皆さん、お疲れ様

No.1570

すでに、美川・佐伯の両先生からのご報告にもあるように、屋島・壇ノ浦ツアーは天候にも恵まれ、大成功理に終わりました。元木・美川・佐伯の各先生、下関で運転をしていただいた石浜さんはじめ、参加の皆様、お疲れ様でした。私をはじめ、各自今回の成果を研究に活かせればと思っております。
 
また、この掲示板をみることはまずないと思いますが、ご多忙のなか屋島で運転と案内をしていただいた、私の畏友石川和子さんには、この場を借りて深く感謝申し上げます。

さらに、ツアー前には、色々とご教示いただいた野口先生にも感謝申し上げます。私事ですが、じつは3月9日に一家で転居し、その混乱の中で、レスを入れることができませんでした。その点、お詫びも申し上げます。

ただ、平家物語歴史館は、高松から屋島へ向かう途中にあり、また我々が宿泊したホテルの近所でもあり、その前を車で通り、場所も確認したのですが、時間の余裕が無く、佐伯先生のレスにもあるように、見学することはできませんでした。

また、何か企画したいと思います。今後とも、よろしくお願い致します。 

総大将の凱旋。

No.1572

 総大将の近藤先生は相模の新邸に、元木先生も摂津の本邸に無事御帰還との御報告をいただき、これにて在京守護のつとめを終了と相成りました。ご出征中、別事はありませんでしたが、懸案の『紫苑』がようやく納品されました。後刻、直接お渡しあるいは御送付申しあげたいと存じます。
 好天にも恵まれ、また何よりも、『平家物語』ツアー史上、信じがたいほどのベストメンバーでの御旅行でしたから、さぞかしの戦果があったことと推量いたします。石浜さんも来年の大河ドラマ対策は万全でしょう。今度は六波羅あたりを念入りに御案内いたしましょう。
 さて、それにしても論功行賞の結果や如何?留守居役への恩賞は如何?
 平家物語歴史館については、小生の偏向した性格に基づく「趣味」によるご推薦でありますので、お気になさいませんように御願い申しあげます。でも思うに、遠路高松を訪れた観光客などは、明るい間はフルに屋島などの野外の見学に時間を使いたいに決まっているのですから、こういう施設は夜間開館を考えたらよいのですが。

 >近藤先生。小生など耄碌して「起床時無呼吸症候群」になりそうです。冗談はともかく、お引っ越し大変だったと思います。小生、就職して以来、千葉→京都→鹿児島(この間、台風被災で一度転居)→千葉→京都と引っ越しのベテランですが、そのたびに書籍・研究資料の消失と散逸がどのようにして発生するのかを体験しております。そして、自ら所有しているはずの資料の所在がわからなくなり、自分の書いたものもわからなくなり、・・・研究に重大な遅滞をもたらす羽目に陥っております。もとより、日本各地の地域による社会風土の相違についての認識などなど、転居によって得るところも多大なのですが、このマイナス面は深刻なものがございます。京都に落ち着いて五年目になりますが、かかる後遺症のために、未だに、蔵書・資料についての整理はついておりません。
 図書館なみの書庫を御自宅に設置しておられる山田先生などのようなお大尽研究者がうらやましい今日この頃であります。
 
 >長村君。元木先生のご指示によるところの、詳細なる「合戦日記」の御注進を楽しみに致しております。今回の遠征軍における貴兄の役回りは中原信康だったようですね。

お礼

長村祥知
No.1573

みなさまおはようございます。
私も昨日無事に帰宅しまして、そのまま寝て今日起きたら○時(恥ずかしくて言えません)でした。駄目人間っぷりを発揮してしまいお恥ずかしいかぎりです・・・

さて、今回の旅行では近藤先生に宿・切符の手配をして頂き、元木先生・佐伯先生には個人的にお話を伺うことができ、多くの事を教えていただきました。
美川先生には伊勢の時にいろいろなお話をうかがうことが出来たのですが、今回の旅行ではあまりお話が出来ず残念でした。また今度宜しくお願いします。
石川さん(近藤先生のご友人の女性)・石浜さんが車の運転をしてくださったお陰で、一人では観る事の出来ない数々の史跡をたずねる事が出来ました。
若手研究者として身近なお手本である横沢さん・吉田さんとお話できたこともうれしかったです。
私一人が飛びぬけて若輩であるなか、先生・先輩方のお陰で、多くを学ばせていただき、楽しい旅となりました。ありがとうございます。

こちらはまじめなお礼として一旦掲示するので、遊び的要素の入った遠征軍の合戦日記はこの下に書き込ませていただきますね。

『合戦日記』「屋島」

長村祥知
No.1574

とはいえ、全体の行程は、>>No.569の元木先生の報告が要を得ていますので、私にとって印象的だったシーンに重点を置いてご報告申し上げます。先生方に失礼な表現があろうかも知れませんが、一笑に付していただきたく思います。

16日。
私は京都駅8時23分発の鈍行列車で高松着12時30分。その日のお昼は駅構内の立ち食いうどん屋で月見を食べました。いきなりうどんです。
改札を出ると、半そで姿の近藤先生にお会いしました。(以前11月にお会いした時も半そでだったような・・)
佐伯先生から「屋島」・「八島」の御論文を頂戴して感動。(謡曲にも言及されていて、部活で狂言をしている身として、夜にホテルで興味深く拝読させて頂きました)
駅を出て、石川さんにお会いしました。やさしそうな女性で、ジムを経営されているそうです。
その後、石川さんに車を運転して頂き屋島見学。
大雑把に言うと、長崎の鼻→古戦場一帯→屋島寺→六万寺→志度寺と回りました。
古戦場のうち、「菊王丸の墓」での一光景をご紹介しましょう。
その墓域は小学校の隣にひっそりと佇んでおり、我々が訪れた際には小学生の下校姿がちらほら見られました。そこへ8人乗りのワンボックスカーが横付けし、前のドアから体格の良い半そでの男が、後ろのドアからも体格の良い男(某国立大学教授)がぬっと現れたわけです。ちなみに、八人乗りの車に九人乗るため、後部座席(三人仕様)に旅行参加者の中で若い四人(学生・院生×2・カリスマ編集者)が詰め込まれているのです。小学生、びびってましたね。はたから見ても、小学生を拉致しかねない不審者集団だったでしょうし(笑)
通報される事は無く、佐藤継信墓等付近の史跡を回って、屋島寺に行きました。宝物館で近藤先生の解説を伺い、その後、寺のある山の裏側(談古嶺)から古戦場一帯が一望できました。
志度寺には、藤原房前にまつわる宝珠の伝承が縁起として伝わっていました。謡曲「海女」というのがあり、志度寺の縁起と大枠は似ていながら、謡曲のほうは藤原氏がひどいのですが、寺の解説板では謡曲の事には一切触れられていませんでした。
そして時間が無くて、残念ながら、野口先生やゼミの先輩方からお勧めしていただいた平家物語歴史館には行けませんでした。(もしかして、「破門」・「野口ゼミで村八分」ですか??)
夕食は素人っぽい名前の店に行きました。
待たされること40分ほど。美味しいお刺身が来ました。でも天麩羅が来るのに、さらに一時間近く待たされ、あまつさえ煮付けに至っては、その時点でまだ作り始めてもいなかったのです。
味はほんとに美味しかったのですが、あれはちょっと・・・総大将や副将軍から「私的制裁」が加えられても仕方有りませんよね(誰も何もしていませんよ。念のため)
ちなみに、四人がけテーブル二つで座ったのですが、私のついたテーブルには近藤先生と横沢・吉田両先輩。近藤先生の「遠慮すんな」という言葉もあり、あれだけ待った料理が10分足らずで無くなりました(笑)。支払いの際には先生方のご好意に甘えさせていただきました。有難うございます。
次に行った店では、常識的な時間差で料理が来ました。
ホテルの朝食はバイキングでした。なんと、うどんがあったのです。さすが讃岐。おいしかったですよ。

