明日の基礎演習Ⅰのテーマなど。

No.9617

 明日Ⅲ講時の「基礎演習Ⅰ」は戸川さんの発表で、テーマは「新選組について」だそうです。中村武生先生の出講日なら、ちょっとコメントを頂きたいところだったのですが・・・、残念!
 ストレートに幕末史に斬り込むのか、それとも京都観光に関連づけるのか、楽しみです。

 ゼミは平常通りですが、DVDの再生なるか?という一件もございましたね。
 それから、6月23日(土)の公開講座のための事前勉強会や、準備作業、当日のお手伝い、それに懇談会・懇親会のことなど、少し詰めておきましょう。

 古参メンバーの方たちも、お手伝いの可否や懇親会の出席について、早急に御連絡頂ければ幸いです。

 >2010年度「基礎演習Ⅰ」のメンバー諸姉  1日のコンパの写真をプリント致しましたので、ついでの折り、研究室でお受け取り下さい。明日の午後以降は、研究室のドア脇のボックスに入れておきます。名前を確認してお持ち帰り下さい。

 ☆ 東北大学の柳原敏昭先生より、『東北文化資料叢書第六集 史学史・民俗学史資料 東北中世史の開拓者 大島雅隆資料集』(東北大学大学院文学研究科東北文化研究室)を御恵送頂きました。
  柳原先生に、あつく御礼を申し上げます。
編集:2012/06/04(Mon) 16:57

そろそろ梅雨時の『吾妻鏡』

No.9618

 梅雨どころか真夏のようなお天気ですが、6月は12日・19日・26日と開催予定です。よろしくお願いします。

 日時:2012年6月12日(火)午後4時すぎ~(予定)

 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁三年(1203)九月十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日
    建仁四年(元久元年、1204)正月十日・十二日・十八日、二月十日・二十日、三月九日・十日・二十二日・二十九日、四月一日・十日・十六日・二十日・二十一日、五月六日・八日・十日・十六日・十九日、六月八日・十九日・二十四日・二十六日、八月三日・四日・十五日・二十一日、九月一日・二日・十三日・十五日、十月十四日・十七日・十八日、十一月四日・五日・七日・十三日・十七日・十八日・二十日・二十六日、十二月十日・十八日・二十二日の各条

 わけあって開始時間を四時過ぎに変更させていただいております。メンバーのみなさんにはご迷惑・ご不便をお掛け致しますが、よろしくお願い致します。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

 源為義も平忠正も宇治に住んでいたのです。

No.9615

 >長村君  小生の古巣の住み心地はいかがでしょうか?

 さて、清盛の叔父忠正は、そもそも忠盛家からは独立した存在で、摂関家の忠実・頼長の家人であり、子息長盛は崇徳院の蔵人になっていたのですから、清盛は躊躇すること少なく、処刑を行ったはずです。ちなみに、忠正は摂関家の権門都市である宇治に邸宅を有していました。どの辺りだったのでしょうね?
 同じく摂関家に祗候していた源為義も宇治に宿所を有していたようです。そういえば、私はかつて、こんな論文を書いたことがありました→「中世前期における宇治の軍事機能について」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』第22号,2009年)。
 御参照下されば幸いです。

 ところで、保元の乱後の処刑について、元木泰雄先生は御高著『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)において、以下のようなことを指摘しておられます。
 ○ 武士相互の私合戦において、敗者やその一族を殺害するのは、自力救済を断ち切るもっとも有効な手段であり、朝廷の命令で行われた追討でも、危険な謀叛人の処刑は当然のこととされた。
  ○ 義朝の場合、父や弟たちは嫡流の地位や東国における武力の基盤をめぐって鋭く対立する関係にあった。義朝は為義一族を葬り去ることで、長年にわたる河内源氏の内紛を克服し、嫡流の地位を確立するという大きな利点があった。
 ○ 義朝が元服前の幼い弟たちを処刑したとことは事実として確定できず、もしそうであった場合、それは将来の反抗などを恐れて、義朝が独自に行ったものと見るべきである。

