『紫苑』第2号 PDF版差し替え

No.1445

 紫苑の第2号の2回目の(大)校正を終えました。今日修正を行った内容を反映した、PDF版をアップロードしました。
 まだ、少しだけ間違いも残っているようですので、仮リリースとなりますが、今日研究室へ来られなかった執筆者の方は、きちんと修正が行われたかどうかPDF版で確認することができます。(今後の訂正は、印刷には間に合いませんが(..;))

P.S.野口先生、今日はごちそうさまでした。いろいろ作業をした後にわいわいとご飯を食べに行くのが好きなので、本当にありがとうございました。

 

正確は義務、美徳にあらず。

No.1446

 E・Hカーの『歴史とは何か』の中に「歴史家にとって正確は義務であって美徳ではない」という言葉が引用されていたように記憶しますが、史料引用などに正確を期することは研究者の最低の義務だと思います。このたびの『紫苑』編集の過程で、執筆者はそれを実践するのが如何に大変なことであるかを実感できたのではないでしょうか。そして、編集担当者のたいへんな努力にもかかわらず、結果的にそれを満足させることの出来ないまま、印刷に付せざるを得なくなってしまったことを、とても残念に思っています。ぜひ、自らの手で、正誤表を用意するなり、最善の方法をもって対応してください。それこそ、最低の義務です。
 それにしても、最近の歴史学研究の一部には、何かとらえどころのないものを論拠にしているようなところがあり、いささか気持ち悪く感じています。若い人たちが、どうもこういう風潮に取りこまれがちなのが、心配です。学問と思いつきが相対化されてしまうのは危険です。小説家と歴史学者が同じ土俵の上に立つのはマズイと考えます。
 たしかに、政治は経済と軍事だけで動くものではないとは思いますが、とりとめのない観念の世界だけで動くものでもない。すくなくとも、とりとめのあるものの、実体をつかんでから、とりとめのないものに進むべきではないでしょうか。昨今の安倍晴明ブームなどを見ていると、そう思わざるを得ません。もっと、とらえどころのある部分から、政治史のあり方を鍛えていくべきだと、小生は考えています。
  
 鈴木君・永富さん、本日は本当に御苦労様でした。

紫苑sionしおん・・・師恩?!

No.1447

ようやくこれでやっと第二号完成!!(今度こそ!!)ということでほっとしております。これで今年度のお仕事は一応落ち着いたということになりますね。
野口先生、鈴木君、また長村君と平田さんもご苦労様でした。
また先生には昼食、夕食の二食もご馳走になってしまいました。おなかいっぱいになって疲れも充電です♪
鈴木君同様、何かを終えたあとにワイワイ話しながらご飯を食べるの大好きですヽ(´▽`)/

「正確は義務、美徳にあらず。」そのとおりだと思います。
何かを書いて発信することはつまりは商人が物を売って「モトをとってあたりまえ。利益を出してなんぼだ」というのと同じことですし・・・☆
前回の創刊号に引き続き、今回も私は編集も執筆も両方させていただきましたが、あらためてその両方の難しさを感じました。編集の側の立場から感想を述べると、創刊号よりやはり良いものにするためより時間をかけて工夫を重ねる必要もあったし、また原稿の量が増えた分校正作業もなかなか大変でした。自分の原稿もなかなか満足に仕上げられる技量がないのに他の人の原稿を読み、その間違い探しをし、なおしてゆく・・・何百、いや何千分の一の確立である小さな字の間違いを探すのは「ウォーリーを探せ」より難しかったです。笑
また個々の執筆者をまとめること(原稿集めも含め)の難しさも感じました。
「紫苑」という一冊の薄い雑誌ですらこんな状況であるのに、もっとたくさんのページ数のある本を編集なさっておられる石浜さんはすごい・・・!!とあらためて思ってしまいました。

執筆者の立場からの感想としてはやはりまだまだ「勉強不足」ということです。今年一年は卒論も進路のこともありますし、しっかりと腰を据えて勉強したいと思っております。ご指導よろしくお願いいたします。m(._.)m
また、校正では自分では何度も読み直して間違っていないはずだったのに先日お亡くなりになられた某先生のお名前の字を間違えているという重大うっかりミスもありましたし・・・☆あぶないあぶない!!
・・・とまあ波乱万丈ありましたが、本当に今年も発行にこぎつけることができ良かったです。たとえるなら「踏むたび爆発する地雷」のような原稿をここまでの完成度に近づけることができたのは私たちを根気よく熱心にご指導くださった野口先生のお陰です。感謝しております。また編集作業に夜中までつきあってくれた鈴木君にも感謝しております。あとは印刷の仕上がりを待つのみですね♪楽しみです。まさに「紫苑」=「師恩」ですね。(野口先生のおやじギャグがうつりました☆)

おまけ:明日の吾妻鏡講読会、お茶会が早く終われば着物姿で参上いたします。(雨がちょっと心配なのですが・・・)

本当にお疲れ様でした

No.1448

紫苑の再校正、本当にお疲れ様でした。
明日の吾妻鏡の講読会には、鈴木くんも参加するのでしょうか??というのも、現在、うちのオーブンでケーキが一台焼けている途中なのです(^^)。一体、発表前に何を・・・と言われるかもしれませんが、大事な気分転換でして・・・(^^; で、もう少し理由をつけると、山本さんと樹里ちゃんの合格祝いと、永富さん・鈴木くんの慰労も込めて・・・。先ほど、試食用のミニチュア版を食べてみると、結構良い出来なので、みなさまお楽しみに☆
 と、いうわけなので、鈴木くんも時間があればお茶だけでも参加してね☆☆

Re: 『紫苑』第2号 PDF版差し替え

平田樹理
No.1466

野口先生、編集長の永富さん、鈴木君、長村君、皆様、先日は大変ご迷惑をおかけしました。深くお詫び致します。特に永富さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。
戒めとして、今後しっかりやっていかねばと思います。

>野口先生、ご馳走様でした。ありがとうございました。
先日の研究会は途中で抜けてしまってすみませんでした。

>田中さん、レモンケーキご馳走様でした。バタバタしてしまってすみませんでした。とっても美味しかったです。
私は、ごはん類はともかくお菓子系は作るの苦手です。。今度ケーキの作り方教えてください★

お菓子

No.1469

樹里ちゃんへ
 当方、ごはん類・お菓子類なんでもござれでございます。大学入試に失敗したら、料理の専門学校もいいなぁ~と真剣に考えた時期もあったくらいです(笑) というわけで、いつでもお申し付けください☆

ゼミメンバーへ緊急の諸連絡。

No.1440

 ゼミ旅行が終わり、一段落したいところですが、緊急を要する問題や、最近変化したこと、これから変わること、これからはじまる研究会のことなどについて連絡します。
 
 ① 『紫苑』第2号の版下について
 先月9日、永富編集長以下、丸一日をかけ、分担して一生懸命に校正を行い、版下を完成しました。これによって、予算措置を講ずることが出来たのですが、やはり、後になっていくつかの校正漏れを発見。正誤表を作成すべく、PDFによる確認を執筆者に呼びかけましたが、あまり反応はなく、安心していました。
 ところが、先日、印刷会社で仮製本してくれた版下を見たところ、いささか誤植が多すぎることが判明しました。幸い、本印刷を待って貰えることになったので、明日、研究室に来てくれる予定の永富さん・鈴木君と版下の訂正をしたいと考えています。
 永富さん・鈴木君には、『紫苑』の編集とゼミ旅行で大活躍していただいたので、私的にその慰労会をするつもりだったのですが、逆に仕事をお願いすることになってしまいました。申し訳ありません。
 この背景には、小生の不行き届きは言うに及びませんが、執筆者個々の自覚不足があることは否定できず、今後の大きな反省材料だと思います。なお、1・2回生の原稿には誤りはほとんどありませんでした。

 ② 研究室の備品などについて
 前に書き込みましたように、研究室前にゼミ用の新しい掲示板が取り付けられました。また、小生にしかお湯が出せなかった古いポットは退役させ、新しいものを購入しました。
 また、目下、須田春子先生寄贈図書の配架のために研究室の整理をすすめていますが、事務方の御厚意で、あらたに書架2つを設置してもらえることになりました。
 それと関連して、あまり役に立たなかった大きな6人用のソファーを別室に移して、新たに4人用の応接セットを入れました。

