京都はまた暑くなって参りました。

No.10054

 今日は父方の祖父の命日です。祖父は明治34年、すなわち、20世紀最初の年に千葉県佐倉市の飯塚という所で生まれました。祖父が生きていた頃、私は、この人は最初から「おじいちゃん」だったみたいに考えていましたが、彼の人生はいかなるものであったのか。 
 あれから45年。ほんのすぐ近くに住んでいたのに臨終にも立ち会わず、高校2年にもなっていたのに、私はまったく駄目人間でした。駄目さ加減は今も大して変わっておりませんが。
 ちなみに、人間の品格というものは何歳くらいの頃に決まるものなのでしょうか。

 仕事の合間に床屋さんに行ってきました。床屋の御主人は教養人なので、いつも教わることがあります。今回は「矢立」の由来について。源平内乱の頃、武士が背に負っていた箙の底には筆と墨が納められていたとのこと。初めて知りました。これは武士論にとっても結構重要な事実。知っていれば『武家の棟梁の条件』(中公新書)に書いたのに、残念!
 武士は無教養で文字など書けなかったなどという一部の俗説に対する有力な反証となる事実といえるでしょう。

 昼食はA地下にてカツカレー320円也。 
 
 今朝、宇治や山科のあたりでは一天にわかにかき曇り、短い時間ですがザッと降雨があったのですが、東山のあたりには降らなかったとのこと。また、猛暑がぶり返して参りました。

 Facebookに、醍醐寺境内にある「頼政道跡」の石碑の写真を載せました。

 この時期、大学生のみなさんは猛勉強中のことと思います

No.10053

 今どきの大学では、もう夏休みも終盤。4回生は卒論で大車輪の毎日だと思います。各大学の図書館では執筆のための資料を求める学生さんたちで大混雑のことでしょう。すぐれた研究書が奪い合いになっている光景が思い浮かびます。
 数年前、同志社大学の図書館では『平安時代史事典』の確保が大変だったとのことです。(ただし、使っているのはいつも同じ顔ぶれだったとか?)
 卒論は、そろそろ草稿を完成しなければんならない時期。後期の授業が開始されたら、早々のゼミで中間報告ということになるのでしょう。それから何度も書き直しを重ねてよいものに仕上げる。提出まであと4ヶ月ほどしかありませんね。
 卒論こそ大学生活の集大成ですから、ぜひ優れた成果をのこして御卒業下さい。


 先日、久方ぶりに佐倉の国立歴史民俗博物館に出かけてきました。
 伊豆の国市の池谷先生から御紹介頂いた企画展「時代を作った技-中世の生産革命-」の見学が目的でしたが、常設展もしっかり見てまいりました。
 企画展会場入り口の大きなパネルにどこかで見たことのある方が映っていましたが、あれはどなただったのか・・・??

 企画展では、中世における技術者の社会身分について、多々考えさせられるところがありました。それから、刀剣の製法や石切りの方法について大変興味を持ちました。
 常設展の方は近現代の展示が新鮮でした。あれは、地元千葉県の高校生には全員に見に行ってもらいたい思いました。日本史の勉強以上の意味を持つと思います。ただし、事前指導と優れた引率者か必要。
 展示室内の「映画館」で上映されていた活動大写真はとても面白いものでした。思いの外撮影技法も凝っている。最近のCGだらけで目まぐるしいばかりの映画に辟易させられている私には実に楽しい一時でありました。
 しかし、「現代」の展示室に展示されているのは、これまで私が手にしたり日常の身の回りにあったものばかり。もはや私自身も過去の遺物であることが実感されました。

 Facebookでも写真を載せて紹介しましたが、『鎌倉』第115号に山本さんの論文「北条時政とその娘たち-牧の方の再評価-」が掲載されています。ゼミメンバー・関係者はぜひ読んでおいて下さい。
 この論文は地味なテーマながら、きっと鎌倉幕府成立期の政治史研究におおきなインパクトを与えることになるでしょう。
 私もミネルヴァの『北条時政』を早く書かなければならないと思っております。でも、今は『研究紀要』に載せる例の阿波国のお話を執筆中です。それが済んだら九州の武士の話を仕上げたいのですが、その前に重源の勉強をしなければならないと思います。

