いよいよ講義開始。

No.9547

 昨日は「基礎演習Ⅰ」開講。今年のメンバーとも楽しくやれそうで一安心。
 来週は大学周辺の史跡散歩です。Ⅲ講時の空いている先輩方もどうぞ御同行下さい。
 今年は積翠園に入れなさそうなので、その分は、京町家の並ぶ「男はつらいよ」のロケ地で代替しようかと考えています。

 明日の「教養科目」(女性視点の日本史)は受講者数が問題。

 今日は『芬陀利華』の原稿を書きました。いつまで経っても、思っていることを文章にしてみると「論」にならない。情けないことです。

 ☆ 茨城大学の高橋修先生より、御高論「「坂東乱逆」と佐竹氏の成立-義光流源氏の常陸留住・定着を考える-」(『茨城県史研究』96)・「武士論・在地領主論から「通史」を読む-読書案内にかえて-」(『歴史評論』734)ならびに御高論「「結城合戦絵詞」とは何か」収録の『『結城戦場絵巻物語』の世界と那須の戦国』(大田原市那須与一伝承館特別企画展図録)を御恵送頂きました。
 高橋先生に、あつくお礼を申し上げます。

 ☆ 北海道教育大学の鈴木哲雄先生より、御高論「香取本「大江山絵詞(酒呑童子絵巻)」の伝来と附属の品々」収録の佐藤博信編『中世東国論4 中世房総と東国社会』(岩田書院)を御恵送頂きました。 
 鈴木先生に、あつくお礼を申し上げます。

 ☆ 久保賢司先生より、御高論「「戦国」期 上剋下論-対面時武器携行状況と中世人の心性の視点から-」収録の佐藤博信編『中世東国論5 関東足利氏と東国社会』(岩田書院)を御恵送頂きました。 
 久保先生に、あつくお礼を申し上げます。

『紫苑』第10号を配布しています。

No.9546

 『紫苑』第10号を配布しています。ゼミメンバー・関係者は研究室にてお渡し致します。
 遠方の執筆者へは送付致しますが、しばらく時間がかかります。
 内容は以下の通りです。

  〔論  文〕
   鎌倉幕府における政所執事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山本みなみ
   『平家物語』小督条に見られる漢詩文及び『源氏物語』の影響・・・・尾田沙祐里

  〔研究ノート〕
   北条泰時執権期の鎌倉幕府に関する一試論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩田慎平
  
  〔研究余録〕
   建春門院陵はもと後白河院陵か?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯智広

  『紫苑』第十号に寄せて―歴代編集長から―
              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木絵里子・山岡瞳・江波曜子

明日の「基礎演習Ⅰ」について

No.9545

① 各自の自己紹介をしてもらいます。

② 発表の順番を決めます。来週は大学周辺の史跡散歩を行う予定ですが、それ以降の開講日は、
【4月】24日 【5月】8日・15日・22日・29日 【6月】5日・12日・19日・26日 【7月】3日・10日・17日・24日です。
 ※ どうしても不都合な日を確認しておくこと。
 ※※ 4月24日のみ、二人。それ以降はひとりずつの報告としたいと思います。
 
③ 指定校推薦入学の学生は、漢字検定成績証明書を提出して下さい。

四月の『吾妻鏡』

No.9544

 先日、野口先生からもご案内がありましたが、あらためて今月の『吾妻鏡』のご案内です。
 今月はやや変則的ですが、12(木)、19(木)、24(火)に開催予定です。

 日時:2012年4月12日(木)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁三年(1203)正月二日、二月四日、三月十五日、四月六日、五月十九日・二十日・二十五日、六月一日・三日・四日・二十三日・二十四日、七月二十日・二十五日、八月二十七日、九月一日・二日・三日・四日・五日・六日・七日・十日・十二日・十五日・十七日・十九日・二十一日・二十九日、十月三日・八日・九日・十四日・十九日・二十六日・二十七日、十一月三日・六日・十日・十五日・十九日、十二月三日・十三日・十四日・十五日・十八日・二十二日・二十五日の各条

 木曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 昨今は、“ポップでライトな”歴史が流行っているようですが、そんなポップでライトで楽しげなイメージも、もとはといえば何らかの史料に依拠して形作られたはずです。そのもとの部分の史料に当たって事実関係をきちんと踏まえて整理するという作業に慣れておくことも、いろいろな角度から楽しむのに役立つかもしれません。
 ただ、そうすると今度は“ポップでライトな”歴史を楽しめなくなってしまうのかもしれませんが…

 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、新年度から何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

どこが、家盛決起?