 ③ 『吾妻鏡』講読会の開始について
 この詳細は、指導者の山本君が別に書き込んでくれることと思いますが、4日から始めるとのことです。この企画は山本君と2回生の立花さんが実施を目指していたもので、鎌倉時代史研究の入門に絶好の勉強会だと思います。1回生の山内さん・山岡さんも参加すると聞いています。
 なお、この2年間、学習院大学大学院で修士課程を過ごしてきた国文専攻の門屋君も参加されるとのことです。
 これ以外にも、史料ではない読書会など、ぜひ新しい研究会の立ち上げを期待しています。また、例会発表の立候補もどしどし、お願いします。

 ④ 新年度の方針策定について
 これについては、新会長の永富さんを中心に、仕事の分担を定め、まずはメンバーの授業日程をふまえて例会の曜日を決めていただきたいと思います。また、ゼミ旅行・見学会などの原案も検討の要があると思います。そして、新年度前にゼミメンバーが集まる機会も設定する必要があるでしょう。

 以上、ちょっと出しゃばってしまいましたが、緊急な要件もありましたので、今思いつくことをアトランダムに書き込ませていただきました。みなさん、よろしく、お願いいたします。

『吾妻鏡』講読会のお知らせ

No.1442

   『吾妻鏡』の講読会のお知らせです。
 ①日・今週の3月4日(木)
 ②時間・1時~4時まで
 ③野口先生の研究室
 ④講読範囲は、文治元年十一月廿五日~廿八日まで
 ⑤注1・なお、今回の講読会では、これからの分担と予定を決めたいと思います。

既に参加の方には、個別にメールでお知らせしましたが、その他の参加希望者への連絡が遅れてしまい、申し訳ありません。

心機一転

野口 洋平
No.1439

みなさんこんにちわ。どうもお久しぶりです。院試に落ちたショックでしばらくへこんでましたが、それもおかげさまでようやく回復し、両親から様々な条件付きではありますが京都に留まり研究を続ける事ができるようになりました。
今年は結果的に失敗してしまいましたが、僕はこの一年勉強してきた事が無駄だったとは決して思いません。不合格の通知を見た時全てを忘れて地元に戻ろうとも考えましたが、逆にここであきらめたら今までの努力が無意味なものになってしまうのではないかと思い、両親も説得して研究を続ける事にしました。

自分の実力でどこまでできるかわかりませんが、自分にできる限りの事を精一杯努力していくつもりです。どうぞ今後ともよろしくお願いします。野口先生はじめゼミの皆様にも未熟なこの身でご迷惑おかけすることとは思いますが温かい目で見守ってやって下さい

そういえば今さらながらの話になりますが合宿の翌日、鈴鹿峠が吹雪で通行止めになったとか…これも壇ノ浦、熊野同様僕の影響かもしれませんね。

史蹟見学会について

野口 洋平
No.1443

肝心な事をいい忘れてました。
皆さんが忙しくなる前に恒例の史蹟見学会を実施したいと思います。まだ詳しい日程等は決めてませんが、今のところ個人的な史蹟見学を含めて三回程予定しています。

①3月10日前後
西陣散策:北野天満宮、宝鏡寺等
北野天満宮の梅園と尼門跡宝鏡寺の特別拝観を中心に西陣周辺の史蹟散策を予定。特に宝鏡寺は人形の寺として知られ和宮や孝明天皇縁の品が数多く残り、見所が多い。

②3月13日前後
東福寺、泉湧寺見学会:東福寺、泉湧寺のネハンエ特別公開と塔頭光明院、退耕庵特別拝観見学
毎年この時期に三日間だけ公開されるネハンエの見学と、現在京都冬の旅で特別拝観している光明院と退耕庵の見学。冬の旅のお寺は僕がいれば無料で拝観できるので、興味ある方はこれを機会に是非どうぞ。学生ガイドによる丁寧な?案内が聞けます。

③三月中旬以降
詳しい場所は未定ですが今のところ宇治辺りを考えてます。

以上また詳しい事が決まりましたらMLや掲示板等でお知らせしますが、とりあえず今の段階で考えてる事だけ載せておきました。
興味のある方は是非ご参加下さい。また活動地や日程等で意見のある方は掲示板に書き込んでいただくか野口まで直接ご連絡下さい。たくさんの参加をお待ちしております。
gucci_0529@vodefone.ne.jp 野口 洋平

土蜘蛛と源頼光と神楽岡

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1436

みなさん、こんにちは。

うちの奥様の頁「平安京探偵団」
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/
に、源頼光の妖怪退治についての論をアップしてみました。
もともと『国立能楽堂』という、ちょっと特殊な雑誌に書いたものですので、必ずしも多くの人の目にとまっていなかったと思います。

源頼光の妖怪退治伝説 1「酒呑童子の大江山」
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/yomo20.html
源頼光の妖怪退治伝説 2「土蜘蛛伝説と源頼光」
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/yomo21.html

特に見ていただきたいのは、後者の「土蜘蛛伝説」です。なぜ東博蔵「土蜘蛛草紙」の舞台が神楽岡でなければならなかったのか、その理由に対する仮説を提示してみました。かなり大胆な論とも思いますので、御批判をいただけたら幸いです。

そういえば、京都大学は神楽岡(吉田山)の麓でしたね。元木先生、あの辺にはもう土蜘蛛はでませんか?

山田先生、町内会長御就任。

No.1441

 吉田山の近くに頼光の伝承が成立する理由については、小生もある考えを持っておりますが、ここでは出し惜しみすることにします。そのうち、どこかにデーンと書きます。
 それよりも、山田先生は町内会長に選出されたとのことで、御苦労様です。花園の史学科主任もまだ任期中なのでしょうか。
 若手研究者だったはずの山田先生も、いよいよ肩書きが「長」だらけになってきましたね。ご無理をなさらないように。そういえば、同志社の竹居明男先生も、ごく最近、町内会長をされていたはずです。
 でも、山田先生のことですから、平安京京域内の町内会運営の経験をもとに、また新しい「京都論」を世に問われるのではないかと楽しみでもあります。

Re: 土蜘蛛と源頼光と神楽岡

長村祥知
No.1444

山田先生こんにちは

私、学生サークルで狂言を習っているので、とても興味深く御論考を拝読させていただきました。
しかし現時点で自分にはあまり生産的な意見を述べる事が出来ないので、つまらない事を伺い、恐縮なのですが・・・

先生は能楽と何か特別な御関係があるのでしょうか??

Re: 土蜘蛛と源頼光と神楽岡

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1452

野口先生、長村さん、こんばんは。
野口先生> 先生の「隠し玉」が気になります。どこで爆発するのでしょうかね。
長村さん> 読んでいただき、ありがとうざいます。ただ、私は能楽とはぜんぜん関係ありません。脇田晴子先生だとおんみずから能を舞われるのですがね。
「国立能楽堂」に執筆したのは、まったく思いもかけず、あちらさんからの御依頼です。永く研究生活をやっていると、どこでどんなリクエストが来るかわかりません。今回も、頼光の妖怪退治伝説なんて、自分が書くとは思ってもみませんでした。
でも、やはり挑戦してみると自分なりに勉強になります。チャンスを与えてもらった国立能楽堂には感謝しています。一般化していうと、どんなことでも「チャンス」が巡ってきた時に、それをパッとつかめるか、またはグズグズしてそれを逃すかで、その後のありかたが変ってくるような気がします。
・・・国立能楽堂の仕事をしたおかげで、梅原猛原作のスーパー狂言のプレ公演にご招待いただくという役得がありました。

Re: 土蜘蛛と源頼光と神楽岡

長村祥知
No.1453

山田先生
お返事ありがとうございました。
そして自分も、「チャンス」を逃さないように頑張りたいと
思います。
スーパー狂言・・・どのような出来かは存じ上げませんが、役得とはうらやましいかぎりです。
以前自分の卒業公演の際にも書き込んだことの繰り返しとなりますが、古典曲には変容しながらも長く受け継がれるだけの良さがありますし、素人の(特に学生の)芸には、心地よい熱意・気迫があります。
もしご興味と機会があれば、是非一度学生能をご覧になってください。

さて。
実は私、田辺の収蔵庫で、若き日の山田先生の須恵器実測図を
拝見したことがあるんです(勿論とても上手でした)。
結局私は文献史学の魅力に惹かれ考古学を専攻とする事無く、野口先生のもとにおしかけていって、今こちらにお邪魔しているわけなんですが、まさか能楽関連でこんなやりとりをさせていただけるとは思いもよりませんでした。
世の中不思議だらけです。