 なにしろ、常に執筆意欲が湧くほどに体調がよくありたいと願うばかりです。

昔「刑事コジャック」というテレビ番組がありましたが・・・

No.10052

 あの頃は、喫煙者が我が物顔でいられた時代でしたが、コジャック刑事は厳つい顔でペロペロキャンディをなめていましたね。

 今日の京都は地蔵盆の日。午前中、馬町交差点のコンビニに出かけたところ、渋谷通りに面した各所にまつられたお地蔵さんに、近所の人や子どもたちが集まり、お坊さん(尼僧もおられました)がお経を上げている光景が見られました。
 雷雨の後、気温は少し下がったようですが、まだ蒸し暑い。
 少し外を歩いただけでもダウン寸前です。まったくの虚弱体質です。
 私は「キョジャック」。

 ☆ 高橋秀樹先生より、新刊の御高著『玉葉精読―元暦元年記―』(和泉書院 日本史研究叢刊25)を御恵送頂きました。
 大変な御労作。まさに「記主の筆録意識まで掘り下げ、史料解釈を新次元へと導く、古記録研究の最前線」。
 記録読解を志す方たちにとって良き導きの書となるばかりではなく、この時代の政治史研究にも大いに活用されることになると思います。
 高橋先生に、あつく御礼を申し上げます。

 ☆ 磯川いづみ先生より、御高論「「大山積神社文書」所収元久二年の二通の下文」(『四国中世史研究』12)を御恵送頂きました。
 磯川先生に、あつくお礼を申し上げます。

☆ 大村拓生先生より、御高論「一五世紀における淀川水系の寺院ネットワークと地域社会-応永一九年北野社一切経書写を手がかりに-」(『市大日本史』16)・「中世の泉国衙と荘園制」(和泉市史編さん委員会編『和泉市の歴史6 テーマ叙述編Ⅰ 和泉市の考古・古代・中世』)を御恵送頂きました。
 大村先生に、あつく御礼を申し上げます。

最近の違和感から。

No.10048

 下記の大粟神社に関する質問にたいして、また、懇切な御回答を頂くことが出来ました。ありがとうございます。
 町教委による調査報告書が出ているようなので、しかるべく取り寄せてみたいと思います。

 それにしても、この猛暑は酷い。先ほど外に出てみましたが、いささか耐えがたいものがありました。しかし、腑に落ちないのは、このところ電力不足の声がマスコミから聞こえてこないこと。もう宜しいのでしょうか。

 また、老人の繰り言のようになりますが、最近使用されている言葉には違和感を感じるものが多いのですが、諸賢は、そんなことはお感じになりませんか?

 その一。「学生」を「生徒」という。
 大学生が自分たちのことを「生徒」と自称する。「変だ」と言ったら、「高校生の着るのは学生服だろう」との御返事。「ならば、セーラー服を着ている女子高生は水兵さんか」と切り返す。
 そのうち、大学にも「生徒会」が出来るのでしょうか?
 ちなみに、高校の先生の校務分掌には「生徒指導」がありますが・・・。私もこれをやりましたが、大変でした。

 その二。「大学」を「学校」という。
 「学長」も「校長」と呼ばれるようになるのでしょうか? 

 言葉遣いの変化は、実体の変化の反映でしょうが、言葉遣いが実体の変化を助長する側面もあると思うのです。 
編集:2013/08/18(Sun) 15:41

学校の生徒さんについて

No.10049

>野口先生 残暑お見舞い申しあげます

 「生徒」「学校」は私も違和感あります。この違和感の、たとえば世代的な境目はどのあたりにあるのでしょうね。

 私が通った大阪の府立高校は「自主・自由・自立」がモットーだったのですが、そういえば先生方や生徒会の皆さんもことあるごとに、『自由とは?』『自由な学生とは?』といったようなことを学生達に問いかけ、私たちも私たちなりに考えていたような気がします。そういう問いかけは、今から思うとなかなか大事なものだったように思います。
 そのようなわけで、私にとっては「学生」=「自主・自由・自立」を体現しながら学ぶ人、といったイメージです。「生徒」といってしまうとそれらが制限された、ずいぶん窮屈なイメージですね。

