相撲人は一宮の神主さんだったり、郡司クラスの地方武士
No.9634
「雨あがりの日曜日。窓を開けて、くつろいでいたら、またも近所でバーベキューが始まってしまいました。」
先週に続いて、ある親しい友人から、また、こんなメールが届きました。
不条理な我慢が平和を保つということなのでしょうね。彼はだいぶストレスをため込んでいるようで気の毒です。
19日、火曜日のゼミ講読会ですが、すでに御承知の通り、『吾妻鏡』の時間は公開講座の事前勉強会に変更。元木先生の御講演については真鍋さん、服藤先生の御講演については岩田君に報告して頂きます。
それから、当日の運営についての打ち合わせなども致しますから、「御用とお急ぎでない」ゼミメンバー・関係者は、普段参加されていない方も是非ご出席をお願い致します。
ちなみに、懇親会参加希望の受付は池嶋さんが布告されたように、本日24時にて締切です。
先週、木曜日Ⅲ講時「女性視点の日本史」の講義終了後、この講義を聴講してくれていたタイからの留学生が、「近く帰国するので、これが最後の出席です」と、挨拶に来てくれました。見ると、配付した資料にはびっしりとタイ語でメモが加えられており、熱心に受講してくれたことがうかがえました。
私は、1996年5月、慶應大学(SFC)に勤務する畏友の助力を得て(私は外国語か苦手なので、かれに報告の翻訳や、質疑応答の際の通訳、さらには往復の飛行機やホテルの手配までお願いしたのでした)、バンコクのチュラロンコン大学で開かれたアジア歴史学者会議で研究報告をしたことがありますが、その際、タイが理系のみならず、人文系の学問・研究にも国を挙げて力を入れていることを実感させられたことを思い出しました。
帰国した彼女が、タイに日本中世史の小さなタネ一つでも撒いてくれることを願っています。
ところで、保元の乱後の相撲の節会には、その後の治承・寿永内乱の際に活躍を見せる地方武士の一族(一~二世代上)も「相撲人」として姿を見せています。このことについては、拙稿「相撲人と武士」(中世東国史研究会編『中世東国史の研究』東京大学出版会、1988年)で詳しく触れていますので御笑覧下さい。
一部の方からは、「あの野口も、若い頃は、いちおう、しっかりした論文を書いていたんじゃねぇか」と思って頂けるかも知れません。
ちなみに、左馬頭はけっこうエライけど、大宰大監はあんなにエライわけはない。
それに、原田は地元では「ハルダ」ですね。
さて、今週もコメント代わりの連載。これで、ひとまずおしまいです。
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平清盛の時代(通学路の歴史探索)
第7回 六波羅の小松殿
今年のNHK大河ドラマの主人公は平清盛。本学の立地は平家の本拠であった六波羅に隣接しますから、近くにたくさんの観光客が押し寄せることでしょう。
『延慶本平家物語』に「六波羅殿とてののしる所は故刑部卿忠盛世に出し吉所也。南門は六条末、賀茂川一丁を隔つ。元方町なりしを、此相国の時四丁に造作あり。是も屋数百二十余宇に及べり。是のみならず、北の倉町より初て、専ら大道を隔て、辰巳の角の小松殿に至まで廿余町に及まで、造営したりし一族親類の殿原及び郎従眷属の住所に至まで、細に是を算れば屋敷三千二百余宇」と描かれた六波羅の中心は、現在の五条通(平安京六条坊門小路の末)の北側にあたり、平家一門の邸宅の所在は一帯にのこる町名から推定することが出来ます。北御門町は六波羅の北の惣門にちなみ,門脇町には平教盛(清盛の弟)の門脇殿がありました。三盛町は、もと泉殿町と呼ばれたところで、ここには平家の本邸である泉殿があり,その南方の池殿町は,清盛の継母藤原宗子(池禅尼)とその息子の頼盛が住んだ池殿のあったところです。池殿は泉殿より規模が大きく、清盛の娘徳子(建礼門院)はここで安徳天皇を出産しています。
『平家物語』に後白河院に対する「忠」と父清盛に対する「孝」の狭間で苦悩した理想的な人物として描かれる重盛の邸「小松殿」は、六波羅の「辰巳(東南)の角」にありましたが、その地は現在の東山区常盤町・馬町交差点の辺りに比定することができるでしょう。ここは平安京から山科に抜ける苦集滅路(くずめじ。渋谷越とも。平安京六条大路の末にあたる)の通る小松谷の入口にあたる交通・軍事の要衝でした。重盛の邸は平家一門の邸宅の中では院御所である法住寺殿に最も近いところにあったことになり、彼が平家の軍事力を統轄しながら、後白河院と男色関係も想定されるほどの近臣であったことを考えると、その居所として実に相応しい位置と言えましょう。
現在、馬町交差点東南にある東山武田病院の敷地内には、広大な池を備えた積翠(しゃくすい)園という名庭がのこされています。この池庭は平安末期の浄土様式で作られており、これを小松殿の遺構と見なす説があります。その位置は『延慶本平家物語』の記すところと一致しますし、後世の手が入っているにしても妥当な推測であると思えます。春夏の美しさは素晴らしく、知られざる京都の平家関連史跡と言えるでしょう。
