『源氏と坂東武士』(吉川弘文館)は売り切れのようです。

No.9637

 京都は台風一過ですが、お天気はパッとしません。

 非常勤の先生方との競合を避けるために、今日は早朝出勤して資料の印刷に精を出しました。例によって印刷機が用紙の大きさを識別してくれなかったり、必要な大きさの用紙がなくなっていたりで、思うに任せませんでしたが、A3を半分に断裁してA4用紙を確保するなどして、なんとか終了しました。
 しかし、最近の印刷機は手が汚れることが少なくなりました。なにしろ、謄写版時代を経験しておりますから。ガリ切りというのも味があってよかった。職人芸みたいな技術を持つ先生(たいてい国語科の老先生)が各校に一人、必ずおられたものでした。

 ところで、吉川弘文館のHPによると、2007年に刊行した拙著『源氏と坂東武士』は「在庫なし」「再版未定」とのこと。それで、お問い合わせを頂くことがあるのですが、私の手許には若干の保存分があるばかりです。まだ書店などに流通している分があると思いますので、それをお探し頂くか、図書館を利用して頂きたく、お願い致します。

この番組は宗教・文化研究所の提供でお送りします(うそです)

No.9638

 昨日は暴風警報発令による休講措置のため、ゼミもお休みになりました。
 事前勉強なしで公開講座を迎えることとなってしまいましたが、当日は先生方のお話を直接伺うことで、たくさん学ばせていただきたいと思います。

 ひとまず来週の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年6月26日(火)午後4時すぎ~(予定)
 範囲:建仁三年(1203)十月八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日
    建仁四年(元久元年、1204)正月十日・十二日・十八日、二月十日・二十日、三月九日・十日・二十二日・二十九日、四月一日・十日・十六日・二十日・二十一日、五月六日・八日・十日・十六日・十九日、六月八日・十九日・二十四日・二十六日、八月三日・四日・十五日・二十一日、九月一日・二日・十三日・十五日、十月十四日・十七日・十八日、十一月四日・五日・七日・十三日・十七日・十八日・二十日・二十六日、十二月十日・十八日・二十二日の各条
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室

 また、火曜日の『吾妻鏡』は7月も開催予定です。日程はまたあらためてご相談させていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。

 わけあって開始時間を四時過ぎに変更させていただいております。メンバーのみなさんにはご迷惑・ご不便をお掛け致しますが、よろしくお願い致します。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

 ※野口先生の『源氏と坂東武士』は、Amazonでは古本で25,000円ほどの値が付いていますね。

 ※ご案内いただきましたテレビ放送ですが、本日の初回放送(?)は京都ローカルです。明日のリピート放送(?)は近畿圏内で放送されるそうです。

見ましたよ。→ 視聴率の一翼をにないました。

No.9639

 今日も早起きしたので、もうクタクタです。土曜日までもつかどうか、心配。
 しかし、今日は1回生・3回生と少しばかりお話しが出来たのが収穫。
 
 急いで帰宅して、テレビをつけたら、まだ間に合いました。岩田君登場!! さすがに、ちょっと緊張しているのが分かりました。インタビュアーの山内さん(本学卒業生)は、ちゃんと岩田君の著書のことにも触れてくれました。
 動物園の観覧車(法勝寺八角九重の塔)。法住寺(法住寺殿)。京都駅(美福門院→八条院御所)。そして、よかったのが七条新町の交差点(七条町)。岩田君の案内は、きちんとした学問的検証を踏まえたもの。そして新鮮味もありました。まぁ、番組の目的はおくとして、なかなかに律儀に制作されていると思いましたよ。
 「七つの肩書きを持つ岩田君」は、京都市内で通りのよい肩書きを使われました。NHK「京都」放送局の番組ですしね。
 これで岩田君は「テレビでもお馴染みの」有名人です。明日から外出するときはサングラスとマスクが必要かも知れません。
 明日の午前に放送される分についても、また録画で見たいと思います。

 岩田君の出演番組の放送時間と「お手伝い」のお願い

No.9636

 今日は警報発令のためⅢ講時で授業終了。「基礎演習Ⅰ」は全員出席で、東川さんの報告を聴きましたが、私としては、AKBのことなど、たいへん勉強になりました。
 なるほど、アイドルはあのように作られているわけですね。背景に「大衆化」あるいは「ネット」社会があることもよく分かりました。アイドルとの握手もお金次第か。大衆社会にも市場原理が横行。前回のK-POPの話とも対応して、いろいろ考えることが出来たと思います。