 当時の武士の社会は、想像以上に過酷であったようです。一方、貴族達の意識もシビアであり、あれほど寵愛していた頼長を、父忠実は天に見放された者として、スッパリとうち棄てるのである。こうした行動をとれたからこそ、貴族階級は長く命脈を保ち得たのだと、ある著名な先生の御著書で読んだ記憶があります(何に書かれていたか、坂口君、御記憶にありましたら御教示頂けないでしょうか)。

 さて、以下は先週の続きです。ここに取り上げた藤原師長は、例の悪左府頼長の子息です。
           ********************************************************
 『平清盛の時代』(通学路の歴史探索)

  第五回 音楽のメッカ、東山妙音堂
 前回お話しした法住寺合戦のとき、後鳥羽天皇が船を浮かべていた大池の西岸、現在、一橋(いっきょう)小学校のある辺りには最勝光院がありました。これは、後白河院の寵愛深い建春門院(平滋子)の御願御堂で、その建立にそなえて院と女院が連れ立って宇治に平等院を見に出かけていますから、平等院を模した建築であったと考えられ、嘉禄二年(一二二六)六月、この御堂が火災で失われたとき、藤原定家は「土木の壮麗、荘厳の華美、天下第一の仏閣なり」(『明月記』)と惜しんでいます。

 この最勝光院の南限を区切ったのが、法性寺(ほっしょうじ)境域の背後の東山から鴨川に注ぐ三筋の川のうち最北を流れる一の橋川(今熊野川)でした。一の橋は山城国愛宕郡と紀伊郡の境界で、最勝光院を含む広義の法住寺殿は、これより北側に展開したことになるわけです。

 最勝光院と向かい合うようにして、大池東岸の台地上には今熊野社が勧請されました。ここには、院がしばしば参籠しており、その間の政務は女院の手に委ねられていました。現在地から動いていませんが、往時は広大な社域を占め、関東にも荘園を領有していました。今熊野社は城郭を築くのには絶好の地形上にあり、実際、南北朝内乱期に足利義詮がここに陣して細川清氏軍を迎えようとしたことがありました(『太平記』巻第三十六)。

 今熊野社とともに法住寺殿の鎮守であった新日吉(いまひえ)社は、院御所の東北に勧請されたもので、今は京都女子大学に隣接するところに位置していますが、当時はやや南の瓦坂のあたりにあったと推定されています。後鳥羽上皇の時代、ここでは毎年小五月会(こさつきえ)が催されました。そこでは流鏑馬(やぶさめ)が行われ、それは院に直属する武力の閲兵式の意味をもつものでした。承久の乱の後、流鏑馬は鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題によって主催されるようになります。

 法住寺殿を芸能の空間たらしめる上で決定的な役割を果たした、前近代日本音楽史上最も重要な存在と評される藤原師長の妙音堂(太政入道御所)は、この新日吉社の近隣にあったことが確認できます。ひょっとしたら、その位置は、京都女子大学の音楽棟のある辺りだったかも知れず、歴史の奇しき因縁を感じさせるものがあります。
編集:2012/06/03(Sun) 23:17

追而書き

No.9616

 上記の処刑ですが、すべて京外で行われたことが重要です。船岡山とか六条河原というように。
 ちなみに、馬町の理髪店の御主人のお話によると、渋谷通り北側の谷(J校舎の西北方向)は、地元で「牢の谷」と呼ばれていたのだそうです。「六波羅」関係の遺址でしょう。
 