美川圭
No.9542

今回の題名は「家盛決起」でした。

題名からして、家盛が清盛に対して挙兵して、殺されるとかいうような思いも掛けぬ創作をしてくるのかと内心期待していたら、単に頼長の男色の餌食になるというお話でした。
頼長の男色は、彼が自分の日記『台記』になかなか口に出せないような赤裸々なことを記し、それをもとにして東野治之先生とか五味文彦先生が論文を書いたため、たいへん学界では有名になりました。男色が主従関係につながるということもわかっています。しかし、今回の描き方は、単なる醜悪な貴族の薄気味悪い趣味という描き方でした。男色はまわりに女性のいない寺院とか、戦場で女性のいない武士の方に一般的ではなかったかと、私は考えているのですが。

家盛をものにした頼長の投げかける言葉の数々も、とてもではないが当時の主従の会話とは思えません。頼長がいろいろ問題がある人物であったことは確かですが、一流の学者ですし、あそこまでひどい描かれ方をされるのは、腹が立ちます。保元の乱での悲劇的な最期を考えると、あまりにひどい。『台記』の男色記事も、非業の死によって、清書するときに抹消する機会を逸した可能性もあるわけです。

よく分からないのは、なぜ外戚になれず衰退しつつある摂関家の御曹司の男色相手になると、平家の家督がえられることにつながるのか、さっぱりわからない。このドラマでは一貫して、鳥羽法皇にひどく力がないように描かれている。そのことと関係があるようなのだが、史実とは全く異なるので、よく理解できないのです。

あいかわらず、平家一門内での家督をめぐる会話が粗悪で、三文芝居です。一門の連中が、本人たちのいる前で、清盛よりも家盛にしろ、などと言うわけがありません。民放の二時間ドラマの方がもう少しリアリテイがあります。家盛と母との別れも、いかにものBGMが流れ、これから死ぬぞ、と予想されるシーン。私は家督を手に入れたいのではなく、母のよろこぶ顔がみたいのだ、とか臭い台詞をはかせ、何とセンスのない脚本だろう。

フカキョンの芝居、学芸会です。この人が安徳帝を抱いて壇の浦で入水するなんて、とうてい思えない軽薄さ。なんとかならないのか。

「平清盛と京都」    ① 平家の六波羅

No.9543

 『京都民報』に連載された『清盛・平家とその時代』の第2章「平清盛と京都」として、4回にわたって連載記事を執筆致しました。大河ドラマに関連した記事に関心のある方が多く御覧になっておられるようですので、ここに1回分ずつ転載させて頂くことに致しました。なお、付載の地図や系図は省略致します。
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  ① 平家の六波羅

 伊勢平氏の京都進出
 平清盛が活躍した時代、京都における彼の本拠が六波羅と西八条にあったことはよく知られている。しかし、どうしてそこが選ばれたのか、どんな空間を構成していたのか、その後どうなったのか等、といった点については、あまり関心が持たれることはなかったように思われる。大河ドラマで清盛が取り上げられたことは、そんなことを考えてみる、よい機会になるのではなかろうか。 
  清盛を生んだ「平家」は伊勢平氏を出自とする。伊勢平氏の初代は摂関時代に活躍した維衡(これひら)である。彼の父の貞盛(さだもり)は、常陸国を本拠とする軍事貴族であったが、10世紀の前半に発生した平将門の乱を鎮圧した功績によって中央に進出し、国家の武力として用いられるようになった。そのため、常陸と京都を往復する上で、海陸交通ルートの中間に位置する伊勢に進出したらしい。その子孫は伊勢に経済的な基盤を置きながら、京都を政治的な活動の場とするような存在形態をとったのである。だから、伊勢平氏は京都にも居住空間を設定していた。
 11~12世紀前半の段階で、伊勢平氏の一族が、京都の何処に居住していたかを、当時の貴族の日記で調べてみると、維衡の兄維叙(これのぶ)の「三条宅」(『御堂関白記』)、清盛の祖父正盛の従兄弟にあたる盛基の「五条烏丸宅」(『中右記』)などを知ることが出来る。「宅」とは四位以下の貴族の居邸の呼称で、規模はどの程度か不明だが、かれら伊勢平氏の一族も、一般の貴族同様に京中に居住空間を有していたことがわかる。

