若者たちは吉野へ、老体は宇都宮・足利氏の遺跡を訪ねる。

No.9509

 岩田プロジェクトによる昨日の吉野見学はとても充実したものだったようで、行けなかった私も嬉しい限りです。見学と共にメンバー間の親睦も図られたようで、何よりでした。 次の企画も如何? 
 岩田君、ドライバーお疲れ様でした。また、真鍋さんからはメールで無事帰着の御報告を頂きました。これまた、ありがとうございました。

 私の方の調査旅行もなかなかよい結果が得られたと思います。
 二泊三日の行程で、初日(6日)は、益子町の地蔵院阿弥陀寺を訪れました。地蔵院は宇都宮朝綱が造営した寺院で、宇都宮氏歴代の菩提所でもあります。本堂(阿弥陀堂)など中世に遡る建築物ものこるのですが、私の関心は浄土庭園の遺構と立地空間にあります。やはり、現地に立つことによつて理解できた点が多々ありました。
 二日目(7日)は上三川町の満願寺。ここも浄土庭園の存在が想定されているところです。この寺の南方にある満福寺のご住職ご夫妻からお話をうかがうことが出来、資料も頂いて、ここも少なくとも宇都宮頼綱以前から宇都宮氏の拠点としていた空間であったことが判明したように思います。鬼怒川の水運との関連がポイントでしょう。
 午後は壬生町に行き、上田の三日月山にある朝比奈義秀の墓と伝える五輪塔を調査し、これを管理している小林弘美氏宅にお邪魔して、お話をうかがい、また伝来の古文書を拝見させていただきました。小林氏のご先祖は、壬生城主の壬生氏(官務小槻氏を出自とする興味深い存在)の被官であったようです。
 ここから西方城址を遠望したりしながら、足利市に向かい、足利義兼の造営した樺崎寺(法界寺)跡を見学。やはり立地に考えさせられるところが多くありました。それから、足利の市街地に向かい、鑁阿寺の境内や足利学校の周辺を歩きました。
 三日目(8日)は足利義兼の妻(北条時政の娘)の墓のある法玄寺、ついで彼女の所生である足利義氏の墓のある法楽寺を回りました。これらも樺崎寺と似た空間構造をとっており、池庭の存在は間違いのないところだと思います。
 ここから高速道路を経由して宇都宮の市街地に戻り、宇都宮氏が社家をつとめた二荒山神社、それにその居館のあった宇都宮城跡を見学しました。城跡は整備されていて、発掘調査で出土した遺物も展示されていました。

 三日間の見学・調査で在地における宇都宮氏・足利氏の文化遺産に数多く触れることが出来、これまでに考えていたことを補強する上で傍証となる、様々な情報を得ることが出来ました。 
編集:2012/03/09(Fri) 18:52

吉野見学会と次回の『吾妻鏡』

No.9510

 8日(木)は吉野へ日帰り見学へ行って参りました。少し肌寒さを感じますが、大きく崩れなくてよかったですね。
 京都駅前で日産レンタカーを借り、吉野神宮、村上義光の墓、金峯山寺、吉水神社、如意輪寺などを回ってきました。吉野神宮は随分前にこの付近で合宿を行った際に徒歩で見学したこともあったのですが、それよりさらに奥を見学できたことはよかったです。
 金峯山寺の蔵王堂は写真で眺めたり、お話を聞いたりすることはあったのですが、実際に目にしますと、その巨大さに圧倒されました。また、如意輪寺ではとても人懐っこい犬に出会うこともできました。
 三月初旬ということもあり人もまばらでしたので落ち着いて見学して回ることができたのですが、やはり桜の季節にこそ一度は訪れたいものだと思いました。いずれ実現できればよいと思います。
 一人で出掛けるより得られるものが多いのだと実感できましたし、次は野口先生もご一緒に、またこのような機会を持つことができればよいですね。今回ご一緒してくださった皆さんにも御礼申し上げます。

 次回の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年3月22日(木)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:建仁二年(1202)正月十二日・十四日・二十八日・二十九日、二月二十日・二十九日、三月八日・十四日・十五日、四月二十七日、六月一日・二十五日・二十六日、八月二日・十五日・二十三日・二十四日・二十七日、九月十五日・二十一日、十月八日・二十九日、閏十月十三日・十五日、十一月二十一日、十二月十九日の各条