 警報発令のため、Ⅳ講時以降の時間に設定されていたゼミの史料講読会と公開講座の事前学習会は中止のやむなきに至りました。それぞれ、自習をしておいて下さい。
 それでも、池嶋さんは懇親会出席者の名簿を届けて下さり、また、岩田君は草津から、山本さんも吉田山の麓から駆けつけて下さいました。ありがとうございました。

 23日の公開講座については、講師の先生方から資料も届き、懇親会の申し込みの受付も終了。出席者は32名となりました。あの「里」の地下室は満員になりそうですね。

 ところで、当ゼミ師範代をつとめてくれている岩田君出演のテレビ番組(NHK京都)の放送日時ですが、担当の方(京女の卒業生)からお知らせを頂きました。
 あす6月20日(水)18:10~19:00「ニュース610京いちにち内『京これ!』、あさって6月21日(木)11:30~12:00「ぐるっと関西おひるまえ」内『京都情報』の予定とのこと。ただし、「突発のニュースがあれば内容変更される可能性もありますのでご了承ください」という但し書きが付いています。
 とりあえず、録画のセットをしておきましょう。

 それから、以前少しお話をさせて頂きましたが、研究所ゼミの1回生~3回生に、手伝って頂きたい仕事があります。明日20日(水)と明後日21日(木)の午後、授業の空き時間にお手伝いをして頂ける方は、E・メール(必ず研究室のアドレスへ)で、その日と時間をお知らせ下さい。折り返し、お願いしたい日・時間などをお知らせ致します。

明日の基礎演習・ゼミ講読会および諸連絡の方法について

No.9635

 台風4号が接近中です。明日、Ⅲ講時の「基礎演習Ⅰ」(東川さんの「アイドル戦国時代」というテーマの発表の予定)の実施については、台風などに際しての、京都女子大学の休講措置規定にしたがって下さい。
 Ⅳ講時のゼミ講読会(『玉葉』)とⅤ講時以降に予定していた公開講座事前勉強会も、これに準拠いたします。
 
 また、講読会・勉強会が中止された場合、そこで連絡する予定であったことは、この掲示板(BBS)あるいは各個人宛のE・メールにて行いますので、かならず確認をお願い致します。
 
 私に対する連絡は、研究室のE・メールアドレス(上記、名前をクリックするのと同じ)に送信して下さい。
 なお、今のところ、私は明日の午前中は、研究室または学内にいるつもりでおります。

 相撲人は一宮の神主さんだったり、郡司クラスの地方武士

No.9634

 「雨あがりの日曜日。窓を開けて、くつろいでいたら、またも近所でバーベキューが始まってしまいました。」
 先週に続いて、ある親しい友人から、また、こんなメールが届きました。
 不条理な我慢が平和を保つということなのでしょうね。彼はだいぶストレスをため込んでいるようで気の毒です。

 19日、火曜日のゼミ講読会ですが、すでに御承知の通り、『吾妻鏡』の時間は公開講座の事前勉強会に変更。元木先生の御講演については真鍋さん、服藤先生の御講演については岩田君に報告して頂きます。
 それから、当日の運営についての打ち合わせなども致しますから、「御用とお急ぎでない」ゼミメンバー・関係者は、普段参加されていない方も是非ご出席をお願い致します。
 ちなみに、懇親会参加希望の受付は池嶋さんが布告されたように、本日24時にて締切です。

 先週、木曜日Ⅲ講時「女性視点の日本史」の講義終了後、この講義を聴講してくれていたタイからの留学生が、「近く帰国するので、これが最後の出席です」と、挨拶に来てくれました。見ると、配付した資料にはびっしりとタイ語でメモが加えられており、熱心に受講してくれたことがうかがえました。
 私は、1996年5月、慶應大学(SFC)に勤務する畏友の助力を得て(私は外国語か苦手なので、かれに報告の翻訳や、質疑応答の際の通訳、さらには往復の飛行機やホテルの手配までお願いしたのでした)、バンコクのチュラロンコン大学で開かれたアジア歴史学者会議で研究報告をしたことがありますが、その際、タイが理系のみならず、人文系の学問・研究にも国を挙げて力を入れていることを実感させられたことを思い出しました。
 帰国した彼女が、タイに日本中世史の小さなタネ一つでも撒いてくれることを願っています。