 それから、貴族の意識に関する話の出典ですが、上横手雅敬先生の『壇之浦合戦と女人たち 赤間神宮叢書13』(源平シンポジウム委員会、平成14年)でした。

 ☆ 栃木県立宇都宮商業高校の松本一夫先生より、新刊の御編著『下野小山氏 シリーズ中世関東武士の研究第六巻』を御恵送頂きました。
 本書第1部の最初に収録された和久井紀明氏の「中世東国の在地領主制の展開-下野国小山氏について-」は、私が院生時代、秀郷流藤原氏の研究に着手したときに大きな指針を与えてくれた思い出深い優れた論文です。
 松本先生に、あつく御礼を申し上げます。

新しいことに挑戦するたびに人生の扉は開かれる

No.9614

 本日は京都では山本さんが卒論報告、大阪では岩田君が平清盛の講演。それに大津では女性史総合研究会の例会が開かれたようですが、如何でしたでしょうか?出掛けた人はおられますか?こんどのゼミの時にでも、その話を聴かせてください。

 昨日は朝カルに出講。講座を始める前に、担当の方と、これからのカルチャーセンターのあり方についてお話を致しました。私は以前から、民間のカルチャーセンターについて、地方自治体や大学主催の無料の講座が増えた結果、経営が大変になっているのではないか、また、講座の内容もお稽古ごとや資格取得に関連するものに偏して行っているのではないかという懸念を持っていました。担当の方は、とても文化活動に精通された方なので、これを何とか打開できないものか、というような質問をさせて頂いたりしていたのですが、よい展望を見出せないうちに講座の開始時間となってしまいました。

 その後、宵のうち(最近は「夜のはじめ」と言うらしい=日本文化の破壊である)は、一昨年に担当した「基礎演習Ⅰ」のメンバーのコンパに出席させて頂きました。ところは三条河原町の「鳥貴族」。焼き鳥だけで満腹になりました。腹の回りはデブデブなのに、胃腸はやせ細っているようです。それにしても、かつて高校生とさほど変わらなかった感じだったメンバー諸姉も、三回生になった今日、流石に自立した大学生らしく輝き始めた様子で、うれしく思った次第です。
 この日は、コンパに参加するので、車を使わず、バスと電車で往復したのですが、帰りのバスの本数が少なく、「都の辰巳、鹿ぞすむ」ところにある我が庵の所在する住宅地は、21世紀の今日に至っても京郊の僻地のままであることを実感した次第であります。 

 拙著『武門源氏の血脈』(中央公論新社)。
 もう書店では見る機会が少なくなってしまいましたが、昨日コンパに行く前に立ち寄ったジュンク堂BAL店では、数冊、しかも表紙を外に向ける形で配架して下さっており、とてもうれしく思いました。これから、書店で本を買うときはできるだけジュンク堂を利用したいと思います(世の中、義理を欠いてはいけません)。
 すでに売れ行きストップの拙著ですが、旅先のホテルで読了したという読者の方から、わざわざ、この本に出会えてラッキーだったというお便りを、そのホテル備え付けの便箋と封筒で送って頂いたり、ツイッターで「源氏に関わる論文がまとめて読めて、とても読みやすい一冊です」と発信してくれる方もあったりで、著者として出版の喜びをひしひしと感じております。
 ほんとうに、ありがとうございます。

 謙虚さなき発言の思い出

No.9613

 週半ばを過ぎて、すでに疲労甚大の有様で、情けないばかりです。
 昨日は、Ⅲ講時の講義の後、テレビ局の方が来室。話が弾んで、というか、こちらが話し続けて、時計を見たら3時間半も経過していました。私もとうとう、「迷惑な話し好きの老人」の仲間入りです。
 ちなみに、この件で出演可能な方の紹介を依頼されましたので、勝手に数名のお名前を挙げさせて頂きました。局から連絡がありましたら、私の策謀によるものですので、宜しく御対応頂ければ幸いとするところです。