 そういった面から考えますと、いまはずいぶんとミスを恐れたり、とにかくミスをさせないように仕向けることが“教育”や“訓練”と呼ばれるような世情ですから、若い人たちが普段から「自由」について考えたり、実践してみたりする機会もずいぶん少ないのだろうと思います。社会全体が、個人の裁量という意味での「自由」が許容されにくい方向へ傾斜しているようですし、「自由」と「放置・放任」の違いについて考える機会も少ないのかもしれません。
 これは、若い人の育成を担う年配者(※私も含む)の責任でもあると思います。

 「学生」とはこういうイメージですよね、「生徒」といった場合はこういうイメージですよね、…というように、折に触れて地道に意見交換してみることが大事なのかもしれません。


 ところで、まだ一ヶ月ほど先ですが、次回の『吾妻鏡』のご案内でもさせていただきます。

 日時:2013年9月19日(木)午後3時頃~(予定)

 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:秋学期に向けての試運転

 ※しばらく“振り返り”を続けていきますが、それが終わった後の範囲は以下の通りです。
     承元四年(1210)正月一日、二月五日・十日・二十一日、三月十四日・二十二日、四月九日・十九日、五月六日・十一日・十四日・二十一日・二十五日、六月三日・十二日・十三日・二十日、七月八日・二十日、八月九日・十二日・十六日、九月十一日・十四日・三十日、十月十二日・十三日・十五日、十一月二十二日・二十三日・二十四日、十二月五日・二十一日の各条
     承元五年(建暦元年、1211)正月十日、閏正月九日、二月二十二日、三月十九日、四月二日・十三日・二十九日、五月四日・十日・十九日、六月七日・二十一日・二十六日、七月四日・十一日、九月十二日・十五日・二十二日、十月十三日・十九日・二十日・二十二日、十一月二日・三日・四日・二十日、十二月一日・十日・十七日・二十日・二十七日の各条

 『吾妻鏡』講読会は基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、再開する頃には秋を感じさせる季節になっていてほしいところですが、そんな季節に何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞ「ご自由に」ご参加ください。京都女子大の方限定ではありませんよ。
編集:2013/08/18(Sun) 21:02

大学の根幹に関わる問題

美川圭
No.10050

大学生が自分たちを生徒と呼ぶようになったという問題。大学の根幹に関わると思います。大学というのはもともとヨーロッパ、そのうちイタリアでうまれたものです。しかも近代国家が成立する以前ですね。ですから、大学の自治、つまり国家からかなり独立した存在なのです。国家や権力から相対的に独立している。つまり学問の自由です。そういういわば権力からみれば危険な存在があることによって、近代的思惟というものが発達した。その空気に少しでも触れることは、とても重要なことだ。とくに国家のリーダーになるような人物は、それによって自らの暴走を抑制できる。一般の職業人になっても、国家権力に安易に盲従することがなくなる。ときの権力はしばしばこれを胡散臭く思うことがある。国家の支配下におこうとするのである。しかし、国家の支配に完全に入ってしまうと、その大学の価値は劇的に低下する。それは大学や学問の本質に関わることである。そんな風に思っています。大学の学生という呼称は、そうした国家からの相対的な独立、つまり自由を象徴しているのです。自由にものを考え、発表できなくなったらおしまいです。
編集:2013/08/18(Sun) 23:15

答えは見えているのですが。

No.10051

 美川先生のFacebookにコメントを書き込ませて頂いていたら、美川先生がこちらに書き込んで下さいました。(ちなみに、イメージが元木先生のと同じになっておりますが・・・。これまでのイメージがとても美川先生らしかったので。)

 大学が本来の大学足るべくあってほしいというのが私の願いです。大学生を生徒と呼んでも違和感を感じない世代の出現は、日本社会からほんらいの大学が失われつつあることを示すひとつの指標だと、私は思っています。