 ところで、保元の乱後の相撲の節会には、その後の治承・寿永内乱の際に活躍を見せる地方武士の一族(一~二世代上)も「相撲人」として姿を見せています。このことについては、拙稿「相撲人と武士」(中世東国史研究会編『中世東国史の研究』東京大学出版会、1988年)で詳しく触れていますので御笑覧下さい。
 一部の方からは、「あの野口も、若い頃は、いちおう、しっかりした論文を書いていたんじゃねぇか」と思って頂けるかも知れません。
 ちなみに、左馬頭はけっこうエライけど、大宰大監はあんなにエライわけはない。
 それに、原田は地元では「ハルダ」ですね。

 さて、今週もコメント代わりの連載。これで、ひとまずおしまいです。
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   平清盛の時代(通学路の歴史探索)                  
  第7回 六波羅の小松殿

 今年のNHK大河ドラマの主人公は平清盛。本学の立地は平家の本拠であった六波羅に隣接しますから、近くにたくさんの観光客が押し寄せることでしょう。

 『延慶本平家物語』に「六波羅殿とてののしる所は故刑部卿忠盛世に出し吉所也。南門は六条末、賀茂川一丁を隔つ。元方町なりしを、此相国の時四丁に造作あり。是も屋数百二十余宇に及べり。是のみならず、北の倉町より初て、専ら大道を隔て、辰巳の角の小松殿に至まで廿余町に及まで、造営したりし一族親類の殿原及び郎従眷属の住所に至まで、細に是を算れば屋敷三千二百余宇」と描かれた六波羅の中心は、現在の五条通(平安京六条坊門小路の末)の北側にあたり、平家一門の邸宅の所在は一帯にのこる町名から推定することが出来ます。北御門町は六波羅の北の惣門にちなみ,門脇町には平教盛(清盛の弟)の門脇殿がありました。三盛町は、もと泉殿町と呼ばれたところで、ここには平家の本邸である泉殿があり,その南方の池殿町は,清盛の継母藤原宗子(池禅尼)とその息子の頼盛が住んだ池殿のあったところです。池殿は泉殿より規模が大きく、清盛の娘徳子(建礼門院)はここで安徳天皇を出産しています。

 『平家物語』に後白河院に対する「忠」と父清盛に対する「孝」の狭間で苦悩した理想的な人物として描かれる重盛の邸「小松殿」は、六波羅の「辰巳(東南)の角」にありましたが、その地は現在の東山区常盤町・馬町交差点の辺りに比定することができるでしょう。ここは平安京から山科に抜ける苦集滅路(くずめじ。渋谷越とも。平安京六条大路の末にあたる)の通る小松谷の入口にあたる交通・軍事の要衝でした。重盛の邸は平家一門の邸宅の中では院御所である法住寺殿に最も近いところにあったことになり、彼が平家の軍事力を統轄しながら、後白河院と男色関係も想定されるほどの近臣であったことを考えると、その居所として実に相応しい位置と言えましょう。

 現在、馬町交差点東南にある東山武田病院の敷地内には、広大な池を備えた積翠(しゃくすい)園という名庭がのこされています。この池庭は平安末期の浄土様式で作られており、これを小松殿の遺構と見なす説があります。その位置は『延慶本平家物語』の記すところと一致しますし、後世の手が入っているにしても妥当な推測であると思えます。春夏の美しさは素晴らしく、知られざる京都の平家関連史跡と言えるでしょう。

  公開講座まであと一週間

No.9633

 23日の公開講座の懇親会には、大学の先生ばかりではなく、博物館の学芸員、出版社の編集者をされている方などもご出席になられるとのこと。学生諸姉はいろいろ質問を用意しておくとよいかも知れません。
 しかし、人数が多いので、会費の徴収など一工夫が必要。名簿を作って配付するのも一法か?
 幹事さんの腕の見せ所です。

 公開講座の翌週、名古屋の中世史研究会6月例会で長村君が研究報告をされるとのことです。
   報告者:長村 祥知 氏(京都府京都文化博物館)
   題目:「中世前期の在京馬政機関」
   日時:2012年6月30日(土) 14: 30~17:00 (開場14:00)
   会場:名古屋大学文学部127講義室
   (地下鉄名城線 名古屋大学駅下車1番出口より西へ徒歩5分)