 3月は22日、29日と開催予定です。
 
 木曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 昨今は、“ポップでライトな”歴史が流行っているようですが、そんなポップでライトで楽しげなイメージも、もとはといえば何らかの史料に依拠して形作られたはずです。そのもとの部分の史料に当たって事実関係をきちんと踏まえて整理するという作業に慣れておくことも、いろいろな角度から楽しむのに役立つかもしれません。
 ただ、そうすると今度は“ポップでライトな”歴史を楽しめなくなってしまうのかもしれませんが…

 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、2012年、何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。
編集:2012/03/09(Fri) 22:50

『紫苑』二校と吉野見学会

山本みなみ
No.9511

 『紫苑』二校の件と吉野行きの話をちょっと書き込みたいと思います。
 9日は、『紫苑』二校の受け取り日でした。野口先生、お疲れのところありがとうございました。また、取りに来てくださった執筆者の皆さまも、ありがとうございました。
 返却は、一週間後の16日(金)を予定しています。どうぞよろしくお願い申し上げます。
   
 さて、8日は吉野へ行ってきました。京都駅を9時過ぎに出発し、まず吉野にある道の駅にて柿の葉寿司や吉野で採れたイチゴのサンドイッチ(岩田さん、御馳走さまです)などを昼食に頂きました。その後、30分ほどで吉野神宮に到着。ここは木造の鳥居が印象的でした。そして、金峯山寺の近くに車を駐車し、徒歩で金峯山寺、吉野宮跡、吉水神社、如意輪寺を廻りました。道中、ほら貝を販売するお店を見かけました(大きいものは結構いいお値段でした。お金持ちでないとほら吹きにはなれませんね)。蔵王堂は目の当たりにすると、やはりその大きさ、存在感に圧倒されました。吉水神社では、義経の鎧や弁慶の七つ道具などを拝見し、如意輪寺では、重文の金剛蔵王権現木像や弁内侍の至情塚、多宝塔などを見学しました。多宝塔からの景色は、春になれば一面の桜で綺麗だろうなぁ…と思わせるものでした。境内に居た人懐っこい犬も可愛かったです。如意輪寺までの行き帰りは、2年前の衣笠山を思い出させる山道で大変でしたが、義経や静御前に思いを馳せながら歩きました。また、帰り道には葛きり屋さん「八十吉」にて吉野葛をいただきました。これが絶品で、みんな元気を取り戻しました。
 大満足で吉野を後にし、石舞台古墳にも足を運びました。17時を過ぎていたので、中に入ることは残念ながらできませんでしたが、遠くからでも一目見ることができたので良かったです。いつかリベンジしたいと思います。その後は、某ファミレスにて晩御飯をいただき、22時ごろ京都駅で解散となりました。
 京都から吉野までは意外と遠く、おまけに8人乗りの車だったので運転手の岩田さんは大変だったと思います。安全運転につとめてくださり、心よりお礼申し上げます。車中では、2回生のみんなともいろいろおしゃべりできて楽しかったです。

 余談ですが、私は4~6日と東京、鎌倉に行ってきました。東京に用事があったのですが、せっかくなので上野動物園や寄り道をして鎌倉や金沢文庫にも足を運びました。上野動物園に行った目的はもちろんパンダ、ではなく在来種の馬です。以前、美川先生が掲示板に書かれていらっしゃるのを拝見してから、一度行きたいと思っていました。野間馬・与那国馬・トカラ馬・木曽馬が飼育されており、初めて見る在来種に感激しました。やはりサラブレットに比べれば小ぶりですが、足腰のしっかりした馬でした。
 鎌倉では、鶴岡八幡宮や頼朝法華堂跡などの有名どころと北条泰時墓のある常楽寺や腰越状で有名な満福寺、佐々木盛綱が勧請し新田義貞が鎌倉攻めの戦勝祈願を行ったと伝わる小動神社にも行ってみました。6日はお天気がよく、源氏山の葛原岡神社からは遠くに富士山が見え、とても感動しました。妙本寺の祖師堂にいつもいるネコと2年ぶりに再会できたことも、妙に感動的でした。また、行く先々でリスに遭遇し、かわいい姿を見ることができました。

