藤原成親の再評価

No.6195

 元木泰雄先生より御高論「藤原成親と平氏」(『立命館文学』605)を御恵送頂きました。
 
 昨年秋の『台記』研究会における「奇跡の報告」>>No.5968で大要はうかがっておりましたが、従来の藤原成親に対する評価(私には村井康彦氏が『平家物語の世界』の中で〝騒動を売る男〟と評価されたのが印象的でした)を克服、ないしは一変させ、また平家政権下に於ける重盛の立場を明確にし、それらにともなう平家政権の地方武士掌握の面での弱点を示唆して、治承寿永内乱の帰趨に大きな展望を示されたものと思います。
 
 あらゆる史料を綿密に読みこなされた元木先生は、この時代に生きた人たちよりも、この時代の政治を理解されている。それをあらためて実感させられました。後白河による武力編成のあり方についても、おおいに蒙を啓くことが出来ました。
 
 元木先生に、あらためてあつく御礼を申し上げる次第です。
 
 なお、本論文は、『平家物語』研究に大きな影響を与えることと思います。国文学の研究者の皆様にも御一読をお薦めいたします。

 
 ☆ 今年度から明治大学にうつられた鈴木彰先生より、御高論「鬼丸・鬼切説の展開と『太平記』」(佐藤和彦編『中世の内乱と社会』)・「曾我兄弟所持の太刀と『曾我物語』-仮名本の流布と再生-」(関西軍記研究会編『軍記物語の窓』第三集)・「『平家物語』-京・薩摩国・鬼界島」(小林保治監修『中世文学の回廊』勉誠出版)を御恵送頂きました。
 こちらは逆に歴史学の側で享受されるべき重要な内容を含みます。
 三番目の御高論は鹿児島で中世史を研究されている方には興味津々だと思います。
 また、本年度の中世史サマーセミナーにお出かけになる方も、一読しておくと宜しいかと存じます。
 
 『曾我物語』の御高論は、学習院の伊藤さん、必読ですよ。

 なお、昨日は江波さん・山岡さん、お疲れ様でした。

Re: 藤原成親の再評価

元木泰雄
No.6200

野口先生、またまた過分の御褒詞を賜り、誠に有難うございました。面映いやら恥ずかしいやらですが、しかしこの論文を書いて本当に良かったと思いました。

 先の保元・平治の乱の再検討では、信頼の武門の統合者という立場を解明しました。これは、保元の乱後の政治構造の混乱に対応したものですが、成親は後白河院の複合権門化にともなう、独自の武装の中核として、平重盛や下北面を統合する存在と位置づけてみました。またまた不評の人物の「冤を雪ぐ」ことになりましたかどうか、ご批判を仰ぐばかりです。
 こうなると、やはり次は重盛、そして検非違使庁の掌握をめぐって成親と競合した時忠論を取り上げなければ、という気分です。研究したいことは山積ですが、気力・体力が衰え、酒量と体重、それに雑務ばかりが増大中でございます(笑)。

 今回の拙稿では、『兵範記』人名索引を駆使致しました。子細に見ておりますとミスも目に付きますが、やはり威力抜群。今後の研究に大きく裨益することは疑いないものと存じます。
 余談ですが、『立命館文学』もいまやA4版、グローバルスタンダードです。字が大きくて老眼には有難いのですが、反面大きすぎて扱いにくい面もあります。
 野口先生も仰せですが、図版、写真を多用する理系はともかく、人文系は昔のままでも良かったのではないかななどと思ってしまいます。

 なお、19ページ下段に記した家成一族の左馬寮知行は、長村君のご教示によるものです。このことを註②に書き加えるべきでした。長村君ならびに各位に深くお詫び申し上げます。
 弟子との会話を失念するにいたっては、もはや論外。引き際を考えるときかも・・・
 ローンもあるし、ここは一つ怪しげな小説でも書いてみますか(笑)。
 

「怪しげな小説」、楽しみです。

No.6206

 元木先生、御返信ありがとうございます。
 「怪しげな小説」ぜひ読んでみたいのですが、その前に、学界待望の論文集の御刊行を宜しくお願い申し上げる次第です。
 ちなみに、元木先生の御著書は小説家にも引っ張りだこで、内容のみならず、文章までお手本にされているようですから、小説家としての御成功は間違いないと存じます。

