『吾妻鏡』講読会について

No.1644

 メーリングリストにも流しましたが、今週から『吾妻鏡』の範囲は、前回までの北条時政関連の記事からかなり時期が下がって、元久二年(1205)六月二十一日条から始めたいと思います。時期は、北条時政による畠山氏追放事件から、義時が執権に就任する時期を選びました。一応鎌倉時代初期というのが最初のテーマだったので、敢えて考え直しました。どの時期から始めるのがいいのか選んでいたのですが、「梶原景時追放」や「比企氏追放」などいろいろこの時期は話題に事欠くことがなく、本当に北条さんは忙しい家だなとある意味つくづく感心してました。
 日時・4月3日(土)10時から12時半
 範囲・元久二年(1205)六月二十一日条
 担当・山内さん
 

Re: 『吾妻鏡』講読会について

No.1645

 >山本君
 梶原景時のケースはまあよいとしても、畠山氏と比企氏の場合、「追放」という表現は変で、問題があると思います。
 >山内さん
 はじめての報告ですが、がんばってください。まず石井進先生の『鎌倉幕府』をしっかり読んでください。畠山重忠については、小生の恩師である貫達人先生の『畠山重忠』(吉川弘文館・人物叢書)を参照。小生も『古代文化』54-6に「鎌倉武士と報復-畠山重忠と二俣川の合戦-」なる拙文を書いています。
 
 話は変わりますが、山田先生の嵯峨と鎌倉のお話。当日、鎌倉を長く研究対象にされている馬淵和雄さんや岡陽一郎さんもお見えだったはずなのですが、何も御意見がなかったのでしょうか。このシンポについては、得宗専制期の北条氏を専攻されている研究者がたくさん登場されるサイトでも話題になっていましたから、何か反応があってもよいのではないかと思うのですが?

都市論シンポ

No.1647

>野口先生
馬淵さんは報告者、パネラーで参加されていました。
しかし、中世都市形成の思想は同一だから、似るのはあたりまえ、
というよくわからない(私だけが?)コメントだけだったような気がします。その「思想」って何なんでしょうか。馬淵さんのご報告は、鎌倉を概観するのに有意義なものだったのですが、山田先生の報告に対するコメントだけは、合点がいきませんでした。私はちょっと疲れ気味なので、30分以上早退したので、その後の討論はわかりません。ただ、前にも言ったように、奈良に関する討論に限定、という話があったので、その辺への質問はかなりしにくい状況でした。
前にも野口先生とお話したように、東と西の都市論の対話が、ものすごくしにくい状況です。都市論研究者のなかにセクト主義があるなんて話も耳にします。私のような政治史畑には、よくわからん世界です。もっと自由に議論したらいいのに。

Re: 都市論シンポ

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1650

>野口先生、美川先生
都市論は、注意しないと「地方史・郷土史」になりかねない危険性をはらんでいます。都市の研究は、やっぱり地元に密着した研究者の独壇場になるからです。だから、それぞれの都市研究者は自分の研究対象となる都市への「思い入れ」が強い。自分の都市だけでこじんまりとまとまって、他は知らん、とか、他の土地の研究者が口を挟もうにも、「よそものが何をいってんねん」ということになりかねない。そこまではいかずとも、暗黙の「紳士協定」に囚われてしまい、他の都市への「内政不干渉」ということに陥りかねない。
そうした弊害をどうやって克服するか、問われるように思います。

何? 山田の京都都市論がまさにその典型だって? う~ん、そうだった・・・

京都嫌い、貴族嫌い。

No.1651

 美川先生の御指摘のようなことは確かにあると思います。「中世武士論」もそうですが、「中世都市論」も京都にたいする関心と理解が研究の前提になると思うのですが。
 小生、むかしは「貴族嫌い、武士好き」の典型的歴史好き少年だったのですが、東国武士の研究に貴族の日記が不可欠であることに気づいてから、ずいぶん認識をあらためました。都市論についても同じこと(記録などの文献史料のみならず、考古学的成果の上からも)が言えるのではないかと思います。
 なお、小生、現在は(すこしばかり勉強したためか)平安貴族にたいするイメージもずいぶん変わり、道長さんなんかは実に高く評価しているのですが、しかし、一部の「平安貴族好き」の人たちにはついていけないところがあり、かれらの持っている貴族にたいするイメージの打破をひとつの仕事上の目標にしています。

>山田先生 仰せのとおりです。現今の一部の偏狭な郷土史家よりも中世前期の武士の方がよほどグローバルな存在だったと小生は思っています。平泉の藤原さんも武蔵の畠山さんも相模の波多野さんも、さらには東国武士の典型で質実剛健の代表みたいに言われる千葉さんも、京都と太いパイプをもっていた。北条さんなど幕府成立以前からその代表格です。
 山田先生は考古学が御専門ながら文献史学にも造詣が深く、地域的にも視野の広い御研究をすすめておられるので、ぜひ率先した啓蒙活動をお願いしたいものです。
 しかし京都で京都をテーマに活躍されている歴史学者というのは、角田文衞先生:福島県、村井康彦先生:山口県、美川圭先生:東京都といった具合に遠方の御出身であることは面白いですね。その点、山田先生はバリバリの町衆です。
 ちなみに、山田先生の京都論の入門編は、その御著書である保育社のカラーブックス『京都』に展開されています。必読です。