『合戦日記』「壇ノ浦」

長村祥知
No.1575

17日。
下関に移動して、石浜さんに運転していただき、住吉神社→覚苑寺→功山寺→赤間神宮→火の山→関門海峡大橋を渡って門司の和布刈公園の順で見学しました。
屋島も含めて、今回の旅行では高い所から古戦場の景観を眺める事が出来ました。それも一つの所からではなく、色々な角度から見ることが出来たので、占地の重要性や、どこから何が見えるのかといったことが実感できました。
というのは、海岸がいりくんでいることもあり、山から見るとはいっても、場所によっては別の山が視界をさえぎる事があるのです。高さ・地理ともに火の山が最も壇ノ浦を見渡せる場所であるということが良く分かりました。
夜に横沢さんと美川先生がお帰りになり、夕食は残る六人でふぐを食べました。お刺身・から揚げ・鍋・雑炊。近藤先生はさらに丼まで。勝てません。
カクテル一瓶を吉田さんと半分こにして飲みましたが、それすら最後まで飲みきることが出来ませんでした・・・
こちらでも先生方のご好意に甘えさせて頂きました。ご馳走様でした。
その後ホテルに戻り、佐伯先生のお部屋に押しかけてお話を伺わせて頂きました。以前から先生にお会いしたいと思っていたので、お話ができて感動です。佐伯先生、お疲れのところ多くのご教示を賜り有難うございました。

『合戦日記』「壇ノ浦」続

長村祥知
No.1576

18日。
朝食のバイキングでは明太子がありました。ホテルの朝ごはんには名物を出すようですね。この日は、海峡夢タワー→唐戸から海峡連絡船で門司→海上クルーズ(ボイジャー号)→門司港レトロ展望室
、解散でした。
やはり海に出ると、広さや地形が実感できます。出発前の天気予報では雨50%で、雨が降ったら僕が人柱に立てられるのかなぁなどと考えていたのですが、17日夜に降ったので当日は好天でした。船、最高ですよ、ほんとに。
とはいえ、アクシデントが無いわけではありません。船の上で吉田さんに海水がかかった瞬間は、僕も一瞬何が起こったのか分かりませんでした。
お昼ご飯は中華料理。これも美味しかったです。
下関、門司には展望台の類が多いような気がしますが、気のせいでしょうか??

『合戦日記』こぼれ話

長村祥知
No.1577

解散後、元木先生と門司駅周辺を少し歩いて九州鉄道記念館に行きました。先生に解説して頂き、展示自体もなかなか楽しかったです。町並みを背景に、先生が僕を写真に撮って下さったのですが、我々は親子のように人目に映ったのではないでしょうか。伊勢の「野口パパ」に続き、「元木パパ」ですね(笑)
その後、新幹線で大阪に帰り、先生お勧めの「すえひろ」で夕食を食べました。肉が美味しすぎです。ここでもまた先生にお気遣い頂きました。先生ご馳走様です。
そして、さらにさらに続きます。ホテルの地下のバーのようなところ(あのような店を正式には何というのでしょうか?そして店の名前は??)に連れて行って下さいました。とてもよい雰囲気の店でした。そこで出されたウィスキーのボトルには「熱田様」と書かれた札が掛かっていたのです。元木先生曰く、「ここにきたら熱田先生に会えるんだ」。感動的な一こまでした。そして時を忘れて話に興じていたらもう十時。家路につきました。
元木先生、とても楽しかったです。ありがとうございました。

旅行を通じて、自分が史跡を見るだけでなく、先生方の学問的な会話を真横で聞く事が出来たのも大きな収穫でした。また、先生・先輩方と親睦を深める事が出来た事をなによりうれしく思っています。同行させていただきまして本当にありがとうございました。

『合戦注進状』拝読了。

No.1578

>長村君。
 遠征の感動さめやらぬ間の御注進、かたじけなく候。それにしても、貴兄は、あっという間に書き込みの最長記録を樹立しましたね。
 「菊王丸」の墓の近くの小学生たちは、さぞかしビックリしたことでしょうね。佐伯先生あたりが監督で、付近の人たちの中には、ヤクザ映画のロケが始まるのではないかと期待された向きもあったのではないでしょうか?
 ご馳走の接待攻勢で、いつも3講時の授業のあとに定食を召し上がっている大食の長村君にとっては夢のような三日間であったことと思います。
 元木先生をはじめとする先生方や諸先輩、カリスマ編集者とのお話しで、多くのことを学ばれたことと思いますが、とりわけ思想史に造詣の深い貴兄にとっては、佐伯先生とじっくりお話しできたことは大収穫だったと思います。『紫苑』掲載論文の御批評もうかがえると良かったですね。
 大阪での熱田先生のボトルのお話は、元木先生のお人柄を彷彿とさせます。良い話しですね。貴兄も良き師に巡り会ったというわけですよ。
 いずれにしても、たった三日で大学の単位なら20くらい取得できたように思えます。野口パパとしては、「とうちゃん、うれしくて、涙が出てくらぁ」です。

蛇足的補足

No.1584

 長村君、早速丹念な旅の一コマ一コマを髣髴とさせる旅行記をお書きいただき楽しく拝読しました。
 ただし、厳密には不正確なところもあります。菊王丸の墓の後に見学したのは嗣信の供養塔で、安徳宮見学後、屋島寺に行き。しかるのちに嗣信の墓、平家総門跡、弓流しのあとを見学して、六万寺に行きました。また志度寺のあと、石川さん経営のフィットネスクラブにも立ち寄りましたね。
 貴君は、朝食に讃岐うどんがあって旨かったと淡々とお書きですが、近藤先生の4玉につぐ3玉を平らげたことが話題になっておりましたね。野口先生のお話で、貴君が日ごろから大食の由と伺い、合点が行きました。
 近藤先生の丹念な解説と言う点では、住吉神社の宝物館の鞍も忘れてはなりません。あの様子を見た神官氏の報告のためか、わざわざ宮司さんが見送りに来た?のも特筆ものです。その宮司さんの兄上が赤間神宮の宮司さんの由。残念だったのは、神宮のすぐ近くに高層マンションが相次いで建設され、神宮からの海峡の眺めが随分阻害されていることです。何とかならないものかと思いますね。そのうち、神罰が下るか、幽霊が出るか・・・。
 ちなみに自画自賛ではありませんが、和布刈公園への道では、当方老眼にもかかわらず、カーナビより早く道を確認いたしました。大分ガタが来ておりますが、まだまだ、捨てたものではありません。
 門司港レトロ、なかなかの人気で団体ツアーなど、多くの観光客でにぎわっておりました。屋島とは大違いというところでしょうか。関門トンネルのルートからはずれ、古い町並みが残ったことを上手く利用したわけですが、海上遊覧、展望台、鉄道博物館、グルメ、美術館などの付加価値が結構効果的に機能しているようでした。
 下関にも同様の要素があり、一体化した観光地として集客力があるようですね。海峡をはさむ独特の地形は、高いところから見ると一層興味を引きます。あちこちに展望台やタワーが出来るのも当然といえましょう。しかし、公営施設である下関の海峡夢タワーは、場所が中途半端なこともあって、ガラガラ。次に行く時まで残っているでしょうか。それはともかく、下関、門司双方とも巌流島を重視しており、大河ドラマの影響力の大きさを再認識させられました。来年の義経で、また壇ノ浦がブームでしょうか。なお、佐伯先生のお話では、宮尾さんは義経は大嫌い、清盛大好きで、ドラマの当初のタイトルは清盛と義経だったとか。それがいつのまにか義経になってしまったとのことです。ますます期待出来そうにありませんね。下関で野口先生が取り上げられた藤原義江の記念館に行く余裕がなかったのが、唯一心のこりです。
 長村君には14時の解散後、22時にまでお付き合いいただきました。馬鹿話も多かったし、歓談時を忘れる思い出はありましたが、この業界の裏面、暗い部分も色々お話したと思います。そちらの方も、お忘れなきように願います。なお、御連れしたレストランは「スエヒロ」(カタカナです)、二次会はバーラウンジ「ビーツ」です。お姉さんが楽しいサービスをしてくれる店、ではありません。ここは、昨秋、多田神社見学会の「前夜祭」を行ったところです。また前途有為な青年を酒食の道に引き入れてしまいました。これが本当の「酒呑」童子?

