薩摩旅行記
No.9873
昨晩遅く鹿児島から戻って参りました。
鹿児島では、永山先生をはじめ、多くの皆様に大変お世話になりました。ありがとうございました。
9日の夜に新幹線で鹿児島中央駅に到着。翌朝、開館時間直後に黎明館に行って、企画展「遺跡からみる中世のかごしま-交易・居館・山城-」を見学。豊富な遺物に圧倒されました。ついで、隼人文化研究会・斉興の会合同研究集会の開かれる講座室へ。
午前の報告は明治大学の鈴木彰先生による「薩摩藩における教訓歌受容史とその意義-島津忠良から島津斉興へ-」。国文学のご報告ながら、歴史学の立場からすると「日新いろは歌」の成立と受容を政治史的に解明したお話として受けとめられました。
お昼の休憩の後、再び鈴木先生のご報告「泗川の戦いにおける〈狐の奇瑞〉をめぐって-その創出と再解釈の行方-」。これまた、日本史研究のサイドから裨益の大きい内容で、近世島津氏の正当性主張のためのイデオロギー操作について具体的に考えることができました。さらに、史料論としても、とても意味のあるお話しだったと思いました。
素晴らしいご報告にしきりに感心して、次に自分の報告があることをすっかり忘却しておりましたが、続いては私の「12世紀末の内乱にともなう東国武士の鎮西進出-千葉氏の場合-」というタイトルの報告。鹿児島在住当時にお世話になった方々(仙台から柳原先生もお出でになられました)と再会した喜びで気の緩んでいた私の話は、本当に拙い内容で恥じ入るばかりでした。
その後、山下町のイタリアンのレストランで懇親会。隼人研もさすがに世代交代の観ありで、これからは尚古集成館の岩川さんや川内の吉本さんに活躍を願いたいものです。
今回の研究会では、かつて鹿児島で「苦楽をともにした?」方たちとの再会に加えて、6月の公開講座にお出で下さる金井先生や、かつて『都城市史』の古代編執筆の際にお世話になった宮崎の柴田先生、それに、鹿児島在住の際に邂逅の機会の得られなかった『奥州後三年記』研究の第一人者である野中先生にお目にかかることができ、とてもうれしく思いました。
一方、旧知の方々と再会し、若い方々の御活躍を見、自らの頭脳の回転と体力の衰えを実感する中で、時の流れの速さをあらためて認識させられました。 とはいえ、永山先生ばかりは昔とあまりお変わりがない。
翌日は、レンタカー(ホンダの車でした)を駆って南九州市川辺町に赴いて、薩摩平氏の一族である川辺氏と北条氏の代官として当地に入部した得宗被官千竃氏に関連する遺跡調査。具体的には清水磨崖仏群や川辺氏墓所、宝光院跡、川辺氏居館跡などを回り、午後はミュージアム知覧で同市の文化財行政に携わっている新地さん(あの、「鹿児島ゼミ旅行」の際には、本当にお世話になりました)や、文化財係長の瀬戸口さんと川辺や知覧の歴史資産の活用の問題などについてお話をする機会を得ることができました。
往復、久方ぶりに指宿スカイラインを(ゆっくり)爆走?いたしました。天候は晴れて温暖ながら、黄砂のためか桜島の雄姿を堪能することができなかったのが残念でした。
京都に戻ったら、また冬のような寒さ。仕事もどっさり待ち受けておりました。
鹿児島では、永山先生をはじめ、多くの皆様に大変お世話になりました。ありがとうございました。
9日の夜に新幹線で鹿児島中央駅に到着。翌朝、開館時間直後に黎明館に行って、企画展「遺跡からみる中世のかごしま-交易・居館・山城-」を見学。豊富な遺物に圧倒されました。ついで、隼人文化研究会・斉興の会合同研究集会の開かれる講座室へ。
午前の報告は明治大学の鈴木彰先生による「薩摩藩における教訓歌受容史とその意義-島津忠良から島津斉興へ-」。国文学のご報告ながら、歴史学の立場からすると「日新いろは歌」の成立と受容を政治史的に解明したお話として受けとめられました。
お昼の休憩の後、再び鈴木先生のご報告「泗川の戦いにおける〈狐の奇瑞〉をめぐって-その創出と再解釈の行方-」。これまた、日本史研究のサイドから裨益の大きい内容で、近世島津氏の正当性主張のためのイデオロギー操作について具体的に考えることができました。さらに、史料論としても、とても意味のあるお話しだったと思いました。
素晴らしいご報告にしきりに感心して、次に自分の報告があることをすっかり忘却しておりましたが、続いては私の「12世紀末の内乱にともなう東国武士の鎮西進出-千葉氏の場合-」というタイトルの報告。鹿児島在住当時にお世話になった方々(仙台から柳原先生もお出でになられました)と再会した喜びで気の緩んでいた私の話は、本当に拙い内容で恥じ入るばかりでした。
その後、山下町のイタリアンのレストランで懇親会。隼人研もさすがに世代交代の観ありで、これからは尚古集成館の岩川さんや川内の吉本さんに活躍を願いたいものです。
今回の研究会では、かつて鹿児島で「苦楽をともにした?」方たちとの再会に加えて、6月の公開講座にお出で下さる金井先生や、かつて『都城市史』の古代編執筆の際にお世話になった宮崎の柴田先生、それに、鹿児島在住の際に邂逅の機会の得られなかった『奥州後三年記』研究の第一人者である野中先生にお目にかかることができ、とてもうれしく思いました。
一方、旧知の方々と再会し、若い方々の御活躍を見、自らの頭脳の回転と体力の衰えを実感する中で、時の流れの速さをあらためて認識させられました。 とはいえ、永山先生ばかりは昔とあまりお変わりがない。
翌日は、レンタカー(ホンダの車でした)を駆って南九州市川辺町に赴いて、薩摩平氏の一族である川辺氏と北条氏の代官として当地に入部した得宗被官千竃氏に関連する遺跡調査。具体的には清水磨崖仏群や川辺氏墓所、宝光院跡、川辺氏居館跡などを回り、午後はミュージアム知覧で同市の文化財行政に携わっている新地さん(あの、「鹿児島ゼミ旅行」の際には、本当にお世話になりました)や、文化財係長の瀬戸口さんと川辺や知覧の歴史資産の活用の問題などについてお話をする機会を得ることができました。
往復、久方ぶりに指宿スカイラインを(ゆっくり)爆走?いたしました。天候は晴れて温暖ながら、黄砂のためか桜島の雄姿を堪能することができなかったのが残念でした。
京都に戻ったら、また冬のような寒さ。仕事もどっさり待ち受けておりました。