源為義も平忠正も宇治に住んでいたのです。
No.9615
>長村君 小生の古巣の住み心地はいかがでしょうか?
さて、清盛の叔父忠正は、そもそも忠盛家からは独立した存在で、摂関家の忠実・頼長の家人であり、子息長盛は崇徳院の蔵人になっていたのですから、清盛は躊躇すること少なく、処刑を行ったはずです。ちなみに、忠正は摂関家の権門都市である宇治に邸宅を有していました。どの辺りだったのでしょうね?
同じく摂関家に祗候していた源為義も宇治に宿所を有していたようです。そういえば、私はかつて、こんな論文を書いたことがありました→「中世前期における宇治の軍事機能について」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』第22号,2009年)。
御参照下されば幸いです。
ところで、保元の乱後の処刑について、元木泰雄先生は御高著『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)において、以下のようなことを指摘しておられます。
○ 武士相互の私合戦において、敗者やその一族を殺害するのは、自力救済を断ち切るもっとも有効な手段であり、朝廷の命令で行われた追討でも、危険な謀叛人の処刑は当然のこととされた。
○ 義朝の場合、父や弟たちは嫡流の地位や東国における武力の基盤をめぐって鋭く対立する関係にあった。義朝は為義一族を葬り去ることで、長年にわたる河内源氏の内紛を克服し、嫡流の地位を確立するという大きな利点があった。
○ 義朝が元服前の幼い弟たちを処刑したとことは事実として確定できず、もしそうであった場合、それは将来の反抗などを恐れて、義朝が独自に行ったものと見るべきである。
当時の武士の社会は、想像以上に過酷であったようです。一方、貴族達の意識もシビアであり、あれほど寵愛していた頼長を、父忠実は天に見放された者として、スッパリとうち棄てるのである。こうした行動をとれたからこそ、貴族階級は長く命脈を保ち得たのだと、ある著名な先生の御著書で読んだ記憶があります(何に書かれていたか、坂口君、御記憶にありましたら御教示頂けないでしょうか)。
さて、以下は先週の続きです。ここに取り上げた藤原師長は、例の悪左府頼長の子息です。
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『平清盛の時代』(通学路の歴史探索)
第五回 音楽のメッカ、東山妙音堂
前回お話しした法住寺合戦のとき、後鳥羽天皇が船を浮かべていた大池の西岸、現在、一橋(いっきょう)小学校のある辺りには最勝光院がありました。これは、後白河院の寵愛深い建春門院(平滋子)の御願御堂で、その建立にそなえて院と女院が連れ立って宇治に平等院を見に出かけていますから、平等院を模した建築であったと考えられ、嘉禄二年(一二二六)六月、この御堂が火災で失われたとき、藤原定家は「土木の壮麗、荘厳の華美、天下第一の仏閣なり」(『明月記』)と惜しんでいます。
この最勝光院の南限を区切ったのが、法性寺(ほっしょうじ)境域の背後の東山から鴨川に注ぐ三筋の川のうち最北を流れる一の橋川(今熊野川)でした。一の橋は山城国愛宕郡と紀伊郡の境界で、最勝光院を含む広義の法住寺殿は、これより北側に展開したことになるわけです。
最勝光院と向かい合うようにして、大池東岸の台地上には今熊野社が勧請されました。ここには、院がしばしば参籠しており、その間の政務は女院の手に委ねられていました。現在地から動いていませんが、往時は広大な社域を占め、関東にも荘園を領有していました。今熊野社は城郭を築くのには絶好の地形上にあり、実際、南北朝内乱期に足利義詮がここに陣して細川清氏軍を迎えようとしたことがありました(『太平記』巻第三十六)。
今熊野社とともに法住寺殿の鎮守であった新日吉(いまひえ)社は、院御所の東北に勧請されたもので、今は京都女子大学に隣接するところに位置していますが、当時はやや南の瓦坂のあたりにあったと推定されています。後鳥羽上皇の時代、ここでは毎年小五月会(こさつきえ)が催されました。そこでは流鏑馬(やぶさめ)が行われ、それは院に直属する武力の閲兵式の意味をもつものでした。承久の乱の後、流鏑馬は鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題によって主催されるようになります。
法住寺殿を芸能の空間たらしめる上で決定的な役割を果たした、前近代日本音楽史上最も重要な存在と評される藤原師長の妙音堂(太政入道御所)は、この新日吉社の近隣にあったことが確認できます。ひょっとしたら、その位置は、京都女子大学の音楽棟のある辺りだったかも知れず、歴史の奇しき因縁を感じさせるものがあります。
さて、清盛の叔父忠正は、そもそも忠盛家からは独立した存在で、摂関家の忠実・頼長の家人であり、子息長盛は崇徳院の蔵人になっていたのですから、清盛は躊躇すること少なく、処刑を行ったはずです。ちなみに、忠正は摂関家の権門都市である宇治に邸宅を有していました。どの辺りだったのでしょうね?