 こういうことを専門に研究している方たちは、どんなことを考えているのか知りたく思い、いま、岩波書店の『シリーズ大学4 研究する大学-何のための知識か』を読んでいます。収められている論文の中では、小林傳司「序論-知の変貌と大学の公共性」と野家啓一「人文学の使命」から学ぶべきところがありました。

 なにしろ、将来、まっとうな日本史の研究を行う人と場が確保されるのかが心配でならないのです。

 今日、京都は五山送り火。

No.10047

 大文字の送り火が済むと京都は秋の風情に・・・というのは昔の話のようです。

 今日は午後に、洛中で、ある会議に出なければならないのですが、その前に昔の職場で開催されている特別展を見てこようかと思っています。

 さて、恐縮ながらも、また、阿波国のことで、乞う御教示!

 福家清司氏「鮎喰川流域の武士団」(『神山町史』上巻 第四節)に、徳島県神山町勧善寺所蔵「大般若経」(南北朝期書写)奧書の中に、上一宮大粟神社のことを「田口大明神」と称したものがあると述べられているのですが、この奥書の記事はどこかで翻刻・紹介などされているのでしょうか。ぜひ確認したいので、御教示頂ければ幸いです。

 ちなみに、Facebookに、この上一宮を分祠・勧請して創建されたという一宮神社の写真を載せておきました。

 ☆ 千葉県南房総市で石造文化財の研究に取り組んでおられる早川正司先生より、御高論「館山市千手院の石造千手三尊について」掲載の『房総の石仏』22、同じく「薩摩屋所墓地所在の石造三層塔について」(『歴史考古学』60)および先生の御編になる『「鴨川の石造遺物百選」図録 採録資料銘文集』(鴨川市教育委員会)、ならびに鴨川市教育委員会『鴨川の石造遺物百選』・鴨川市郷土資料館『鴨川の石造遺物100選』を御恵送頂きました。
 早川先生に、あつく御礼を申し上げます。

鹿児島に行って-南九州の歴史を学ぼう<しろくまを食べよう

No.10046

 後期の演習に参加する学生さんが、 

  鹿児島名物食べてみたいです!
  しろくま気になります~♪♪

と仰っているので、Facebookにゼミ旅行の時の写真をシェアさせて頂きました。どなたの撮影によるものか?
 今年度、「たまたま研究所ゼミや演習で知り合いになった仲間たち」に同行する形で鹿児島に行けないかな~などと考えています。「歴史資産による地域振興」や「観光」をテーマにしようとする人にぜひ企画を担当して頂きたいところです。
 徳島にも再調査に行きたい。

 執筆中の論文は、だいぶテーマが揺れてきました。2本に分けて、1本は『紫苑』に投稿させて頂こうか、などと考えています。こういうのを「獲らぬ狸の皮算用」といいます。

 今日は学会誌の査読一件。

 ☆ 鹿児島ゼミ旅行の際、大変お世話になったミュージアム知覧の上田耕先生より、御高論「江戸時代、薩摩の製鉄炉とその系譜」(『鹿児島考古』43)、御高論「種子尾製鉄遺跡の紹介と発見の意義について」などの収録された『ミュージアム知覧紀要・館報』13号、ならびに、先生の御編集による『堂園遺跡・古殿諏訪陣跡(南九州市埋蔵文化財発掘調査報告書(5))』を御恵送頂きました。
 上田先生に、あつくお礼を申し上げます。

阿波民部大夫成良がどうして「田口成良」になったのか?

No.10044

 Facebookにも書いたのですが、公開で、乞う御教示!