先週に続いて、ある親しい友人から、また、こんなメールが届きました。
不条理な我慢が平和を保つということなのでしょうね。彼はだいぶストレスをため込んでいるようで気の毒です。
19日、火曜日のゼミ講読会ですが、すでに御承知の通り、『吾妻鏡』の時間は公開講座の事前勉強会に変更。元木先生の御講演については真鍋さん、服藤先生の御講演については岩田君に報告して頂きます。
それから、当日の運営についての打ち合わせなども致しますから、「御用とお急ぎでない」ゼミメンバー・関係者は、普段参加されていない方も是非ご出席をお願い致します。
ちなみに、懇親会参加希望の受付は池嶋さんが布告されたように、本日24時にて締切です。
先週、木曜日Ⅲ講時「女性視点の日本史」の講義終了後、この講義を聴講してくれていたタイからの留学生が、「近く帰国するので、これが最後の出席です」と、挨拶に来てくれました。見ると、配付した資料にはびっしりとタイ語でメモが加えられており、熱心に受講してくれたことがうかがえました。
私は、1996年5月、慶應大学(SFC)に勤務する畏友の助力を得て(私は外国語か苦手なので、かれに報告の翻訳や、質疑応答の際の通訳、さらには往復の飛行機やホテルの手配までお願いしたのでした)、バンコクのチュラロンコン大学で開かれたアジア歴史学者会議で研究報告をしたことがありますが、その際、タイが理系のみならず、人文系の学問・研究にも国を挙げて力を入れていることを実感させられたことを思い出しました。
帰国した彼女が、タイに日本中世史の小さなタネ一つでも撒いてくれることを願っています。
ところで、保元の乱後の相撲の節会には、その後の治承・寿永内乱の際に活躍を見せる地方武士の一族(一~二世代上)も「相撲人」として姿を見せています。このことについては、拙稿「相撲人と武士」(中世東国史研究会編『中世東国史の研究』東京大学出版会、1988年)で詳しく触れていますので御笑覧下さい。
一部の方からは、「あの野口も、若い頃は、いちおう、しっかりした論文を書いていたんじゃねぇか」と思って頂けるかも知れません。
ちなみに、左馬頭はけっこうエライけど、大宰大監はあんなにエライわけはない。
それに、原田は地元では「ハルダ」ですね。
さて、今週もコメント代わりの連載。これで、ひとまずおしまいです。
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平清盛の時代(通学路の歴史探索)
第7回 六波羅の小松殿
今年のNHK大河ドラマの主人公は平清盛。本学の立地は平家の本拠であった六波羅に隣接しますから、近くにたくさんの観光客が押し寄せることでしょう。
『延慶本平家物語』に「六波羅殿とてののしる所は故刑部卿忠盛世に出し吉所也。南門は六条末、賀茂川一丁を隔つ。元方町なりしを、此相国の時四丁に造作あり。是も屋数百二十余宇に及べり。是のみならず、北の倉町より初て、専ら大道を隔て、辰巳の角の小松殿に至まで廿余町に及まで、造営したりし一族親類の殿原及び郎従眷属の住所に至まで、細に是を算れば屋敷三千二百余宇」と描かれた六波羅の中心は、現在の五条通(平安京六条坊門小路の末)の北側にあたり、平家一門の邸宅の所在は一帯にのこる町名から推定することが出来ます。北御門町は六波羅の北の惣門にちなみ,門脇町には平教盛(清盛の弟)の門脇殿がありました。三盛町は、もと泉殿町と呼ばれたところで、ここには平家の本邸である泉殿があり,その南方の池殿町は,清盛の継母藤原宗子(池禅尼)とその息子の頼盛が住んだ池殿のあったところです。池殿は泉殿より規模が大きく、清盛の娘徳子(建礼門院)はここで安徳天皇を出産しています。
『平家物語』に後白河院に対する「忠」と父清盛に対する「孝」の狭間で苦悩した理想的な人物として描かれる重盛の邸「小松殿」は、六波羅の「辰巳(東南)の角」にありましたが、その地は現在の東山区常盤町・馬町交差点の辺りに比定することができるでしょう。ここは平安京から山科に抜ける苦集滅路(くずめじ。渋谷越とも。平安京六条大路の末にあたる)の通る小松谷の入口にあたる交通・軍事の要衝でした。重盛の邸は平家一門の邸宅の中では院御所である法住寺殿に最も近いところにあったことになり、彼が平家の軍事力を統轄しながら、後白河院と男色関係も想定されるほどの近臣であったことを考えると、その居所として実に相応しい位置と言えましょう。
現在、馬町交差点東南にある東山武田病院の敷地内には、広大な池を備えた積翠(しゃくすい)園という名庭がのこされています。この池庭は平安末期の浄土様式で作られており、これを小松殿の遺構と見なす説があります。その位置は『延慶本平家物語』の記すところと一致しますし、後世の手が入っているにしても妥当な推測であると思えます。春夏の美しさは素晴らしく、知られざる京都の平家関連史跡と言えるでしょう。