あのー・・・
No.992
なめかわさん、なかなか面白いレポートを有難うございました。あのー、私の歌はカラオケにお付き合いいただいている方には珍しくはないはずですがね・・。そりゃ、フランク永井に水原弘に、裕次郎にナットキングコールでは古すぎるでしょうけど。あとは藤山一郎にディック・ミネ、それに美空ひばりに谷村新司あたりですが。よかったらどなたか歌会始ならぬ、歌い始めにお付き合いください。
それはともかく、去年末からなにやら神戸づいております。12月23,24両日の神戸探訪ですが、近藤氏によるとご先祖のご加護ではないかというくらいの好天で、温暖、無風の好コンディションでした。なめかわ報告にない部分を少しフォロー致します。食べてばかりいたわけではありませんので・・・。
23日は13時過ぎに山陽電鉄須磨浦公園に集合しました。当日の参加者は、兵庫県史の元職員で、武蔵七党庄一族の末裔,庄洋二さん、当方の京大の同級生小林基伸氏、府立総合資料館の職員で、「平氏家人表」の執筆者西村隆氏、それに美川、近藤両氏、そして立命の佐古、滑川、龍大の吉田の諸君、それに当方の9名です。
まず、駅西方の敦盛塚に参りました。もちろん時代は下るのですが、巨大な五輪塔に敦盛や平氏一門に対する深い追慕の念を痛感しました。ついで、ロープウエイと、カーレールなる代物で須磨浦の山上に上りました。少しもやでかすんで景色がもう一つだったのは残念でしたが。須磨背景の山脚の急峻さ、須磨の海岸線の狭さは痛感されたしだいです。近藤氏によれば、こうした断崖は三浦半島では珍しくないとの事で、佐原義連が断崖を駆け下りることを主張したことは納得できる由。ただし、崖を何百キロもある馬を背負って下りるのは、300キロを持ち上げた体験から不可能と伺いました。これから武士論をやる人は、武具の重さを体感できる人でないと無理なのかも?
それにしても、展望台では、須磨から生田の森までの遠さはどのように理解すればいいのか、という議論が交されたことでした。再び駅に戻り、今度は東に向かって、海岸に立つ「戦闘の浜」(多分、一の谷合戦のことでしょうが)の碑をみて、今度は山道を登り、安徳内裏跡を見学。隣接して、和宮像とモルガンお雪が立てたという灯篭を見物、今度は山道を下ると、一の谷不動という、洪水で流されてきたという南北朝時代の不動明王の摩崖仏を発見。ついで、須磨駅近辺で村上帝神社という、藤原師長を祭る神社に遭遇。案内の出ていないこうした寺社とのい出会いは、歴史散歩ならではのことと思います。さらに源氏寺などという曰くありげな寺院に出くわし、さてこそと思えば、何のことはない光源氏の須磨閑居にちなんだ寺の由。かつて、源氏物語に平家物語以上の合戦、武勇談を期待されて愕然とされた野口先生の御落胆と同様の失望を味わいました。ついで須磨寺。敦盛の首塚、青葉の笛、その他の宝物については近藤先生の御解説に従うばかりです。ついで山陽須磨寺駅に向かう途中に、重衡が囚われた場所と言う石碑がありました。捕えたのは庄さんのご先祖の由。山陽電車、神戸高速鉄道を経由して三宮。生田神社を見学。名前ばかりの生田の森を見て、なめかわさんが詳しくご紹介された吉膳に行きました。
近藤氏の弱点?は牡蠣が食べられないこと。それに長時間の徒歩が苦手なこととお見受けしました。超人にも意外な弱点がおありなようですね。
その晩はルミナリエの最中。お帰りの方々は電車が込んで大変だったことと思います。単なる観光行事ではなく、震災の慰霊だということを忘れないでほしいものです。まさに一瞬の出来事で、多くの生命が失われた意味、そして当方にとっては同様の危険に遭遇しながら生き残った意味を考えずにはおられません。
