能性は考えられないのでしょうか。もう少し説明がほしいと思います。あるいは、今回の蜂起が、後白河院院政の否定であったとした場合、院近臣である成親もまた賛同したというのが分かりづらいように思います。信頼との個人的な関係によるのでしょうか。やはりもう少し説明がほしいです。惟方が信頼に加担した理由はよく分かりましたが、一方の経宗が賛同した理由が、二条側近というだけではやはり分かりづらいと思います。また、信頼は、「権力奪取後の明確な構想を欠い」(一九三頁)ていたとありますが、確かにそうだと思います。後白河院政を否定し、二条親政の実現とはいっても、それは傀儡政権の成立であり、そうと分かれば、経宗・惟方が離脱することは目に見えています。失敗の可能性の高い蜂起に、信頼がなぜ踏み切ったのか、経宗や惟方の裏切りは全く想定外のものであったのか、今後さらに検証されねばならないように思われます。
他に、信頼が大将を望んで事件を起こしたという逸話は、文学的虚構の可能性が高いという指摘(一六一頁)。その『平治物語』を模倣したのが『平家物語』ということに通説ではなっていますが、私は、その関係は逆だろうと考えています。今回のご指摘は、私の主張と整合します。その意味でもありがたいです。
今一つ、待賢門合戦の記述の作為性の指摘(二〇六頁)。この点については、去年四月の軍記と語り物研究会において、具体的に私自身指摘したことに合致します。心強い指摘です。今年の春休み中に原稿化したいと思います。
以上、平治の乱に関して言えば、若干の疑問はありますが、最も可能性の高い説だろうと考えます。細かい点で言えば、まだ色々ありますが、とりあえず以上が私の意見です(例えば、第四章一四五頁の高橋昌明説が何を指すのか分からない、恐らくは第二章・五章に引く『清盛以前』からだとは思いますが、何頁かの指摘があればと思います。論の典拠が文献欄に総て網羅されてないのも、データベースに取り込みながら、論を読む作業にとってはとても不便。そういう意味では、歴史論文は、ほとんどが引用の論文・著書の発行年しか記しませんが、是非とも月まで入れていただきたいとか…)。読み誤り等色々あるかと思いますが、その場合はお許し下さい。今度の合評会の参考になればと思います。できれば、この掲示板上に、当日の合評会の簡単な報告でもお載せいただければうれしいです。
以下、第一読解の浅い理解でしかないのですが、感じたり気付いたり、疑問に感じたことをメモ風に記します。
保元の乱について。
頼長を摂関にするという忠実や頼長との約束を破り、摂関家内紛の原因を作ったのは忠通であるとの指摘について(三六頁)。頼長サイドからすればそうした見方も可能かもしれませんが、一般論からしても、やはり忠通の行為は約束破りなのでしょうか。頼長が忠通の養子となったのは天治二年(一一二五)四月二十三日、忠通二十九歳の時。頼長を摂関にするという約束とは、これまでに頼長が「摂関家嫡流の処遇をうけていた」ことを指すのでしょうが、忠実が忠通に摂関職を頼長に譲るよう慫慂した時には、忠通には既に実子の基実(一一四三生)がいた。故に、基実が生まれた時点で、長らく摂関家嫡流の処遇をうけていた頼長との約束は、反故にされても仕方のないことと私は理解していましたが、それは『愚管抄』的な見方であって、一般的には約束破りなのでしょうか。その点の説明がもう少しほしいと思いました。
長男義朝が後白河陣営に参陣しただけに、為義は、参戦に最後まで逡巡したとする点について。ここは、やや腑に落ちない部分です。義朝は、「廃嫡」(五二頁)されていたわけですし、これまでの説明によっても、為義は、忠実の家産機構に組み込まれ、頼長にも臣従の礼(五一頁)を取っていたとするわけですから、参戦に迷う理由は見あたらないと思うのですが。『保元物語』金刀比羅本では、確かに為義は、「しぶしぶなり」(七六頁)「ちからなくしてりやうじやうし」(七七頁)と描かれるように、参戦には消極的ですが、古態本の半井本では、必ずしも参戦には消極的ではありません(この点については、今年一月刊の大学紀要に発表予定)。
保元の乱において、後白河軍の中核は義朝であり、崇徳院に親近感を持つ(重仁の乳母子であった)清盛は、今回の参戦には消極的であったとする指摘(一〇四頁)。『保元物語』では、為朝に対した清盛は、軍勢を引いて北門に移っていますが、必ずしも臆病風に吹かれたのではなく、物語においても、こうした側面から見直すことが必要かもしれません。例えば、退却に憤った重盛に対する結語「今モ昔モ余リニ剛ナル者ハ、帰テ嗚呼ガマシクゾ有ケル」なども、一方の清盛の冷静な対応と対照させようとするのかもしれません。いずれにしても、清盛は、今回の参戦には消極的であったという提言の検証を他の研究者によっても、さらに押し進めていただきたいと思います。ただ、今回の御論では、その清盛が、最終的に後白河方についた理由の説明がもう少しほしいように思いました。