卒業・教職・進学

長村祥知
No.1603

元木先生、訂正ありがとうございます。
半分寝ている頭と体を起こして、うけそうな話題を忘れずにと思って書いた結果、部分々々でいささか杜撰になってしまいました。
しかし「酒呑」童子とはいいえて妙ですね(笑)

さて、田中姉さんの書き込みにあったように、私長村祥知は去る3月20日、大学を卒業しました。
高校三年生の時に読んだ夏目漱石の『三四郎』の時代と現代とに大きな隔たりがあることは言うまでもありません。しかし、学問への思いや友情・家族・クラブ等々、かくありたいと思った大学生活と『三四郎』に垣間見たそれは、明治・平成間の時代の隔たりほど大きく乖離するものではなかったように感じています。
そう思うと、大学への進学が何ら珍しいことではなくなったとはいえ、学位記に「学士」とあるのがとても嬉しく感じられます。

現行の制度では中・高校で教鞭をとるには教員免許が必要です。
思い出せば子供の頃から教職につきたいと考えており、また、大学に進学して好きなだけ日本史・文学の勉強がしたかったので、両方をかなえる為にそれなりの無理もしました。
年間履修単位数の上限が定められている中で、教職必修ということで限度一杯まで登録した単位は成績表に担当の先生のお名前が記されているのですが、自分が本当に学びたいと思い単位と関係なくもぐりで聞かせていただいた講義の先生は、当然記されていません。
それでも返ってきた成績表を見ていると、在学中にお世話になった多くの先生方のことが思い出されてきます。
いずれも申請中では有りますが、大学在学中に、中学国語・同社会、高等学校国語・同地理歴史・同公民の教員免許、博物館学芸員の資格を取得した事は、決して楽ではなかった忙しかった日々の結晶であり、自分にとってだけ価値のある、ほんのささやかな喜びでもあります。
教育実習で得た感動は、ともすれば辛さだけを感じることもあった講義の思い出を忘れさせるものであり、いつ教壇に立つ事になろうとも望むところです。

そんな教員免許取得と並行して学部四年間しかできないと思っていた研究を、大学卒業後も続ける事を許してくださった元木先生や、ここまで教え導いて下さった野口先生をはじめとする(多くがこのHPは見ておられないであろう)先生方には感謝の気持ちで一杯であり、これからもご指導をお願いする次第であります。


付。
3月24日って何の日かご存知ですか?

遠征軍の足手まとい帰京

No.1563

ただいま、遠征軍の足手まといが一匹、京都にもどりました。

初日と2日目の午前中は、単独行動。
白峰寺を中心にして、崇徳院配流地の旅。
山田・野口両先生のおかげで、頓証寺と陵墓との関係が、
わかりました。というか、わかりにくくなっていることが、
よくわかりました。ありゃ、近代天皇制の悪弊でしょうか。
あるいは、神仏分離とかのためでしょうか。
頓証寺からほんとうに、御陵が望みにくい形に、なってました。両者の関係、ふつうは気が付かないでしょう。残念だな。

それから、讃岐国府と配流御所の関係もわかりました。崇徳は国府にいた時期が長いのですね。
ちょっと、京都を模した、景勝地に見えました。
天気もいいし、京都より気候もいいし、
隠岐なんかにくらべると、ずいぶんましな配流地です。
そんな、こんなで、国府を歩き回り、国分寺まで足を延ばしました。

翌日午前中は、栗林公園。いやー讃岐の殿様の文化的なレベルの高さを実感しました。現代のテーマパークは、どこもだめですが、江戸時代のパークは、いいですよ。栗林公園を歩きながら、しばし、強烈なナショナリストになっていました。

そして、県の歴博。どこの地方の歴博もあまり特徴がない。ここもそうでした。ぼくが中世が専門のせいかな。近世以降の人はそうは感じないのかも。でも、どこも展示の雰囲気が同じだ。同じ展示業者が担当しているんでしょうか。

というぐあいで、遠征軍本隊に、その日の午後合流。
あとの報告は、他の方にお任せ。
疲れたので、今日は寝ます。おざなりな報告で失礼。

御還京祝着にて。

No.1564

 美川先生、お疲れさまでした。崇徳院の配流先は、院政期の国衙在庁機構を文学的側面?から考えさせてくれて、このジャンルの研究をするには、とっつきやすい所ですね。
 香川県の歴博については、まあ「教科書」みたいな所だと思いました。特に中世は材料が乏しいのかも知れません。展示形態そのもののやり方もそうですが、博物館自体のコンセプトが問題だろうと思います。隣の県がやるからうちも、みたいなことだとやはりダメです。また、いろいろな事情があったのだろうと思いますが、香川県の歴博は見学順路の導線が、京都文化博物館なみによくありません。
 平家物語歴史館は行かれたのでしょうか。こちらはコンセプトがあまりにも明確で・・・。本体合流後のお話しが楽しみです。

関東下着

No.1566

 私も先ほど自宅に帰って参りました。
 全行程参加組も、全員無事に壇ノ浦見学を終え、見るべきほどのことは見て、そのまま海に…ではなくて、帰路に就いたことと思います。門司港レトロ展望室に昇って海を眺めた後、現地で解散致しました。とりあえず早馬で御注進。
 屋島での時間が足りず、お勧めの平家物語歴史館に行けなかったのは、野口先生からの譴責を受けることとなろうかと覚悟しておりますが、屋島も壇ノ浦も天候に恵まれて、古戦場の地理を展望するという目的は十分に達したかと思っております。
 おいしい魚もふぐも食べたし、合間の会話も勉強になったし、すばらしい旅行でした。皆様どうも有り難うございました。とりあえず御礼まで。

 

距離認識の世代間格差と古典理解。

No.1568

 佐伯先生、北陸から屋島、さらには壇ノ浦への御転戦、さぞかしお疲れのことと思います。12世紀末においては、想像を絶する空間移動。この距離感というのも、網野善彦氏のいう日本歴史における第二番目の分水嶺の直前に生まれた小生などの世代と、今の若い人たちとの古典理解に、大きな溝を構築するものと思います。壇ノ浦から数時間で、関東というのは本当に驚くべき事です。
 佐伯先生。下の鵺の件について、御教示ありがとうございました。高松の平家物語歴史館は学生さんを引率される旅行のおりにでも、是非にと思います。
 それにいたしましても、『平家物語』を語りあうには最高にデラックスなメンバーによる御旅行、土産話と共に、これからの御研究への反映を楽しみに致しております。

無事、帰還いたしました。

No.1569

 相次いで帰還報告が入るのは、あたかも源平合戦の故事に倣ったようですね。3番目は梶原景時ですかね。
 ともかく、無事帰還いたしました。旅行中、文字通り横殴りの雨に遭遇しましたが、ちょうど17日の夜半がそのピーク。18日は曇りのち晴れで、結果的には17日が曇りだったほかは好天に恵まれました。平家の霊も、歓迎してくれたのかも?
 16日は近藤先生のパワーリフティングのお仲間の石川さん(ご婦人)の運転で、屋島周辺を存分に見学いたしました。長崎鼻、談古嶺などの景色に見とれるうちに時間はたちまちに経過、あとまわしにした歴史館の見学時間がなくなってしまった次第です。
 ちなみに、屋島寺はお遍路さんでにぎわっておりましたが、談古嶺は人影も無く、付近の旅館はともに閉鎖、茶店もつぶれたようで、ひどい寂れ方でした。四国は観光客が全盛期の三分の一に激減の由で、まさに「盛者必衰の理をあらわす」というところでしょうか。
 17日は、12時17分新下関到着(朝、高松のホテルの朝食バイキングで讃岐うどん4玉を平らげた近藤先生は、列車中でパン六個、しかし、まだ物足りないご様子)、石浜さんの運転で住吉神社、長府、赤間神宮、火の山、関門海峡大橋、門司の和布刈公園、同神社を見学いたしました。
 最終日は、駅近くの海峡夢タワーから彦島、下関市街を中心に眺望を楽しみ、唐戸から海峡連絡船で門司に渡ったのち、今回のハイライト、壇ノ浦の海上クルーズを満喫いたしました。最後に、野口先生お勧めのレトロ門司展望台から海峡を眺めて旅行を終えました。
 実際海上に出てみると、上から見た景観とは全く異なる感覚が体感されましたし、パノラマのような火の山、門司側からの眺望と、壇ノ浦を出来る限り、様々な角度から見学いたしました。この経験を研究に生かせるように、努力したいと思います。
 運転をお願いしたお二人には感謝の言葉もありません。また、チケットの手配など、雑務を御担当いただいた近藤先生、旅行中ご教示を頂いた佐伯先生に御礼申し上げます。
 しかし、近藤先生のすごさは食べっプリばかりではありません。なにせ、下関東急インの壁を越えて響き渡るいびきで、当方睡眠不足と相成りました。
 以上、情報を賜った御礼を兼ねて、ご報告まで。もっと詳細なレポートは長村君にお任せします。

睡眠時無呼吸症候群?

