徳島へ、465.9㎞の調査旅行
No.9841
26・27日の両日、中世前期における阿波国の有力武士に関係する史跡の調査に出かけてきました。まず、12世紀末のものとされる丈六の聖観音像のある丈六寺(徳島市丈六町)に直行。勝浦川左岸に立地する古刹で、五味文彦氏により田口成良(阿波民部大夫重能)との関連が指摘されている寺院です。次に久安2年(1146)7月11日「河人成俊等問注申詞記」の記事に登場したり関係する国府周辺の史跡へ。
26日は、先に徳島市立考古資料館に立ち寄って情報の確認。学芸員の方から周辺の地図などのコピーを頂いて、国分寺・常楽寺(延命院)を回り、周辺の空間構造を確認する。国府が鮎喰川の水運を前提に存在していたことを理解。また、ここを伊予街道が東西に走っていることも重要。
鮎喰川にかかる一宮橋を渡って、徳島市中心部に戻る。
27日は、田口成良の本拠地と考えられている地域へ。まず井戸寺と隣接する八幡神社。ここを田口氏の居館跡とし、屋島合戦の前に源義経軍が襲来したとする所伝もあるようです。次に目指したのは、桜間の池。桜間は田口成良の弟桜庭(桜間)介良遠の本拠の地で、桜間の池は当時一キロ四方もある大池で歌枕にも詠まれている。吉野川の河道に由来するようだが、現在は桜間神社境内にのこる僅か5メートル四方くらいの小池にその名を留めるのみ。近世に徳島藩主によって建てられた大きな石碑が文化財に指定されています。ここは絶景。すぐ北側を吉野川につながる飯尾川が流れており、やはり舟運がポイント。中世前期の有力武士の本拠の共通要素です。ちなみに、周辺は風光明媚。
その後、阿波国府の所在地とされる観音寺(境内に総社と八幡社を合祀した祠あり)と府中宮(印鎰社)、ついで国分尼寺跡を見学し、鮎喰川右岸の一宮神社・大日寺を回って帰途につきました。
調査を行うにあたって、地元研究者の島田泉山氏・山下知之氏・福家清司氏・長谷川賢二氏らの著書・論文を拝読していたこともあり、現地を調査して、気がついたり、考えさせられることが多くありました。従来、中世成立期の四国の武士は日本史の通史叙述の中であまり評価されてきませんでしたが、新たな武士論構築に供すべき様々な事実が、この地域の武士の存在形態にみとめられるように思いました。田口成良については出来れば専論の形で纏めてみたいと考えています。
ちなみに、調査地のお寺はほとんどお遍路さんの立ち寄るところでした。
帰途、徳島県立阿波十郎兵衛屋敷に立ち寄って人形浄瑠璃を鑑賞する事が出来たのも幸いでした。地方自治体による地域文化の継承への取り組みという点で、現代社会学部の新年度からの講義の材料にも出来そうです。
26日は、先に徳島市立考古資料館に立ち寄って情報の確認。学芸員の方から周辺の地図などのコピーを頂いて、国分寺・常楽寺(延命院)を回り、周辺の空間構造を確認する。国府が鮎喰川の水運を前提に存在していたことを理解。また、ここを伊予街道が東西に走っていることも重要。
鮎喰川にかかる一宮橋を渡って、徳島市中心部に戻る。
27日は、田口成良の本拠地と考えられている地域へ。まず井戸寺と隣接する八幡神社。ここを田口氏の居館跡とし、屋島合戦の前に源義経軍が襲来したとする所伝もあるようです。次に目指したのは、桜間の池。桜間は田口成良の弟桜庭(桜間)介良遠の本拠の地で、桜間の池は当時一キロ四方もある大池で歌枕にも詠まれている。吉野川の河道に由来するようだが、現在は桜間神社境内にのこる僅か5メートル四方くらいの小池にその名を留めるのみ。近世に徳島藩主によって建てられた大きな石碑が文化財に指定されています。ここは絶景。すぐ北側を吉野川につながる飯尾川が流れており、やはり舟運がポイント。中世前期の有力武士の本拠の共通要素です。ちなみに、周辺は風光明媚。
その後、阿波国府の所在地とされる観音寺(境内に総社と八幡社を合祀した祠あり)と府中宮(印鎰社)、ついで国分尼寺跡を見学し、鮎喰川右岸の一宮神社・大日寺を回って帰途につきました。
調査を行うにあたって、地元研究者の島田泉山氏・山下知之氏・福家清司氏・長谷川賢二氏らの著書・論文を拝読していたこともあり、現地を調査して、気がついたり、考えさせられることが多くありました。従来、中世成立期の四国の武士は日本史の通史叙述の中であまり評価されてきませんでしたが、新たな武士論構築に供すべき様々な事実が、この地域の武士の存在形態にみとめられるように思いました。田口成良については出来れば専論の形で纏めてみたいと考えています。
ちなみに、調査地のお寺はほとんどお遍路さんの立ち寄るところでした。
帰途、徳島県立阿波十郎兵衛屋敷に立ち寄って人形浄瑠璃を鑑賞する事が出来たのも幸いでした。地方自治体による地域文化の継承への取り組みという点で、現代社会学部の新年度からの講義の材料にも出来そうです。