同じく摂関家に祗候していた源為義も宇治に宿所を有していたようです。そういえば、私はかつて、こんな論文を書いたことがありました→「中世前期における宇治の軍事機能について」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』第22号,2009年)。
御参照下されば幸いです。
ところで、保元の乱後の処刑について、元木泰雄先生は御高著『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)において、以下のようなことを指摘しておられます。
○ 武士相互の私合戦において、敗者やその一族を殺害するのは、自力救済を断ち切るもっとも有効な手段であり、朝廷の命令で行われた追討でも、危険な謀叛人の処刑は当然のこととされた。
○ 義朝の場合、父や弟たちは嫡流の地位や東国における武力の基盤をめぐって鋭く対立する関係にあった。義朝は為義一族を葬り去ることで、長年にわたる河内源氏の内紛を克服し、嫡流の地位を確立するという大きな利点があった。
○ 義朝が元服前の幼い弟たちを処刑したとことは事実として確定できず、もしそうであった場合、それは将来の反抗などを恐れて、義朝が独自に行ったものと見るべきである。
当時の武士の社会は、想像以上に過酷であったようです。一方、貴族達の意識もシビアであり、あれほど寵愛していた頼長を、父忠実は天に見放された者として、スッパリとうち棄てるのである。こうした行動をとれたからこそ、貴族階級は長く命脈を保ち得たのだと、ある著名な先生の御著書で読んだ記憶があります(何に書かれていたか、坂口君、御記憶にありましたら御教示頂けないでしょうか)。
さて、以下は先週の続きです。ここに取り上げた藤原師長は、例の悪左府頼長の子息です。
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『平清盛の時代』(通学路の歴史探索)
第五回 音楽のメッカ、東山妙音堂
前回お話しした法住寺合戦のとき、後鳥羽天皇が船を浮かべていた大池の西岸、現在、一橋(いっきょう)小学校のある辺りには最勝光院がありました。これは、後白河院の寵愛深い建春門院(平滋子)の御願御堂で、その建立にそなえて院と女院が連れ立って宇治に平等院を見に出かけていますから、平等院を模した建築であったと考えられ、嘉禄二年(一二二六)六月、この御堂が火災で失われたとき、藤原定家は「土木の壮麗、荘厳の華美、天下第一の仏閣なり」(『明月記』)と惜しんでいます。
この最勝光院の南限を区切ったのが、法性寺(ほっしょうじ)境域の背後の東山から鴨川に注ぐ三筋の川のうち最北を流れる一の橋川(今熊野川)でした。一の橋は山城国愛宕郡と紀伊郡の境界で、最勝光院を含む広義の法住寺殿は、これより北側に展開したことになるわけです。
最勝光院と向かい合うようにして、大池東岸の台地上には今熊野社が勧請されました。ここには、院がしばしば参籠しており、その間の政務は女院の手に委ねられていました。現在地から動いていませんが、往時は広大な社域を占め、関東にも荘園を領有していました。今熊野社は城郭を築くのには絶好の地形上にあり、実際、南北朝内乱期に足利義詮がここに陣して細川清氏軍を迎えようとしたことがありました(『太平記』巻第三十六)。
今熊野社とともに法住寺殿の鎮守であった新日吉(いまひえ)社は、院御所の東北に勧請されたもので、今は京都女子大学に隣接するところに位置していますが、当時はやや南の瓦坂のあたりにあったと推定されています。後鳥羽上皇の時代、ここでは毎年小五月会(こさつきえ)が催されました。そこでは流鏑馬(やぶさめ)が行われ、それは院に直属する武力の閲兵式の意味をもつものでした。承久の乱の後、流鏑馬は鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題によって主催されるようになります。
法住寺殿を芸能の空間たらしめる上で決定的な役割を果たした、前近代日本音楽史上最も重要な存在と評される藤原師長の妙音堂(太政入道御所)は、この新日吉社の近隣にあったことが確認できます。ひょっとしたら、その位置は、京都女子大学の音楽棟のある辺りだったかも知れず、歴史の奇しき因縁を感じさせるものがあります。