No.1571

レスを入れている間に、元木先生からもレスが。ツアーでは、お世話になりました。

いびきの件、失礼しました。花粉症でもあるのですが、私自身、睡眠時無呼吸症候群の疑いを抱いております。検査した方が良いのかも。自分では分かりませんからね。

倶利伽羅のこと

No.1579

 屋島・壇ノ浦については、元木先生や長村さんから詳しい報告が出揃ったようですので、私の方からはもう一つ、その前に行った倶利伽羅峠について、失敗談を交えて、今後いらっしゃる方のために役立つかと思うことを若干。
1)倶利伽羅峠方面へは、ガイドブックによっては、「石動駅からバス」などと書いてありますが、そのバスは、月に一度、28日の倶利伽羅不動寺の縁日にしか運行しないようです(他に正月)。ぶらりと行ってその日に乗れる確率は30分の1ぐらいですね。20年ぐらい前には、一日1本か2本は運行していたように記憶していたのですが…。従って、ハイキングの装備で歩くか、タクシーしかありません。タクシーも貸し切り制度がないので、高くつきました。
2)ハイキング装備で歩く場合、歴史国道「倶利伽羅いにしえの道」というのが整いつつあるようですが、完成したとしても、隣の倶利伽羅駅まで歩ききるには、一日分の時間と、かなりの体力を要するように見えました。また、三月半ばでも、山中はあちこちに雪が残り、革靴では時々「ズボッ」という感じで雪だまりに足がはまってしまい、歩くのは無理でした。
3)雪といえば、猿ヶ馬場に建っている火牛像ですが、三月半ばではまだ兼六園の木のような雪づりをしていて、牛の頭や角、松明には藁が巻いてあり、何の動物だか全くわかりません。この写真を撮るという目的については、完全に失敗でした。もっとも、とてもお間抜けな写真が撮れたので、話題にはなるのですが…。
4)倶利伽羅谷(現在は地獄谷と呼称)の写真は、前にも何が何だかわからないものを撮りましたが、今回も撮ってみると何を撮ったのかわかりません。やっぱり古戦場の理解は、写真で切り取るのではなく、現地をできるだけ時間をかけて歩き回るしかないなあ、と思います。屋島や壇ノ浦のように、上から見下ろせる場所は、それでかなりわかるのですが(特に今回は壇ノ浦を、角度を変えつつずいぶん見下ろしました)、山中の古戦場は全体像をつかむのが難しいですね。
 以上、まとまらないご報告でした。

運転できないおじさんの嘆き

美川圭
No.1580

佐伯先生に触発されて、崇徳院配流の地について、ひとこと。

地方では、ほとんどの家で、車をもっている(たぶん人数分)ので、公共交通機関の衰退が著しいようです。そのために、どんどん、観光客が行きにくくなっている感じです。あたりまえの観光地は、それなりに来ても、ちょっとはずれるともうだめのようです。史跡めぐりなどとなると、もう悲惨きわまるんですねえ。もう、屋島あたりでも、その影響をもろにうけているみたいですね。

今回の崇徳院配流地めぐりも、白峰寺と山陵行きについては、ずいぶん迷いました。坂出からバスで行けるところまで行って、そこから徒歩、とも思いましたが、天気でも悪かろうものならたいへんですし、それだけで1日がかりとなりそう。やむをえずタクシーチャーターと相成りました。

JRの坂出と高松との間は、四国の幹線なので、かなり頻繁に電車が走っています。ただし、快速が多いので、途中の史跡が多い八十場とか、鴨川、讃岐府中、国分寺などに停車する普通は、1時間に2本といったところ。これは、ずいぶんめぐまれているほうです。ですから、八十場の高照院、讃岐府中の鼓岡神社、県埋文センター、国府跡など、国分寺の旧国分寺跡などに行くには、JRで十分でしょう。

タクシーは、どこを走っているのか、わからなくなってしまうので、どうしても行けないところに限りたいところですが、ある程度コースが決まっていて、運転手も、それほど細かいところまでは知らない様なので、痛し痒し、です。

やはり、車の運転ができておれば、と思うのですが。こんなときしかきっと運転しないと、けっきょくペーパードライバーになり、だめかもしれない。なんだか、うまくいきませんね。

数年前に、北ウエールズへ一人で行って、バンゴールという町を拠点に、古城巡りをしたのですが、もっとバスの便はよかったですね。日本の地方も、もう少し考えた方がいいと思います。車でドライブに来る人は、あんまり現地でお金落とさないような気がしますし。まして、史跡はめぐりませんよ。

いまどき、運転できないおじさんの嘆きでした。

大失敗→やる気喪失→掲示板書き込み

田中裕紀
No.1561

日曜日の発表の準備で学校に来ています。女性史の論文で見落としているところは無いかと、同志社の院生室から出て、人文学研究所やら、同志社女子大図書館やらをうろうろしていましたが、どれも不発。同女の図書館にあった論文に至っては、「中世文学」で検索した論文が「ヨーロッパ中世」の物で(「国文学」研究資料館のDBで検索したのに!)、げんなりして帰ってきました。というわけで、タイトルの通りです。あと5日で今年最初の山場も終わりを迎えることでしょう。その後の予定が、まだ何も立っていないんですけどねぇ・・・(--;

同類、あい憐れむ。

No.1562

 東下りの鈴木君に立派なアドバイスをされた田中さんが、そんな弱気でどうするのですか!
 ・・・かく申す小生も、たった15枚、しかも一般向け雑誌の原稿執筆に、目下お手上げ状態で、逃げて参りました。
 田中さん。小生の経験から言うと、先行研究の渉猟というのは、実はかなり気休め的な要素がつきまといますので、それよりもむしろ、この前の御報告をきっちり整理する作業をすすめられることをお勧めします。他人様の論文に、自分の期待するような話しはそうそう出てこないものです。それより、あるだけの材料で自説をしっかり固めるべきです。
 それから、マクラになる話しとか、脱線用の話しを今ある材料によって整理しておくのも良いと思います。そんなところから、本筋に関わる思わぬヒラメキが得られたりするものです。
 佐伯先生はきっと、この掲示板に書かれた建礼門院が晩年を過ごした空間についてなど、御質問されるに違いありません。ぜひ、お考えおき下さい。この問題は、『平家物語』の構想と構成を考える上できわめて重要だし、分かりやすく整理のつく問題だと思います。
 それにしても、今頃、佐伯先生をはじめとする遠征軍御一行は、どのあたりにおられるのでしょうね?戦果のほどは如何なものか?「合戦日記」の注進は、ご帰還の後の楽しみですね。
 
 そういえば、小生、明後日の『古代文化』編集委員会に提出する査読の原稿も書かねばならなかったのでした。大変です。
  
 ふたたび田中さん。『紫苑』も出来ておりますので、直前ですが、研究発表の用意に気が乗らないようでしたら、明日の『吾妻鏡』、少しの間でも御参加になられたらと思います。