 鎌倉はゼミ旅行以来2回目でしたが、充実した旅行となりました。吉野見学会ではゼミメンバーとの親睦もより深まり、とても楽しかったです。今度は野口先生も御一緒に何処かへ旅行にいく機会を設けれれば良いなと思います。
 最後になりましたが、企画・運転をしてくださった岩田さんをはじめ、藪本さん、粟村さん、2回生のみなさん、ありがとうございました。また、ぜひ御一緒しましょう。2回生のみんなも、良かったら感想とか書き込んでね。

後白河登場

美川圭
No.9502

 先週は、台湾におりましたので、見ておりません。ビデオに録ってはあるのですが、見なくて済めば見たくないという気持ちが強く、見ていません。ある程度予想できるので、怖いもの見たさ、という気分にもなりません。

 今週は、後白河の登場がメインのようですね。たぶん、汚い平安京を汚いカッコで歩き回り、今様なんぞを歌うんだろうと予想していましたら、だいたいはずれませんでした。清盛がもう四位なのに、汚いカッコで歩き回っているのには、あきれます。きたないボロをまとわせると、リアリテイが出ると思い込んでおられるようですね。黒澤映画の悪い影響です。画面が汚いと話題になっているので、図に乗っているのかもしれません。本質的には、そういうことではなくて、ドラマが描けてないところに、問題かあるのですが。


 待賢門院を美福門院が罵倒したり、後白河が父鳥羽院と母待賢門院を面前で軽侮したり、やりたい放題で、あれで歴史的リアリテイが出るわけがありません。現代の2時間ドラマではないわけですから。

 当時は身分制社会で、しかもその中枢の朝廷なのですが、作り手がこの身分制というのがとても苦手というか、すこしも理解できないらしい。現代日本は身分制社会ではありませんからね。

 今回も、白河法皇の血筋は「もののけ」だという発言が・・・。後白河に清盛もいわれていまして。でも後白河も白河のひ孫であることはまちがいないし、現代の皇室も白河法皇の子孫であることをお忘れなきように。王家という言い方がいろいろ批判されていますが、こっちの方が問題ではないでしょうか。少なくとも、唯一の評伝を書いた私としては、これほど白河法皇が悪く言われるのは、あまりよい気分ではありません。

ところで、近藤先生はご覧になっているかな。後白河の髪型、あれ元服前の親王の髪型のつもりだと思うのですが、あれでよろしいのでしょうか。私、そういうことはよくわかりませんので。うちの家族がなんだか、聖徳太子とか、奈良時代みたいな髪型だね、と申しております。ご教示願えれば幸いです。
編集:2012/03/04(Sun) 22:54

参考文献の御紹介

No.9505

 たしか、近藤先生は大河ドラマ御覧になっていないと仰っていたように記憶致しますが。
 いずれにしましても、美川先生にまったく同感です。身分や社会制度にたいする無理解は昨年のドラマも同様だったそうですが。

 樹上で大童になっている義朝主従に三浦義明が在地紛争の解決?を懇願している場面も面白かったのですが、それはさておき、歴史に興味を持って御覧になっているみなさんに、参考文献の御紹介です。

 ① 京都が汚いという点について、
   髙橋昌明「よごれの中の京都」(同編『朝日百科 歴史を読みなおす12 洛中洛外』朝日新聞社)

 ② 後白河院と民衆の交流?について、
   辻浩和「後白河と<都市民>」(『古代文化』60-3)  
編集:2012/03/05(Mon) 10:05

水戸黄門と公家新制

美川圭
No.9506

そうでした。たしかに近藤先生は見ておられませんでした。

身分制がある程度描けないと、時代劇をつくる意味がないと思いますが。水戸黄門でも身分制がテーマですから。

この紋どころが目に入らぬか!ははあー!

黄門=中納言

公家新制のあまりに細かい服飾規定に、学生時代にうんざりしましたが、あれこそが、公家社会のコアの部分ですから。そこがわからないと、公家社会をドラマにはできません。

元服前の親王等の髪型

近藤好和
No.9507

美川先生、野口先生、こんにちは。
今、開いたら、私の名前が出ているのでびっくり。
確かに、私は大河ドラマをまったく見ておりません。
大河ドラマ関連の原稿や講演の仕事でもあれば見ますが、
今回はそういう仕事の依頼もまったくありませんので、
見る必要も感じていません。