Re: 土蜘蛛と源頼光と神楽岡

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1462

長村さん、こんにちは。

私の若き日の須恵器実測図ですか。どこの遺跡のやつでしょうかね。同志社京田辺校地の下司古墳群かな?
私は1・2回生の頃、土器の実測図が描けなくて苦労したのですよ。何べん描き直しても似てこないので、途中で投げ出すことたびたびでした。
しかし、それでは考古学をやる資格はないわけです。3回生になって一念発起、土器の実測に没頭し、とにかく丁寧に描くことを繰り返したおかげで、なんとか人に見せても恥ずかしくない図面が描けるようになりました。
考古学ならば図面が描けること、文献史学ならば史料が読めること、外国史ならば外国語ができること、いずれも必須ですね。これらの技術は、やはり若いうちに根をつめた努力をしないと身に付かないのだと思います。

今日から元木教授。

No.1423

 京都大学の春の除目、もとい、人事で、元木先生は晴れて教授に昇任なされました(3月1日付)。先生は院生時代から、すでに「元木助教授」と呼ばれていたとのことを、美川先生からおうかがいしておりますが、いささか、事大主義と捉えられるかも知れませんが、やはり京都大学教授というポストは、多くの研究を志す者にとって羨望の対象だと思います。
 元木先生も、長いご苦労の末のことゆえ、いろいろな思いがおありのことだと存じます。また、それにも増して御家族のお喜びも一入なのではないでしょうか。われわれ京都を本拠にして、日本中世史を専攻する者にとっても、とても嬉しいことです。
 教授というポストにはいろいろな責任が伴いますから、ますますお忙しいことになろうかと思いますが、元木先生には、関西ににおける日本中世前期研究者の「棟梁」として、ますますの御活躍をお願い申し上げる次第です。当ゼミメンバーも、ストレス発散のカラオケ大会の実施など、いろいろお役に立たせていただきたいと存じております。おめでとうございました。

おめでとうございます

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1424

元木先生、京都大学教授御昇任、おめでとうございます。
ただ、先生の御業績からすると当然すぎるほど当然のことではありますね。
とにかく、祝・祝・祝・祝・・・・・

(国立大学の人事は3月1日付にもあるのですね。知らなかった。)

Re: 今日から元木教授。

美川圭
No.1425

 元木先生、おめでとうございます。ご業績からすれば、もっと早くご昇進、というのが常識だと思いますが、大学というところは、いろいろあるところですからね(一般社会の昇進のほうがもっと理不尽かもしれませんが)。
 私も、たいした大学ではないですが、昨年に教授となりました。たしか、山田先生も同時期にご昇進だったと記憶しています。
 予想外に、たいへん、といった感じです。助教授、講師は今後の昇進がかかるので、いいたいことがいえない。教授は、学部長や学長をねらう一部の人をのぞいて、もう「上がり」ですから、助教授以下の代弁をしなければならない。責任感のない人はどうでもいいですが、少々でも良心をもっていると、そういう意味でがんばらねば、と思ってしまうのです。そのために、雑用増加だけでなく、精神的な負担が大きいです。
 京大も4月からの法人化で、先例のない世界に入っていくわけで、たいへんだと思います。くれぐれも、飲み過ぎに注意し、ご自愛くださいますように。

おめでとうございます。

No.1428

元木先生、おめでとうございます。美川さんのレスにもあるように、今後は益々体調管理にはご留意下さい。

おめでとうございます。

No.1433

遅ればせながら、元木先生、おめでとうございます。
参考文献については、私も恥ずかしい思い出があります。ある本で、なんと元木先生のお名前を間違えてしまいました。実際は著者が間違えたにしても、それを見つけられなかったのは、不徳の限りです。おそらく、皆様のお手元にある本を探っていただければ、見つかるかもしれません。元木先生にはお叱りの言葉をいただきました。その節は、失礼いたしました。こうしたミスは、編集者の信用にもかかわるので、気をつけるようにしております。
なお、一般社会の人事は理不尽です。年功序列には決して反対ではありませんが、こうも無能な上司をたくさん見せつけられると、能力主義を導入せよ、と叫びたくなります(かくいう私が、まっさきに首を切られたりして)。お前なんかに、俺の企画について云々されたかぁねえぞ、という方がいっぱいいるのです。ろくに一人で本を作れないお前が、がたがたいうなというお方がいっぱいいる会社なのです。
それでも、みなさんが順当に昇進されているご様子をお伺いしていると、大学の人事はうまく機能しているのではないかと思います。2月の新聞に「産学連携 文系も本腰」という記事が出ていました。そうした中では、いろいろと風当たりも強いのではないかと思いますが、そんな中だからこそ、先生の今後のご活躍に期待したいと思います。

白い巨塔?

No.1435

野口、美川、山田、近藤の諸先生方、また石浜さん、教授昇進につき、お祝いのメッセージを頂き、本当に有難うございます。厚く御礼申し上げます。京都では、何かの新聞にでも人事が掲載されましたのでしょうか。Eメールでもお祝いの言葉を頂き、恐縮しております。
厳しい業績審査の結果、きわどいところで対立候補を追い落とし、その陰では執行部にあれこれ裏工作をし、実弾飛び交う修羅場を潜り抜けて昇進した財前教授のような立場なら感慨もひとしおのことと思います・・が、こちらは定員制度でして、要は誰かが定年、辞任、まれに死ぬようなことがあれば、ほぼ年齢順に昇進するだけでして、まあ海外に移った先生がいたおかげで、思ったより一年早く昇進したな、というようなところです。
山田先生の仰るように、3月1日付というのは変な人事なのですが、当方の部局ではあきポストが先にあり、どの講座に配当するか決まった段階で人事が行われることになっております。そんなわけで、随時昇進するようです。
昇進と同時に待っていたのが、全学の学生部委員でして、独法化とともに強化される学生対策、前回話題になりました革マル、中核の教室占拠や、泥沼化している寮対策要員を仰せつかってしまいました。サマーワに行く自衛隊、てなところですかね。学内では昇進の祝辞より、同情の声の方が大きい有様です。これを旨くこなせば執行部など問い言うことになるのでしょうが、当方そんな器でないことは十分自覚しております。今後は、いかに仕事をサボり、ゲバ学生の矛先をかわし、外部評価をごまかし、くびにならない程度に無能の烙印を押されるように振舞うかが課題でしょう。
学部内の学生生活委員を務めただけで、執行部、職員、学生の板ばさみになって相当精神的ダメージを受けてしまいました。今後のことを思うだけで、酒量も激増気味です。もう少し心身のタフな方を選んでくれれば良いのにと恨み言の一つも言いたくなります。なお、当方の研究室に来られる時は、火炎瓶や角材に備える防具をご持参ください??
ついでに、屈強なボディーガードと、健康管理をしていただける方、募集します。もちろん、どちらも無給ですが。後者はできれば女性にお願いいたします???
冗談はともかく、こうした次第だからこそ、少しでも時間を惜しんで、努力したいですし、研究会などには力を入れたいと思います。
今後とも、よろしくご支援のほど、お願いいたします。

名古屋大学のシンポジウム

末松憲子
No.1417

今晩は。
来る3月13日に名古屋大学で「今開かれる文庫の魅力」というシンポジウムが開かれます。五味先生、安部先生、塩村先生などが講演をされるそうです。
ちょうどその時期別の講演を聴きに名古屋へ帰っているときなので、行ってみようと思っています。もしレジュメが欲しいという方がいらしたら、今度京女に行くときにコピーして渡しますので、この掲示板に書き込みしておいてください。(4月以降の渡しになるかもしれませんが)

長村君へ
ごめんなさい、先日教えてもらった鍛冶に関する資料名を失念してしまいました。あとでメモらせてもらおうと思ったことすらすっかり・・・(お恥ずかしい)
すみませんが、この掲示板に書き込んでもらえませんか?

Re: 名古屋大学のシンポジウム

長村祥知
No.1422

すいません、後でお見せするつもりがすっかり・・・(お恥ずかしい)

豊田武「中世の刀鍛冶雑考」が、豊田氏の『著作集』2巻に、
豊田武「刀鍛冶の信仰」が『日本歴史』100号にあると、
『著作集』8巻の付録(年譜・著作目録)P56・P73に書いてありました。

以前に申し上げた通り、私も論文自体を見たわけではないので、ご参考になるか分かりませんが、情報源とともに書き込ませていただきます。


あと、名古屋大学の講演レジュメ、お願いします。

Re: 名古屋大学のシンポジウム

末松憲子
No.1432

長村君へ

ありがとうございますo(^-^)o

速報・廣政さん、卒業生総代に決まる!