 境界空間としての六波羅
 伊勢平氏の一族で、平安京の京域の外側にある六波羅とはじめて関係をもったのは、右の盛基なのであるが、そのことを述べる前に、六波羅とはどんな空間だったのかを考えておこう。
 六波羅は平安京の左京六条の末(すえ)、すなわち左京六条を鴨川の東岸に延長した地域一帯の呼称である。ちょうど、葬地である鳥部野への入口にあたるから、鴨川が三途(さんず)の川にオーバーラップするというわけで、平安京に住む人々にとっては、この世とあの世の境界として意識されていた空間であった。そんなことから、六波羅の地名の由来については、白骨の転がる「髑髏(どくろ)原」とか、東山の山麓の「麓原」から転じたという意見もあるが、やはりここに所在した六波羅蜜寺の存在によるというのが、東京大学の高橋慎一朗氏の説である。
 そんな空間であるから、平安時代の貴族たちはここに墓堂を建てるようになる。六波羅蜜寺の近くには、今でも「六道詣り」や「迎え鐘」で有名な珍皇寺があるが、当時この寺は広大な敷地を有していたらしく、康和3年(1101)の頃、右に見た伊勢平氏の盛基が、そのうちの二段を借地していたことが知られている(『東寺百合(ひゃくごう)文書』)。
 ついで、ここに土地を求めたのが、白河上皇に仕えて頭角をあらわし、「平家」の祖となった平正盛である。天仁3年(1110)6月、彼は六波羅蜜寺の寺領内の借地に三間四面で檜皮葺の阿弥陀堂を造立。その後さらに珍皇寺領に、その領域を拡大して南北に塔を建てたのである。この堂は「正盛堂」あるいは「六波羅堂」などと呼ばれたが、正盛は死後ここに葬られることとなり、その墓堂(法華堂)は常光院と呼ばれた。それを取りこむ形で一町規模(約120メートル四方)の邸宅を造営したのが、正盛のあとを継ぎ、瀬戸内海の海賊討伐のみならず、白河・鳥羽両院の近臣として並々ならぬ手腕を示した忠盛である。

 平家一門の集住地
 忠盛の子の清盛は、平治の乱後、国家の軍事警察権を掌握して、公卿の地位に昇り、ついには王家(天皇家)の外戚となって国政をも掌握した。一方、日宋貿易など交易活動にも力を入れ、その結果、京都は東アジア経済の一大拠点としての機能も有するようになる。
 これに並行するように、六波羅の拡大も著しいものがあった。『延慶本(えんぎょうぼん)平家物語』(第三末)は、この当時の六波羅の有様を以下のように伝えている。

南門は六条の末、賀茂川の一丁を隔つ。・・・この相国(清盛)の時、四丁に造作あり。これも屋敷百二十余宇に及べり。これのみならず、北の倉町よりはじめて、専ら大道  を隔て辰巳の角の小松殿に至るまで二十余町に及ぶまで、造営したりし一族親類の殿原及び郎従眷属のの住所に至るまで、細かにこれを算うれば、屋敷三千二百余宇・・・