猫。

No.1559

 「ラスト・サムライ」の論評で名をあげた山本君の猫論はさすがです。「犬は人につき、猫は家につく」とよく言いますが、けっこう猫も人になつくものです。それがまた、気分次第で、これがまた良い。小生、家のソファーで2匹の猫を膝の上にのせて、「猫仙人」をやっているのが一番リラックスできる一時です。すこし重いけど。
 近年、新興住宅地ではやたらに大型犬を飼うのが流行っており、このような社会現象の背景については自分の経験からも一家言あるのですが、ここでは止めておきましょう。
 >山本君。猫はきれいなら、とくに風呂に入れる必要はないかと思います。それより、「日本近代における忠孝イデオロギーと猫の思想的処遇」とでも題して、おおいに論じ尽くしてください。
 ちなみに、おりよく新地さんのHP「南九州探訪記」のトップページには鹿児島の猫の写真がUPされております。
 鹿児島で思い出しましたが、新地さんの鹿児島大学時代の恩師で、現在東北大学におられる柳原敏昭先生も大の猫好きです。

卒業式

平田樹理
No.1554

野口先生をはじめ、皆様のおかげで本日無事卒業式を迎える事ができました。厚く御礼申し上げます。気持ちを新たにまた頑張りますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。
>1、2回生のゼミの皆様へ
先日から予告していましたが、四月から本などを読んでいこうと思いますので、考えておいて下さいね。


誕生日。

No.1556

 平田さん、おめでとうございます。京都女子大の学部の段階からゼミに在籍したメンバー初の院進学者として、大いに期待しています。当然、後輩は「お手本」にするでしょうから。
 それにしても、進学先は神戸大学の大学院で、平田さんのこれまでの住所は「六波羅第」ですから、清盛みたいですね。今後はゼミの「指導者」として、よろしくお願い致します。
 1・2回生のみなさん、史料の講読でも何でも平田先輩に、遠慮なくお願いされたらよいと思います。

 ところで、トップページに明記されているように、このHPは2003年3月15日に世に現れたわけで、とすると昨日で1周年を迎えたことになります。管理人の永富さん・鈴木君、いろいろありがとうございました。昨年の7月1日、アクセス数はわずかに1000でしたが、その後、飛躍的に増加の一途をたどり、今や各方面・・?から、かなりの「社会的使命??」を期待されるに至っております。今後ともよろしく、お願い申し上げます。
 
 追伸:さきほど東大史料編纂所の高橋慎一朗先生から、史料編纂所の書庫に『紫苑』を置きたいがどうすれば入手できるかというメールをいただきました。2号が印刷屋さんから届いたら、創刊号(残部僅少)とあわせて、急送です。それにいたしましても、これは小生の言うべきことではありませんが、執筆者に代わって申し上げると、まさに「嬉し、恥ずかし」ですね。次号への力作を期待します。

『紫苑』第2号入荷。

No.1557

 驚くべきタイミングですが、本日午後、『紫苑』第2号が入荷致しました。300部あります。平田さんの正誤表を該当ページに挟み込んでから、配布の段取りですが、編集長の永富さん、執筆者への配布部数などについて、御裁定をお願い致します。大学の各部署や関係機関などへお渡しする分と保存分を除いて、配布できます。
 まあ、一件落着と言うところですね。18日の研究会では、出席者にとりあえず一部ずつ配布したら如何かと思います。

ドキュメンタリー映画「薩摩盲僧琵琶」

山田ちさ子
No.1549

新地さんのお名前を拝見して、以前話題になっていました薩摩琵琶についての情報を書き込みます。
3/18(以後何度か再放送あり)、CS放送の日本映画チャンネルで、ドキュメンタリー映画「薩摩盲僧琵琶」が放映されます。
わたしは以前、京都で開かれた上映会で見たのですが、非常に感銘を受けました。
特に琵琶をかき鳴らしながら、経文を唱える姿は、中世の琵琶法師を彷佛させられました。
今回の放送を録画するつもりですので、野口研究室に置いておきます。
以下は日本映画チャンネルの番組紹介から引用。
★800年前から鹿児島地方に深く根付いている「薩摩盲僧琵琶」の神秘的な魅力を追った異色ドキュメンタリー。桜島の大噴火の惨劇が起こらぬよう祈りつつも、土用の日毎に檀家を回り、地神・氏神など家の神々を供養して回る盲僧たちの年間を通しての姿を描く。実際に6年間盲僧と寝食をともにした諏訪淳が監督を手掛けている。ベルリン国際映画祭正式日本代表作品。★

Re: ドキュメンタリー映画「薩摩盲僧琵琶」

No.1552

 山田先生のお宅では、いろんなテレビ番組が観られて羨ましいですね。当家など、最近になってようやくNHKBSを観られるようにした段階です。
 昔、テレビがまだ一般家庭に普及していなかった頃、日曜の夜になると、テレビのある家に、近所の子どもが集まってきて、「怪人二十面相」や「少年探偵団」をワイワイ言いながら観ていたという光景が全国各地でみられたものですが、こんどゼミで山田先生のウチまでテレビを観にに行くことにしましょうか?
 冗談(じつは本心)はさておき、ビデオ楽しみにしております。

Re: ドキュメンタリー映画「薩摩盲僧琵琶」

新地 浩一郎
No.1565

 こんばんは。鹿児島でも、薩摩盲僧琵琶は吹上町の常楽院の妙音十二楽くらいしか生で聞く機会がないかも知れませんね。それも様々な楽器との合奏ですから。笠沙町で薩摩琵琶の復興事業が取り組まれていますが、こちらは「武士のたしなみ」としても薩摩琵琶らしいので、盲僧のものとは少し異なるのでしょう。川辺町にあった盲僧寺は「大徳院」という寺院だったそうです。
 ところで、民俗関係の仕事をしていると、色々と面白いことがあります。町内に、平家の落人の末裔だと自称しているある集落があります。平成4年に出た民俗調査では、平家云々と書かれているのですが、昭和51年に発刊された郷土史では日向から逃れてきた安東(安藤)氏の末裔で、系図も残っていると書かれています。ここでは12月に面白い氏神祭りをするので取材に行った際に、その系図を見せて欲しいと頼むと、捨ててしまったとの事。集落の方々に祖先のことを聞くと「ここは平家の落人で…」という返答が全員から帰ってきました。わずか十数年の間に集落の全員が自分たちの祖先を平家の落人だと思い込むような事があったのか、それとも「平家の落人集落」というブランドイメージに惑わされて捏造してしまったのか、「歴史が作られる(作り変えられる)」という事例を目の当たりにしたようで不思議に感覚に陥りました。

鵺の正体

新地 浩一郎
No.1538

 こんばんは。ご無沙汰をしています、鹿児島の新地です。昨日鹿児島市内では九州新幹線が一部開業ということで、様々なイベントがあったようですが、JRの通っていない私の町ではあまり関係ないです。
 ところで、今鳥インフルエンザが話題ですが、私の身の回りでも鳥の死体が見つかると、私が学生時代に野鳥研究会に所属していたために、種名と死因の鑑定をしています。3月1日と3月11日には、鵺のモデルといわれるトラツグミの死体が見つかりました。どちらもインフルエンザとは関係のない死因でした。最近はHPを更新していないのですが、とりあえず写真だけをアップしましたので、興味のある方はご覧下さい。

Re: 鵺の正体

新地 浩一郎
No.1541

 すみません、さっきのURLでは見れなかったので、こちらのURLでどうぞ。

Re: 鵺の正体

No.1542

 新地さん、お久しぶりです。このところ、鹿児島にうかがう機会が得られず、残念に思っています。
 HP「南九州探訪記」をしばらくぶりに覗かせていただきました。トラツグミが鵺のモデルというのは知りませんでした。根拠は何なのでしょうか。写真で見る限り普通の鳥で、『平家物語』に出てくる鵺のイメージと異なるように思えるのですが?
 それから、ご当地の伝統芸能に関する調査の方はまとまったのでしょうか。

鵺の「声」の正体

新地 浩一郎
No.1543

 野口先生、こんばんは。
 川辺町は加世田市・坊津町・大浦町・笠沙町と来年1月に合併する予定です。現在は合併前に未指定の文化財をできるだけ指定してしまおうという事で、細かい調査に入っています。
 トラツグミは鵺の正体というよりも、鳴き声の正体と言ったほうが正しいですね。名前のとおりツグミの仲間で、古い呼び方で「ヌエ」ともいいます。夜行性で、夜中から明け方にかけて口笛のような「ヒー」とか「ヒョー」という、か細い悲しげな声で鳴くのですが、この鳴き声と妖怪の鵺の鳴き声が似ていた、という事で、野鳥関係者は観察会などで必ずと言っていいほど「鵺=トラツグミ」という話をします。
 秋に取り組んでいた永田日送踊りですが、やっとビデオができましたので、近いうちに送らせていただきます。ごらんいただいて、色々とご意見をお聞かせいただきたいと思います。皆さんにご指摘いただいた座頭の足袋の色については、地元の方々に色々聞いているのですが、これといった答えは返ってきておりません。今回の事業で伝承者の方々といい関係ができましたので、気長に研究を続けたいと思います。