しかし、美川先生のご質問、聖徳太子などの名前が出ているとすれば、
その髪型は、頭の両サイドで髪を束ねた「みづら」(総角とも)だと思います。
「みづら」であれば、元服前の親王等の髪型として間違いではありません。
ただし、ドラマのどういう場面ででてきたのかはわかりませんが、
「みづら」は、元服(加冠)の時などの童形の晴儀の髪型で、
天皇を除いて、日常的に「みづら」であったかどうかは定かではありません。

ところで、今回のドラマは、歴史設定も相当に酷いようですが、
装束などの問題もおそらく酷いのでしょう。

なお、手前味噌で恐縮ですが、公家装束が身分標識であることは、
拙著『装束の日本史』(平凡社新書)を御覧下さい。

「みづら」です

美川圭
No.9508

 大河をごらんになっていないのに、的確なご回答。さすがです。

 その「みづら」「総角」だと思います。元服前の親王の髪型でまちがいないのですね。大河というのは、けっこうそういうところは、正確だったりするので、逆にやっかいです。部分的な装束が正しいから、史実に忠実とはいかないわけですから。

 ただ、ハレの髪型だとすると、あの髪型で京都市中で博奕などをやっているというのは、おかしいかも、ということですね。まあ、日常の元服前の親王の髪型などわかる史料はないのでしょう。

 近藤先生のご教示に感謝致します。

平清盛は福原遷都断念後、京都に新拠点の構築を目指す

No.9501

 本日発行の『京都民報』(第2526号)に「清盛と京都」の第4回目として「九条末の新拠点」を載せました。福原遷都断念後の清盛の京都における新首都構想についてまとめてみました。御笑覧頂ければ幸いです。
 なお、私の担当はこれでおしまいです。

 朝日カルチャーセンター京都と古代学協会の共催講座ですが、私のお話しするテーマは「京都と義経」。
 日 時は 2012年 6月 1日(金)15:00~16:30です。
 くわしくは↓を御参照下さい。
  http://kodaigaku.org/topics/kyousaikouza.pdf

法住寺殿最勝光院の遺構が検出されたという情報

No.9500

 最勝光院(法住寺殿の域内に所在)は、後白河院の寵姫である建春門院(平滋子)の御願寺で、その造営にそなえて後白河院と滋子が連れ立って宇治の平等院を見に行き(『玉葉』)、藤原定家をして「土木の壮麗、荘厳の華美、天下第一の仏閣なり」といわしめた寺院で(『明月記』)、建春門院の御所も付属していました。養和元年(1181)に平清盛が九条河原口の平盛国亭で亡くなったときに、ここから今様の声がきこえてきたというのは有名な話です。
 その最勝光院跡と推定される場所(京都市立一橋小学校跡地)が、京都市埋蔵文化研究所によって発掘調査され、ここから整地層や建物基壇跡、それに大規模な濠跡が検出され、そしてそれに伴う土器や瓦などが出土したとのことです。

 現地説明会は3月10日(土)とのこと。くわしくは京都市埋蔵文化研究所のHPを御覧下さい。
 →http://www.kyoto-arc.or.jp/blog/jp-res-information/602.html?cat=6

 ゼミ関係者はぜひお出かけ下さい。
 京都女子大学から歩いて15分くらいのところです。

 なお、見学にあたっての参考文献として、髙橋昌明編『院政期の内裏・大内裏と院御所』(文理閣、2006年)を紹介しておきます。本書Ⅱの「後白河院御所論」に興味深く有益な論文(私のものを除く)が収録されています。

 【追記】 ☆ 神奈川県立金沢文庫の西岡芳文先生より、現在開催中の同館企画展「鎌倉めぐり」の図録を御恵送頂きました。
 当ゼミのメンバーも、最近続々と鎌倉に出掛ける人が増えているようです。
 西岡先生に、あつく御礼申しあげます。  
編集:2012/03/04(Sun) 08:40

いっきょうしょうがっこう

No.9503

久しぶりに母校の名前を見て懐かしくなりました。
父も、私自身も走り回って遊んでいた校舎のしたに、どんなものがあったのか大変気になります。

一橋小学校は、今は暗渠になっている音無川と本町通が重なるところ(銭湯、泉湯の斜め前です)にかかっていた『一の橋』が由来で、明治二年に下京第三十一番組小学校として開校されたところです。校舎も火事で燃えたりとかで、何回か建て替えられています。その時に遺構がつぶされてなければいいのですが‥。

以前、野口先生に最勝光院のお話を伺った時に、父にその話をしたところ「あそこは昔から竹やぶやった。古地図に載ってる」と、聞いてくれません。地元の認識はそのレベルです。この機会に、いろんなことがわかるとうれしいです。

ちなみに実家は、今回の発掘地点から100mほど真南のところです。掘ったら何か出るのでしょうか?

