昨日の公開講座
http://www.saigaku.ac.jp/outline/upimg/201205221616221189201657.pdfは、前代未聞の盛況ぶりでした。御来場者数は300名に近かったようです。
講師の先生方、コメントをお願いした先生方、それから宗教教育センターの職員のみなさん、そしてゼミメンバ-・関係者諸姉兄に、さらに御来場下さった皆様すべてにあつく御礼を申し上げます。
また、広島・熊本などからお出で下さった方やゼミの古参メンバーから、たくさんのお土産を頂いたことにも、あわせて御礼を申し上げます。
当方、情けないことに、一夜明けた後も、すっかり疲れ果ててしまっておりますので、今回も以前に『芬陀利華』に書いた拙文を貼らせて頂くことにします。
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◇ 京女から眺める平家 ◇
【平家の六波羅】
今年はNHKの大河ドラマで平清盛が放送されています。その主人公である平清盛が本拠にしたのは六波羅。鴨川の東、現在の五条通の北側を中心にした一帯がその故地です。
清盛の率いた一門を平家と称しますが、平家がこの六波羅に関係をもったのは清盛の祖父正盛のときでした。十二世紀の初め、正盛はここに自分のための墓堂を建てました。六波羅は平安京の左京六条の末(すえ)、すなわち左京六条を鴨川の東岸に延長したところにあって、ちょうど、葬地である鳥辺野(とりべの)への入口にあたりますから、鴨川が三途(さんず)の川にオーバーラップするというわけで、平安京に住む人々にとって、ここは、この世とあの世の境界として意識されていた空間だったのです。
この正盛の堂を取り込むかたちで一町規模(約一二〇メートル四方)の邸宅を造営したのが、正盛のあとを継ぎ、瀬戸内海の海賊討伐のみならず、白河・鳥羽両院の近臣として並々ならぬ手腕を示した忠盛です。
その子清盛は、平治の乱後、国家の軍事警察権を掌握して、公卿の地位に昇り、ついには王家(天皇家)の外戚となって国政をも掌握しました。これと並行するように、六波羅の拡大も著しいものがあり、本邸である清盛の泉殿(いずみどの)を中心に、弟の頼盛の池殿(いけどの)、教盛の門脇殿(かどわきどの)をはじめとする一門の居邸がたちならび、周辺には平家に仕える家人・郎等の宅が軒を連ねることになります。六波羅の東南の角で、山科に抜ける道路(渋谷越)に面した場所には、清盛の子で内大臣に任じた重盛の邸宅小松殿(こまつどの)がありました。その位置は、おおよそ現在の馬町交差点の辺りに比定することが出来ます。現在、その近くの東山武田病院には広大な池を備えた積翠(しゃくすい)園という名庭があり、小松殿の遺構である可能性が指摘されています。
【平家の女たち】
ところで、平家の繁栄が清盛をはじめとする男たちによって担われたのに対して、一門の女たちは、父や夫に従うばかりで、主体的意志を発現する機会などなく、歌を詠んだり、楽器を奏でるような風雅な毎日を送るに過ぎない存在であったかのようにイメージされがちです。しかし、それは『平家物語』の情緒的なエピソードや近代の家族制度を前提にした理解であって、正しいものではありません。過去の事実を解明するのは歴史家の仕事ですが、歴史家も歴史的存在なのです。つまり、「男社会」が常識の時代の歴史家は、その価値観で歴史を解釈してしまったのです。
たとえば、平治の乱(一一五九年)の後、謀反人として六波羅に連行されてきた源頼朝を見た池禅尼(いけのぜんに・清盛の継母)が、早世した息子に姿形が似ているのに心を動かされて、清盛に頼朝の助命を泣いて嘆願したという逸話について、従来は、池禅尼の母性と清盛の寛大さという次元で評価されていました。しかし、近年、中世における女性のあり方に関する研究が進んだ結果、このとき、平家一門の家長権は故忠盛の正妻であった池禅尼に属しており、しかも彼女は頼朝の母方に連なる人々との政治的関係が深く、その意志を代弁する形で清盛に助命を働きかけたという事実が明らかにされています。
同じように、清盛の妻時子(二位尼・にいのあま)は、清盛が福原に退隠すると京都に常住。清盛の死後、プライベートな立場におけるリーダーとして、平家一門の要のような役割を果たし、ついには安徳天皇とともに壇ノ浦で入水するに至るのです。また、彼女の異母妹で後白河院の寵愛を一身に集めた建春門院(滋子)は、かつては「美貌」のみによって語られるような存在でしたが、実は院が熊野詣などで不在の間は、彼女が政務を代行していた事実が解明されました。彼女は、ただの飾りのお人形などではなかったのです。さらに、ともすれば悲劇のヒロインのように描かれがちな建礼門院(徳子・清盛の娘で安徳天皇の母)も、一門都落ちの後、公的な形で宗盛と並んで平家を代表する立場にありましたし、晩年を鎌倉幕府の支配下に置かれた六波羅を見下ろす東山鷲尾(現在、高台寺のある辺り)で過ごしたのでした。
【女性の視角】
平家を滅ぼした後、鎌倉に幕府を樹立した源頼朝の仕事を完成させたのも、彼の妻政子でした。彼女は頼朝の後を受けて将軍の座に着いた息子たちの死後の混乱を見事に収拾して、幕府に安定をもたらしています。彼女は朝廷との交渉にも臨み、そのために上洛も遂げていますが、そのときに滞在したのは六波羅でした。平家滅亡後、頼朝はかつて池禅尼が住んでいた池殿の場所に、南北二町という広大な将軍邸を造営していたのです。
ところで、この三月、建春門院の御所のあった最勝光院跡の現地説明会が行われました。場所は大谷高校の西側、本学から歩いて十五分ほどのところです。最勝光院は蓮華王院(三十三間堂)とともに後白河院の御所法住寺殿(ほうじゅうじどの)の一画を占めていました。院の御所は現在の国立博物館の辺りにも広がっており、六波羅はその北端に接していたのです。本学は、その全域を見わたすことのできる、素晴らしい場所に立地しているというわけです。
「男社会」史観を脱して振り返ると、これまでとは違った歴史が見えてくる。こうした取り組みは、男社会の呪縛から解放された、とくに女性の研究者によって近年、精力的に進められました。おそらく、「男社会」というフィルターは、歴史学のみならず、あらゆる学問ジャンルに存在するものと思います。そうした意味からも研究主体としての「女子大」の存在意義はつよく主張できるのではないでしょうか。
以上、満開の桜の木々の隙間から六波羅や法住寺殿の故地を眺めながら、思いつくままに綴ってみました。最後になりましたが、平家がその全盛から滅亡にいたる時期が、まさに親鸞聖人の幼・少年期に重なることを確認しておきたいと思います。
(『芬陀利華』第317号より )
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☆ 東北福祉大学の吉井宏先生より、御高論「日欧の城郭について」(『東北福祉大学生涯学習支援室年報』13)および『宮城県岩沼市鵜ケ崎城跡(岩沼要害)』の第9~11次発掘調査報告書(各1冊)を御恵送頂きました。
吉井先生に、あつく御礼を申し上げます。