源頼政の鵺退治。

No.1560

 トラツグミがいつの時代から鵺と呼ばれるようになったのかが分かれば面白いですね。中世からなら、妖怪じみたものの現れる場所は、実はトラツグミの生息地であったなんてことが言えるかも知れませんね。ひょっとしたら神楽岡も、そうだったりして。
 >山田先生。拙著『武家の棟梁の条件』P48にも書きましたように、呪的武芸の担い手としての源頼光のイメージは、12世紀末の貴族社会には広くいきわたっており、その嫡流として源頼政が大内守護などの職務をにない、また『平家物語』において鵺退治の主人公とされることになったりしたようです。中世後期に成立した伝承の背景はこんなことも考慮する必要があるのだろうと思っているのですが。

Re: 鵺の正体

No.1567

 トラツグミがヌエと呼ばれるようになったのではなくて、『古事記』や万葉の時代から「ヌエ」と呼ばれていた、夜鳴く鳥の正体が、トラツグミのことだろうと言われているのですね。詳しくは、山口仲美「怪鳥ヌエの声」(日本語学1985年5月)などをご参照ください。
 ヌエが合体獣を指す様になるのは『平家物語』あたりからです。『平家物語』でも、二種類あるヌエ説話のうち、片方は合体獣ではない単なる鳥です。

京都女子高等学校について

risa
No.1530

私は四月から、京都女子高校1類に通うのですがわからないことだらけです。まず、一番難しい教科はなんですか?また体育が苦手です。準備体操はどんなことをしますか?先輩の方、教えてください。

Re: 京都女子高等学校について

No.1532

 risaさん、こんにちは。まず、この掲示板は、ハンドルネームでの投稿はお断りしていることをご承知おき下さい。でも、京女に関連する御質問であることと、まあ、このような御質問だとお名前は書きにくいことは理解できるので、一応回答をいたします。
 当ゼミは大学付属の研究所のものですから、高校のことは分かりません。ゼミメンバーも、京都府以外や公立高校の出身者がほとんどです。たった一人、京都女子高校御出身のメンバーがおられますが、彼女は現在、同志社の大学院生で、高校を卒業されてからすでに6年ほど経過しています。うかがっても、今とはだいぶ状況が異なると思います。ですから、どうしても、その情報をお知りになりたければ、高校のサークルのHPでも探されて、質問されたら如何でしょうか。
 しかし、これは一般論ですが、難しい教科というのは一人一人違うはずですし、体育も楽しいかも知れませんよ。新学期が始まってから対応しても、よいのではありませんか?

Re: 京都女子高等学校について

No.1539

risa さん。野口先生もおっしゃるように、
できれば本名をお教え下さい。
私の妻が、京都女子高校の国語を担当しております。ただし、今年は高2の国語だというふうに聞いています。
いちおうメールアドレスを公表しますので、メールでお知らせいただいてもけっこうです。
でも、一番難しい教科は、人によってちがうと思いますよ。
体育のことも知らないと思います。
でも、いろいろ相談にはのれるかもしれません。

屋島・壇ノ浦侵攻作戦

No.1526

野口先生初め、各位には16日よりの旅行につき、種々ご教示をいただき、有難うございました。以下の通り大まかな予定を立ててみましたが、問題点や追加すべき場所などがありましたらご教示ください。
16日。高松駅13時集合、以下レンタカーにて、①平家物語歴史館→②屋島寺およびその周辺→③長崎ノ鼻付近→④源平古戦場付近→⑤六万寺→⑥志度寺と言ったところでしょうか。全体の距離は短いのですが、史跡を探すと結構時間がかかりそうなのでかなり駆け足のようです。志度寺二つくころは真っ暗かも。
なお白峰宮参詣は到底困難ですので、参詣ご希望の方は、美川先生が先にお出かけのようですので、ご相談ください。
17日。高松9時52分発、新下関12時17分着。以下レンタカー(石浜さん、よろしくお願いいたします)にて、住吉神社、功山寺、壇ノ浦古戦場、赤間神宮、火の山、関門海峡大橋をわたり門司側の和布刈神社などを見て、下関駅前の宿に宿泊。
18日。下関駅前の展望台、唐戸付近の見学ののち、12時発の海上クルーズ、13時に門司港着。付近散策ののち、小倉より帰路につく。といったところで如何でしょうか。18日午前に余裕がありますから、赤間神宮をこっちに回す手もありますが。
本来の総大将ご多用により、代役が急きょ杜撰なプランを立てましたので、粗漏や無理もあるかと思います。ご意見をよろしくお願いいたします。うーん、西国攻めの代役ということは、私は範頼ということですかね?

Re: 屋島・壇ノ浦侵攻作戦

No.1527

 義経の屋島攻撃のように、速攻が決まればよいのですが、初日はなかなかハードな日程になることと思います。平家物語歴史館には長居をされず、ドライバーの方が屋島合戦関係の史跡の分布と道路事情に通暁されていれば、なんとか回りきれると思いますが、ご賢察のとおり志度では暗くなることでしょう。
 壇ノ浦の門司・下関ではだいぶ時間的な余裕があろうかと思います。ぜひ、美味い魚の料理を堪能してきてください。17日に新下関到着でしたら、この日は下関側を見学し、18日に海上クルーズと門司側に集中されるのも一方かと思います。
 小生が12月に出かけたさいは、山口から宇部・長府をへて下関に入りましたので、源氏軍の侵攻コースがよくつかめました。
 それにしても、このたびの遠征軍は、武器・武具・戦闘形態論の第一人者である近藤先生を総大将に、錚々たる歴史学・国文学の研究者と前途有為なその卵のみなさん、さらには出版界きっての名編集者も名を連ねた前代未聞のもので、その成果(戦果?)にはおおいに期待いたしております。
 ちなみに、御出陣中のお留守番を担当させていただくのにさいして、気になっているのが、義経・範頼西海出陣の間、京中警固に当たったのは誰なのかということですが、これは明らかにされているのでしょうか?

Re: 屋島・壇ノ浦侵攻作戦

No.1529

元木先生、有り難うございました。
皆様、よろしくお願い致します。

Re: 屋島・壇ノ浦侵攻作戦

長村祥知
No.1533

弾除け(?)位にしか使えない青侍ですが、よろしくおねがいします。
野口先生も仰るように、前代未聞の「錚々」たる先生・先輩方に同行させていただく機会は「そうそう」無いので(野口先生の真似です・笑)期待で胸がどきどきです。

Re: 屋島・壇ノ浦侵攻作戦

No.1535

野口先生、早速のご教示有難うございました。歴史館は17時半までとのことですし、暗くなってもいいわけですから、屋島、志度を見て、高松への帰り、17時前位に立ち寄る手もありそうですね。近藤先生と、運転をしていただく石川さんのご判断を仰ぎたいと思います。
範頼、義経出京中の京都警護は、鎌倉殿御使の二人で代替できたとはとても思えません。京武者、北面系統の武士や、佐々木など、京近郊の御家人でしょうか。もっとも、義経不在はせいぜい2ヶ月ではありますが。
ところで、我々が範頼・義経軍なら、在京軍の指揮官は、野口先生ということでしょうか。そうすると、それこそ近藤七国平というわけにも行きませんので、史実と齟齬しますが、京都守護北条時政で如何でしょうか。頼朝ではないのか、とのご不満が出そうですが、その方は別におられますし。え?話題の先生ではありません。その先生は、まあ平六時定ということで。それぞれが誰かはご想像にお任せいたします。