楽しい環境

No.1652

自分の専門領域だけにのめりこむのもいいのでしょうが。
ぼくはとてもじゃないけれど、できません。
なんといっても、野口先生とか元木先生という、
武士論の第一人者、あるいは元木先生は摂関家研究のパイオニア、京都と陵墓といえば山田先生。古文書の字読めなければ、
毎月京都に来られる田中倫子先生、などと日本有数の学者が身近にいるので、楽しい限りです。というか、精神的安定をえられています。脇で話を聞いているだけで、勉強になります。
ですから、ぼくは、いつも一方的に吸収するばかりです。
しかも、人に批判されるのは、大好きです。
どうせ、ちょっとトロい子が、自分一人でできることなど、
たかが知れていますから。
ちょっと、特異なのかな。

研究会発足のお知らせ

新地 浩一郎
No.1634

 野口先生、こんばんは。本日、鹿児島大学で日本史の研究会が発足しました。「室町期島津氏の基本的性格」ということで、私の2年先輩で現在都城市史編纂室にいらっしゃる新名一仁さんが発表され、活発な意見交換がなされました。
 五味先生、金井先生、日隈先生、永山先生、黎明館の栗林さんをはじめとして、大学院生・学部生、卒業生十数名が集まりました。顔ぶれとしては鹿児島中世史研究会のメンバーの方々が多いです。まだ会の名前は決まっていませんが、古代から近代まであらゆる時代の研究者の研究会になる予定です。
 各先生方とも久しぶりにお会いできて、大変有意義な時間でした。

Re: 研究会発足のお知らせ

No.1636

 おめでとうございます。うれしいお知らせをありがとうございます。仙台の柳原先生もお誘いして、飛んでいきたい気分です。
 あの1993年の中世史サマーセミナーのあった夏が思い起こされますね。たいへんな天災のあった中でのことなので、永山さんも、徳永さんも、松尾さんも、栗林さんも、寺尾さんも、林さんも・・・みんな戦友の如しです。
 五味先生にもお目にかかって、またゆっくりとお話をうかがいたいものです。じつは先週の日本史研究会中世史部会の報告もそうでしたが、最近、鎌倉時代の番役に関する研究が若い研究者の間で活況を呈し始めているのです。この分野の研究に最初に本格的に取り組まれた五味克夫先生には、お教えいただかねばならないことが沢山あるのです。
 ぜひ、研究会を継続発展させてください。いずれ、小生にも発表の機会を与えていただきたいものと思っております。また、鹿児島の皆様もぜひ、京都旅行にお出でいただきたいものです。楽しみにしています。

『源義経』(文英堂)9月刊行か!

No.1631

 本日の京都新聞書評欄に元木先生の『源満仲・頼光』が取り上げられていました。本体とともに必読!
 ちなみに、先般、この掲示板に、元木先生編『日本古代人物論集』第6巻(清文堂)が九月に刊行されるとの御報告をいただきましたが、同時期に上横手雅敬先生編『源義経』(文英堂)も刊行の予定です。上横手先生を始め、東北大の入間田宣夫先生、東北福祉大の岡田清一先生、それに当ゼミ草創期の神話的存在である前川佳代さん等の力作が並びます。出版の暁には合評会でも企画したいものです。
 小生もすでに義経の郎等などに関する拙文を提出済みですが、本日ようやくコラム二点(「牛若の平泉下向」「義経の平泉下向」)を書き終え、これで、この本に関しては原稿の負債なしということになりました。
 しかし、次は○○、その次は△△、さらに××と・・・原稿の負債はとめどなく続くのであります。

ごちそうさまでした。

No.1623

 本日の『吾妻鏡』講読会には、帰省先・旅行先から戻られた方たちの参加が多く、お土産が沢山でした。長村君からは門司港レトロのお菓子、山内さんからは山口のういろう、山岡さんからは博多で買ったお菓子でした。いずれも<ごちそうさまでした>。
 とくに山口のういろうは絶品。「持っていきなさい」と言って下さった山内さんの御祖母様に感謝いたします。
 「そればかりではない。」(入間田宣夫先生風に)田中さんが、長村君のお誕生日祝いに焼いてきてくださったバナナケーキも、一段と美味さに磨きをかけておりました。これも、<ごちそうさまでした>。
 なお、ついでのようで恐縮ですが、先日の「軍記と語り物研究会」における田中裕紀さんの発表に、ご助言や励ましを下さった先生方に、あつく御礼を申しあげます。また、今後とも当ゼミメンバーへの御教導をよろしく御願い申しあげます。
 
 ところで、山本君、次回の『吾妻鏡』講読会の案内をよろしく。

Re: ごちそうさまでした。

長村祥知
No.1626

みなさまごちそうさまでした。
田中さんのお手製ケーキはいつものごとく絶品でした。
ありがとうございます。

ついでに『紫苑』の件。
まず、正誤表のはさみこみ終わりました。
というわけで学外への配布が可能となり、野口先生とお話をしていて、学生で話し合いたい事がでてきました。

以下は私案です。
去年は執筆者分配とは別に、野口先生に関係の先生方に送って頂いていましたが、学生が作った雑誌ということもあり、今年は先生のお手を煩わせるのではなく学生がしようと思います。
そこで、執筆者の方はひとまず次回4月8日の集まりの時に、お渡ししたい先生・友人のお名前をリストアップしてきて下さい。執筆者が自由にできる分と別になるかどうか等はそれを見て決めたいと思います。
編集の労をとってくださった(しかも棟梁!!の)永富さん・鈴木君や、他のゼミ員の方からも別のご意見ご計画があれば遠慮なく仰ってください。

『紫苑』第2号に関する諸連絡。

No.1627

 長村君、御配慮ありがとうございます。
 一応、執筆者分については永富さんと相談して、各10部は確保してあります。村井さん、谷垣さん、帰郷されましたら、研究室に取りに来てください(ついでに、谷垣さん、税務署でのアルバイトは如何ですか?)。
 
 東大史料編纂所の高橋先生から、『紫苑』が届き、書庫へ入れる手続きをお取りいただいた旨の御連絡をいただきましたので、御報告します。
 また、当ゼミに、史料編纂所見学のお誘いもいただきました。書庫見学などの御案内もいただけるとのことです。そのうち、機会をみて、佐倉の歴博見学などもからめて、東下の計画をたてましょう。どなたか、幹事をしませんか?
 