No.1407

 昨日は、院試全員玉砕の報が入り、とても残念でした。しかし、三人からいただいた私信で、そろってこれを肯定的に乗り切っていこうとする姿勢をもっていることに、むしろ感動をおぼえました。
 また、田中さんの報告にたいする諸先生方の激励を拝見して、これは長い階梯の中の常道なのだなと思い至った次第です。
 思い起こせば、小生は恩師のお情けで修士課程も博士課程も簡単にクリヤーさせていただいたのですが、職など無くてODとなり、ようやく学位を取得しても、周囲から「日本一惨めな博士」と、同情の交じった嘲笑をかう有様でした。スタートがちゃんとしていた方が学問の王道を歩めるのかも知れません。
 それにいたしましても、先生方御自身の経験に基づくお話しは、とても貴重なもので、ありがたく拝読させていただきました。こんなに励ましと評価をいただいて、田中さんが羨ましい限りです。

 ところで、昨日にうってかわって、本日は朗報一件。タイトルの通りです。廣政さんはこの四月に、京都女子大学短期大学部から文学部国文学科に編入するのですが、短期大学部卒業生の総代とのことです。教師はダメですが、ゼミメンバーが優秀なので、このゼミは安泰です。

 ちなみに、その廣政さんは明日から中国旅行に出かけるのだそうですが、なぜかこれから家に帰ってNHK大河ドラマ『草燃える』のビデオを見るんだと張り切っていました。山本君の『吾妻鏡』は盛況が期待されます。

 それから、事務方の御厚意で研究室入り口横に掲示板が設置されました。このHPの掲示板は大盛況ですが、この本物の掲示板もおおいに活用してください。
 また、研究室のソファーも、もっと実用的な椅子に取り替えて、研究会などに使えるようにする予定です。山本君と長村君とが月曜日に勤労動員されることになりました。

Re: 速報・廣政さん、卒業生総代に決まる!

No.1410

総代...おめでとうございます。
僕は高校の卒業式の在校生代表はやったことありますが、
廣政さん、さすがですね☆
どんな事をするのかわからないのですが、体験談を聞かせてくださいね!!

掲示板つながりで、一つ情報です。
伊勢旅行中のこのホームページへのアクセスを調べてみました。
2月25日が、実質的にゼミ以外の人のアクセスと考えても良いと思いますが、予想に反してアクセス数はほとんど落ちませんでした。
 普段は訪問数150くらいが平均値ですが、25日は120でした。厳密なデータではないですが目安としてみても、ゼミ以外の方がご覧になっているのがとても多いことが、数字として出ました。(ちなみに、翌日27日のアクセスは普段の3倍ほどありました)
 掲示板は情報の更新が命です。リアルとバーチャル、両方の掲示板が盛況になればうれしいです。今後も、よろしくお願いします。

関幸彦著『北条政子』刊行

No.1416

 このHPへのアクセスがどこからなされ、曜日ごとの件数の変化はどのようなものか、などといったこと、実に興味深いものがあります。それにしても27日のアクセスが普段の三倍だったとは。
 いずれ、鈴木君にbbsに関わる分析の御報告をお願いしたいものです。
 ↓では、院試から、英語・入試のあり方にまで、話題が広がっていますが、小生もご多分に漏れず英語は大の苦手科目でした。青学に入れたのも、当時、史学科の配点が国語・英語各100、日本史200点だったからです。日本史は全部出来たと思います。英語は苦手でしたが、基礎的な問題をじっくりと解答するという出題形式なので、何とか答えられました。早稲田も受けましたが、当時は、予備校で、どうでもいいような知識とテクニックを身につけなければ受からないような設問ばかりでした。
 ちなみに、私が大学を受験したのは1969年、東大が紛争で入試を行わなかった年です。
 入試のあり方について、美川先生の仰ることはよくわかります。今の入試形態は、「本来の大学」の欲する人材を得るためのやり方ではなく、時間と労力の都合による便宜的・妥協的な方法だと思います。
 ちなみに、元木先生は、まだ入試業務でお忙しいのでしょうか。「コラッ」の書き込みが懐かしくなってきました。
 「書き込み」といえば、美川先生は、ここでもスゴイですが、諸方のbbsでお名前を見かけます。「鎌倉時代」「京大文学部同窓会」「後深草院二条」「東アジア怪異学会」などなど。『美川圭著作集』が刊行される暁には、こうした書き込みを集める必要がありそうですね。
 
 さて、昨日、標題の御高著を拝受いたしました。関先生、御覧になっていたら、あつくお礼を申しあげます。ミネルヴァ日本評伝選の第7回の刊行です。前回は元木先生でした。
 近藤先生の『源義経』、美川先生の『後白河天皇』にも、きっと先んじられてしまうだろうと思いますが、娘の政子に出遅れた今、小生も『北条時政』の執筆の準備を「粛々と」(保守政治家の好きな用語を敢えて使用)進めたいと覚悟を決めております。
 関先生のご本の中身は、まだ拝読していないのですが、ただ、参考文献欄に、現段階における北条政子研究の最先端の成果である、野村育代氏の『北条政子』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)があげられていないことと、「野口実『源氏はなぜ三代で滅びたか』新人物往来社、二〇〇一年」という、タイトルも発行年も身に覚えのない本があげられているのが気になっています。

お疲れ様

No.1419

野口先生、美川先生、ゼミの皆さん、ご旅行お疲れ様でした。天候にも恵まれたようですし、充実したご旅行のようで何よりでした。土産話を楽しみにしております。美川先生、お祓い町入り口の岩戸屋尾置ける某大先生の鰻事件はご披露になりましたか。
当方も、年度末校務が終了し、これで一段落というところです。最近、特に視力が低下し、目を酷使する仕事は辛くなってしまいました。試験というのは、確かに酷いし、矛盾はあるし、向き不向きはあるし、どうやっても問題の残る制度ですね。学部、大学院、それぞれどのような試験がもっとも望ましいのか、常に厳しく検証を繰り返すべきだとは思いますが、反面、ころころ変えるのも受験生には酷ですし、このこと一つをとっても問題の深さが痛感されます。
当方は英語はさほど苦手ではありませんでした。大学受験のときも院入試でもさほど困ることはありませんでした。英語は日本前近代史や国文の研究者には不要、ともいえますが、英文和訳は、英語を媒介にした国語、文章力の鍛錬と悟ってしまえば、それなりに意味もありますし、乗り越える道もあると思います。
が、数学と理科はどうにもなりませんでした。現役の時、京大入試で社会は7割、国語、英語は6割強を得点し、同じ高校から受験した中でダントツでしたが、あとが無残な成績で、合格点に20点届かず(900点満点で520点がボーダー)、一年を棒に振りました。何で日本史を専攻すると決めているのに、数学と理科でこんな目にあうのかという、理不尽さに涙があふれました。何とか翌年はもぐりこめましたが、数学や生物の知識がその後、直接的に役立ったことはほとんどありませんでした。しかし、数学や自然科学のもつ論理性が、論文作成に有意義である等と言うことがうっすら分かってきたのは何本も論文を書いてからのことでした。
広範な可能性を試す学部入試と、院入試は同じレベルではありません。しかし、直接的な有益性のみではなく、学問の可能性や思考力の深さを試すという方針は同じではないでしょうか。無論、これは試す側の理屈でしょうが、かく申す当方、浪人時代に悟りました。この世の中は理不尽である。この先、どんな理不尽に遭遇するか分かったものではない。されば、理不尽を乗り越える精神力が必要である。だから数学と理科を勉強せねばならないのだ、と。
ミネルヴァ、関先生の御著書刊行で、毎月刊行が守られ手いるようですね。参考文献というと、かく言う当方も苦い思い出があります。昔さる本の参考文献欄で上横手先生の書名を間違えてえらくお叱りを頂戴してしまいました。本文の校正で精力を使い果たし、付録のころは心が浮ついていたためでした。今回も高橋昌明氏の書名に校正ミスがありますが、あれはチェックしたはずなんですがね。毎月二巻刊行が一巻となり、編集者も焦慮のようです。それが杜撰な校正につながった面もあるかもしれません。再校の時のこと、仕事納めに合せて編集側の校正を済ませ、正月5日に返すようにとゲラを送りつけてきたときは、さすがに腹が立ちました。売るために本を書くのではない、納得が行くように本は書くものであるという近藤先生の名言は、編集サイドも銘記してほしいものです。
ちなみに拙著、一時よく売れて、アマゾンで見ると井沢元彦と並んでいた時もあったようです。おかげで、現在在庫切れとのこと。多田源氏愛好会ご一同様にでもまとめ買いしていただいたのかいな。そう売れる内容ではないのですがね。内容も井沢某並だったりして。