 名古屋というと野口君を思い出しますが、お元気ですか?
 私も、この秋から半年ばかり、ほぼ毎月一度のわりで名古屋に出掛けることになりそうです。

 『史学雑誌』の「回顧と展望」が届きました。目次に尻池さんのお名前が。ゼミの出身者は既に、批評される側から批評する側へ。それにしても、たいへんなお仕事であったと思います。知らなかった論文も多く、たいへん助かりました。

 公開講座まであと一週間。さまざまな準備がひかえております。御協力・御助力を宜しくお願い申し上げる次第です。  

懇親会のお知らせ

No.9631

こんにちは。池嶋です。6月に入って二週間ほど経ち、いよいよ公開講座も近づいてきました。そこで本日は再度懇親会のお知らせをさせていただきます。
6月17日(日)まで募集いたしますので、皆さまぜひご参加ください。

   日時:6月23日(土)18:30~(2時間程の予定)
   場所:「里」(女坂上ってすぐです)
   費用:2600円+α  ※飲み放題付きコース料理

お手数ですが、参加をご希望される方は野口先生または池嶋(上記PCアドレスもしくは携帯)までご連絡下さい。
参加人数の正確な把握が必要ですので参加をお考えの方は、必ずご連絡を下さい。よろしくお願い申し上げます。

大河ドラマを上回る視聴率は確実?

No.9632

 懇親会は、ゼミの主催ですから、ゼミのメンバーと本学の学生さんにたくさんお出で頂きたいところです。
 「たくさん」とは申しましても限度がありますが。
 なお、広島から江波さんも出席されます。
 
 ところで、来週の水曜日(20日)、NHKテレビに岩田君が出演されます。ただし、京都限定。
 残念ながら、サスペンスの刑事役とか、バラエティー番組の司会とかではありません。
 撮影は本日終了の由。
 放送時間が分かったら、また書き込ませて頂きます。
 録画して、批評会を開きましょう。もちろん、23日の公開講座が終わった後にですよ。

 >陰陽道や安倍晴明に関心があるという方へ  まず、この本を読んで下さい。
  →山下克明『陰陽道の発見』(NHKブックス)。
   http://www.nhk-book.co.jp/engei//shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=00911592010
    歴史学者による、一般向けで最高水準の内容の文献だと思います。

明日の基礎演習Ⅰとゼミ史料講読会。

No.9629

 明日Ⅲ講時の「基礎演習Ⅰ」は、徳山さんの報告で、テーマは「K-POP事情と日韓の比較」です。この時間に、「基礎演習Ⅱ」と「演習Ⅱ」の配属決定手続きに関するマニュアルを配付する予定です。
 もし、私が忘れそうになったら、言ってください。

 Ⅳ講時の『玉葉』講読会は治承四年五月二十一日の条から。Ⅴ講時の『吾妻鏡』は>>No.9622を参照。
編集:2012/06/11(Mon) 16:09

事前学習会のご案内

No.9630

 6月23日(土)は公開講座ですが、来週はその事前学習会を開催致します。

 日時:2012年6月19日(火)午後4時すぎ~(予定)
 内容:公開講座の事前学習会
    (元木泰雄先生と服藤早苗先生のご研究について予習しましょう)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 参考文献:元木泰雄先生『平清盛と後白河院』角川学芸出版、2012年
       服藤早苗先生「五節舞姫の成立と変容」(『歴史学研究』第667号、1995年)
       服藤早苗先生「平安朝の五節舞姫-舞う女たち-」(『埼玉学園大学紀要 人間学部編』第11号、2011年)

 また、火曜日の『吾妻鏡』は6月は19日・26日と開催予定です。よろしくお願いします。

 範囲:建仁三年(1203)十月八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日
    建仁四年(元久元年、1204)正月十日・十二日・十八日、二月十日・二十日、三月九日・十日・二十二日・二十九日、四月一日・十日・十六日・二十日・二十一日、五月六日・八日・十日・十六日・十九日、六月八日・十九日・二十四日・二十六日、八月三日・四日・十五日・二十一日、九月一日・二日・十三日・十五日、十月十四日・十七日・十八日、十一月四日・五日・七日・十三日・十七日・十八日・二十日・二十六日、十二月十日・十八日・二十二日の各条