 なお、こちらも各メンバーが、関東などから研究者がお見えになったとき、すくなくとも京女近辺の六波羅、法住寺殿跡くらいの御案内は出来るようにしておきたいものです。
 
 ちなみに、昨日の講読会のおり、山田さんから、最新の研究成果に基づいた六波羅・法住寺殿のカラー版の大地図(山田邦和先生監修)をいただきました。
 この地図の一部は、山田さんのHP「平安京探偵団」でもご覧になれます。歴史学のみならず、国文学の先生方にも、「これを見ずして『平家物語』を語ることなかれ」と申しあげたくなるほどの画期的なものです。

Re: ごちそうさまでした。

No.1635

ひさしぶりの登場の永富です。
長村君>紫苑正誤表はさみの作業、ご苦労様でした。ありがとう。
長村君の案についてですが、「学生が作った雑誌ということもあり、今年は先生のお手を煩わせるのではなく学生がしようと思います。」とのこと。
先生のお手を煩わせないのはいい考えかとはおもいますが、創刊号の場合、「宗教文化研究所」の名前でお送りした場合と野口先生が個人的に野口先生の名前で先方へお送りした場合とでは意味あいが変わってきますし、また各先生方の自宅に配送するのか大学に送るのかでも意味合いが変わってくるかとおもいます。
また封書で送っただけでなく、その場その場でお会いした際にあいさつがわりのようにくばって下さっていた分などもあるかとおもいますので、そのへんの区別は重要かと思います。
個人的に誰に送ったのか、かぶらないため、また今後のためにの「リストアップ」の作業は必要ですが、一気に宛名書きをしたり・・・というおおがかりなことははたして必要なのでしょうか???とちょっと疑問におもいました。
もちろんあらかじめ「宗教文化研究所」の名前で送ることがはっきりしている分については先生と相談してお手伝いすべきだとおもっております。
そのあたり野口先生のご意見をお伺いしたいところですね。

とりあえず執筆者分は各10部づつ用意してありますが、もしそれで足りない方がおられれば個人交渉でもっとたくさんの部数をお分けすることも可能です。
個人が配りたいとおもうところへは個人的に配送してはいかがかとおもいます。
どこへ送ったかのリストはまとめて提出してもらうということで・・・
あとで全部そろったら「筆まめ」のソフトでそれをもとに住所録をつくっておくと次号からの宛名書きがぐんと楽にできますし、資料にもなるかとおもいます。

あ、送る場合もちろん必要であれば「宗教文化研究所」の封筒は必要枚数お渡しするということで・・・
どうでしょう?


野口先生>四月八日、先生は授業が入っていたなんて☆盲点でした。私の計画ミスですね。すみません。
申し訳ありませんが先にはじめてすすめておきます。


まあ、適当に。

No.1637

 永富さんのいわれるように、あまり形式張るとかえって面倒なので、まあ、京大の先生には長村君、神戸大の先生には山本君か平田さんが、といったあんばいでお渡しすればよいのではないかと思っています。京女の先生方には永富さん以下で。
 ゼミでお世話になった方や笠さんなど卒業生の分は、予算執行の関係上、四月になってから発送しようと思いますが、いかがですか。各自で思いつく範囲で、お送りする方のリストを用意しておいて頂ければと思います。残部をためこんでも仕方がありませんから、希望する方には積極的に差し上げましょう。なお、大学には30部提出いたしました。

 ゼミのミーティングは、野口(洋平君のことではありません・・・念のため)抜きでどんどんやってください。それが、理想なのですから。

Re: ごちそうさまでした。

長村祥知
No.1639

永富さん
どうもことば足らずで意図が上手く伝わっていなかったようなので大変申し訳無いのですが、自分が想定していたのは、基本的には、「宗教文化研究所」の名前でお送りした場合、のことです。
ただ、先生名義でお送りした中に研究所名義でお送りするべき場合もあるのではないかと思った事と、執筆者各10部という量を考えると重複を避けるべきではないかと思ったので、リストアップしてきたものを見て話し合おうと思ったわけです。

だから、一気に宛名書きをしたり・・・というおおがかりなこと、は、誰名義で、お送りする先は誰か、を決めてからの事なので現時点ではしなくてよいと思っていました。
リストアップといっても、次回の集まりでは、住所も書き出してというのではなく、お名前を挙げるだけで十分話し合いの材料になるでしょうし。

とりあえず、封筒の事は仰る通りですし、個人交渉で10部以上頂けるのでしたら、あとは関連するテーマの執筆者同士がお渡しする先をかぶらないように注意すればよいわけですね。
なにより野口先生がどうお考えかが一番大事なわけですが。

がらにもなく風邪をひいてしまいました。
春とはいえ昨日(日付が変わったから一昨日か・・)のように寒くなる場合もありますので皆様ご注意を。
そして昼に寝過ぎると夜眠れません。

Re: ごちそうさまでした。

平田樹理
No.1646

ご無沙汰しております。
永富さん同様、久々の登場です。
長村君>まだ京都を留守にしている為、頼んでしまってすみませんでした。どうもありがとうございました。メールでもお伝えしましたが、この場を借りて再び御礼を申し上げます。

季節の変わり目だから、風邪ひどくならないよう、気をつけてね。


なげかわしい地名変更

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1614

みなさん、こんばんは。
「平成の大合併」とやらで、全国的に歴史的な地名がどんどん「虐殺」されつつあります。そのきわめつけが出た!