 さて、まだ30歳代の前半、私が千葉で高校の教員をしていた頃の話。
 私は、短い期間だが、自治体史編纂の要職にあった某国立大学の先生の私宅で行われていた『玉葉』の講読会に参加させて頂いていた。このときの記憶で最も鮮明なのは、ある時、私の発言に対して、いつもは温厚な先生が急に色をなして激怒されたことである。私が、ある若手の(当時)研究者の論文について批判を加えたことに対するものである。
 おそらく先生は、この局面をとらえて、視野が狭く謙虚さを失っている私に厳しく反省をせまられたものと思われる。その時、自分の置かれている境遇にひどく不満を持っていた私は些かの不快の念にとらわれたものだが、今にいたっては、あの一言の重みを実感せざるを得ない。

 「上から目線」(「目線」ということばが登場して、「視線」という言葉が死語になりつつあるのに、私は抵抗感を感じているが、敢えて使う)が若者たちの間にも横行している今日、先行研究に対する畏敬のみならず、研究者にとって、あらゆる側面で要求されているのは謙虚さなのではないだろうか。
 「分相応」という、若い頃には嫌いだった言葉があるが、端から見ると「分」を知らずに謙虚さを失い、前途を閉ざしてしまった人も少なからざるものがあるように思う。その点、私は幸運だったのかも知れない。

☆ 創価大学の坂井孝一先生より、御高論「曾我兄弟の敵討ちにみる史実から芸能への展開」収録の、小林健二編『中世文学と隣接諸学7 中世の芸能と文学』(竹林舎)を御恵送頂きました。
 坂井先生に、あつく御礼を申し上げます。

 ☆ 奈良大学の河内将芳先生より、新刊の御高著『祇園祭の中世-室町・戦国期を中心に-』(思文閣出版)を御恵送頂きました。
 河内先生に、あつく御礼を申し上げます。

懇親会のお知らせ

No.9610

初投稿の池嶋です。よろしくお願いします。

さて、あと数日で6月ですが、以前から野口先生がお知らせして下さっているように、6月23日には公開講座があります。そして、今年も公開講座終了後、講師の先生方を囲んだ懇親会(お食事会)を開催いたします。皆様ぜひご参加下さい。

   日時:6月23日(土)18:30~(2時間程の予定)
   場所:「里」(女坂上ってすぐです)
   費用:2600円+α  ※飲み放題とコース料理

お手数ですが、参加をご希望される方は17日(日)までに野口先生または池嶋(上記PCアドレスもしくは携帯)までご連絡下さい。
参加人数の正確な把握が必要ですので参加をお考えの方は、必ずご連絡を下さい。よろしくお願い申し上げます。

六月もいろいろありますね-次回の『吾妻鏡』-

No.9611

 昨日は六月の予定をご相談するのを忘れてしまいましたね。
 六月は火曜日が四回あります(5日、12日、19日、26日)が、いずれも予定通り開催でよいでしょうか。

 予定通りやるとして、次回のご案内です。

 日時:2012年6月5日(火)午後4時すぎ~(予定)

 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁三年(1203)九月十五日・十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日
    建仁四年(元久元年、1204)正月十日・十二日・十八日、二月十日・二十日、三月九日・十日・二十二日・二十九日、四月一日・十日・十六日・二十日・二十一日、五月六日・八日・十日・十六日・十九日、六月八日・十九日・二十四日・二十六日、八月三日・四日・十五日・二十一日、九月一日・二日・十三日・十五日、十月十四日・十七日・十八日、十一月四日・五日・七日・十三日・十七日・十八日・二十日・二十六日、十二月十日・十八日・二十二日の各条

 わけあって開始時間を四時過ぎに変更させていただいております。メンバーのみなさんにはご迷惑・ご不便をお掛け致しますが、よろしくお願い致します。

 火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

公開講座懇親会と秋の「もちもちいんウォーク」について

No.9612

 >池嶋さん  懇親会の御案内、ありがとうございました。幹事のお仕事、宜しくお願い致します。私の方にもすでに申し込みが殺到致しております。満席になったら、申し込みの受付を締め切らなければならないかも知れませんね。