 なお、余談ながら、先日、拙著の文章を国語の試験練習問題に使いたいという依頼を頂くなどという信じがたいことが発生しており、日本人の国語力の将来には大いに懸念がもたれるところであります。

 長村君には私もいろいろ御教示を得ることが多く、御高見を論文などで使わせていただきたいと考えています。拙論の注は長村君のお名前で埋め尽くされてしまうかも知れません。

>美川先生  お勧め(>>No.6061)のWiiスポーツですが、奇特なる親族の寄進によって、はじめることができました。

Re: 藤原成親の再評価

元木泰雄
No.6209

  野口先生、その小説とは『吾妻鏡殺人事件』というタイトルの予定です(笑)。
 1982年ごろ、二時間ドラマになった夢も見ました。主演は加藤剛。彼が探偵なのか、『吾妻鏡』の研究者なのか定かではありませんが、夢ではっきり見たおぼえがあります。当方も、加藤剛と話をする場面があるのですが、それはチョイ役としてなのか、関係者としてなのか、それもはっきり致しません。
 この話をしたら、美川先生が「そんなにテレビに出たいのですか」と噴出されたのを覚えております。
 ところが、サントリーバーのご常連のK先生が、「おれも大学辞めたから小説を書くねん。『吾妻鏡殺人事件』言うてな、『吾妻鏡』の欠落部分の頼朝殺害の場面を発見した研究者が、自分も殺人事件に巻き込まれるゆう話や」と仰せでした。そっちの方が面白いかも知れません。
 殺人事件なら、どこかのワンマン理事長支配下の「伏魔殿」を舞台にしたほうがストーリーは複雑怪奇になりそうですね。でもそうした事実をもとに小説を書くと、「将軍様の支配下じゃあるまいし、日本でそんなことがあるわけがない。リアリティーに乏しい内容」とか批判されることでしょう。
 でも、東西でセクハラ理事長が逮捕されていることから見ても、けっして絵空事ではないのですが・・・・
 小説はともかく、本はどんどん書きたいと思います。
 第二論文集『武士政権成立史論』、ミネルヴァ書房『日記で読む日本中世』(松薗先生と共編、関係各位、よろしくお願い申し上げます)、中公新書『河内源氏―武士本流』、ミネルヴァ人物評伝選『平時子・時忠―平家にあらざらむものは人非人也』、第三論文集『初期公武政権論』、NHKブックス『源頼朝の苦闘』(上下)、『源平争乱の脇役達』(塙新書)・・・・。小説はその次ですかね(笑)。
 これを取らぬ狸の何とかというのですが、冗談とはいえ、何となく書こうという気になってまいりました。去年までの閉塞状況が打破できるような希望が持てそうな気が致します。これも、昨秋の野口先生の御報告に勇気付けられたおかげと、心から感謝致しております。
 今日は、新入生相手の『ポケットゼミ』。
 拙著『源義経』を素材に輪読を始めたところ、実に活発な議論となり、90分で終わりきらないほどでした。新入生も、対応次第でついてきてくれるし、関心を引き出せることを痛感致しました。
 毎年、史料ばかり読んできた全学共通科目の演習の方法も、今の学生達の学力や関心に応じて柔軟に対応することが必要であると思わされました。
 
 余談です。「権藤、雨、権藤」。
 掲示板で野口先生がよくお書きですが、お若い方にはチンプンカンプンと思います。
 権藤とは、往年の中日のエースで、元横浜の監督権藤博氏のことです。ウィキペディアの記事から、彼の活躍ぶりを引用しておきます。
 「鳥栖高校からブリヂストンタイヤを経て1961年に中日に入団。杉下茂の後の背番号20を受け継ぐ。同年のオープン戦で28回3分の1を投げて自責点1(防御率0.31)という驚異的な成績を残し、1年目よりエースとして大車輪の活躍。この年チーム試合数130の半分以上に当たる69試合に登板、そのうち先発登板は44試合。35勝19敗、投球回数429 1/3回、奪三振310、防御率1.70を記録。35勝は新人での最多勝プロ野球記録。連投に連投を重ねる権藤を指した「権藤、権藤、雨、権藤(雨、雨、権藤、雨、権藤と続く)」という流行語も生まれた。翌年、61試合に登板(先発登板39)、30勝17敗、投球回数362 1/3回、奪三振212、防御率2.33の成績を残し2年連続最多勝に輝いた。」