久々の緑の文字。

No.1420

 元木先生、入試業務お疲れさまでした。もう、こちらは伊勢のことなど遠い昔のことの如しです。実に目まぐるしい毎日が続いております。それにしましても、お久しぶりです。
 「理不尽云々」至言だと思います。小生、常に敵前逃亡ばかりで、高校時代も数学・物理に立ち向かう気力などはなく、早々に私学一本でした。そのあたりが、結果で大きな差をもたらすわけですね。
 さて、もう遠い昔のゼミ旅行ですが、見学による収穫のみならず、やはり三日間一緒にすごしたことで、メンバー相互に多大の認識の深まりがあったようです。小生は、メンバーの人間的優秀さをあらためて思い知らされました。
 伊勢内宮参道の岩戸屋には、大挙して昼食に立ち寄り、美川先生から鰻一件のお話しをうかがいながら、伊勢うどんを食しました。「やはり○○に限る」というところへは、小生のミネルヴァ担当巻の執筆取材のために近く訪れる予定ですので、そのさいに、その真偽を確かめて参りたいと思っております。
 それにいたしましても、近頃、鳥インフルエンザとやらで、そのうち焼き鳥の肉が、某先生の言われるとおりになる哉も知れませんね。未来を読む慧眼とでも申しましょうか。  

岩戸屋の変貌

美川圭
No.1429

某大先生の逸話に名をとどめし、岩戸屋なんですが、
すっかり、変貌しておりました。
かつては、土産物売り場の2階に、いかにもという食堂があったわけです。たしか、小学生の元木先生が、修学旅行で昼食を召し上がったところですよね。

(ここで、その情景をしばし想像し・・・)

そこで、カレーライスや親子丼などを食するのは、まあ常識的なのですが、そこで鰻丼を注文するというのは、かなりの勇気のいることでした。なにせ、お重はプラスチックでしたから。それゆえ、大先生といわれるかたのユニークさが際だつわけです。ましては、ご故郷の鰻の老舗との味を比較されるとは・・・。

それを思うと、このたびの旅行で訪れた岩戸屋は、外見こそ当時とそれほど変わりませんでしたが、食堂は1階に移り、食券購入というのが、かつての大衆食堂の雰囲気をいくらかのこしているとはいえ、かなりこざっぱり清潔感あふれるものになっておりました。たぶん、おかげ横丁の特徴ある飲食店に対抗して、岩戸屋なりの精一杯の経営努力の成果なのでしょう。といったことで、1500円の鰻丼を注文することに、それほど違和感をもちませんでしたが、けっきょく400円の伊勢うどんですませてしまいました。やはり、凡人は逸話をうめません。

岩戸屋の思い出

No.1434

美川先生、そうですか。岩戸屋も多少は変化したようで。以前、行ったときは伊勢うどんもなかったような気がしますが、如何でしょう。あの、たまり醤油の辛さはなかなか刺激的のように思います。
ちなみに、当方の修学旅行は1966年5月、西宮の夙川小学校6年の時でした。鳥羽で島巡りをして、真珠島を見学、二見浦の旅館に泊まって枕を投げて怒られました。翌朝、夫婦岩と朝熊山を経て、外宮、内宮に参詣したのち、岩戸屋で昼食でした。あれから40年近くを経た昨年の同窓会、その時、級長だった親友は救急医師、すっかり禿げ頭になってしまいました。少し胸をときめかした美少女が・・・どうなったかは言わぬが華ですかね。担任の先生の訃報に接したのは残念でした。まさに往時茫々です。
ところで、松坂ではどうなさいましたか。牛肉は堪能されましたでしょうか?そんなことより、史跡見学の成果を伺うべきでしょうが・・・。
野口先生とゼミ生諸君のキャッチボールとか、何か青春ドラマを髣髴とさせるシーンもおありの由、いずれ詳しくうかがう機会を楽しみにしております。

薗田さんへ

No.1397

レスを返す前に薗田さんのスレッドが次のページへと行ってしまったのでここにあらためて書き込ませていただきます。
薗田さんのお話は野口先生からうかがっておりましたのでこちらこそ先日の研究会でお会いできてよかったです。
私ごときに感動していただけるとは・・・お世辞でももったいないくらいです。
ありがとうございます。(*^^*)

また今後もよろしくお願いいたします。

Re: 薗田さんへ

長村祥知
No.1405

ご参考になるかわかりませんが、私の作成した資料でよろしければいくらでもお渡しします。
どうしましょうか?

ご報告

No.1386

 本日、神戸大院試の合否が出ました。
予想通り、不合格でした。とても残念ですが、1年間じっくり勉強するための時間が出来たと考えています。修論はもちろんの事ですが、それよりもその後の試問と、院試での面接試験がとても良い勉強になりました。3月の軍記と語り物での研究発表で意見を頂く事ができれば、総合してとても実りのある春になることと思います。また1年頑張りますので、皆様どうぞよろしくお願い致します。

Re: ご報告

No.1387

 とても残念でしたが、ここにズバッと書き込みをされたように、田中さんは、もう前向きに受け止めているようで、エライ!見習いましょうね。この性格は。
 はっきり言って、院試のとくにドクターは、研究職への登竜門ですから、同業者としては、そう簡単に入れるものにして欲しくない。でも、入ったからには矜持をもって欲しいという気持ちで、小生はいます。
 それから、入りたい側と受け入れる側の相性もありです。恋愛もあれば、見合いもある。じっくりつきあってというのもあれば、電撃もあるという次第です。だから、普通の入試とちょっと違う。
 まあ、田中さんなら、何処に置いてもどうにかすると思いますが、これから一年の成長を楽しみにしております。しつこいようですが、「年増」はプラスイメージなんですからね。

Re: ご報告

No.1391

佐伯真一です。
田中さん、残念でしたが、私も野口先生と同様の感想です。
その日のうちに報告の書き込みができるのは、偉いと思います。その調子なら、この一年を有意義に過ごせるでしょう。
軍記・語り物研究会のご発表、楽しみにしています。

Re: ご報告

美川圭
No.1400

田中さん、残念でした。
僕も院試、2度も落ちたんですよ
(ちなみに大学も2浪です)。
景観から言って、やっぱり落ち込むけれど、
僕でもなんとかやってるんだから、
あなたみたいなバイタリテイがあれば、
乗り切れるよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ。
僕は、あなたの価値を、十分今回の旅行で認識しました。
ドンマイ、田中。

Re: ご報告

美川圭
No.1401

「景観」→「経験」です。もちろん。

Re: ご報告

源健一郎
No.1402

ご無沙汰しております。源です。
伊勢へのご旅行、充実したものであったようで何よりです。また、「紫苑」掲載の熊野旅行のコラージュには、僕たちファミリーまで載せて頂き、ありがとうございました。娘がお尻を向けていてスイマセン。
前置きが長くなりましたが、田中さん、本当に残念でした。
でも、勉強のために、東京へ、名古屋へと飛び回る田中さんのバイタリティからすれば、きっとまた道が開けると信じます。まずは3月の軍記の会での発表が、その第一歩となればいいですね。
どうか気落ちなさいませぬように。

人間万事塞翁が馬

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1403

みなさん、こんにちは。
美川先生が入試失敗の豊富(?)な経験をお持ちとは!
私も、大学院のドクターコースに進みたかったのですが、院試に失敗しました。それからしばらくは、研究者としてやっていく自信を失い、真剣に他の道を探ったことがあります。
とにかく一年間だけは平安博物館の発掘調査で過ごし、その後は教員採用試験を受けよう、と心を決めかけた時、偶然にも同博物館に採用していただけました。
だから、私は結局、ドクターコースには行っていません。私の学歴は「博士課程修了」ではなく、「博士課程前期修了」です。私の学位も、論文博士です(学位をとった時には、ドクターコースに行けなかった永年の劣等感から解放された気がして、正直嬉しかった)。

しかし、私はそれまで古墳時代の研究に没頭してきました。院試失敗→発掘参加→平安博物館就職(野口先生にも出会う)→平安京研究、という経緯で古代・中世の都市研究を始めたわけですから、もしあの時に無事にドクターコースに進んでいれば、就職も研究も、そして人生そのものも、まったく別の途をたどっていたかもしれません。
人間万事塞翁が馬、ですね。

英語なんて、このやろ

美川圭
No.1404

山田先生、こんにちは。

私は英語が苦手で、苦手で、まいりました。
大学入試のときは、1浪目でも予備校の模試で、
偏差値30台。ひどいもんです。2浪目はましになりましたが、英語の比重が高い私立大は、軒並み失敗しました。
暗記力に劣るので、英単語が覚えられないのです。

英語の分を、数学や理科でかせがなくちゃならないんです。

ですから、大学院入試の英語にもてこずりました。
そもそも、大学院で日本中世史やるのに、英語が入試科目にある「意味」がわからない。
某教授に問いつめたのですが、けっきょく、そういう制度になっているから、という回答しかえられなかったのを覚えています。
大学入試まで英語があるのは、わからんでもありませんが、
外国史やるわけでもないのに、英語が入試にあるのは、いまだに解せません。太平洋戦争でアメリカに負けたから?