 >岩田君  昨日はありがとうございました。大河ドラマでは、大鎧(基本的に馬上戦闘に用いるためのもの)を着ているのに、地面に降りてチャンバラをしていましたので、これは近藤先生が御覧になっていなくて良かったと思っていました。大庭景能のエピソードを利用したフォローは教育的配慮に富んでいて流石でした。

 >昨秋の「もちもちいんウォーク」に協力して頂いた皆様  今年度は11月10日(土)に実施予定とのことです。来週、伏見区の担当の方がお見えになって、見学先などを相談する予定です。今回は『方丈記』関係の史跡を歩けばよいか、などと漠然と考えていたのですが、「方丈石」まで大人数で行くのは無理かと思います。栢ノ森遺跡は是非入れたいと思うのですが、ほかに見学先などについてのアイデアを頂ければ助かります。御一報をお待ちしています。
 そしてまた、今回も御参加下されば有りがたいところです。例によって、事前の見学会も予定したいと思っておりますので、宜しくお願い致します。

 ☆ 広島なぎさ中・高校の加栗貴夫先生より、先生が注釈に参加された、古代・中世史研究会『実隆公記』を読む会「〈史料紹介〉『実隆公記』文明八年(一四七六)正月~八月条 注釈」および御高論「岡山中世史研究会第50回例会-田中修實「岡山中世史研究会の10年を振り返って」-」掲載の『岡山地方史研究』126を御恵送頂きました。
 加栗先生に、あつく御礼を申し上げます。 

東山三十六峰、雷鳴轟く午の刻

No.9609

 今日はお昼前の頃、ピカッ、ゴロゴロ、ドカーン、キャーが、しばし連続。
 京都東山でも天神さまが大暴れでした。

 Ⅲ講時の基礎演習。ブランドネームのお話でしたが、関西圏ではマクドであるのに対して、福井・豊岡(兵庫県)・鳥取では関東圏同様にマックということが分かりました。仙台はさすがにマック。でも、それぞれ微妙にアクセントが異なるようです。

 ゼミの講読会では、予定していた映像資料が機械との相性が悪かったらしく再生されず、ガッカリ。すっかり調子を狂わされてしまいました。
 一方、岩田君は『吾妻鏡』に見える、大庭景能の保元の乱における源為朝との闘いの回顧記事を紹介。これはグッド・タイミングでよかったと思います。
 来週からは、いよいよ実朝将軍記。

 今日はイベントに関する相談依頼が殺到(と言うほどでもありませんが)。
 相談屋といえば「花山大吉」!
 焼津の半次はどこに。
 「おからのダンナ」などと申し上げても、もう、どなたも御存知ありますまい。「全員集合」の前の時代の話ですからね。昭和は遠くなりにけり。

 『源義家』は、一応、終わらせました。つぎは「宇都宮頼綱です」。

明日(29日)の「基礎演習Ⅰ」とゼミ講読会

No.9608

 「基礎演習Ⅰ」は徳橋さんの発表で、テーマは「ブランドネームについて」。ブランドネームがつけられるそのプロセスを中心に報告されるとのことです。
 そもそも、どんなブランドがあるのか?ブランドの持つ付加価値とは何か?日本人はなぜブランド好きなのか?「偽ブランド品」の問題など、話を広げてみるのも面白いかも知れません。

  『玉葉』の講読会では、以仁王挙兵について『吾妻鏡』の記事も参照してみたいと思います。
 『吾妻鏡』講読会は、読む前に比企氏の滅亡について、映像で振り返る試みをしてみようかと考えています。さて、何が出てくるか、お楽しみに。もちろん、読み進めますから、予習をする方はしっかりと。

お約束の『平清盛の時代』第4回目です

No.9607

 源為義・義朝・為朝や、保元の乱に動員された坂東武士のことは、こちらで、
      →http://www.chuko.co.jp/tanko/2012/01/004318.html
      →http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33838.html(表紙は源義朝です) 
   