 わけあって開始時間を四時過ぎに変更させていただいております。メンバーのみなさんにはご迷惑・ご不便をお掛け致しますが、よろしくお願い致します。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

田原総一朗氏の取材をうけました

美川圭
No.9626

この週末、都内某所で、田原総一朗氏の取材をうけてきました。

『中央公論』に、この1月号から連載されている「日本人にとって天皇とは何か」という記事の取材です。

すでに、復興推進委員会委員長の五百旗頭真先生、東京大学の大津透先生、お茶の水女子大学の古瀬奈津子先生などのもとを、取材しており、私のもとには、中公新書の『院政』を読んで、来たようです。

名刺交換をして、座るなり「先生は後白河をどのような人物と見ているのですか」「後白河はなんで天寿をまっとうしたのですか」「清盛や頼朝は、一時期あんなに権力があったのに何で天皇になろうとしなかったのですか」「後鳥羽は何で幕府を倒そうとしたのか、勝ち目があると思ったのか」「何で天皇制が今まで続いたのですか」と日本史の核心にせまる難問を矢継ぎ早に発し、45分間。まるで、サンデープロジェクトとか朝まで生テレビ、そのものの対談になりました。

たびたび言いよどむ私の態度に、これらの問題は簡単に結論の出ない難しい問題だ、ということは理解されたようです。ともかく、あまり味わったことのないスリリングな時間でした。テレビ出身の人ですから、とにかくいわゆる無駄話がなく、視聴者が聞きたそうなことを、自分がなりかわってどんどん聞くという姿勢で、おそろしく無遠慮でありながら、不思議に嫌な感じはまったくしないものでした。

はたして、私の登場回は、どんな内容になるのでしょうか。つぎは今谷明先生のところだそうです。

こういうイベントで、日本史の研究者と一般の人たちとのあいだが近くなることは、意味のあることだと思いました。

大河ドラマの真実 「皇子」の噂は清盛自身から

美川圭
No.9627

相変わらす、大河は見ていませんが、

産経新聞6月5日夕刊、一面に「NHK「清盛」低迷続く リアルさ裏目 かすむ主人公」という記事が載っています。

その文化面に、私の標題のような署名記事が掲載されました。興味がある方は、ちょっと前なので図書館などでご覧下さい。

サタデープロジェクト

No.9628

 美川先生、久しぶりの御登場、ありがとうございます。

 よく外国の研究者?から、「承久の乱で勝利した北条義時は、なぜ天皇にならなかったのか」というような質問をされます。語学の障壁もありますが、これを分かって貰うのは相当難儀な話です。

 「承久の乱」は、日本の文化・歴史・社会を解明するためのキーワードになると思うのです。

 しかし、たしかに、もう日本人も外国人もありませんね。

 ところで、>公開講座懇親会に出席される学生諸姉  懇親会には美川先生もご出席ですので、サンデープロジェクトならぬサタデープロジェクトを試みては如何でしょうか? ただし、「朝まで」はダメです。  

境界空間としての六条河原と船岡山

No.9625

 「梅雨空の合間の日曜日。久しぶりに部屋の窓を大きく開けて・・・、と思ったら、ついに近所で大騒ぎをしながらのバーベキューが始まりました。こんなに密集した住宅街の狭い庭でバーベキューをしたら、周囲にどのような災厄がもたらされるのか、少し考えれば分かると思うのですが・・・。共生の難しい時代になってしまいました。」
 ある親しい友人から、こんなメールが届きました。

 さて、義朝や清盛による親族の処刑。ドラマに仕立てるには「情愛」が重視されるのでしょうが、政治的な評価、それに、なぜ親族が処刑を担ったのか、どうして処刑の場が京域の外側だったのか、そして日本の貴族社会では死刑は行われない風潮のあったこと等については、以下の文献を参照してください。
 元木泰雄『河内源氏』p161~163
 元木泰雄『平清盛と後白河院』p43~44
 伊藤喜良「中世における天皇の呪術的権威とは何か」(『歴史評論』437)
 上横手雅敬「天皇と京都」(『ミネルヴァ日本評伝選通信』36)p6~8
 