大学の一般教養での英語も、あっさり廃止したらいいと思います。もう6年間もやってんだから。できれば他の初学言語、フランス語、とか中国語とか、スペイン語、ドイツ語をやりゃいいんです。

激励ありがとうございました

No.1408

 ゼミの皆さんに宛てて書いたはずの結果報告に、こんなにたくさんの先生方からのレスが返ってくるとは・・・!!身に余る激励の言葉に、とても勇気づけられました。先日、伊勢旅行をご一緒した美川先生にお褒めの言葉をいただいては、なんだか面はゆい感じがしますが、とても嬉しかったです。ありがとうございました。
 さて、来月の発表の準備で学校に来てはいますが、さっぱり進みません。どうしたもんでしょうか・・・・・(ーー; というわけなので、佐伯先生、あまり楽しみにはなさらないでくださいね。

Re: 英語なんて、このやろ

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1409

美川先生、こんばんは。
先生は、私と同類だったんだ!!!
私も外国語が苦手中の苦手。時々いまでも一念発起していろんな外国語に手を出そうとするのですが、続いたためしがない。結局、外国語はぜんぜんダメ。
しかし、世の中には「英語くらいできなくて研究者と呼べるか!」という常識があるようです。これまでその常識にどれだけ悩まされてきたことか・・・
もちろん、外国語ができるに越したことはありません。角田文衞先生なんかは英・独・仏・伊・露・羅・現代希・古代希(←皆さん、わかりますか? 羅はラテン、希はギリシアです)等ができるそうです。私の専門分野でも、外国の成果を参照できればすばらしいのは確かです。
しかし、少なくとも日本史や日本考古学の分野で外国語が必須かというと、そうは思えません。こんな私でも研究者でございという顔をして生きていますからね(でも、良い子の皆さんは真似をしてはいけません)。

英語嫌いが嵩じて、常々「英語帝国主義反対」を叫んでいる山田でした。

Re: 英語なんてこのやろ

美川圭
No.1411

山田先生、ほとんど同意見です。

外国語ができるにこしたことはないけれど、
できない人間には、日本史もやるな、というのは、
かなり酷です。
僕も、修士2度落ちたときは、リクルートに行って、
職探しをしました。
けっこう、これで悩んでいる人、いまでもいるんじゃないかな。
日本史(とくに前近代)だったら、古文・漢文は必須ですね。
私の職場に入学してくる学生で、これはと思う子もいるんですが、入試の国語にそれらが課されていない(つまり現代文のみ)ため、まずほとんど勉強していないので、少なくとも前近代史は本格的にやらせられない。史料がまず読めないのです。こっちのほうが困ります。

院入試で、日本史の前近代志望だったら、少なくとも活字史料
が読めなかったら、どうにもなりませんよね。

京大文の院は外国語が事実上1つだったけど、2つなんてのもけっこうあるわけですから、もうたいへん。英語以外にもう一つ外国語なんて、日本史の学生にとって、負担以外のなにものでもありません。どうして、もう少し合理的にものを考えられないんだろうか、大学ってところは。

語学

No.1412

美川先生・山田先生>
 語学については私も疑問を抱いておりましたが(「語学」というよりは「文法」が大嫌いなのです)、神戸大の受験の「語学」には「日本古典文」「古文書」が含まれます。募集要項でそれを見つけ、もちろん願書には大きな字で「日本古典文」と書きました。かなり「合理的」な大学なようです。

Re: 英語なんてこのやろ

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1414

>田中さん
すみません、あなたへの激励のつもりが、美川先生と勝手にもりあがっています。

>美川先生
勝手にもりあがりの続きです。まとめてみるとこういうことかな?

       必須   準必須※ 望ましい
          
前近代日本史 漢文   古文書  外国語
       古文
       現代文

日本考古学  発掘技術 漢文   外国語
       遺物観察      古文
       現代文       古文書
                 物理・科学

外国史    外国語
       現代文

外国考古学  発掘技術      物理・科学
       遺物観察
       現代文
       外国語

  ※準必須は「限りなく必須に近い」

いずれも、現代文(現代日本語)は必須です。人の文を読んで正しく理解し、自分の思想を正しく人に伝えられる日本語力を持つこと。あたりまえですけれども、意外にわかっていない人が多い。私は、自分の研究室の学生には常々、「君たちに一番大切なものは日本語の能力を磨くことだ」と言っています。

ちょっとトロい子

美川圭
No.1415

 田中さん、勝手に山田先生と盛り上がって、すいませんね。

年をとってくると、やたらに昔話をしたくなるもので、
古老の繰り言、ということで、もう少し我慢してね。

 山田先生、ぼくは入試というもの自体が苦手なんです。
実は、院入試に2度落ちたあと、上横手先生に、
同趣旨の話をしたら、先生は即座に、
京大入ってきたんだろ、と言われました。

 そこで、はたと気がついたのですが、
なんで京大はぼくを入学させたんだろ、ということです。

 ぼくは、東京のとある私立高校の出身です。
その高校では、毎年、第一志望は、
東大、一橋大、東工大、そして医学部、のどれか、
とほぼきまっておりました。

 一応、日本史が好きだった、ぼくは、
なにも考えず、東大をうけました。
ところが、当時、共通一次導入の前で、
東大には、足切目的の独自の一次試験がありました。
これが、英数国で120分(だったかな)とかいった形式の客観テスト。これがぼくには酷でした。

ぼくに会った人は、すぐ気がつくと思うんですが、
ものごとをてきぱきとこなすことができない。
いわゆるトロいんです。頭の回転が遅い。
(ふつうこういうのを世間では「頭が悪い」というのかな)
そのために、この手の試験では、時間切れ。
数学を最初にはじめると、それだけで70分かかっちゃう。
学力もなかったけれど、けっきょく2度とも足切りでした。
つまり、2次試験の論述試験に進めなかった。

2度東大1次試験で落ちて、とうぜん英語があれなので、
私立も全滅。

 そこで、思いついたのが、京大受験です。
京大の入試は、当時、東大とタイプがまったくちがい、
足切りのための客観テストがなかった。
3日間にわたって、各科目たしか150分、
つまり2時間半も時間があり、
しかも、その問題はどう見ても、難問ではなかった。
ようは、ゆっくり受験できるわけです。
これなら、トロいぼくでもなんとかなるか、というわけです。

 あたりましたね。
とても入試とは思えないゆったりした時間の流れ。
ちょうど、当日の京都は雪が降っていました。
教養部(現総合人間学部)の校舎で受験したのですが、
窓の外は、吉田山、その家並み、そして舞う雪。