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 『平清盛の時代』(通学路の歴史探索)

  第四回 法住寺合戦
 寿永二年(一一八三)十一月十九日、後白河院の御所法住寺殿は、木曽義仲の軍勢の襲撃を受けました。この事件が、いわゆる「法住寺合戦」です。
 この年の七月に平家を逐って入京した義仲でしたが、彼の率いた軍勢は烏合の衆であったために統制が取れず、飢饉直後の京都の貴賎の反感を買ってしまいました。さらに義仲は、皇位継承にまで介入しようとしたために、院とも反目することとなったのです。院は義仲を平家追討に向かわせておきながら、鎌倉の頼朝と手を結びました。これに怒った義仲が、院政の停止をはかって起こしたのがこの事件です。
 平家の本拠地である六波羅と同様、東に山、西に鴨川をひかえた法住寺殿は、すぐれた城郭性を有していました。院は義仲の襲撃にそなえて、御所の周囲に堀を掘り、バリケードを構えただけでなく、院政期最大規模といわれる調伏法による宗教的武装も整えたのです。しかし、院方は有能な指揮官を得られず、法住寺南殿に全軍が立て籠もる態勢をとってしまいました。そのために、鴨川は水濠としての役割を果たせず、むしろ七条河原は義仲軍本隊の集結・出撃地点となり、醍醐路・瓦坂方面も今井兼平(義仲の乳兄弟)の率いる一手におさえられて山科・近江方面との連絡も遮断されてしまい、その機能をまったく発揮できなかったのです。一方、義仲配下の武士たちの院・貴族に対する怨みは凄まじく、多くの貴人が容赦なく殺害されました。
 合戦に敗れて七条の末から鴨川を渡って京内に逃げ込んだ院方の武士たちを待ち受けていたのは、夥しい石礫でした。義仲配下のそれと誤解した在家人(都市民)たちが、家上に楯をついて投石を加えたのです。
 合戦の舞台となった法住寺南殿(みなみどの)は、三十三間堂の南から大谷高校敷地の辺りにありました。大谷高校グラウンドは大きな池のあったところで、合戦に際して、幼い後鳥羽天皇は、この池に浮かべた小船の中に避難していたと伝えられています。

平安京が燃えると武士の世がはじまるのか?

No.9606

 新聞の政治面や社会面には、毎日いろいろと想像を絶する事件が記されていますが、今日はテレビ欄で驚くことがありました。
 「保元の乱燃える平安京!新しき武士の世の幕開け!」
 保元の乱で源義朝や平清盛が白河北殿に夜討ちを行ったことはよく知られていますが、白川北殿は平安京の外です。
 「また、そんな細かいことを、うるさい奴だ。同じ京都じゃないか」というお叱りの声が聞こえてきそうですが、12世紀の当時、京域内と京外がまったくの異界であったことは、日本史や国文学を専攻しておられる方には常識だと思います。
 平家や後白河院が京外に本拠を置いたこと、その評価自体が研究の対象になっているのです。先週の基礎教養科目の講義で触れた「穢」の問題にも直接関わるということはすぐに気がつかれると思います。
 一方、平治の乱は、藤原信頼に率いられた源義朝の軍勢が京内の院御所三条東殿を夜襲したことから始まりました。このことが、公卿であった藤原信頼の処刑に影響を与えたのは否めないことでしょう。

 また、タイトルに含意された「平安京が燃えて武士の世が始まる」という発想は、通説的な理解に乗じたものではありましょうが、いかにも古い。今日の研究者に、そんな理解をする人は少ないでしょう。そもそも、首都の防衛こそが当時の「武士」の存在証明だった訳ですから。もっとも「武士」ではなくて「新しい武士」というのがミソなのかも知れませんが。
 なお、保元の乱について正確な理解をはかりたいという方には、元木泰雄先生の『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)をお勧めします。現在、絶版なので図書館などを利用してください。近く文庫化して再刊されるというお話もうかがっております。
 それから、山田邦和先生の論文「保元の乱の関白忠通」(朧谷壽・山中章編『平安京とその時代』思文閣出版)には、保元の乱を素材にして<源義朝愚将論>が展開されています。私はこの御意見には同調しませんが、忠通の再評価という点で興味深い論文です。