翌日は、近藤、美川両氏、それに竜大の吉田君の四人で見学を致しました。まず、布引の滝。これで美川氏は帰京。ついで地下鉄で大倉山に行き、例の堀を見に行ったらすでに埋めた後で近藤氏はがっかり。近くの昌園という中華料理で昼食。南京町に本店がある名店ですが、やや少量でした(近藤氏はチャーハンを追加、その後でお変わり自由と聞き憤然)。荒田八幡、湊山小学校の雪見御所の碑、祇園遺跡、平野展望公園から眺めを堪能して、タクシーで兵庫へ。能福寺の忠快の石塔、清盛の墓?等、真光寺の一遍の墓、そして清盛塚、その南の薬仙寺、運河沿いに歩いて築島寺(ただし無人のため施錠中)を経て、地下鉄で居留地に行き、三宮神社で河原兄弟の碑を見て、16時ころ。そろそろルミナリエ見物の観光客で混み始めた神戸を後にしました。
その晩は、四条の木曽路で上横手、井上満郎両先生と美川氏を交えて一次会、ついでサントリーバーで観世流能楽太鼓方の井上敬介氏、門下生で同志社卒業生の澤田さんを交えて二次会と相成りました。二日付き合って、当方はダウン。
ただ、布引のロープウエイに乗ると、西側に山が張り出しているのが分かりました。昔の海岸線はかなり山に近かったでしょう。そう考えると、生田は西の須磨と並ぶ要害で防御線だったのではないでしょうか。生田と、安徳内裏はかなりはなれ、その間は空白だったのではないか。しかし、有馬街道のように,北側に抜ける道には守備隊を配置していた、そのために義経は須磨浦の平氏本拠のすぐ裏まで移動して、そこから奇襲せざるを得なかったのではないか。近藤氏の推察です。
10日の緊急シンポ。まことに盛会で何よりです。堀は緊急に掘削したのかどうか、根本的な問題から問い直され、まさにシンポが議論の出発点になりました。遺跡保存の第一歩になってもらいたいものです。第二回も計画中の由、今度は各地の武士の邸宅の発掘事例の比較検討が必要かもしれません。
ちなみに夕食の六甲苑の中華風寄せ鍋は一食の価値有りでした。ついでに、あの日の朝、当方のベルトが壊れ冷や汗をかきました。高橋昌明先生は、紐で結べとか仰ったのですが、そういわれても・・・。上手くごまかせましたかね。嘘ばかりついているという清盛のたたりでしょうか。
それはともかく、去年末からなにやら神戸づいております。12月23,24両日の神戸探訪ですが、近藤氏によるとご先祖のご加護ではないかというくらいの好天で、温暖、無風の好コンディションでした。なめかわ報告にない部分を少しフォロー致します。食べてばかりいたわけではありませんので・・・。
23日は13時過ぎに山陽電鉄須磨浦公園に集合しました。当日の参加者は、兵庫県史の元職員で、武蔵七党庄一族の末裔,庄洋二さん、当方の京大の同級生小林基伸氏、府立総合資料館の職員で、「平氏家人表」の執筆者西村隆氏、それに美川、近藤両氏、そして立命の佐古、滑川、龍大の吉田の諸君、それに当方の9名です。
まず、駅西方の敦盛塚に参りました。もちろん時代は下るのですが、巨大な五輪塔に敦盛や平氏一門に対する深い追慕の念を痛感しました。ついで、ロープウエイと、カーレールなる代物で須磨浦の山上に上りました。少しもやでかすんで景色がもう一つだったのは残念でしたが。須磨背景の山脚の急峻さ、須磨の海岸線の狭さは痛感されたしだいです。近藤氏によれば、こうした断崖は三浦半島では珍しくないとの事で、佐原義連が断崖を駆け下りることを主張したことは納得できる由。ただし、崖を何百キロもある馬を背負って下りるのは、300キロを持ち上げた体験から不可能と伺いました。これから武士論をやる人は、武具の重さを体感できる人でないと無理なのかも?