信じられない美しい風景です。

ああ、これは川端康成の世界だ、と勝手に思いました。
その絶景にしばし見とれても、それでも時間が余る。余る。

ということで、運良く、京大に入りました。

いまの大学や大学院の入試には、そういうヴァリエーションあるのかな。とちょっと思います。やはり人間、いろいろなタイプがいるんですよ。

トロい子以前

No.1421

 京大文学部を三回受験して三回とも落ちた私はトロい子以前ですね。それと、國學院の博士課程の入試も一回落ちてます。しかし、京大合格に向け、一生懸命受験勉強したお陰で、自分で言うのも何ですが、英語の翻訳力だけは物凄く付きました。一時は翻訳の通信講座も受講していました。じつは國學院の院試も外国語ではなく、専門で落ちました(こっちの方が情けない)。その後しばらくは翻訳からもまったく離れ、英語力もまったく落ちてしまいましたが、最近、大好きなスタートレックシリーズの英文字幕(CCといい、アメリカのテレビでは耳の不自由な人のために英文字幕が入る)が掲載されているファンサイトを見付け、それをプリントアウトして毎日読んでいたら、また少しづつ英語力が復活し、学位審査の英語の審査も満点でした。趣味が身を助けました。そういう英語の勉強法もあると思います。
 なお、京大受験不合格の青春の蹉跌は、元木先生のご尽力で京大の教壇に立つことができて、やっと解消されました。元木先生には本当に感謝致しております。
 ですから、田中さん、一度の院試の失敗くらいで諦めてはいけません。これはいまだ専任の職のない自分への戒めでもあります。 

トロい子、旅に出る

美川圭
No.1427

近藤先生、こんにちは。

ぼくも、英語が役に立たなかったというわけではないですね。
人より4年も多くやったわけですから。
とくに、海外に行くことが苦にならない。
だいたい、いま英語がわかると、そんなに海外で不自由しません。とくに95年に学生を98人もアメリカに語学研修で引率したときには、たすかりました。
まあ、世の中、入試より理不尽なことがいっぱいで、
社会にでたときの、そっちのほうがたいへんではあります。
その寒風を、近藤先生はもろにうけられているわけです。

本はおろか、ろくに論文書かない大学教授あふれているのにね。ときどき、任期制も必要か、と思うのは、そういうときです。

英語なんてこの野郎!

No.1430

美川先生、こんにちは。

じつは、現在非常勤をしている神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科では、大学院(たぶん修士)の授業として英語が必修になるそうです。国際化を目指すということです。そのあおりか、私は非常勤を今年度でクビになります。自国のことも分からずに、何が国際化だと思います。その意味で、上のレスに反して、今の私にとっては切実に、「英語なんて、この野郎!」です。

Re: 英語なんてこの野郎

美川圭
No.1431

近藤先生、切実な問題ですよね。

私の職場でも、この4月から大幅に英語の授業をふやすため、講義科目とおおおきく削減です。ですから、英語の非常勤を増員し、それ以外の科目の非常勤の先生方は、さようなら、となります。大学院で英語必修、正気のさたじゃないよね。

さいきん、小学校で英語をやらせる話が、でてきています。言語道断。それくらいなら、もっと日本語やらせろ。日本語の本をよませろ。いったいこの国はどうなってんでしょう。

網野先生のこと

No.1382

本日の東京新聞夕刊によると、網野先生が亡くなられたとのことです(他の夕刊には出ていません)。残念なことです。巨星墜つとはこのことでしょうか。私が日本史を好きになったのは、網野先生のお陰でした。感謝の念は言葉に表せません。合掌。

メールで

No.1384

私は、知人からのメールで知りました。帰宅してからネットで調べましたが、オウム裁判と鳥インフルエンザのニュースで、詳細は分からないままです。どちらにしても、とても残念な事には変わりありません。ご冥福をお祈りします。

『東と西の語る日本の歴史』

No.1388

 小生が、千葉→京都→鹿児島と渡り歩いて、いろいろな事態に遭遇していたとき、網野先生の標題のタイトルの本によって、カルチャーショックの理屈付けをはかることができました。
 『武家の棟梁の条件』に書いた東西比較の武士論や鹿児島論も網野先生の研究から受けた大きなインパクトに基づくものです。
 前任の大学で教えた学生には、網野先生の追っかけのようなことをやっていた人がいましたが、なんか、学問という枠を越えてファンのできる稀有の魅力ある歴史学者だったと思います。
 20年ほど前に千葉大学で講演をされたときに、そのテープ起こしを担当したことがありますが、お声が素晴らしかったこと、それから、録音を文字に起こすと、それがそのまま論文になってしまうことに魅了されたり、驚かされたりした経験があります。
 信念に基づいて勇気ある発言の出来る、情熱に満ちた魅力ある日本中世史の支え手が、また一人失われてしまいました。
                    学恩に感謝して合掌

無題

No.1392

鈴木君からの電話でこのニュースを知りました。
私も網野先生の「日本中世の非農業民と天皇」や「無縁・公界・楽」などの数々のご著書を読み、民衆の視点からとらえた独自の歴史観にかなり影響を受けておりました。
ご冥福をお祈りいたします。

Re: 網野先生のこと

山田邦和(花園大学・考古学)
No.1393

網野先生がお亡くなりになったこと、まさに「巨星墜つ」だと思います。
しばらく前から体調を崩されており、最近はまたお悪いということを聞いていました。
数年前の研究会で壇上に立ち、自らの病気のことを語り、「命ある限り学問を追究する」と淡々と語っておられたのに強い感銘を受けた覚えがあります。
もちろん学問である以上、「網野史学」には批判もあります。しかし、あれほど強烈な吸引力をもった歴史学を展開できる学者がめったにいない、ということを否定する人はいないでしょう。
私たちに与えられた使命は、網野史学を正しく評価し、継承するべきところは正しく継承した上で、いかにそれを乗り越えるか、というところにあるのだと思います。
合掌・・・

Re: 網野先生のこと

土屋光裕
No.1395

 久しぶりにこの掲示板を覗いて運が良かったというか、何というか、ショックな情報を仕入れてしまいましたね。
 私が網野先生を初めてお見かけしたのは、大学1回だったでしょうか?一乗谷のシンポジウムに足を運んだとき、背の高い、そしてとても低くて重みのある声の紳士だと思いました。もちろん、中世史を志す者として、網野先生の多くの著書に触れましたので、かなり動揺を隠せません。私のような者が発言するのもおこがましいですが、学説云々はともかく、中世史学界や一般的な歴史好きの人に与えた影響は計り知れなく大きいと思います。
 ご冥福をお祈りします。

土屋君も一仕事を。

No.1398

 土屋君、お久しぶりです。貴兄も網野先生の学恩に応えるべく、中世の佐渡をテーマに独自の歴史像を構築してください。ちなみに、来年度のことはどうなったでしょうか。
 すでに滑川さんなどから、お知らせがあったことと思いますが、先日、日本史研究会の中世の部会報告で、関学大院DCの生駒孝臣さんという方が「鎌倉時代の滝口」という報告をされました。小生は出席できなかったのですが、すぐれた御報告だったようです。ただ、おそらく、事実の解明という点においては、貴兄の未発表論文「滝口の武士、その創設と中世的展開」と内容的に重複するところがあったのではないかと思います。研究の積み上げという意味からも、貴兄の論文は早急に発表されるべきだと思いますが、いかがでしょうか。
 もっとも、小生がこの研究会に参加できなかったのは、ゼミ主催のカラオケ歌合せが、以前から予定されていたからで、多少逡巡があったのですが、御自分の結婚披露宴で熱唱されていた土屋君なら、是非もなく・・・などと考えてもおりました。
 それはともかく、網野先生もお亡くなりになってしまった今、これからの日本中世史の研究は若い貴兄達が引き継いでいかなければならないのですから、ぜひそれを形で示していただきたい思っているのです。北面の論文の方も、近いうちに発表して、貴兄の存在を学界に示してください。

Re: 網野先生のこと

美川圭
No.1399

もう、先週に意識がない、という話を聞いておりました。
再発したということでしたので、来るべき日が来たか、という感想です。私は、京大での集中講義をうけたので、まさに「先生」でもあります。10年以上前、名古屋の中世史研究会で、丁重なごあいさつをうけたのも、記憶にのこります。いろいろな意味で、歴史学に大きなインパクトをあたえつづけた歴史家でした。石井先生がなくなり、網野先生で、やはり一つの時代が終わりましたね。個々の論点では、いろいろ批判すべき点は多かったのですが、全体として網野学説は魅力的でした。ここのところ、ずっと一回生の入門の授業は、網野説を使っているのです。ご冥福をお祈りいたします。でもやっぱり寂しいなあ。