  清盛の泉殿(いずみどの)、頼盛の池殿(いけどの)、教盛の門脇殿(かどわきどの)をはじめとする平家一門の邸宅がたちならび、周辺には平家に仕える家人郎等の宅が軒を連ね、その北側の倉町には日宋貿易や諸国からの貢進によって蓄積された財物が貯えられていたのであろう。そして、六波羅の東南の角には、清盛の子で内大臣に任じた重盛の邸宅小松殿があった。建築史家の太田静六氏はこれらを総称して「六波羅団地」と名付けているが、些かイメージにそぐわない。一門の祖である正盛の墓所を守るようにして居住空間が営まれているのは、武家における族的結合の意識の強さを示すものといえ、その形態は、源氏の鎌倉や奥州藤原氏の平泉と共通するものがうかがえるのである。
  ちなみに、重盛の小松殿の所在地は、おおよそ現在の馬町交差点の辺りに比定することが出来る。現在、その近くの東山武田病院には広大な池を備えた積翠(しゃくすい)園という名庭がある。庭園史家の重森三玲氏はこの池庭に平安末期の浄土様式を見出し、これを小松殿の遺構と推定している。知られざる京都の平家関連史跡といえよう。
             (『京都民報』2012年2月12日付 より)

4月のゼミ講読会の予定&メリットの大きい講座の御紹介

No.9541

 昨日、今年度のゼミの予定について話し合いがもたれました。とりあえず、これまで木曜日におこなってきた『吾妻鏡』の講読会については、今月は12・19日(木曜日)と24日(火曜日)の15時から実施ということになりました。それ以降は、出席者の都合を勘案すると火曜日が定例化しそうです。
 また、前年度まで行われていたもう一つの『吾妻鏡』講読会にかえて、今度は『玉葉』の講読会が行われることになりそうです。こちらが木曜日になるのかも知れません。
 まだ、参加者の授業予定が不明確なところもあるのですが、今月中にははっきりすると思います。
 新たに参加を希望される方は、遠慮なく御連絡下さい。専攻、学部生・院生、学内・学外を問いません。

 私の方は作成しなければならない書類など、昨年の手帳で確認しながら進めている有様です。最近はいろいろメールで確認を依頼されるケースも多く、送られてくる書類も同じような封筒で、紛失してしまいそうで困ります。常に何か忘れているのではないかという恐怖心にとらわれがちです。昨日は、13日締切の校正があるのを忘れていたのに気がつきました。

 それから、記録の勉強をしたいという方には、古代学協会の古代学講座をお薦めします。毎月一回、同じ土曜日の午後に『小右記』と『明月記』の講読講座が連続して開講されます。しかも、講師はそれぞれ歴史学と国文学の研究者。遠方からお出でになる方には、メリットが大きいのではないでしょうか。
    http://kodaigaku.org/study/koza-koenkai/kodaigaku-koza/2012/goannai.html

 
 私が外部から依頼されている講座で、すでに申込みを開始したものについては、先にお知らせした「よみうり文化センター 堺」>>No.9539のほかに、「朝日カルチャーセンター京都」もございましたので、御案内致します。
      http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=155728&userflg=0

 現代社会学部「基礎演習Ⅰ」オリエンテーション

No.9540

 本日午前、原稿一編発送。つぎは16日締切の短編。それから、その前に講座の資料を作成しなければなりません。このところ、諸事錯綜して混乱気味なので、うまく整理がつくかどうか心配であります。

 さて、本日は、「基礎演習Ⅰ」のオリエンテーション。私の担当することになった新入生は14名。出身地は東北から四国まで。
 現社の先輩である3回生の田島さんにお手伝いを頂きました。助かりました。
 今年の基礎演習も楽しく進められそうです。
 ちなみに、現代社会学部で一回生の演習を担当することになってから、もう13年目になります。

☆ 長野県伊那弥生ヶ丘高校の花岡康隆先生より、御高論「鎌倉期小笠原氏の在京活動について」(『法政史論』39)・「鎌倉府体制成立期における信濃小笠原氏について」(『信濃』741)を御恵送頂きました。
 花岡先生に、あつくお礼を申し上げます。

 ☆ 栃木県立宇都宮商業高校の松本一夫先生より、御高論「『南北朝遺文』の意外な効用」掲載の『南北朝遺文 月報5』を御恵送頂きました。
 松本先生に、あつくお礼を申し上げます。