ニュースによりますと、静岡県伊豆長岡町・韮山町・大仁町が合併して、新しい地名は「伊豆の国市」にするそうです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040324-00000291-kyodo-soci
「イズノクニシ」ですよ!
どうも、「伊豆市」という名前を中伊豆町や修善寺町が合併してできる新市にとられたから、ということのようです。
対抗馬は「伊豆北条市」だったようで、こちらも便乗のような気はするが、まだ「伊豆の国市」よりはマシか?
それにしても、南アルプス市だとか、四国中央市だとか、今回の伊豆の国市だとか、いったいこうした名称を考えだす連中の頭の中はどうなっているんだろう?

皆さん、歴史的地名がどんどん減っていきますよ。歴史をやっている者としては、おおごとですね。

地名...

No.1616

 僕も京都新聞朝刊で読みました。
 地名も大問題ですが、小・中学校の統廃合で似たような事態になっているのが気になります。
 我が一橋小学校校区のお隣も、修道・貞教小学校が東山小学校になって、粟田・有済小学校も4月から白川小学校になるみたいです。一橋小学校も各学年一クラスが常なので、「一ノ橋」の名前がいつ無くなるのか...時間の問題な気がします。
 伊豆北条市の方が、この掲示板的にはふさわしい気がしますね。どこかで越前斉藤市とか出来ないでしょうか(^O^)?
 

Re: なげかわしい地名変更

末松憲子
No.1621

名前が新しくなるのも問題ですが、大きな都市がどんどん大きくなるのも問題ですね。
私の出身地である名古屋市は、今度3つの市町村をさらに統合するようです。
昔チェリッシュが「庄内川の赤い橋を渡れば見慣れた町~♪」と唄ってましたが(古い?)庄内川が名古屋市との境だったのは大昔のこととなりました。今や京都市の左京区と同じくどんどん北へと進出しています。
ところが、面白いことに南へは伸びていかないんですね。北側は尾張の領土、南側は三河の領土。これがいまだに市民感情に関係しているようなのです。
信長・秀吉(尾張)×家康(三河)の争いはいまだ終結してないわけです。
そういえば吉良上野之介は三河の殿様です。
吉良温泉は源泉が枯渇していたことを発表し、赤字路線だった吉良吉田行きは廃線になってしまいましたが・・・・

すみません、今日のゼミは所用で出席できません。
四月のミーティングには出席します。

「東」京都と西「東京」市。

No.1622

 地名の問題、全く同感です。年号はどこかでエライ人が勝手に決めるのに、地名は人気投票みたいな事で決めてしまう。日本人の歴史認識というより、歴史知識がモロに反映されることになります。なんてったって、律令制成立以来の「大蔵省」をあっといまに、何のこだわりもなく「財務省」にしてしまう御時世ですから(これについては、歴史学者からの発言も耳にしませんでした)。
 その辺りを象徴するのが、「西東京市」でしょう。東の京だから東京だったはずなのに、いつの間にやら「東京」の方がブランドになったらしい。元の発想からすれば、西の東京とは「京」にほかならず。
 一方、「京」も相変わらずブランドとしての命脈を保っているらしく、畿内でもない丹後に京をひっつけて「京丹後市」などというのも出来るようです。なんだか理解に苦しみますね。
 いずれ京丹後市の高校生に日本史のテストで、畿内の国名を問う出題をすると、みんな丹後を入れてしまうことになるでしょう。
 「伊豆の国市」というのは、国-郡-郷(里)という、律令制下の行政単位を知らない人が多いゆえの命名でしょう。ここでも、伊豆国のエリアは伊豆の国の市域のみだと思いこむ人が増えること必定です。「伊豆北条」が絶対によかったのです。
 こんど執筆予定の『北条時政』に「伊豆国田方郡北条(現在の伊豆の国市)」なんて書かなければならなくなるのかと思うと、意欲をそがれます。
 たしか、長岡京市と伊豆長岡町は姉妹都市のような関係にあったと思うのですが、こういうのはどうなってしまうのでしょうかねぇ?
 命名と言えば、「首都大学東京」というのも感覚的に変ですね。

Re: なげかわしい地名変更

新地 浩一郎
No.1624

 こんばんは。町役場職員の新地です。私の働いている川辺町も来年1月に周辺の一市四町で合併することになりました。中世の薩摩国河辺郡に由来する川辺町の名も、鑑真が上陸し、近世には密貿易の拠点だった坊津町の名も消えることになります。地名が持っている歴史的な意味を考慮せずに新しい自治体名をつける傾向が強いようですね。
 現在新しい市の名前を選考中のようですが、候補としては「南薩」「南さつま」「南薩摩」とか地理的なものが多いです。しかし、当然と言うか鹿児島らしく「島津市」という候補もありました。ちなみに隣の日置郡の新市名候補でも「島津市」がありました。鹿児島における島津に対する思い入れは恐ろしいものがあります。
 先日、姶良郡の栗野町と吉松町が合併してできる新町は、「湧水(ゆうすい)町」という名称に決まったようです。新しい自治体名が決まるたびにため息が出てきます。