 でも権藤は翌年10勝、その次は6勝におわり、酷使が原因で投手生命を絶たれることになります。
 その彼が、コーチ、監督として、リリーフ投手にもローテーションを導入したのですから、使い潰された無念があったのでしょう。横浜の監督として、佐々木主浩投手を擁し、日本一になったのが98年。今も歯に衣着せぬ辛口解説で有名です。
 ちなみに61年度の、中日投手陣の成績は下記の通り(プロ野球記録博物館のサイトより転載)。権藤に次ぐ投手は河村、板東。

P 権藤 博 R 35 - 19 1.70 (Rは右、Lは左投手、以下勝・負・防御率)
P 河村 保彦 R 13 - 13 2.53
P 板東 英二 R 12 - 10 2.60
P 西尾 慈高 L 6 - 5 3.09
P 石川 緑 R 3 - 1 4.58
P 柿本 実 R 3 - 3 2.67 17 63.2
P 広島 衛 R 0 - 4 2.87 20 46.1
 
 岩田君が河村投手。すると当方はいまや芸能人のBさんですかね(笑)。昔、B氏とは大阪中津の「串樽」でばったり出会い、思わず挨拶しかけましたが。
 なお61年度ペナントレースの結果は以下の通り。権藤の奮戦むなしく、ドラゴンズは勝ち星で勝りながら、勝率は僅差で巨人に及ばす覇権を逸しました(現在なら勝ち星一位と勝率一位が異なる場合はプレーオフ)。あの管理野球の川上が新任でセリーグ制覇、勢いをかって日本シリーズも制しております。

 読売ジャイアンツ 130 71 53 6 .569 - -
 中日ドラゴンズ  130 72 56 2 .562 1.0

 最高殊勲選手は 打率.353、本塁打28本で二冠王となった長嶋茂雄が初めて受賞致しました。今なら35勝のほうが価値がありそうですが・・・何せあのころは稲尾42勝、杉浦38勝とか、30勝は珍しくなかったですからね。

やぶ蛇でした。

No.6216

 K先生とは、このところお目にかかることが重なったのですが、なるほど、そのようなことをお考えだったのですか。

 ミネルヴァ書房『日記で読む日本中世』、締切が今月末でしたね。そういえば、私も「関係各位」の一人でした。これは大変です。

 ちなみに、元木先生とペアを組まれる共編者の松薗先生は、今月、日本史研究会の例会で報告をなさいます。

 【例会】日記研究の現在―古代・中世の思考―
   5月24日(土)13:00~ 機関紙会館5F
   加藤友康氏「平安時代日記研究の多角的視座
         ―平安中期における日記の筆録・書写・部類を中心として―」
   松薗 斉氏「王朝日記と「家」の日記」

 「伏魔殿」ですが、これは全国至る所にございますね。

 ちなみに、「権藤、雨、権藤」を持ち出されたのは岩田君です。私は知りませんでした。岩田君世代の人たちは、なぜか1960~70年代に通暁されているのです。佐伯君もやたらと昔の歌を御存知です。
 かれらは本当は60歳くらいなのかも知れないと思うことがあります(笑)。

えっ!

元木泰雄
No.6217

 権藤一件は岩田君が言い出したのですか?
 何で知ってるのでしょうか。
 まあ歴史家ですから、40年あまり前のことくらい、知ってて当然ではありますが(笑)。
 あるいは熱狂的中日ファン?
 明日(5月2日)あったら訊いてみましょう。
 
 昔の歌といえば、以前どなたかの結婚式の余興で、高橋昌明先生が『梁塵秘抄』の一曲を歌われたことがあります。
 いわく「レコードを聴いて練習した」とのこと。これなら、調子が外れてもわからないなと感心したことがあります。
 