近所の三小学校と中学校が統合して、東山泉小中学校となるらしいです、母校の名前がなくなるのは寂しいですが、今年は辰年で、向かいの瀧尾神社もにぎわってます。今日の清盛でも最後に新熊野神社が出てきましたし、この界隈は何かありそうですね。

「歴史」の奥深さを感じながら、新しい命の誕生を寿ぐ。

No.9504

 鈴木君の御実家から直ぐの所だと書こうかと思ったのですが、「個人情報」云々のうるさい当節、遠慮したところでした。
 きっと、お家の敷地を発掘したら何か出て来ると思いますよ。改築などの際には、ぜひ山田先生に調査を委託したら如何?・・・かと。

 それにしても、一橋小学校も廃校になってしまったとは驚きでした。鈴木君やお父上が小学生時代を送った空間で、後白河院が今様を謡っていたわけですから、・・・そんなことを考えると、時の積み重ねというのは凄まじいものでありますね。

 ところで、さきほど、当ゼミの古参メンバー(九州の御出身)からメールで、第二子(女の子)御出産の御報告を頂きました。第二子ということで、どなたかお分かりですよね。そう、山本陽一郎君の「戦友」です。
 今は御実家におられるそうで、京都に戻ったら、二人のお子さんを連れて研究室にお出で下さるとのことです。
 当方の研究室にも、また新たな歴史の一コマが刻まれるわけで、楽しみにしています。

日本古文書学会見学会のお知らせ

元木泰雄
No.9498

 以前にもご案内いたしました、3月13日の日本古文書学会見学会、参加締切が近づきましたので再度掲示致します。国宝の東寺百合文書を間近に見ることができる得難い機会です。
 ぜひご参加ください。
なお、すでに口頭、メールなどでご連絡いただいた方も、メールで結構ですから、確認のご連絡をお願いいたします。

 場所 京都府立総合資料館(京都市営地下鉄烏丸線・北山駅下車)
 日時 3月13日火曜日13時~16時(12時45分受付開始)
 集合場所 京都府立総合資料館入口  
 参加費500 円
 東寺百合文書を上島有先生のご解説を承りながら見学します。今回は、当時百合文書の料紙見学会の4回シリーズの最後になります。
 中世文書全体のまとめをしますので、上島先生のご著書『中世日本の紙―アーカイブズ学としての料紙研究―』(日本史史料研究会刊)の、第二章から第六章まで目を通していただくとわかりやすいかと思います。
 お問い合わせは下記元木研究室まで。TEL075-753-6681
 参加希望者はお名前・連絡先明記の上、下記までハガキで申し込んでください。3月5日必着です。

申し込み先
〒606-8501京都市左京区吉田二本松町 京都大学大学院人間・環境学研究科 元木研究室
編集:2012/03/02(Fri) 07:23

岩田君の解説による「建永元年のフットボール」

No.9499

 元木先生。御案内、ありがとうございます。
 中世の古文書をじっくりと実見し、かつ上島先生のお話をうかがうことの出来る貴重な機会だと思います。
 ゼミのみなさん、とくに学部生は積極的に参加してください。

 昨日のゼミは、帰省されたり、旅行されたりした方からのお土産が沢山。また、手作りのケーキも、ありがとうございました。

 『吾妻鏡』は建永元年条を読了。2回生もだいぶ慣れてきた様子です。頼家将軍期の内容は書誌学的にも面白いと思います。岩田君や藪本君からのコメントからは学ぶところが多い。

 『紫苑』第10号、山本さんのお骨折りにより、初校校正ゲラを印刷屋さんにお渡ししました。

 ゼミの前、お昼休みに、京都文化博物館時代の同僚(今も現役)と後輩(近年、学芸員になられた方)が研究室を訪ねて下さいました。今年、同館で開催される平清盛展のイベントに関する用件だったのですが、7割くらいの時間を昔話に費やしてしまいました。
 このイベントについては、追って御報告したいと思います。準備や本番におけるサポーターをお願いするつもりなので、宜しく。