Re: なげかわしい地名変更

No.1625

こんにちわ。山田先生の仰せの通り、歴史的地名の抹殺には目を覆うものがあります。
但馬では豊岡市が城崎・出石町を吸収し、歴史ある両町名が消えてしまいます。両町名は全国で知られているが豊岡など兵庫県でもろくに知られていないのに、とは城崎の知人の怒りの弁です。それでもまだ伊豆の国市よりはましですかね。
ひらがなにするのもおかしなもので、「さいたま市」は埼玉の読みをそのまま市名にしたものですが、ほんらいは「さきたま」という読みがなまったもの、かくして「さきたま」の痕跡は抹殺されてしまいました。ひらがなの市名は、福島県の「いわき」市が最初で、あれも強引な広域合併の産物でしたね。勿来などの歴史的地名が埋もれてしまいました。
地名の決定には政治的利害などが絡むだけに、昔から歴史を無視した奇妙な命名が目に付くようです。東京の大田区、田園調布のあるところですが、これは大森・蒲田区を合併した結果安直に大と田をくっつけたもの。戦前のことだそうですが、かなり反発があったそうです。九州の福岡。あれは黒田氏の出身地備前福岡の地名を強引に持ち込んだもの。おかげで歴史的にははるかに重要な博多が埋もれてしまいました(明治の市制施行のときに最終的に福岡に決定)。
そういえば、丹波国と丹後国を分離した結果、丹波命名の原点になった丹波郡は丹後に入ってしまいました。いきさつは知りませんが、今の丹波国は歴史的経緯を無視した命名を受けたことになります。それも、千数百年経つと、「歴史的地名」になっているわけですが。
今日の安直な地名変更も、何年か先には歴史的事実として研究対象になるのかもしれません。
それにしても、自分の住所がひらがなやカタカナのある地名に変更されたらと思うと虫唾が走りますね。今度はローマ字の地名が出来たりして・・・。

Re: なげかわしい地名変更

No.1628

 新地さん。ほんとうに鹿児島の人は島津さんが好きですね。藩政期にはヒドイ年貢率だったのに。しかし、小生の故郷の千葉市でも、早くも15世紀の半ばには千葉を去っているのに、「千葉氏」の「顕彰」(質実剛健だったとか、頼朝「公」に忠節を尽くしたとか・・・)がさかんです。市立の郷土博物館の歴史展示は殆どこればかりで、「千葉市」の歴史は「千葉氏」の歴史になっています。しかも、「千葉氏」を「チバシ」と読むと「千葉市」と混乱するというので、無理矢理「チバウジ」などと読ませています。
 地名でも、千葉市の中心部には、むかし「吾妻町」とか「通町」とかいうゆかしい地名があったのですが、それが「中央○丁目」という表記に変わり、さらには千葉市が政令指定都市になるに及んで中央区中央○丁目みたいな味も素っ気もない地名になってしまったという次第です。
 千葉県というのは、戦後の高度経済成長の弊害をあらゆる面で率先して受けたところで、ほかの地域はその結果から学ぶべきところがじつに多いのです。鹿児島の開発、京都の教育など「千葉化」を懸念しております。千葉の「結果」に学んで欲しかった。
 もっとも、千葉も行き過ぎに気のついたところもあるらしく、埋め立てた海岸に巨額の税金を投じて、人工の砂浜を造ったりしていました。
 話を戻して、「島津市」を名乗る資格のあるのは、本来の島津の地である都城市(日向国に属します)でしょうね。しかし、せめて中世に島津庄(日向・薩摩・大隅にまたがる)に属したところでないと、まずいことになるだろうと思います。
 ところで、昨日と一昨日、NHKのBS2で井上ひさし脚本の「国語元年」を放送していました。これが傑作だったことを記憶していましたので、観てみたら、やはり抜群のおもしろさでした。どなたか、録画された方はおられませんか?薩摩言葉を聴いて、また、鹿児島がなつかしくなってしまいました。
 
 元木先生。権力者が勝手な地名改変をした例としては、織田信長の「岐阜」もございますね。
 小生は今の住所がまさにそれなのですが、「○○台」というのが安直でイヤなのです。ひらがな、カタカナはもちろんお断り。
 車のナンバーは「京都」にこだわりました。

国語元年

新地 浩一郎
No.1630

 そのドラマは小さい頃に見た記憶があります。確か、川谷拓三さんが主役ではなかったでしょうか。私は都城出身で、単語自体は薩摩言葉に近いのですが、イントネーションは一本調子の宮崎型でしたので、当時あのドラマの薩摩言葉はとても不思議に感じたものでした。川辺に来て6年、今ではすっかり薩摩言葉が身についてしまいました。それでも年配の方々と話すときは聞き取りにくいときがありますし、枕崎市や坊津町の方々の言葉はさっぱり分かりませんが…。
 あと、合併後は地名表記が「川辺町平山」から「○○市川辺町平山」というふうになるそうです。千竈文書に出てくる鎌倉時代の地名(平山・清水等)は残るので、こちらだけでも消されないようにしたいと思います。

Re: なげかわしい地名変更

No.1632

私の生誕地は、
「東京都港区麻布飯倉片町32番地」という町名でした。
いうまでもなく、
『吾妻鏡』寿永3年5月3日条所収
「伊勢神宮御厨寄進状」に「武蔵国飯倉」とある、
あの場所なのです。
ところが、私が京都に移った後、
「港区麻布台なんとか丁目」
とかいうどうしようもない町名に変更されてしまいました。
まったく、ふざけんじゃねえよ。
「台」をつけると、高級そう、というのは、
いかにも、教養のない方の考えそうなことで。

ちなみに、33番地ですから、隣に
戦前18年間、島崎藤村が住んでいて、
「飯倉だより」なんていう作品があります。

訂正

No.1633

訂正します。

『吾妻鏡』元暦元年5月3日条所収
の「寿永3年5月3日付源頼朝寄進状」です。

Re: なげかわしい地名変更

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1640

みなさん、こんにちは。やっぱり、地名にはみんな愛着を持っているんですね。たちまちのうちにツリーがのびます。

元木先生ご指摘のとおり、古代にも地名変更はいっぱいおこなわれました。律令体制下では「一文字の国名」が二文字に改められるというのが原則で、それで「紀国」は「紀伊国」になりました。
そもそも、「平安京」だって794年の新地名ですし、平安遷都にあたって「山背国」は「山城国」に改名されていますもんね。