新年度のゼミ日程など、5日に決めます。

No.9538

 美川先生の大河ドラマ批評は各方面で大人気のようで、月曜日のアクセス数は毎週激増しています。
 美川先生は、ある筋では「ビューティさん」なんていうニックネームもつけられているとのこと。日本全国、津々浦々の多くの方々が(のみならず、欧州旅行中の方まで)、おおいに楽しみにされているようですから、来週も宜しくお願いいたします。

 ◎ ところで、本題。本来、この掲示板を読んで下さるべきゼミの皆さんへ。
 5日の『吾妻鏡』講読会の時間に、今年度のゼミ日程を決めたいと思いますので、それぞれの授業の空き時間を明確にしておいて下さい。
 『吾妻鏡』講読会の開催曜日と時間は、岩田君・山本さん、および私の都合を前提に設定したいと思います。 
 それから、『吾妻鏡』のほかに史料あるいは論文などの講読会・研究会を設定したいという提案も、ぜひこの機会に。
 とくに学部3回生の諸姉は、そろそろ卒論に向けて本格的な勉強を始める時期だと思いますので。
 卒論こそが、大学生活の醍醐味です。

 それから、古参メンバーも含めて、『紫苑』の次号(第11号)に執筆を希望する人は名乗りを上げて下さい。
 史跡見学会、ゼミ旅行などについても意見を集約したいと思います。

 ちなみに、春休み中の古参メンバーのみなさんも、時間があったらお出かけ下さい。
 鈴木夫人作成の「思い出アルバム」(カラー版)をお土産に差し上げます。

 >鈴木君 研究室のPCがパワー不足で、うまくデジカメ写真を保存できなくなってしまいました。また、お暇なときにでもディスク容量の拡張とか、何か対策をお願いできればありがたいところです。

 ☆ 國學院大學の森幸生先生より、新刊の御高著『小田原北条氏権力の諸相-その政治的断面-』(日本史史料研究会選書5)を御恵送頂きました。
 後北条氏と室町幕府、朝廷との関係のほか、京下りの医家も取り上げられていて興味津々の内容です。中世後期の東国武家社会の研究は、どうも地域レベルで完結してしまっている傾向を感じますので、このような視角は大変貴重だと思います。
 森先生にあつくお礼を申し上げます。 
編集:2012/04/03(Tue) 17:25

講座案内「平家の都落ちと滅亡」

No.9539

 14日(土)、よみうり文化センター堺において、お話をさせて頂くことになりました。
 【内容】 治承・寿永の内乱が激化したことによる福原への遷都と平安京への還都、清盛の死から、都落ちを経て滅亡に至るまでの諸問題に迫ります。
 平家追討戦については、義経の活躍の影に隠れてしまった〈範頼〉を再評価するお話をしたいと考えております。
 【開講日時】 4月14日(土)13:00~15:00
 【講師】 京都女子大学宗教・文化研究所教授 野口実
 詳細はこちらを→http://www.oybc.co.jp/link/sakai/s-news7.html(この、よみうり文化センター堺の講座案内では、私の担当担当部分の講座内容の文章に2ヶ所の誤りがあります。同センターには、すでに知らせてありますが、正しくは上記を御参照下さい)。

 私はこれまで、堺というところは通過したことしかありません。また、南海電車にも乗ったことがありませんので、出掛けるのを楽しみに致しております。 

不勉強の一言につきる

美川圭
No.9536

今日は久安3年(1147)の「祇園闘乱事件」。鳥羽院政期の清盛に興味をもっている人間にとっては、よく知られた事件でしょうが、一般にはそれほど知られているとは思えない事件です。

清盛自身が延暦寺強訴に担ぎ出された日吉社神輿に矢を放ったというのは、完全なフィクションです。しかも、ありえない作り話です。史料に書いていないことは、創作して構わないといっても、ありえないことをつくるのはやめてほしい。ここでの清盛は、まるで400年先の延暦寺焼き打ちした織田信長です。