 もう一件、書面で講演依頼が届きました。四月からの土日は予定がいっぱいになりつつありますが、この機会をとらえて頑張るに如かずだと覚悟を決めています。 

平時子亭を中心に発展した西八条と経済を支えた七条町

No.9497

 機を失してしまいましたが、この前の日曜日(26日)に出た『京都民報』(第2525号)に「清盛と京都」の第3回目として「西八条と七条町」を載せました。
 「院・平家政権期の七条町周辺」という地図がお役に立つと思います。『別冊太陽』に載せた拙文の付図に、さらに工夫を加えました。

 目下、以前御紹介した「元木プロジェクト」の一環として、短編ながら「千葉常胤」の伝記を書いています。

 >池嶋さん 次の講読会のとき(1日)、印鑑をお忘れなく。

 ☆ 愛知学院大学の福島金治先生より、御高論「密教聖教の伝授・集積と隔地間交流-「坊津一乗院聖教類等」の検討を通して-」(『九州史学』160)・「中世後期美濃国細目郷の領主古田氏と不二庵」(『愛知学院大学人間文化研究所紀要 人間文化』26)を御恵送いただきました。
 福島先生に、あつく御礼を申し上げます。

【追記】
 ☆ 東京大学史料編纂所の高橋慎一朗先生より、新刊の御高著『武士の掟』(新人物往来社)を御恵送いただきました。
 「武士がつくった都市の掟」・・・そこに住む人々の生活に視点を据えた中世都市論。
 髙橋先生に、あつく御礼を申し上げます。

業務連絡(プリンター)・吉野&神崎庄・為義亭・菊酒

No.9494

 今日はドラマ関連の書き込みがないようなので、まず業務連絡から。
 ゼミ関係の方で、プリンターにキャノンのPIXUSシリーズのip3600/ip4600/ip4700/MP540/MP550/MP560/MP620/MP630/MP640/MP980/MP990/MX860/MX870を使用されている方は、当方に御連絡下さい。とくにお願いしたいことがあります。

 3月8日の岩田君主催の見学会は吉野に行かれるようですが、事前勉強に疲れたら、このDVDを借りてきて御覧になるとよいと思います。蔵王堂もロケ地になっています。さらに、かつてゼミ旅行で訪れた伊勢の二見浦の夫婦岩も出てきます。
 『男はつらいよ』第39作「寅次郎物語」(マドンナは秋吉久美子)

 今日のドラマですが、神崎庄の倉敷が博多にあるということが視聴者には分かりづらかったのではないでしょうか。私は神崎庄で交易をする宋船の多くは有明海に来航したと考えているのですが。
 それから、為義の邸宅が出てきましたが、あれが六条堀河亭ということになるのでしょうか。地方の小領主の宅のイメージでは?
 菊酒は、この前のゼミの時間に講読した『吾妻鏡』建仁元年九月九日条に出てきましたね。

 それから、『台記』ですが、そんなに生やさしい史料ではありません。本気で取り組みたいのなら、元木先生に師事するに如かざるものがあります。

 つぎに宣伝です。
 ドラマの源為義はいかにも困窮の為体ですが、私は武士成立史の上で為義の役割を積極的に評価しています。拙著『武門源氏の血脈』(中央公論新社)を御覧下さい。また、佐藤義清の系譜や彼の武芸については、同じく『伝説の将軍 藤原秀郷』(吉川弘文館)に詳述致しました。御参照ください。
編集:2012/02/26(Sun) 23:54

博多の神崎荘?