 平清盛の有力家人に田口成良(たぐちしげよし)という阿波の武士がいます。『国史大辞典』にも立項されていますから、けっこう有名なのだと思います。ところが、この人が「田口」を称した形跡は同時代史料は言うに及ばず、『平家物語』にも『吾妻鏡』にも見当たらないのです。

 これらの文献に「阿波民部大夫」という呼称で登場するこの人物が、なぜ「田口成良」になってしまい、かくも通説のように流布してしまったのか、あるいは成良(重能)に田口を冠した史料を御存知の方がおられましたら是非ともお教え下さい。

 今のところ判明しているのは、彰考館本の『鎌倉大日記』に成良の子の範能に田口の名字が付せられていることくらいです。

 それにしても、不可解な話です。同学諸姉兄のみならず軍記を専攻されている方などからの情報を期待しています。

どうか、よろしくお願い致します。

御教示を頂きました。

No.10045

 篤学の若い歴史学の研究者からメールで御教示を頂くことが出来ました。
 あつく、お礼を申し上げます。

 猛暑ゆえ、引き籠もってPCに向かってばかり。運動不足で太り、かつ目が疲れて困ります。せめて、仕事が捗ればよいのですが。

 みなさんは、いかがお過ごしでしょうか?

採点はおわりました。 が、 「俺たちにお盆休みはない」。

No.10043

 レポートの採点が終わりました。
 世は格差社会といわれますが、レポートの内容もレベルの差が極めて大きい。
  
  大学できちんと学問を楽しめている意欲ある学生たちに幸いあれ!

 ちなみに、史学科以外の履修生の多くが「歴史的に自分の専攻に関わる事象を考える機会がなかったので、興味深く受講した」とか「物事を歴史的に考えることの必要性を理解できた」という感想を述べていました。
 これは講義が一定の成功を収めたことの証になると思います。とくに現代社会学部の学生さんが、「現代を知るためには歴史を踏まえなければならない」ということを強く認識してくれたのは嬉しいところでした。

 採点が終わったのでWeb入力しようと思ったら、あいにく今日は大学が停電で不可。これから、論文執筆という「研究者としての本務」に取りかかれると思っていたのですが、叶いませんでした。
 私は、ほかに何かやらなければならない事があると、研究に集中できない性格なので困ります。これから人文系の研究者になろうという人は、今後の社会環境を考えると、こういう性格では生き延びられないでしょう。

 論文を早めに仕上げることが出来たら、もう8割方書き上げてあるのに一年ほどの間棚上げになっている九州の武士をテーマにした原稿の執筆を再開したいと考えているのですが、どうなることやらです。

 【追記】
 ☆ 青山学院女子短期大学の清水眞澄先生より、御高論「願文を読む(2)-『平清盛公願書和解』の成立と読みをめぐって-」(『聖徳大学 言語文化研究所 論叢』20)・「「師子」と幸若舞曲-『元徳元年三月日日吉社幷叡山行幸記』を始点として-」(前田雅之編『もう一つの古典知』勉誠出版)・「軍神と歌神の中世-『太平記』と住吉神主家資料をめぐって-」(磯水絵編『論集 文学と音楽史 詩歌管弦の世界』和泉書院)ならびに、御高論「芸名の系譜-舞童から幸若丸まで-」掲載の『日本文学』62-7を御恵送頂きました。
 清水先生に、あつく御礼を申し上げます。

ダブルスタンダードの国

No.10042

 暦の上ではもう「立秋」ですって。
 関東では些か気温の低い日もあったようですが、京都は連日の蒸し風呂です。
 蒸し風呂の中で、運動不足。仕事に疲れるとA地下で仕入れたキャラメルなど甘いものに手が出る。これでは血糖値も悪玉コレステロールも、さらには腹囲も増えていくばかり。わかっちやいるけどやめられません。
 ゆえに、体調よろしからず。

 未だにレポートの評価中。力作が多いので、熟読しています。中には論文レベルのものもあって、驚いています。さすがは京女生。
 そんなわけで、まだ夏休み気分にはまったく浸れておりません。

 ☆ 中国から戻られた金澤正大先生より、御高論「武蔵武士足立遠元」(『政治経済史学』554)を御恵送頂きました。
 金澤先生に、あつく御礼を申し上げます。

☆ 清泉女子大学の清水由美子先生より、御高論「崩壊した母性-平時子と北条政子の母性をめぐって-」(『清泉女子大学人文科学研究所紀要』34)・「西大寺流律宗の諸寺院と『平家物語』」(『中央大学文学部紀要 言語・文学・文化』111)を御恵送頂きました。
 清水先生に、あつく御礼を申し上げます。