これは考えるに、少し前の信長像、つまり既存の宗教的権威を認めず、延暦寺を焼き打ちし、自ら神になろうとした(最近の学説では否定されています)というものに極めて近いです。とくに、父親の葬式にばさら姿であらわれて、祭壇に無礼をはたらく、割とよく知られたほんとうとは思えない逸話の信長に。つまり、作り手が新しい時代を切り開く人物は信長しか知らないので、似てしまうのでしょう。しかし、あたりまえですが、12世紀と16世紀の延暦寺は違います。12世紀の延暦寺はこれから、法然・親鸞をはじめきら星のごとく宗教思想家を輩出する大寺院です。けっして腐敗堕落した存在とはいいきれません。時代も古代から中世への移行期と中世から近世への移行期とは状況が異なります。

作り手がまったく平安時代末を理解していない証拠でしょう。

院御所議定に信西が出ていて、清盛を弁護するのもありえませんが、院近臣藤原顕頼を信西におきかえたフィクションということでしょう。保元の乱での頼長と信西の対立がここからはじまっていたと、話を単純化。

ちなみに顕頼は実務官人系の院近臣で54歳。もと議政官で、このときは前権中納言であるが、特別院御所議定に顕頼が召し出されたというのが事実ですが、こんなこと、この作り手にはどうでもよいのでしょう。信西は出家したとはいえ、もと議政官ではありません。私の公卿会議に関する仕事など、どうでもよいのでしょう。

それはさておき、あいかわらず、大殿忠実が、鳥羽法皇に長くは政権は続かないなどと、無礼なことを口走っています。ああいうことを議定で院政を行っている法皇に言えるはずはありません。しかも、忠実は白河院政のときとはうってかわり、鳥羽院政のもとでは重用され、ほぼ近臣に近いとも評価されているのです。

法皇が突然謹慎中の忠盛・清盛の所へ現れ、清盛にわれを射て見よとかいって、やられたとかいうわけのわからない芝居。子供の西部劇ごっこです。白河院の血が出たとか、意味不明。ちなみに鳥羽法皇は一貫して、忠盛と清盛の庇護していたのが史実です。

それに反して、中井貴一の忠盛の演技はなかなかのもの。彼がこんなに名優になるとは思わなかった。彼がひとたび語ると、意味のわからない設定もにわかに真実みを帯びてくる。歌舞伎のお涙ちょうだいの筋書きを、名優が演じると、わけわからず泣いてしまうのとよく似ている。それに比して、あいかわらず、マツケンの清盛はひどいものです。まもなく忠盛が死にますが、そうすると改心するという筋なのでしょう。できれば、忠盛の死のあとは、中井貴一に清盛をやってもらいたい。

最後のいちおう史実に忠実な歴史解説と、ドラマの中身が異なっているのは、ほんとうに困ります。賢明な視聴者は理解に苦しむと思います。ドラマは勝手に作りましたと言いたいのでしょうか。それならば、最後に、「このドラマはフィクションです」というテロップを流すべきです。

とにかく相変わらず支離滅裂です。
編集:2012/04/02(Mon) 10:18

そこが、渡世人の辛えところよ!研究者も異動(渡世)します

No.9537

 相変わらず強訴の描き方が気になりましたが、驚いたのは、平忠盛が謹慎するとか言って(私の聞き間違いかも知れませんが)検非違使庁に赴き、そこで清盛と双六をうったりしていたこと。そのうえ、そこに鳥羽院があらわれたことでした。
 
 『中右記』かなんかに、あんなことが行われた記事があるのでしょうか?検非違使庁は現、山田邦和邸(→http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian04.html)にあったものを前提にしたのかと思われますが、残念ながら、あの当時は別当邸が役所としての機能をはたしていたはずです。

 ストーリーもよく分からない。
 清盛落胤説を近世以降の家族的価値観で受け止めて、近代的な心理的葛藤を描こうとしたところに無理が生じたのではないでしょうか。

 院御所議定のあり方など、美川先生の『院政の研究』(臨川書店)や『院政』(中公新書)をお読み下さい。
 美川先生のお気持ちはよく分かります。私もNHKの某(教養)番組で、ようやく学界で受け容れられた40年来の研究成果を完全否定されたような気持ちにさせられたことがあります。
 まったく、「そこが、渡世人の辛えところよ!」なのでありましょう。