付清文堂・古代の人物

No.1536

ちょうどレスを書き終えたところに、清文堂から連絡がありました。監修者の栄原先生と協議の結果、6巻は1巻と平行して9月刊行とし、残った方々には連休までに絶対に書いてもらう、それがだめなら交代その他、強硬な措置をとる、8月までにパンフを作成する、といった連絡がありました。
まだお書きでない方で、この掲示板をご覧の方がいたら(そんな奴はいないか)、覚悟してください。すでに原稿をご提出の方々、何とか今年中刊行の目処が立ちましたので、少しだけ御休心ください。

北条時政

No.1546

 清文堂の件、結構なお話だと思います。若い方は業績を早く出さなければなりませんし、小生のように自分の書いたものの内容をすぐに忘却してしまうような耄碌にとっては、時間が経過してしまうと、校正の時に執筆時の資料を探し出すのが大苦労ですので助かります。やはり、書いた順番に出版して貰いたい。そうすれば、仕事が整理できて、新しい執筆にも円滑に取り組めるというものです。
 それにしても、あまり名を知られていないが、研究熱心・執筆意欲旺盛で、ご本人も発表したい原稿をたくさん持っている、という方がおられる一方で、義務で仕方なしに文字をうめているだけとしか思えないような駄文を書いている人もおられるという情況もあって、ほんとうに世の中、いろいろなところでバランスがとれていないと思います。(自分のことを棚に上げての発言、ご容赦下さい。)
 京都守護の拝命、恐縮に存じます。北条時政はミネルヴァの評伝選で今までのイメージとはまったく異なる都会的人物として描きたいと思っております。「非難轟々」を書く前から楽しみにしている次第。
 ところで、小生の時政のイメージは加藤大介なのですが、この俳優さんが時政を演じたのは、大河ドラマの何の時でしたでしょうか。

新平家物語

No.1547

野口先生、御返事有難うございます。お尋ねの加東大介演ずる時政は、1972年の『新平家物語』の時です。彼は、長門裕之、津川雅彦兄弟の叔父で、温顔、円満な雰囲気で、三枚目もこなす名優でした。あの時、当方は、時政はこんな温厚な人だったのか?と少し違和感を覚えました。やはり、当時は北条氏というと、陰湿な陰謀ばかりたくらむ一族という印象ばかりが強かったように思います。ちなみに、頼朝は高橋幸治、政子は栗原小巻、義経は志垣太郎、義仲は林与一といった面々でした。
79年の『草燃る』の時は、時政が金田龍之介。凄みとコミカルな要素が混在した名演でしたが、実は本来の山形勲が病気のため、清盛役からスライドしたものです(ちなみに清盛は金子信雄。まるでヤクザの親分)。山形勲が時政を演じていたら、印象は全く異なっていたことでしょうね。
それにしても清文堂、武士関係者はたちまちのうちに提出され、貴族関係の執筆者ばかり5人も残ってしまいました。やはり貴族より武士が優れているのかも?領主制論に転向すべきかなどと思ってしまいます。原稿取立てはやはり近藤先生ですかね。投げ出しそうな人もいますので、そのときはどなたかピンチヒッターをよろしく。

Re: 屋島・壇ノ浦侵攻作戦

No.1550

関東からの弾除け、です。野口先生、過分のお言葉、ありがとうございます(実は、他にも編集者が来るんだったりして…)。また、元木先生にはいろいろとご配慮いただき、ありがたく思っております。以前、の野口先生より、元木・近藤両先生の健脚振りをお伺いしておりましたので、じゃまにならぬよう、しっかりと付いて行きたいと思います。

ご無沙汰しております。

廣政 愛
No.1518

昨日の朝まで合宿で鹿児島にいました、ので田中さんのご発表を拝聴する事が出来ませんでした。大変残念です。次回は是非!

それと、吾妻鏡講読会で要る、石井進氏の『鎌倉幕府』なのですが、出版社の方で品切れ?になっているらしく、入手不可でした。どうすればいいでしょうか・・・?



石井進『鎌倉幕府』

No.1521

>廣政さん
EasySeekという古本サイトがあります。数が多い事と、結構値段が安いので、使いやすいかと思います。
http://www.easyseek.net/book/
ここで検索してみたところ、¥300くらいから何冊かありましたので、一度検索してみてください。

ネット的浦島太郎状態

No.1524

久々に書き込みます。しばらく、下宿の更新手続きや源泉徴収料の返還手続き(所得税バック)、また部屋の掃除など身の周りの雑事に追われていました。ついでに、猫の洗濯(?)をしようと思いましたが、めちゃくちゃ嫌がられたので、やめました。その間に掲示板上の話題が、全然変わっているのには、驚きました。まさしく浦島太郎の気分です。
ちなみに、先生の猫(すいません、名前は失念しました)はお風呂とかどうしているのでしょうか?
>廣政さん
 上記の田中さんのご指摘通りで入手できますが、必ず入手しなくても構いません。文庫がまだ書店で入手できると思っていたのですが、文庫版も絶版になっているとは知りませんでした。田中さんに、車の運転に引き続き、またまたフォロ-してもらいました。面目ないです。

鹿児島・猫・絶版

No.1525

 >廣政さん
 鹿児島は如何でしたか?何処に行かれましたか?鹿児島は今、新幹線開通でおおいに盛り上がっているはずです。
 しかし、先月から韓国・中国・鹿児島と、すごい行動半径ですね。
 明日の卒業式、総代がんばってください。小生、学部と短大と両方に出るのも何ですし、どうしようかと思っております。
 
 >山本君
 このまえの『吾妻鏡』の日程のようなこともありますから、できるだけこの掲示板を覗いてください。なにしろ、何が起きているか分からないのがこの掲示板ですから。小生など・・・・・。
 猫(ペ<半濁音>ンとクゲ、8歳と7歳、ともに雌の親子、ペンは京都新聞に登場の経歴を持つ)は千葉に住んでいた頃は、外に出ていたので、時々、入浴させていましたが、今はほとんど家猫なのでブラッシングだけできれいです。猫を入浴させるコツは、温めのお湯を使うこと。それから、ふだんの信頼関係でしょうね。人間も同じですよ。
 本の件ですが、田中さんの御紹介のサイトで、試みに自著を検索したところ、幻の名著?『鎌倉の豪族』が出ていましたよ。手に入れられた方には正誤表を進呈いたします。
 それにしても、石井先生の『鎌倉幕府』のような不朽の名著が絶版というのは困りますね。最近の出版界は、本を消耗品のように扱っていますね。良い本を作って売るのではなくて、売れる本しか作らないというのは自殺行為だと思います。
 ところで、河合斉藤氏の某を閑院流藤原氏の某人が左衛門尉に挙申した史料の件ですが、じつに意味深いことなので、小生が論文に仕立ててしまおうかな?

Re: ご無沙汰しております。

廣政 愛
No.1537

田中さん、山本さん、ありがとうございます。早速覗いてみます。
野口先生、明日はどうぞ短大の方にいらして下さい。

先生から「鹿児島とは」というお話を拝聴したあとだったのでどきどきでしたが、到着後すぐ民宿に荷物を降ろし、近くの中学校をお借りしずっと稽古だったので、しっかりと「鹿児島」を味わう事ができませんでした。
(たまには場所を変えての稽古もいいものです。)
最後の日に少し観光があり、内之浦宇宙空間観測所を見学した後、桜島に行きましたが、実はあまり興味がなく・・・すみません、お土産だけ確保して帰ってきました。
少量ですが18日にお持ち致します。

東京遠征中

鈴木 潤
No.1545

内之浦のロケット射場に行ったのですか?
うらやましい…。

あそこは日本初の人工衛星『おおすみ』を打ち上げた場所だったと思うのですが。(うろおぼえ)
宇宙開発事業団と文科省の組織が合体して、JAXAになったけれども、H2Aロケットの失敗やらなんやらで、あまり良いニュースを聞かないので。
どんな施設でした?