 ☆ 國學院大学の森幸夫先生より、御高論「室町幕府奉行人飯尾為種考」(『国史学』210)ならびに御高論「新刊紹介 湯山学著『鎌倉府の研究』」掲載の『ぶい&ぶい』第24号を御恵送頂きました。
 森先生に、あつく御礼を申し上げます。

『紫苑』原稿募集のお知らせ

No.10040

毎日暑い日が続きますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

本日は『紫苑』の原稿募集についてのお知らせです。『紫苑』の第十二号に原稿を書いて下さる方を募集しております。積極的な参加をお待ちしております。

原稿を執筆して下さる方は池嶋(上記PCアドレスもしくは携帯)までご連絡下さい。

『紫苑』の投稿規定も掲載しておきます。

《投稿規定》
枚数:
 注を含め四〇〇字詰原稿用紙に換算して七十枚以内とします。但し、分量については適宜相談に応じます。

原稿:
 ・種類は、論文・研究ノートなど。縦書き・完全原稿とします。
 ・ワープロ原稿の場合は、四〇〇字の倍数、縦書きで打ち出してください。投稿の際は、原稿を保存したメディア(フロッピー、CD-R、など)一部を添え、使用ワープロの機種名・ソフト名を明示して下さい。
 ・手書き原稿の場合は、四〇〇字詰または二〇〇字詰原稿用紙に、本文・注とも一マス一字、縦書き、楷書で、鉛筆書きは不可とします。
 ・注は本文末に一括して、(1)、(2)、…のように付けて下さい。
 ・年号を用いる場合は、なるべく西暦併用でお願いします。
 ・図表・写真(いずれも鮮明なものに限ります)の添付は刷り上がり時の大きさを勘案して字数に換算します。これらを添付する場合は、おおまかな掲載場所を指示してください。
 ・編集作業の迅速化のため、住所・氏名(ふりがな)・目次を記した別紙一枚を添えて下さい。

採否:
 編集担当者が掲載の可否を審査いたします。

著作権・公開の確認:
 本誌掲載の論文・研究ノート等の著作権は著者に帰属するものとします。ただし、宗教・文化研究所ゼミナールは、本誌に掲載された論文・研究ノート等を電子化または複製の形態などで公開する権利を有するものとします。執筆者はこれに同意して、投稿されるものとします。やむをえない事情により電子化または複製による公開について許諾できない場合は、採用が決定した段階で宗教・文化研究所ゼミナールにお申し出ください。

締め切り:九月三十日
 備考:
 ・他誌への二重投稿はご遠慮ください。
 ・掲載後一年以内の他への転載は控えていただきます。

では宜しくお願いします。
編集:2013/08/06(Tue) 10:57

『紫苑』第12号と秋の史跡散歩の企画について。

No.10041

 池嶋さん、ありがとうございました。
 今年度も、編集長、よろしくお願い致します。

 今のところは、投稿希望の確認の段階ですね。池嶋さんの書いて下さった締切の9月30日というのは、その締切のことで、原稿そのものの締切ではありませんので、念のため。

 ところで、先日、昨年の大河ドラマの時代考証を担当された髙橋昌明先生より、木幡浄妙寺跡や摂関家の墓所の営まれた宇治陵周辺の史跡見学のリクエストを頂きました。今は季節が悪いので、地元の岩田君の御協力も仰いで、この秋にゼミの史跡見学会(史跡散歩)という形で実現をはかろうと考えています。「基礎演習Ⅱ」・「演習Ⅱ」やキャンパスプラザの履修生にも声をかけるつもりです。
 すこし宇治も含めて半日くらいの日程になろうかと思います。
 具体的なことは、9月にゼミが再開されてから決定するつもりです。
 『紫苑』には、この史跡散歩の記録も載せたいですね。

 なお、その史跡散歩の休憩時、あるいは散会後に高橋先生の提唱される「六波羅幕府論」について議論するのも一興かと考えております。
 ちなみに、私は清盛の六波羅政権を「幕府」とみることには慎重な立場をとっております。
 結構、激論になるかも知れませんよ。