 今週もコメント代わりの連載。もう6回目ですね
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   平清盛の時代(通学路の歴史探索)           
  第六回 なぞの武将墓
 七条通を挟んで京都国立博物館の向かいにあるホテル、ハイアットリージェンシー京都は、一九七八年に建てられた京都パークホテルを改装したものです。このパークホテルの新築に際して、平安京の考古学的調査に先鞭をつけたことで知られる(財)古代学協会の手によって発掘調査が行われました。この地が後白河院の御所法住寺殿の一画を占めたことは既に述べたところですが、この調査ではその時代の武将のものと思われる墓が検出されました。ほぼ三㍍四方の土壙に漆の塗膜と若干の金属製品をのこすのみとなった鎧・弓箭・馬具などの遺物が見つかったのです。この墓は、一人の被葬者に対して五人分の甲冑が裏返した形で副葬され、しかも兜の鉢(ヘルメットの部分)がないなど、きわめて異様な埋葬形態がとられていましたが、出土した遺物は伝世品には見られない優品ばかりで、鍬形(兜の前立て)と鏡轡(かがみくつわ)は、現在、国の重要文化財に指定されています。
 被葬者としては、当初、法住寺合戦で討死した院方の有力武士源光長が候補にあげらましたが、この合戦で院は木曽義仲に敗北し、討ち取られた武士の首は五条河原に晒されていますし、墓には堂が付属していたと見られことなどから、この説は否定されました。そこで私は、墓の南側が院の墓所として用意された空間であったことから、これを守護しうるような院の信頼あつい有力武士を被葬者と想定し、『源平盛衰記』等の記事と埋葬状態の整合などを傍証として治承三年(一一七九)に死んだ平重盛説を提示したのです(拙著『武家の棟梁の条件』中公新書)。ところが、その後、京都市埋蔵文化財研究所の上村和直氏が、出土した土器の年代から武将墓の築造時期を十三世紀前半に特定されたので、この説は成り立たなくなりました。(同研究所『研究紀要』九)。文献史学の立場から、新たに被葬者を見つけ出す必要が生ずる事態となったのです。
 被葬者特定の手がかりとして、①この武将墓が院の墓所を守護するような位置にあること ②副葬された武器・武具が他に類例のない優品であること ③十三世紀前半の頃、人々が後白河院の霊をどのように意識していたか、などを考慮してみる必要があると思います。そのようなことを踏まえて、私は新しい説を古代学協会の会報『土車』第一二〇号に発表しました。今度こそ学界の承認を得たいところなのですが…。

 埋もれてしまった拙著の御紹介

No.9624

 日曜の朝、たまにはCMもよろしいかと?

 未だ詳細は伏せておきたいと思いますが、再刊予定の旧著は『坂東武士団と鎌倉』というようなタイトルになりそうです。研究者の責務として、旧版刊行後の研究成果を踏まえて大幅な改稿を加える必要があるのですが、様々な制約から、校正漏れの修正と20~30枚程度の補論で対応したいと考えています。
 埋もれてしまっていた旧著が日の目を見ることは嬉しいのですが、一方で、これから埋もれていきそうな拙著もあります。
  『武家の棟梁の条件』(中公新書,1994年)
   http://www.chuko.co.jp/shinsho/1994/11/101217.html
  『武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか』(新人物往来社、1998年)
   http://honto.jp/netstore/pd-book_01597876.html
  『伝説の将軍 藤原秀郷』(吉川弘文館,2001年) 
   http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34525.html
  『源氏と坂東武士』(吉川弘文館,2007年)
   http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33838.html
など。『源氏と坂東武士』は品切れ間近のようです。
 今年に入ってから出版した『武門源氏の血脈』(中央公論新社)
   http://www.chuko.co.jp/tanko/2012/01/004318.htmlも、最近は書店から姿を消しつつあるようです。
 はじめて自分の書いた本が書店の棚に並んでいたのを見たときは、何だか奇異に感じたものですが、今は、一冊もないと、大げさなようですが寂寥感を感じてしまいます。そこで、また本を出さなければと思うわけですが・・・。

 ☆ 青山学院大学大学院の鈴木沙織さんより、御高論「地域における中世交通の在り方-上・信堺地域における修験の道-」(『鎌倉遺文研究』29)を御恵送頂きました。
 青学大学院日本史専攻一期生の私としては、後輩の活躍を大変うれしく思う次第です。
 鈴木さんに、あつく御礼を申し上げます。