山田邦和(同志社女子大学)
No.9495

野口先生、こんばんは。

今晩の大河ドラマ、のっけから「博多の神崎荘」と出てきて、目を剥きました。ただ、最後の紀行コーナーになって、博多にあった神崎荘の倉敷であると種明かしがされてましたので、一応の説明はつきました。しかしあれが倉敷ですかな。あれは完全に貿易港の市場になってしまっています。平家荘園の博多の倉敷に多数の商人や民間人が出入りして自由闊達に商売をやっているというのは理解に苦しみます。それに、おいおい、忠盛さんよ、院宣を偽造しちゃマズいだろ!、とツッこみたくなりました。清盛が博多で始めて宋銭のことを知るというのもアホすぎますね。確かに平安京に銭が入ってくるのはまだ一般的ではないのですが、それでも皆無というわけではない。銭という存在すら知らないとは、この清盛君、世間知らずもほどがあります。
 それに、平安京のシーンが必ずあのケッタイな市場なのは、そろそろどうにかならないですかね。「一遍聖絵」に鎌倉時代の平安京の東市が描かれていますが、それと似ても似つかないボロボロの市場ですね。だいたい、市場の向こうに崩壊寸前の門があるが、あれは何だ! 羅城門だなんて言ったら怒るぞ! そんな市場が当時の平安京に存在しなかったとはいいませんが、それだけが平安京と思われるのは心外だ。この時期の京都をワザと惨めに見せようという悪意が感じられ、不快きわまりないものです。
 加藤あいさん演ずる高階明子、もう後の重盛の妊娠を報告してましたね。さっさと退場せずに、じっくりと出てくださるよう、お願いします。

 >石浜さん、ごぶさたしております。お目にとまり、恐縮です。またお目にかかりたいですねm(_ _)m

追記:すみません、改めて考えると、上記は説明不足でした。平忠盛が院宣を詐称して神崎荘で貿易をおこなったことは史実ですが、違和感があったのは、単なる詐称ではなく、院宣を「偽造」して、しかもその証拠物件を易々と相手に渡すかな?、というところでした。おわびして追記します。
編集:2012/02/27(Mon) 12:50

美川先生は京都新聞で語っておられました。

No.9496

 美川先生の御出座がないと思っていたら、今朝の京都新聞に「崇徳上皇の出生の謎は事実か」という記事があり、そこに角田文衞説に対する美川先生の御見解が、要領よくまとめられていました。
 美川先生の御説が今日の、政治史研究の成果の水準を示すものと言えましょう。
 在京のみなさんは、御一読下さい。

富士山の日

No.9491

 昨日は、諸方より御丁寧なメッセージをいただき、恐縮致しております。
 ありがとうございました。
 小学生の頃は、この日が嬉しかった。よく廊下に立たされていた時代です。しかし、今は老化あるのみ。

 >石浜さん 久方ぶりの御登場、嬉しい限りです。
 山田先生は相変わらず多方面で御活躍です。四月からは、さらにお忙しくなられるようですが、諸事、颯爽とこなして行かれることと思います。充実した日々をお過ごしゆえの「若さ」、とお見受け致します。

 新聞にマスクのポイ捨てが多いという投書が載っているのを読んで、「まさか」と思ったのですが、宇治も例外ではありませんでした。各町内毎に「規律委員」を設置して取り締まりにあたらせるなどという世の中にならないことを祈るばかりです。

 ある図書館では、最近出版された、ある新書本に予約が集中して、数ヶ月後にならないと読めないとのこと。新書でも本屋さんで買わずに図書館の本で済ませるというのが21世紀的な生き方のようです。
 やはり消費の対象はグルメということになるのでしょうか?
 数ヶ月もしたら読みたい本も変わるでしょうに。
 図書館には街中の本屋さんでは手に入らないような専門書や学術雑誌を置いて貰いたいと思うのですが。
 本が売れないのも道理というものです。

 ☆ 近藤好和先生より、御高論「与一所用の太刀と矢」・「那須家伝来の甲冑」収録の山本隆志編著『那須与一伝承の誕生』(ミネルヴァ書房)を御恵送いただきました。
 近藤先生に、あつく御礼を申し上げます。 
編集:2012/02/25(Sat) 07:52

2月もあっという間の『吾妻鏡』

No.9492

 ぼんやりしているうちに2月も終わろうとしています。『「如月」とかじゃなく「不廻首」とかに改名したほうがよくないか』という声も仄聞しますが、大いに同意します。

 次回の『吾妻鏡』のご案内です。

 日時:2012年3月1日(木)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:正治三年(建仁元年、1201)九月二十日・二十二日、十月二日・六日、十一月十三日、十二月二日・三日・二十八日・二十九日の各条
    建仁二年(1202)正月十二日・十四日・二十八日・二十九日、二月二十日・二十九日、三月八日・十四日・十五日、四月二十七日、六月一日・二十五日・二十六日、八月二日・十五日・二十三日・二十四日・二十七日、九月十五日・二十一日、十月八日・二十九日、閏十月十三日・十五日、十一月二十一日、十二月十九日の各条

