美川圭著『後白河天皇』(ミネルヴァ日本評伝選)読了。
No.19966
美川先生の『後白河天皇』を読みおえました。久しぶりに一気に読み進めたくなる内容の本に出会えました。後白河院の人物のみならず、保元の乱前の頃から幕府成立にいたる政治過程も、元木泰雄先生の御研究をさらに敷衍、具体化されたようで、さらに美川先生独特の視角からの考察が加えられていて、大変勉強になりました。いくつかの点で、まさに目から鱗が落ちる思い。
治承・寿永の内乱に関心のある方には是非お読み頂きたい。
保元の乱のあたりでは、武士が官職を必要とする具体的な理由とか、為義の東国における家人の問題、崇徳上皇の配流に際してその護送にあたった武士の人選、要人の死によるポストの空席によって生ずる問題。
平治の乱では、すでに元木先生が指摘されていることながら、藤原信頼による信西排除の意図が明確に示されている点、そして、これまた山田邦和先生も着目された藤原忠通の再評価。二条親政派だった平清盛の後白河支持への転換の事情、。
内乱期に入ってからでは、後白河と頼朝の間での秘密裡の交渉、木曾義仲上洛過程に於ける篠原合戦の評価、元来頼朝が院の近臣にほかならない存在であったこと、通常の院とは異なって、後白河が二条の存在によって王権を保証されていたこと、後白河院およびその近臣である藤原頼輔の一族と豊後・陸奥の関係、奥州合戦に関する川合康先生の御研究の整理、建春門院の陵墓の位置についての山田邦和先生説への賛意など。
平治の乱後のある時期から、それまで暗主そのものであった後白河が、結果的にではあれ無類の政治的力量を示し始めるのはなぜなのか、その辺りが些か釈然としませんでしたし、もちろん細かい点で御意見を申し上げたいところはあるのですが、やはり、美川先生は後白河院のことを一番わかっている研究者であろうことが、よく分かりました。
分かっていても、それを文章で表現するのは大変な作業なのですが、それを見事に達成された先生に感謝しなければならないと思っています。
私など、自分で納得したことをまたくどくどと文章で説明するのが面倒になってしまって、困ったものです。いくらちゃんと書いたつもりでも分かってくれなかったり、いつの間にやら、ほかの有名な方の説になっていたりするので、馬鹿らしいという気持ちに苛まれたりしてもおります。そんなことは、つまらない問題だ、もっと学問全体の発展を考えなければいけません、と仰っておられた大先輩の顔が浮かぶのですが・・・。
どなたか、ゼミで書評をやってくれないかなぁ。
治承・寿永の内乱に関心のある方には是非お読み頂きたい。
保元の乱のあたりでは、武士が官職を必要とする具体的な理由とか、為義の東国における家人の問題、崇徳上皇の配流に際してその護送にあたった武士の人選、要人の死によるポストの空席によって生ずる問題。
平治の乱では、すでに元木先生が指摘されていることながら、藤原信頼による信西排除の意図が明確に示されている点、そして、これまた山田邦和先生も着目された藤原忠通の再評価。二条親政派だった平清盛の後白河支持への転換の事情、。
内乱期に入ってからでは、後白河と頼朝の間での秘密裡の交渉、木曾義仲上洛過程に於ける篠原合戦の評価、元来頼朝が院の近臣にほかならない存在であったこと、通常の院とは異なって、後白河が二条の存在によって王権を保証されていたこと、後白河院およびその近臣である藤原頼輔の一族と豊後・陸奥の関係、奥州合戦に関する川合康先生の御研究の整理、建春門院の陵墓の位置についての山田邦和先生説への賛意など。
平治の乱後のある時期から、それまで暗主そのものであった後白河が、結果的にではあれ無類の政治的力量を示し始めるのはなぜなのか、その辺りが些か釈然としませんでしたし、もちろん細かい点で御意見を申し上げたいところはあるのですが、やはり、美川先生は後白河院のことを一番わかっている研究者であろうことが、よく分かりました。
分かっていても、それを文章で表現するのは大変な作業なのですが、それを見事に達成された先生に感謝しなければならないと思っています。
私など、自分で納得したことをまたくどくどと文章で説明するのが面倒になってしまって、困ったものです。いくらちゃんと書いたつもりでも分かってくれなかったり、いつの間にやら、ほかの有名な方の説になっていたりするので、馬鹿らしいという気持ちに苛まれたりしてもおります。そんなことは、つまらない問題だ、もっと学問全体の発展を考えなければいけません、と仰っておられた大先輩の顔が浮かぶのですが・・・。
どなたか、ゼミで書評をやってくれないかなぁ。