 ちなみに、春は「除目」じゃなくて、人事異動の季節です。
 美川先生も、この四月から立命館大学の文学部にうつられました。
 
 当方の現ゼミメンバーや古参メンバーにも新天地に赴かれる方がいます。
 銀行や高校に就職された方もおられますが、研究所ゼミですから、研究職や進学については具体的にお知らせしておいた方が良いと思います。
 まず、進学ですが『小右記』講読会に参加されていた国文の山本さんが京大院の博士後期課程、現役の山本さんも京大院(博士前期)に進学。
 研究職では、古参メンバーの滑川さんが東北歴史資料館、小野さんが愛媛県内の公立博物館に専任職員として赴任されました。
 ますますの御活躍を期待したいと思います。
 

 年度末の今日は原稿の締切日

No.9535

 先ほど、なんとか本日締切の原稿を書き上げました。まだ、書式を調えたり図版を考えたりしなければならないのですが、一応、御依頼下さった方には、その旨、連絡を差し上げたいと考えています。本当は本日までに原稿をお届けしなければ、締切を守ったことにならないのですが、今回は季刊誌のようですので、ひとまずこれで御安心頂けるものと思います。私も編集サイドに立った経験がありますから(今も立っている)、その辺の事情はよく認識しているつもりです。

 ちなみに、大阪の出版社からシリーズで出版する人物史に関する本(私が担当の第二巻)について、御依頼している原稿の締切日も本日です。御執筆をお願いしているみなさま、何卒宜しくお願い致します。遅延の場合は、脱稿の予定など、出版社宛てにお知らせ下されば幸いに存じます。

 私自身、単著の執筆では、御依頼を頂いてから、すでに長期間お待たせしてしまっているものもあるのですが(本当に申し訳ありません)、共著の場合には、一人の遅延が他の執筆者の方々(とくに若手)に大変な御迷惑をおかけすることに繋がりますので、心しているつもりです。
 
 ところで、季刊誌で思い出しましたが、昨日、待望の『古代文化』第63巻第4号が届きました。
     論攷に山岡瞳さんの「侍長考-院宮の家政機関と侍-」
     書評に岩田慎平君の「谷昇著『後鳥羽院政の展開と儀礼』」
が掲載されています。 
 山岡論攷は「武士論」研究の上から高く評価されるものと思います。

 さて、>>No.9533に元木先生のおゆるしを得て(事後承諾ですが)拙著『武門源氏の血脈』(中央公論新社)の紹介記事を転載させて頂いたのですが、効果は有りや無しや?

 そんなことを考えていたら、京都府立大学の岡本隆司先生が『京都新聞』29日付夕刊の「現代のことば」の「新しい図書館」と題するエッセーの中で、こんなことを書いておられるのを目にしました。

 「読む本を借りるのも、ケチな了見である。本はたえず手元に置いて、何度もくりかえし読み返し、線を引いたり書き込みをして、はじめて愛着が出てくるし、内容も頭に入ってくる。借りてきた公共の本で、そんなことはできない。このように印刷出版が発達し、しかもネットや通販で簡単に入手できる以上、本はいよいよ身銭を切って買うべきものとなった。
 とくに新刊の週刊誌、文庫・新書・選書を借りて読むなど、言語道断である。著作者に対する権利侵害であるのみならず、ほんとうに図書館で必要な本を読みたい人を、多かれ少なかれ妨害して省みない行為だからである」

 私が日頃考えていたのと同じことを明解・率直に書いて下さった。拍手喝采です。
 ある公立図書館の方にうかがったら、人気のある新書(元木先生の『河内源氏』のことらしい)は予約しても数ヶ月先にならないと借りることが出来ないのだそうです。「読みたい本」というのは「今読みたい本」だと思うのですが。

 ☆ 奈良女子大学の前川佳代先生から、御高論「奈良と平泉-なら学談話会報告-」(『奈良女子大学文学部 研究教育年報』第8号)を御恵送頂きました。
 平安時代の庭園文化論。興味深い内容です。
 前川先生に、あつく御礼を申し上げます。