だから、なにがなんでも歴史的地名を残そう、ということではないわけですね。
要するに、「地名は生き物」だというところの認識に尽きると思います。生き物ですから、成長にしたがって変わっていくこともありえる。また、役目を終えて静かに消え去っていく地名もあるのが当然です。

しかし、その変化は誰がみても自然なものでないといけない。そういう点からいうと、昭和40~50年代の「地名整理」と、今回の「平成の大合併」にともなう地名変更は、どうみても「生き物である地名の大虐殺」だと思います。

その点、滋賀県高島郡のマキノ町・今津町・朽木村・安曇川町・高島町・新旭町の合併問題で、合併協議会がいったん決めた「西近江市」という名称が住民運動によってくつがえり、もとの郡名を残した「高島市」になったのはエライ!

「地名変更をできるだけしない町=京都」の住民の山田でした。

嵐電はエライ!

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1641

エライついでにもうひとつ。
京福電車嵐山線(嵐電)の駅名は、地名の博物館みたいで凄い! 壬生、西院、蚕の社、太秦、帷子辻、有栖川、車折、と、知っていなくては読めない(?)駅名ばかり。
特に「西院」は特筆もの。阪急の西院駅は「さいいん駅」だが、嵐電はガンコに「さい駅」。いつも前を通るたびに感服しています。
「西院」の地名は淳和上皇の淳和院に由来する由緒を持っています。それは遅くとも戦国期には「西院=さい」と発音するようになっています。それは、上杉家本洛中洛外図屏風の「さいのしろ(西院城)」の表記で確認できます。
とにかく、嵐電はエライ!

無事帰還いたしました

No.1607

 本日、京都に帰還いたしました。プレ発表からお付き合いいただき、ありがとうございました。
 発表は・・・自分の言いたい事も上手く言えなかったのですが、参加者の皆様に汲み取っていただいて、無事に終われたという感じです。もちろん、鈴木君、野口先生のみならず源先生からも送っていただいた「波動」のおかげもあるでしょう(笑)いざ発表してみると、論理が飛んでいたり、矛盾したり、記憶も飛んだり・・・本当に、自分の不勉強を痛感しました。佐伯先生や、鈴木登美恵先生をはじめ、たくさんの先生からたくさんのアドバイスを頂いたので、考え直すところ、このまま追究するべきところを、しっかりと勉強していきたいです。
 アドバイスも頂いたのですが、鈴木彰さんとお話が出来たのが、実は今回一番の感動でした。学部生のときに鈴木さんが書かれた論文に出会い、2001年の京女大の公開講座「東山から発信する京都の歴史と文化②」で一方的にお目にかかったことがあったのですが・・・と言ったところ、「あの時いたよね?」と覚えていただいてた事がすごく嬉しかったです。
・・・書いていて、とてもミーハ-な感じがしてきました・・・
 この2年間で、お話をしてみたいと思った先生方とは、出来るだけお話をしてきたつもりです。(野口先生に後押ししていただいた事もとても多かったです)図らずも知り合う事が出来た先生や、院生の方もいますが、いつもそうしてお話をする事が前に進むエンジンになっています。(エンジンはさておき、ハンドルが問題なのですが・・・(--;)今回は、大コケでしたが、これがこの先進んでいくためのエンジンに必要なのだと思っています。(かなり都合のいい解釈かもしれません)
 このサイトをご覧になっていらっしゃる方々は本当に多いようです。研究会に参加していただいた方々に、もう一度お礼申し上げます。ありがとうございました。

《付記》
 なお、高田馬場の古本屋は、日曜日で全部閉まっていました。残念な話です。空いていたところで当日は緊張のあまり、楽しむ余裕もなかったと思うのですが・・・。
>長村君へ
 24日覚えていますとも。壇ノ浦合戦の日で、長村君の誕生日ですよね?私に余裕があればですが、次回の研究会をお楽しみに☆

おかえり

長村よしとも
No.1609

田中さん、無事のお帰りなによりです。古本好きとしては高田馬場のことも伺いたかったのですが、閉まっていたとは残念ですね。
次回。はい、楽しみにしています!!

そうです、壇ノ浦合戦の日で、私の誕生日です。そして私の名前は頼朝・義経の父である義朝と同訓なんです。
(両親からはそんなねらいは無かったと聞いております)
お祝いしてくださいました皆様、ありがとうございました。催促したようで恐縮です。例年学校が春休みと言う事もあり、祝っていただける事が少なかったので、旅行に行った余韻の残る内にと思いまして。それと、二月に先生や平田さんの誕生日で盛り上がっていた時に、話題に乗りそびれたからでもあります。
これからもよろしくお願いします。

山本さん。
次の『吾妻鏡』は金曜と伺っているのですが、時間は何時からですか?