それにしても、展望台では、須磨から生田の森までの遠さはどのように理解すればいいのか、という議論が交されたことでした。再び駅に戻り、今度は東に向かって、海岸に立つ「戦闘の浜」(多分、一の谷合戦のことでしょうが)の碑をみて、今度は山道を登り、安徳内裏跡を見学。隣接して、和宮像とモルガンお雪が立てたという灯篭を見物、今度は山道を下ると、一の谷不動という、洪水で流されてきたという南北朝時代の不動明王の摩崖仏を発見。ついで、須磨駅近辺で村上帝神社という、藤原師長を祭る神社に遭遇。案内の出ていないこうした寺社とのい出会いは、歴史散歩ならではのことと思います。さらに源氏寺などという曰くありげな寺院に出くわし、さてこそと思えば、何のことはない光源氏の須磨閑居にちなんだ寺の由。かつて、源氏物語に平家物語以上の合戦、武勇談を期待されて愕然とされた野口先生の御落胆と同様の失望を味わいました。ついで須磨寺。敦盛の首塚、青葉の笛、その他の宝物については近藤先生の御解説に従うばかりです。ついで山陽須磨寺駅に向かう途中に、重衡が囚われた場所と言う石碑がありました。捕えたのは庄さんのご先祖の由。山陽電車、神戸高速鉄道を経由して三宮。生田神社を見学。名前ばかりの生田の森を見て、なめかわさんが詳しくご紹介された吉膳に行きました。
近藤氏の弱点?は牡蠣が食べられないこと。それに長時間の徒歩が苦手なこととお見受けしました。超人にも意外な弱点がおありなようですね。
その晩はルミナリエの最中。お帰りの方々は電車が込んで大変だったことと思います。単なる観光行事ではなく、震災の慰霊だということを忘れないでほしいものです。まさに一瞬の出来事で、多くの生命が失われた意味、そして当方にとっては同様の危険に遭遇しながら生き残った意味を考えずにはおられません。
翌日は、近藤、美川両氏、それに竜大の吉田君の四人で見学を致しました。まず、布引の滝。これで美川氏は帰京。ついで地下鉄で大倉山に行き、例の堀を見に行ったらすでに埋めた後で近藤氏はがっかり。近くの昌園という中華料理で昼食。南京町に本店がある名店ですが、やや少量でした(近藤氏はチャーハンを追加、その後でお変わり自由と聞き憤然)。荒田八幡、湊山小学校の雪見御所の碑、祇園遺跡、平野展望公園から眺めを堪能して、タクシーで兵庫へ。能福寺の忠快の石塔、清盛の墓?等、真光寺の一遍の墓、そして清盛塚、その南の薬仙寺、運河沿いに歩いて築島寺(ただし無人のため施錠中)を経て、地下鉄で居留地に行き、三宮神社で河原兄弟の碑を見て、16時ころ。そろそろルミナリエ見物の観光客で混み始めた神戸を後にしました。
その晩は、四条の木曽路で上横手、井上満郎両先生と美川氏を交えて一次会、ついでサントリーバーで観世流能楽太鼓方の井上敬介氏、門下生で同志社卒業生の澤田さんを交えて二次会と相成りました。二日付き合って、当方はダウン。
ただ、布引のロープウエイに乗ると、西側に山が張り出しているのが分かりました。昔の海岸線はかなり山に近かったでしょう。そう考えると、生田は西の須磨と並ぶ要害で防御線だったのではないでしょうか。生田と、安徳内裏はかなりはなれ、その間は空白だったのではないか。しかし、有馬街道のように,北側に抜ける道には守備隊を配置していた、そのために義経は須磨浦の平氏本拠のすぐ裏まで移動して、そこから奇襲せざるを得なかったのではないか。近藤氏の推察です。
10日の緊急シンポ。まことに盛会で何よりです。堀は緊急に掘削したのかどうか、根本的な問題から問い直され、まさにシンポが議論の出発点になりました。遺跡保存の第一歩になってもらいたいものです。第二回も計画中の由、今度は各地の武士の邸宅の発掘事例の比較検討が必要かもしれません。
ちなみに夕食の六甲苑の中華風寄せ鍋は一食の価値有りでした。ついでに、あの日の朝、当方のベルトが壊れ冷や汗をかきました。高橋昌明先生は、紐で結べとか仰ったのですが、そういわれても・・・。上手くごまかせましたかね。嘘ばかりついているという清盛のたたりでしょうか。