 3月は1日、22日、29日と開催予定です。
 
 木曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。
 昨今は、“ポップでライトな”歴史が流行っているようですが、そんなポップでライトで楽しげなイメージも、もとはといえば何らかの史料に依拠して形作られたはずです。そのもとの部分の史料に当たって事実関係をきちんと踏まえて整理するという作業に慣れておくことも、いろいろな角度から楽しむのに役立つかもしれません。
 ただ、そうすると今度は“ポップでライトな”歴史を楽しめなくなってしまうのかもしれませんが…

 基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、2012年、何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

吉野山、峰の白雪踏み分けて・・・。

No.9493

 3月1日は『紫苑』の校正ゲラ返却の日です。お忘れなきように。校正は完璧を期したつもりでも、必ず漏れの出るものです。だからこそ、しっかりやって下さい。
 若い人の論文で校正漏れが多いというのは、将来性において、即アウトの判定を受けざるを得ないと思います。

 8日は当方に所用発生のため、ゼミは休止とせざるを得ないことになりました。申し訳ありません。
 ただし、当日は、岩田君が私的に日帰りの見学会を主催して下さるとのこと。ありがとうございます。

 本日、分厚い封書でお手紙をいただきました。東京の私大の先生から。和紙風の便箋に万年筆で書かれたもの。
 達筆で拙著『武門源氏の血脈』にたいする御感想がつづられていました。
 しっかりと御精読下さったとのことで、ここで、御紹介したくなるような内容でした。
 こういうお手紙をいただくことは滅多になくなりましたが、清々しい気持ちになります。

 IT社会になって、失ったものは計り知れない。
 私も出来るだけ万年筆を使うようにしたいと思います。

「ポップでライトな<歴史>」と「歴史学」

No.9489

 「ポップでライトな<歴史>」が人気を集めている中で、「歴史学」との乖離というか、その狭間で心を悩ませている方が多い。
 「大学論」にも波及する問題だと思います。

 ☆ 千葉県立佐倉高校の外山信司先生より、御高論「戦国の房総を訪れた連歌師宗長-「東路のつと」を読む-」掲載の『城西国際大学日本研究センター紀要』第6号を御恵送いただきました。
 外山先生に、あつく御礼を申し上げます。

ラボール学園(京都労働学校)2012年春期講座より

No.9488

 日本史講座-京都の戦乱と災害<古代・中世>
 開講日 毎週月曜日 14回<4/2~7/9>
 開講時間 午後6時30分~午後8時30分

 ① 4月 2日 薬子の変                井上満郎(京都産業大学名誉教授・京都市歴史資料館館長)
 ② 4月 9日 大内裏焼亡               野口孝子(同志社女子大学講師)
 ③ 4月16日 永長・康和の大地震           美川圭(摂南大学教授)
 ④ 4月23日 保元・平治の乱             野口実(京都女子大学教授)
 ⑤ 5月 7日 太郎焼亡と福原遷都          山田邦和(同志社女子大学教授)
 ⑥ 5月14日 承久の乱と寛喜の大飢饉       木村英一(滋賀大学講師)
 ⑦ 5月21日 南北朝の戦乱と北畠親房       山田徹(京都大学助教)
 ⑧ 5月28日 天正・文禄の大地震と京都      三枝暁子(立命館大学准教授)
 ⑨ 6月 4日 嘉吉の乱                 野田泰三(京都光華女子大学教授)
 ⑩ 6月11日 源平内乱と飢餓地獄          高橋昌明(神戸大学名誉教授)
 ⑪ 6月18日 1185年、京都激震す         高橋昌明
 ⑫ 6月25日 徳政一揆と牢人・飢饉         早島大祐(京都女子大学准教授)
 ⑬ 7月 2日 中世人は応仁の乱からいかに復興したか  早島大祐
 ⑭ 7月 9日 織田信長の京都焼き討ち       尾下成敏(京都橘大学講師)

 ※ 詳しくは、こちらを→http://www.labor.or.jp/gakuen/kouza_school/school_index.html
編集:2012/02/21(Tue) 22:15

山田邦和先生をニュースで

石浜哲士
No.9490

今朝のNHKBSニュースで山田邦和先生をお見かけしました。用明・推古天皇陵などの立ち入り調査に関するニュースでした。若々しいお姿を久しぶりに目にし、しびれた次第です。