P.S.高校の修学旅行は筑波の宇宙センター見学でした。(周りは興味なさげな様子の中)一人大はしゃぎでした(笑)

猫風呂

No.1548

猫ということで、関係ないところから乱入させていただきます。
家内が結婚前から猫を飼っており、そこに転がりこむかたちでしばらく、同居させてもらいました。
猫によってずいぶん違うようで、コマーシャルでは風呂に入っている猫を見かけたりしましたが、我が家の猫は風呂嫌いで、仕方なくシャワーしておりました。ただ、それも一苦労で、猫を拉致するためには、逃げられないように窓を閉め、家の中でも隠れる場所のないようにし、それからおもむろに抱きかかえて風呂場に連行するのですが、途中で察知されると大騒ぎになりました。うまく風呂場に連れ込むと、猫用シャンプーで洗うのですが、その間中ずっと大声で鳴いて・泣いておりました。ここで気をつけなければならないのは、耳の中に水が入らないように両耳をおさえながら洗うことでしょうか。洗い終えてからは、よく水分をふき取るまえに逃げられないことも肝心です。居間で、お返しとばかりに、水を周囲に撒き散らされますので。
外に出していらっしゃるなら、数ヶ月に一度くらいは洗ってあげたほうがいいのではないかと思います、周囲の状況にもよりますが。
うちの猫ですが、その後、子供が生まれて数ヶ月たってから、病気で亡くなってしまいました。子供が喘息持ちだったので、潔く身を引いてくれたのかなと、うちでは慰めあいました。ちゃんと火葬にし、骨はつぼに入れて、お守り代わりにおいてあります。

卒業式・猫。

No.1551

 たった今、卒業式から戻ってきました。廣政さんの「卒業の辞」は、落ち着いていて、なかなかのものでした。2年後に学部の卒業式でもまた総代になって下さい。
 平田さんも今、挨拶に来てくださいました。

 ところで、長い間飼っていた犬や猫に死なれるのはつらいものですね。小生、20歳前後の頃に、ドンという名前のコリーを飼っていました。この犬とは、まさに起居をともにしていました。朝方はいつも私の掛け布団の上にのっていて、じつに重かった。夕方はかなり長距離の散歩に連れて行っていました。散歩の途中、「ライオン丸」などと呼ばれて、子どもたちの人気を集めていました。
 どうしても、結婚して子どもが出来ると、昔のようには構ってやれない。それでも、死んだのは小生の腕の中で、心臓がとまったのがわかりました。
 猫は鹿児島の借家に住み着いていて、千葉まで連れてきた(というより自己選択してついてきた)チクワという名の、たいそう賢い猫(鹿児島では近所の人たちから「神様猫」と呼ばれていました)が飼った最初です。この猫は当家で大往生でしたが、次に飼ったアメリカンショートヘアーの雑種でネギという名前を付けた猫は、病院で死なせてしまいました。病院に連れて行った時、とても嫌がっていたことを思い出すにつけ、家で死なせてやれば良かったと、今さらながら悔やんでいます。
 最近、猫を家の中で飼うことを義務づけるような発想が強いのですが、小生には、昔のように、野良猫が塀の上を歩いていたり、七輪で焼いているさんまをかっさらっていったりするような光景が見られる方が、人間にも健全な環境だと思うのですが・・・。

 >鈴木君。先生とのお話はいかがでしたか?
 鹿児島は「ウチノウラ」にロケットの発射場があるところです。

猫権擁護委員会

No.1553

 野口先生、石浜さん、猫に関するレスありがとうございます。うちの猫は、基本的に室内猫なので、汚れることはないのですが、全然風呂に入れたことがないので少し心配していました。でも、猫自体はくさくないので、いいのかなぁと思っていました。しかしかなり大変そうですが、いつか風呂で洗いたいと思います。それと信頼関係ですね。ちなみに家族の中では、一緒にいる時間が一番長いはずの自分より、父親に何故か一番なついています。ちょっと不安ですが。
 ところで、末松さんご指摘の、十二支に猫が入っていないといい、「猫ババ」「化け猫」など、日本における猫のイメージってあまり良くないですね。古代エジプトでは、猫は神様の使いだったり、日本でも昔は、犬のケガレはあっても、猫のケガレはないように、今ほどマイナスのイメージは無かったのではないかと思います。自分が思うには、そのマイナスイメージは江戸時代になってから形成されたのではないかと思います。江戸幕府の官学であった朱子学の普及とともに、「忠君」「滅私奉公」といったイデオロギーが、近世においてプラスの評価をされるに従って、主人に忠実な犬は賞揚されて、勝手気ままに暮らす猫はマイナスに評価されたのではないでしょうか。それは犬を主人公にした滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などの文学作品にもあらわれているように思えます。従って、猫は近世封建イデオロギーの隠れた被害者なのかもしれません。でもこんなに猫の弁護をしても、あまり猫本人に被害者意識がないのですが、ただ少し猫に対する見方がどこからきているのか、普段猫を飼っているものとして思う所を述べてみました。

東京遠征報告

No.1555

 東京工業大学の某先生の研究室へ訪問に行ってきました。さすが、東京のトップオブでした。規模や予算が全然違って、よだれが出そうな設備がそろっていました。(都庁の壁の材料を設計した研究室とか..平面のBSアンテナとか...)
 大学院でいけるかどうかは別として、しっかり眺めてきてよかったという感想です。
 希望の研究室の先生は、とても親切で不安に思っていたのがあほらしくなるくらいでした。
 ただ、田中さんの「何か無理をして背伸びをして行っても、結局は見抜かれるから、そのままで行けばいい」という助言がとても心強かったです。帰りに論文の抜刷をいっぱいおみやげにもらいました(^^
 夜行バスで新宿駅まで行ったのですが、道が碁盤の目状ではもちろん無いので、朝も晩も迷ってしまいました...。ヨドバシカメラがいっぱいあって頭がゴチャゴチャに。
 ホテルのチェックインまで時間があったので、代々木で降りて明治神宮を参拝して、新宿まで歩きました。途中、道に迷って周りがハングルばっかりの通りに出て、話している言葉も韓国・朝鮮語で「ここはソウルか?」と間違えそうなほどの空間を通ったり、東京都庁に登って夕焼けに染まる都心を眺めたりしました。
 やはり、京都人としては三方に山がないと“不安”です。

 猫の話題で盛り上がっていますが、我が家の黒猫「クロ」は今年の1月中旬に帰ってこなくなりました。僕が小学校低学年の時から、野良ネコの状態ではありますが、我が家に居着くようになりました。もう結構な年で、1月の一番寒い晩に顔を見せなくなりました。死に際を見せないと良く言われますが、本当にそうなりました。縁起はあまり良くないみたいですが、大事なかわいい黒猫でした...。

東横イン新宿から書込でした...。

猫について

No.1558

>山本さん
 ちょっと、調べてみました。日本のネコは仏典と共に中国から入ってきたようです。中国では、随の時代(589~617AD)には、早くも猫鬼という妖怪が登場しますが、これは人を殺したり、財を奪ったりする悪者です。もちろん架空の物語ですが、光に反応してスリット状に変化する目や、静電気を帯びて青光りする毛など、実際の観察からも猫に魔性を見るようになり、さまざまな言い伝えや「金花猫」などの怪奇談を生むことになったようです。
 金花猫は老猫が化けたもので、月光を吸って怪異をなし、美男、美女に化けるそうです。他にも、猫は老いると人間のことばを話し、歌を歌う、猫は妓女の生まれ変わり(日本でも芸者を隠語で猫と呼ぶ)などの伝承があります。そして黒猫を殺せば祟る、瀕死の病人や死人に猫を近付けるな、といった禁忌も生まれました。もちろんその姿形から、平安時代から愛猫家がいたことも事実ですが、上に書いた中国から輸入された影響から、鎌倉時代あたりには「怪猫」が登場するようですよ。『明月記』に登場するらしいです。
 どちらにしても、猫についてはプラスとマイナスのイメージが極端で、猫の報恩が近世になってからも出てくる事を考えると、「マイナスイメージ」が強いとは言い切れない気がします。
 ちなみに、わが家は猫のナワバリ争いの真っ只中にあるらしく、ちょくちょく家の敷地内で猫のケンカが見られます。昔、犬を飼っていた頃は、その犬がギリギリで届かない塀の上をうろうろする、いけずなボス猫がいたものです。以上、イヌ派の田中裕紀でした(笑)
 
 
>鈴木くん
 東京出張ご苦労様。私も今週末に「出張」する予定です。東京工大の先生への面会、無事終わったようで何よりでした☆