包囲して放火し、脱出する敵を討滅する方法は、東国における合戦に見られるものという指摘(一一一頁)。夜討を含めて、元木さんの一貫した主張なのですが、疑問に思っています。夜討については、以前個人的にメール交換しました。放火して敵を討滅するという方法は、例えば、平重衡による南都焼討をとってみても、東国における合戦方法とは簡単には言えないと思っています。
他に、乙若等の処刑は、将来の反抗を恐れて、義朝が独自に行ったかとする指摘(一二八頁)はそうかもしれません。
保元の乱については、些末なことばかりの指摘で申しわけありません。今回の御論の根幹(保元の乱は、院政期の王家・摂関家という二代権門が解体されることにより勃発した事件)については、全く異議ありません。本当に勉強になりました。
平治の乱について。
平治の乱については、これまでにもメールを通じて色々と質問をさせていただいていましたが、今回の御論により、かなり明確になってきました。義朝と信頼との関係は保元の乱以前にまで遡るが、その義朝の軍事力を背景に、院の近臣であった信頼が、後白河院政を否定し、院を内裏内の御書所に幽閉して政務から隔離し、二条天皇に政務を行わせようとした(一八五頁)とする。信西親子を抹殺するためだけではなかったのだ。そう考えれば、三条殿に火を懸けたことも合点がゆく。決して失火ではないのだ。まさに、「武力で後白河を幽閉した信頼の蜂起」は、『平家物語』の序章にも語られるように、「清盛の先例」(二三四頁)とも見なしうるものであった。ただその際にいくつか気になることがあるのも確かです。例えば、幽閉されていたはずの後白河院の御書所は、『愚管抄』によれば、車も用意してあったようですし、「院ノ御方ノ事ハサタスル人モナク、見アヤム人モナ」いという状況と説明されている。ここはどう考えるべきところでしょうか。果たして幽閉されていたのでしょうか。それ以外の可能性は考えられないのでしょうか。もう少し説明がほしいと思います。あるいは、今回の蜂起が、後白河院院政の否定であったとした場合、院近臣である成親もまた賛同したというのが分かりづらいように思います。信頼との個人的な関係によるのでしょうか。やはりもう少し説明がほしいです。惟方が信頼に加担した理由はよく分かりましたが、一方の経宗が賛同した理由が、二条側近というだけではやはり分かりづらいと思います。また、信頼は、「権力奪取後の明確な構想を欠い」(一九三頁)ていたとありますが、確かにそうだと思います。後白河院政を否定し、二条親政の実現とはいっても、それは傀儡政権の成立であり、そうと分かれば、経宗・惟方が離脱することは目に見えています。失敗の可能性の高い蜂起に、信頼がなぜ踏み切ったのか、経宗や惟方の裏切りは全く想定外のものであったのか、今後さらに検証されねばならないように思われます。
他に、信頼が大将を望んで事件を起こしたという逸話は、文学的虚構の可能性が高いという指摘(一六一頁)。その『平治物語』を模倣したのが『平家物語』ということに通説ではなっていますが、私は、その関係は逆だろうと考えています。今回のご指摘は、私の主張と整合します。その意味でもありがたいです。
今一つ、待賢門合戦の記述の作為性の指摘(二〇六頁)。この点については、去年四月の軍記と語り物研究会において、具体的に私自身指摘したことに合致します。心強い指摘です。今年の春休み中に原稿化したいと思います。
以上、平治の乱に関して言えば、若干の疑問はありますが、最も可能性の高い説だろうと考えます。細かい点で言えば、まだ色々ありますが、とりあえず以上が私の意見です(例えば、第四章一四五頁の高橋昌明説が何を指すのか分からない、恐らくは第二章・五章に引く『清盛以前』からだとは思いますが、何頁かの指摘があればと思います。論の典拠が文献欄に総て網羅されてないのも、データベースに取り込みながら、論を読む作業にとってはとても不便。そういう意味では、歴史論文は、ほとんどが引用の論文・著書の発行年しか記しませんが、是非とも月まで入れていただきたいとか…)。読み誤り等色々あるかと思いますが、その場合はお許し下さい。今度の合評会の参考になればと思います。できれば、この掲示板上に、当日の合評会の簡単な報告でもお載せいただければうれしいです。