 ☆ 立命館大学の佐古愛己先生より、新刊の御高著『平安貴族社会の秩序と昇進』(思文閣出版)を御恵送頂きました。
 叙位を中心に、貴族社会の昇進制度を軸として古代から中世への変容を考察した論文集です。古典文学を研究しようとする方にも必備の本だと思います。
 佐古先生に、あつく御礼を申し上げます。

卒論報告会日程につきまして。

中村翼
No.9603

はじめまして、とつぜん失礼します。
日本史研究会で研究委員(中世史部会)をしております、大阪大学の中村翼です。
平素は当会に格別のご配慮を賜り、ありがとうございます。

さて、標記の件でありますが、来月の卒論報告会の日程につき、6月3日は誤りで、正しくは6月2日(土)です(大阪歴史学会とも確認済)。
※詳細は日本史研究会のホームページをご確認ください。
http://www.nihonshiken.jp/sig/sig-medieval.html
(報告者の方にも、誤解なきよう再度、当会より連絡いたします)

情報に混乱がありましたようで、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
つきましては、あらためましてご確認のほど、よろしくお願いいたします。

とりいそぎ、用件のみにて恐縮ですが、今後とも当会・当部会をよろしくお願い申し上げます。

6月2日・・・本能寺の変の日か

No.9604

 >中村さん  訂正の書き込み、ありがとうございました。

 6月2日ですと、岩田君の講演(>>No.9590)と重なりますが、学生さんの中には午前の講義後、聴講に行けるという人が多いかも知れません。

 ちなみに、この日には女性史総合研究会の例会も予定されています。
 基礎・教養科目の受講者で近代史に関心のある方は行ってみると良いでしょう。

  ◆女性史総合研究会 5月(第165回)例会◆

  日時:  2012年6月2日(土)1:30~5:00 
 
  報告:林美帆氏「独立と相互扶助の関係-与謝野晶子・平塚らいてう・羽仁もと子の母性保護論の比較」
  
  コメント:光田京子氏 

  場所:滋賀大学 大津サテライトプラザ 

  ※ 行かれる方は、必ず女性史総合研究会のHPhttp://www.geocities.jp/joseishi_sougou/regular_meeting.htmlで御確認下さい。
編集:2012/05/26(Sat) 09:00

6月1日は朝カルで「京都と義経」

No.9605

 【追記】
 岩田君の講演や山本さんの卒論報告ばかりではなく、そういえば私も、6月1日の金曜日に朝日カルチャーセンターでお話をさせて頂くことになっておりました。
 (財)古代学協会と朝日カルチャーセンター京都の共催講座です。

 テーマは「京都と義経」
 内容は以下のとおり、
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 源義経というと五条の橋の上で弁慶を打ち負かした話や一の谷・屋島・壇ノ浦合戦での活躍を思い起こされる向きが多いと思われる。イメージするところは紅顔の英雄であろう。しかし、その多くは後世に創作された話で、事実とは程遠い。彼の真骨頂は、卓抜した行政能力に見いだすことができるのである。木曾義仲滅亡後の京都に、兄頼朝の代官として進駐した彼は、混乱の渦中にあった京都とその周辺地域の治安を回復し、貴族から庶民にいたる、当時の京都市民の絶大な支持を集めたらしい。義経は京都の生まれであり、わずか30年の人生の中で、もっとも長く活動の場としたのも京都であった。その京都からの視点で、義経の再評価を試みたいと思います。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
 まだ、申し込みは可能のようです。
 → http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=155728&userflg=0