Re: 無事帰還いたしました

No.1610

 いやいや、決して「大コケ」ではなかったと思いますよ。今後の展開が楽しみになるご発表だったと思います(当日、そういう風に言わなかったかも知れませんが)。あの考察をどういう方向に伸ばすのか、今後に期待しています。

金曜のこと

長村よしとも(←24日バージョンの名前)
No.1612

すいません
トップページに書いてくださったました。
13時~ですね。

田中さん、お疲れ様でした&お知らせ。

No.1613

 田中さん、発表お疲れ様でした。また卒業おめでとうございます。『軍記と語り物』の発表は、東京に行く軍資金不足で行けませんでした。高田馬場の古本屋はかなり穴場です。神田の古本屋より、掘り出し物があるだけでなく値段もかなり安いです。自分も定休日(多分日曜日)に行った事があり、泣いて帰った思い出があります(五回生時)。諦めずに足繁く通いつめましょう!
      ☆お知らせ☆ 
 今週の『吾妻鏡』講読会は、3月26日(金)、時間は1時から4時までです。講読範囲は、文治元年十一月廿九日条で、担当は立花さんです。
 
 
 

おかえりなさい

No.1615

 また、お会いしたときに発表での出来事(アクシデント?)などいろいろお聞きしたいと思います。楽しみにしています。
 昨日は、四条河原町界隈をぶらぶらしてたのですが、古本屋の前で、「ロボットの部品をジャンク屋で探してるのと同じ感覚なんかな?」としみじみ考えてしまいました。
 ちなみに、僕の東京遠征中は、ずっと行きたかった、お台場にある日本科学未来館まで行ったのですが、休館日...だったので、向かい側の船の科学館で「宗谷」に乗ってきました。

○波動砲について...
 わかる人にはという分類に入ってしまいました(^_^;
 敵は1発で爆発、逆に攻撃されても少々の直撃弾ではやられない、しかも大破しても次回の話には元通り復旧している、そんな宇宙戦艦ヤマトのようになりたいです☆田中さんはすでにヤマト級でしょうか?(笑)
 大事なスレッドに茶々を入れてすいません(-.-)
 

戦艦ヤマトよりバイキンマン

田中裕紀
No.1617

>佐伯先生
 そう言っていただけて、少し安心しました。これからも宜しくお願いいたします。
>山本さん
 高田馬場の古本屋は、以前に一度行きました。『訓読四部合戦状本平家物語』は五十嵐書店さんで結構お手ごろ価格で購入したものです。なので、高田馬場の価値は把握していますよ☆
>鈴木くん
 「波動砲」は最初から鈴木くん、もしくは山本さんが対象でした(笑)でも、CMが明けるとボロボロのUFOが直っているバイキンマンの方が、エンジニアとしては有能です。だいたい、のってるのがUFOだし。・・・話がそれました。「ヤマト級」とは、鈴木くんは私の事を誤解しているのではないでしょうか?そこまでタフではありませんよ。《前向き》なだけです(笑)

パワーの全米チャンピオン?

美川圭
No.1606

さっき、フジ系のワイドショーを見ていたら、
パワーリフテイングの全米チャンピオンのおばあちゃん、
という話題をやってましたよ。近藤先生。
フラン・ヒューストンという人ですが、知ってますか。
足を折って、リハビリをやっていたら、
チャンピオンになったという話でした。
たしかに、しっかりとしたおばあちゃんでしたが、
歳は、54歳でした。いちおう「若いおばあちゃん」とは、
なっていましたが・・・・。

無題

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1601

皆さん、こんばんは。

昨日今日で、平行して続けていましたふたつの仕事がやっと一段落しました。あ~ぁ、くたびれた。

ひとつは、今週の土曜日曜(←先週じゃないです、野口先生)に奈良大学である中世都市シンポジウムで報告する「中世都市京都の展開」の準備。
もうひとつは、六月頃に新人物往来社からでる予定の『文久修陵図』の解説原稿です。
 
 前者の日程は>>No.1281を御覧ください。画期的な中世京都論を発表する予定(!??)ですので、御興味ある方はぜひご来場ください。申し込みは今からでも充分に間に合いますし、当日にいきなり来られても大丈夫です(多分そうだと思う―いいかげんですが・・)。

 後者は、幕末におこなわれた天皇陵修築事業の全貌を記録した絵図を、始めて全面的に公開するものです。現在われわれが見ている天皇陵とは、実はこの時に造り上げられたものです。御陵によってはぜんぜん形が変っているものもあって、このあたりに興味を持っておられる方にとってはまさに絶句ものです。
 みなさん、自分の専門としている時代の天皇陵に行ったことはありますか? この掲示板を見ている多くの方には、白河、鳥羽、近衛、後白河、高倉、後鳥羽、後嵯峨、亀山、後宇多の各天皇陵や、深草北陵などは必見だと思います。

 野口先生に叱られたので、イメージと文字色を変えた山田でした。

Re: 無題

美川圭
No.1605

山田先生、こんにちは。

崇徳院陵墓と頓証寺との関係、お教えいただき、ありがとうございました。おかげで、たいへん楽しかったです。

奈良大でのシンポ、行きますよ。
明日から、寝屋川市史の調査で、東京出張で、
土曜日は行けそうもありませんが、日曜は行きます。
ご報告、楽しみにしています。

Re: 無題

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1608

美川先生、こんばんは。
シンポジウムにおこしいただけるとは、光栄なような、緊張するような。
でもありがとうございます。

奈良のシンポお礼

No.1638

山田先生、お疲れ様でした。

シンポジウムでのご報告、興味深く拝聴いたしました。
嵯峨と鎌倉が、都市として似ているというご指摘、
たいへん刺激的でした。
私も、嵯峨が気になっていたので、あっ、そうなのか、
と驚きました。
また、ご報告で、嵯峨の全貌があきらかになり、
他の報告そっちのけで、
いろいろと思いめぐらしてしまいました。

たしかに似ているが、なんで似ているんだ。
鎌倉は、あの山に囲まれた地形に規制されているのに、
嵯峨はどうだったかな、といったところが、気になっています。

また、前日に本題の奈良の報告を聴けなかったのは
残念なところで、
けっきょく、最後まで討論を聴かずに帰ってしまいました。

本になるそうで、そうなったら、
またじっくり検討したいと思います。

考古学のかた中心のシンポだったので、
ちょっと、こちらが学問的手法に慣れていないので、
議論の内容がわかりにくかったり、しました。
やはり、ときどき用語がわからないんです。