出典は定かではありませんが…

岩田慎平
No.6219

>元木先生、野口先生
 はい、確かに「権藤、権藤、雨、権藤」は私が言い出しっぺでした(※この掲示板では)。
 このフレーズは、権藤氏が横浜ベイスターズの監督として日本一になった1998年の、雑誌の記事などで読んだのではないかと思います。
 「20勝で沢村賞」の現代で、権藤氏やあるいはカネヤン(金田正一氏)のようなかつての年間数十勝投手が登板したらどういうことになるんでしょうね。

権藤監督

元木泰雄
No.6220

 岩田君、早速にレスを有難うございました。
 了解いたしました。
 今の沢村賞は、20勝まで行かないことの方が多いですね。
 往年の大投手が、今のようにローテーションを守り、きちんと分業していたら、選手寿命は飛躍的に延びたでしょうが、通算勝ち星はだいぶ減ったのではないでしょうか。
 優勝のかかった連投と、金田のような気楽な登板では、消耗度は違っていたと思います。

黒江の三本足打法

No.6222

私も、元木先生の御論文、恵送いただいております。すっかり、お礼が遅れてしまっています。この場をお借りして、お礼申し上げます。

 以上は、忘れていたのではないのですが、「関係各位」の方は、完全に締切を忘れておりました。えらいことです。今、某総合雑誌用の原稿を書いているところなので、それが終わったら始めたいと思います。

 で、権藤の話を読んでいて、変なことを思い出しました。巨人のV9時代に活躍した内野(遊撃)の黒江のことです。そのころ、父が読売につとめていた関係で、よく巨人戦のバックネット裏のチケットがまわってきました。父は読売社員ながら、熱狂的中日フアン。そのためか、中日戦が多かったと記憶しています。一度、そのチケットで母方の叔父と観戦したときのこと、酒に酔った叔父(スワローズフアン)が絶妙のヤジを飛ばすのです。ちょうどバッターボックスに黒江が立ったとき、叔父が「くろえー、おめえの3本の足はぜんぶ同じ長さじゃねえか」というまことに下品なヤジを飛ばし、周囲の観客が大笑い、しかも黒江にも聞こえたらしく、打席をはずして、こちらを振り返り、それがまた観客の笑いを呼びました。そのときの黒江の顔を今でも覚えています。失礼しました。

 昔のこと(しかもしょうもないこと)ばかり覚えている歳になりました。

Re: 藤原成親の再評価

元木泰雄
No.6225

美川先生、場所柄、これは「レッドカード」ですよ(笑)。ネタは選ばないと・・・
 その黒江氏、いまは西武のヘッドコーチですね。
 一時、長嶋監督の下で三塁コーチを務めて、無謀な本塁突入の指示ばかり出したので、『壊れた信号機』とか言われておりました。
 成績は以下の通り(前記サイトより転載)
 
年度 所属 試合 打数-安打 本塁 塁打 打点 盗塁 四球 死球 三振 打率 長打率
1964 巨人 26 43- 7 0 7 1 2 3 2 7 .163 0.163
1965 巨人 61 64- 11 0 13 0 11 6 0 7 .172 0.203
1966 巨人 91 262- 64 2 86 17 21 21 4 35 .244 0.328
1967 巨人 129 424- 118 9 174 49 10 40 8 51 .278 0.410
1968 巨人 129 423- 120 7 166 37 16 35 8 45 .284 0.392
1969 巨人 130 481- 141 7 182 63 8 34 3 56 .293 0.378
1970 巨人 123 405- 103 10 160 48 7 21 1 40 .254 0.395
1971 巨人 124 407- 113 6 157 42 22 30 8 27 .278 0.386
1972 巨人 127 451- 124 7 159 52 16 25 7 32 .275 0.353
1973 巨人 111 353- 87 8 130 47 10 24 3 28 .246 0.368
1974 巨人 84 165- 35 1 46 15 4 14 5 9 .212 0.279

 社会人から入団したので、選手寿命は短かかったのですが、69,70年ごろはONに次ぐ成績を挙げ、5番を打っておりました。
 また、70年のロッテとの日本シリーズ第一戦でサヨナラホームランを打つなど、しぶとい玄人好みの選手でした。