Re: 網野先生のこと

長村祥知
No.1406

僕が網野善彦氏の名前を知ったのは、高校生の頃でした。隆慶一郎の小説のあとがきで網野氏の研究を参照されたとあったのです。
大学に入り、いろいろな事を学びたかったので、田辺校地にある歴史資料館の収蔵庫で開かれていた学生の自主的な勉強会に参加させてもらいました。そこで鋤柄俊夫先生のご指導もあって、考古学と文献史学・文学の接点を求めて、網野氏の著書をいくつか読みました。
氏の主張の一つに、「百姓」は農民ではない、というものがあります。また、中世都市論や単一国家観の見直し・地域の独自性、アジール論等、興味深いものばかりでした。
ただし、自分には戦後の中世史全般の大きな流れの中でその意義を理解すると言うことが出来ませんでした。今出来ているかと問われても、自信は持てません。世代の違いと言うだけで片付けられないものがありますが、1980年代生まれの自分が戦後史学を受け継ぐにあたって、今後も同様の感覚を持つ事が多くあるでしょう。
先行学説の批判は後進に課せられた義務であり、同時に後進は研究の進展を活用できる権利を有します。
網野氏と同じ時代を共有し研究に従事された、戦後すぐ生まれ世代の先生方の、氏に対する批判的な意見だけを継承するのではなく、氏の研究史上の意義を正しく評価する事が、我々孫世代の学生にとって必要であると思われます。

Re: 網野先生のこと

美川圭
No.1413

網野先生については、その学問とはなんだったのか、
という議論が、続けられると思います。

その点で、西山克先生の主宰される怪異学会の掲示板、
とくに西山先生の書き込みが興味深いです。

西山先生は、大学院の先輩でもあるのですが、
そういうことだったか、と妙に納得しました。

ぜひご覧下さい。

http://bbs2.ardor.jp/?0200/kaiigakkai

Re: 網野先生のこと

No.1418

 この掲示板での石浜さんの書き込みで、網野先生がお亡くなりなった事を知りました。正直ショックと驚きがごっちゃになった気持ちです。偉大な先生がお亡くなりなった時に、こういう事を述べるのは、不謹慎なのかもしれませんが、一学生の意見として自分なりの意見を述べたいと思います。
 自分は、一番最初に読んだ網野先生の本は、『無縁・公界・楽』でした。しかし自分にそのスケールの大きさを受け止める力量がなっかたせいか、ショックを受けると言うより、妙な違和感みたいなものを感じたのを憶えています。それは、話が抽象的だったせいもあります。また何かの書評で「学界に衝撃を与えた歴史書」とあって、その衝撃の意味すら分かりませんでした。読んだ後に、自分には中世史を勉強する感性みたいのものが欠けているのではないか?と少し悩んだ事があります。また周囲の人(特に考古学専攻の人)は、先生の著書を絶賛しているのを聞けば聞くほど、なぜそこまで心酔できえるのか分かりませんでした。ただ、『無縁・公界・楽』を読んで思った事は、近代=管理と抑圧の時代との対比で、中世=自由の時代という、何か中世にユートピア的なものを求めているのではないかという事でした(あくまで主観的な感想ですが)。自分には、その点が納得がいかなくて上手く理解できなかったんだと思います。従って、自分の中では、網野先生は歴史学者と言うより、思想家だと思っています。ただ何冊か読んだ本の中で、『中世荘園の様相』だけは、自分の中で理解でき、石母田正の『中世的世界の形成』のように、「太良荘」という一個の小宇宙を活き活きと叙述していて、吸い込まれるように読んだ事を憶えています。ただ家永三郎氏や石井進氏などのように自分にダイレクトに影響を与えた歴史学者とは違うので、正直複雑な気持ちです。また上手く吸収できないことは、今だにあまり変わっていません。それは自分の興味の対象とも関係するのかもしれませんが、網野史学には、やはり「中世史」という枠組みでは捉え切れないスケールの大きさと重みがあるのだと思います。ご冥福をお祈りいたします。

Re: 網野先生のこと

美川圭
No.1426

山本さん。こんにちは。

 ラストサムライの議論もそうだけど、自分の率直な思いをなんとか、文章にしようとされる態度。ぼくは大好きです。遠慮することないから、もっとやって。

 ぼくは、学部時代に、石母田正の『中世的世界の形成』を最初に読みました。中世史のバイブルみたいにいわれていた本ですから。でも、衝撃をうけませんでした。自分とは別世界、というか自分の歴史好きとは、まったく違い、そのよさがよくわからなかったのです。とにかく、くらーい気分になりました。きっと、戦時中に書かれた作品ということもあるんでしょうね。でもほんとうのところはよくわかりません。一度、上横手先生にたしか3回生のころ「石母田さんという人は、あんなこと(領主制論?)本気で考えていたんですか」という愚問を発し、「なにをいうんだ、あれが石母田さんの本質だ」と怒られたことがあります。それほど、違和感があった。

 網野さんの『無縁・公界・楽』は、楽しめました。というよりは、なにか歴史に光がさした。歴史をやりたいな、と思わせる魅力がそこには満ちていたのです。山本さんと違い『中世荘園の様相』はきちんと読んだ記憶がありません。あまり、新しい感じがしなかった。

なぜ、そういう印象をもったのか、これから、少しずつ考えていこうと思います。

Re: 網野先生のこと

No.1437

私がはじめて日本史に接したのは、網野先生と鶴見先生の対談『歴史の話』でした。この本を読んだのは、なんと会社に入って数年たってからで、ということは、それまで日本史とは無縁の生活を送ってきたわけです。高校では、世界史がメインでしたので、大学入試も世界史と何かだったと記憶しております。ただし、『無縁・公界・楽』については、思想史(それもラテンアメリカの)をやっている人から、すごいらしいよと聞かされていました。ですが、どうせ難しいのだろうくらいの考えで、敬して遠ざけていたのが実情です。けれども、『歴史の話』は面白かった。こんなに面白い世界だったのかと、網野先生のご著書をむさぼり読んだものでした。『無縁・公界・楽』も、読んでみれば結構面白いじゃないかと、不遜にも思ったものです。
網野先生の本は、出せば売れるという評価が出版社側にはあったようで、うちの編集者もさかんに出入りしていたようです(結局、実りませんでしたが)。
宮本常一先生のところにも大勢の編集者が詣でていたようで、人間大学で宮本先生のことを取り上げたときに、担当の編集者がお借りしてきたのを見せてもらったのですが、編集者の名刺が山のように残っています。その中に、やはり当社の人間の名刺が同じものが何枚も残っており、熾烈な争奪戦のようなものがあったのではないかと想像されます。
今後、そうした網野先生のお名前がどう消費されていくのかが心配です。例えば、進化論について何か本をつくるときには、とりあえず「ダーウィンを超える」と謳っておくと受けそうだといったことがあるようなので、そうした使われ方が網野先生に対して行われないことを願います(自分がつくったりして)。

異端?網野

美川圭
No.1438

京大に集中講義で、網野先生が来られたのは、
いつだったか、いまひとつ記憶がさだかではありません。
80年代で、たぶん、『無縁・公界・樂』が出たことでしょうか。元木先生なら正確にご記憶だろうと思います。

講義には、もう大学に就職された先輩たちが、
ずらっと聴講にならぶ、というちょっと異様な光景でした。
そのため、網野先生も、やや構えられたのか、
とても学生向けの講義、というよりは、学会報告、
といった感じで、緊張して授業をされたので、
われわれ学生には、やや難しすぎる、という印象でした。

とにかく、典拠となる史料を、これでもか、これでもか、とあげられるので、正直言って、退屈といっても過言ではないものでした。

ということは、かなり「警戒」をしていたのではないか。
つまり、当時の、反網野の風は、関西を中心に、かなりのものであったように、記憶しています。
某サイトで、大山喬平先生の網野批判の話が、出ております。
しかし、ぼくの印象では、すでに亡くなったK先生の批判は激烈をきわめるものでした。というのも、拙稿をK先生にお送りしたところ、そのお返事は、ほとんど網野批判で埋め尽くされておりました。その批判は、かなり感情的ともいえるものでして、網野が歴史学をだめにする、といった感じでした。いわゆる危険思想扱いですね。K先生も網野先生もマルクス主義者でしたから、そこには一種の深刻な路線闘争があったようです。

集中講義の学生を中心とする懇親会では、ややリラックスした先生と談笑する機会をえました。先生は、自分は「異端」だということをくりかえし、のべられておりました。当時、すでに学生から見ると、学界の主流派の中心をなそうとしていた網野先生でしたから、その言はたいへん違和感のあるものでした。しかし、先生は「四人組」などといるレッテルをかなり気にしておられるご様子でした。

もはや、そんな雰囲気は、皆無なのかもしれませんが、当時の雰囲気の一端でもお伝えできたら、と存じます。