山田先生のご報告とご発言は、
文献にも精通しておられるので、
まったくそんなことはなかったのですが・・・。

御礼

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1642

美川先生、こんにちは。
シンポジウム、お来しいただけていたとのこと、まことにありがとうございます。会場で先生の御姿を探したのですが、あいにく見逃してしまいました。どうもすみません。

おマヌケなことに、報告をひかえておりながら前日の懇親会で飲み過ぎたもので、喉がガラガラ(もともと喉が弱いのに、ホントに阿呆です)になってしまい、さぞお聞き苦しかったと思います。

でも、今回の報告で明らかにしたかったのは、従来ほとんどあつかわれてこなかった、「中世都市嵯峨」の持つ意義です。
中世都市嵯峨と鎌倉は、都市構造・都市規模ともにほぼ同形同大とみなして良い。13世紀の東西の王権は、軌を一にして同形同大の都市づくりに邁進していたのです。
これは驚くべき事実であると思っております。
(自信を持って自説を展開したのですが、ほかの出席者からあんまり反応がなかったので、ちょっとがっくり・・・)

中世都市嵯峨

No.1643

山田先生、こんばんわ。
「中世都市嵯峨」ほんとうに注目されてきませんでした。
私は、数年前の日本史研究会のシンポでちょっと触れたのですが、やはりほとんど反応がありませんでした。
今回、山田先生のご報告で、本格的に明らかにされたので、感銘をうけました。しかし、討論では、議論にならなかったし、私も、前日の奈良の報告を聞いていないので、あえて発言するのもはばかられるし、しかも司会者が、奈良に話を限定すると最初に釘をさしていたので、遠慮しました。
しかし、前日を聞いていないとはいえ、今回のシンポの目玉はやはり、中世都市嵯峨の問題が、はじめて前面に出されたことではないかと、個人的に思っています。
なんで、鎌倉と似ているのか、都市史研究の大問題です。
そのわりには、反応がにぶいですね。
私は、昨日はほとんど、そのことを考え続けました。
都市史研究は、最近東と西とが没交渉で、いまひとつなんですが、山田報告でその接点が生まれたような気がします。
ありがとうございました。

ちょっとトロい子、岸俊男先生のまねをする

No.1600

なめかわさん。ひさしぶりですね。

R大での史料購読が、
少しは役にたったと聞いてほっとしています。

先日、ある先生の退職パーテイで会った後輩に、R大の助手のあいだで、私の史料購読のことが語りぐさになっていると聞きました。なんと40分黙っていたことがある、というのですが、それは誇張です。黙っていたにしても、たぶん10分ぐらいでしょう。私は無口なので、べつに黙っているのは苦になりません。ただ40分となると授業放棄に近いですしねえ。

でも、何も準備してこずに、間違えりゃ先生が教えてくれる、という安易な態度の学生には、きつかったでしょうね。難しい解釈のときはわりとすぐ教えていたと思いますが、ちょっと調べて、あるいは考えればわかるところを、なんにもしていないときには、こちらも少々むきになって、ねばった覚えがあります。

あの、簡単に教えてやるもんか、という方式は、
昔、いまは亡き岸俊男先生がやられていたと聞いたことがあります。私が習った頃は、もう晩年なので、そんなやりかたはしたなかったと思いますが、昔の岸先生はこわかった、という先輩たちの話のなかに、あの方式があったので、R大での授業で使ってみたのです。

いま、あつかっている原稿では、あつかましくも、ちょうど奈良時代のこと、書いています。古代の太上天皇のことですね。それで、岸先生の論文を参照しているのですが、掛け値なしにその凄さを実感しています。専門の時期がちがうので、先生の論文は、さらっとしか読んだことがなかったのですが、今回は熟読。ぜんぶそのまま引用するほうがいいのではないか、と、まるでできの悪い大学生の気分になっています。ほとんど、自分で加えることなどないのです。いくら専門の時代が違うからと行って、これはあんまりだな。

ちなみに
「元明太上天皇の崩御」と「光明皇后の史的意義」という論文です。

そういう先生の授業のやりかたをまねした浅薄な自分に、いまおおいに恥じているところです。でもかなわないものは、どうしようもないし。


蒙古襲来!!

なめかわあつこ。
No.1599

滑川です。美川先生、ご無沙汰致しております。先生の書き込みにレスしたかったのですが、下に行き過ぎましたので新規で
書き込ませて頂きました。
某R大の講師室の便覧話は初耳です。見ておけば良かった…。
先生の史料講読を受講したのは、学部2回生の時ですね。私の
友達の中では先生の授業は好評でしたよ。実は先生をお招きして宴を催そうなんていう企画も出ていたぐらいなんですから(これ本当の話)。今も付き合いが続いている友達に美川先生がいらっしゃっている研究会に参加しているという話をしたら「い~な~」と羨ましがられるくらいです。
思えば、私が史料を読むという事に興味を持ち始めたのは、その頃からだと思います。先生の授業は予習が必須でしたので、友達と遅くまで図書館で取り組んでいました(帰りはその友人達と白梅町の天下一品でラーメンを食べたのも思い出です)。
先生は史料の読み方に厳しかったので、日々「蒙古襲来」でした(笑)。「大風に遭遇した蒙古兵」の気分でした(笑)。ちょうど読んでいた史料も蒙古襲来関係でしたし。先生、すみません。その時のノートは今でもとっています。史料をコピーして貼り付けてその下に解釈を書き、自分で勉強したことをまとめただけのものですが。思い出に残る講義の一つです。
これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。

野口先生&ゼミの皆様へ
最近またコンタクトにしました。赤メガネも併用していますが。このところ研究会に顔を出せずすみません。出没した際
は宜しくお願い申し上げます。