傍らに人無きが若し
No.8085
思うことあって、4年ほど前に宗教部の発行している『芬陀利華』という新聞に掲載した拙文を転載させて頂きます。
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【傍若無人とシカト】
「傍若無人(ぼうじゃくぶじん)」という言葉がある。これを読み下すと「傍(かたわ)らに人(ひと)無(な)きが若(ごと)し」。つまり、「周囲にいる人を人と思わないような行動をする」という意味である。『日本国語大辞典』で調べると、中国の古典である『史記(しき)』の用例が示されているが、院政期の貴族の日記『中右記(ちゅうゆうき)』や南北朝の動乱を活写する『太平記(たいへいき)』などにも所見していて、我が国でも古来ひろく使われていたようである。
人を人と思わないというのは、要するにその存在を否定すること。すこし古い若者言葉で言うと、イジメの最悪の方法である「シカト」(もとは博奕(ばくち)打ちの間で使われた隠語(いんご))と同じことである。したがって、イジメが学校や職場に蔓延(まんえん)しているように、「傍若無人」もそこら中に広まりを見せている。
たとえば、密集した住宅地の狭い庭で隣近所の迷惑を顧みずにモウモウたる煙と悪臭を発散させながらバーべーキューを行う。日曜大工と称して電動工具を持ち出して大騒音を発する。早朝深夜にマフラーを改造した車で住宅街を爆走するなどという事態である。私のゼミのメンバーにも、アパートの隣室の騒音のために論文執筆を阻害されている気の毒な院生さんがいる。
こうした行動に走る人たちにも理屈があるようだ。庭で家族と食事が出来るステイタスをえたことを実感したい、周囲の注目を浴びたいなどという「小さな幸せ」を実現してどこが悪いのだというのである。しかし、かれらには、心地よい風の吹き込む春の日の夕刻に家中の窓を閉ざさなければならない隣人や、ようやく寝かしつけたばかりの赤子に目を覚まされて途方に暮れている憔悴(しょうすい)しきった母親の姿などが、まったく見えていないらしい。かれらは、隣人、さらにいえば社会を「シカト」しているのである。
物理的に身体を接している他者がいるのに、その存在を意に介さないという人も多い。電車内で化粧をする女性、カシャカシャと耳障(みみざわ)りな音を漏らしながらイヤホンで音楽を聴いている人たちなどがその典型である。電車内で化粧をする女性にとっては、化粧をした後の姿を見せる対象とする個人または集団のみが人間であって、同じ車両に乗り合わせた人たちはモノに過ぎないのであろう。
「袖(そで)刷(す)り合うも多生(たしょう)の縁」という人と人とのスタンスが大切にされていた時代には、これに類する行動をよしとする人は極めて少なかったはずである。
【社会と人心の激変】
歴史学者網野善彦(あみのよしひこ)は、日本社会史上の分水嶺(ぶんすいれい)の一つを1960年代に求めた。60年代は、民俗学者宮本常一(みやもとつねいち)がその名著『忘れられた日本人』に記録したような、在地社会に根付いた前近代以来の基層文化が、高度経済成長の名のもとに払拭(ふっしょく)されてしまった時代である。
各家庭にテレビと電話が普及したのは、ちょうどこの頃であった。その後、ファミコン・パソコン・ケータイなど、人と人、人と社会を媒介(ばいかい)する情報機器は飛躍的な進歩をとげ、それにともなって個人と個人、個人と集団・社会・国家の間における意識のスタンスは大きく変化した。
この間の恐ろしいほどの人の心の変化は、1951年生まれの私自身が直接かつ深刻に経験するところである。知識は身体に備わった五感を放棄した形で容易に獲得できる使い捨てのものとなり、確実に人のあり方、社会のあり方は悪くなった。人はその場にいる人間を眼中に置かず、想像力を失い、自分の世界に埋没(まいぼつ)するようになった。
【現実と向き合おう】
しかし、バーチャルな世界では何でも自分の思うようになっても、現実はそうはいかない。周囲への配慮(はいりょ)を怠(おこた)ると何事もうまく進まない。その結果、思い通りにならない状況に対応できないで、逆上してしまう人間が増えている。人々は、人にとって最も大切な「無我の自覚」という、自分は自らの意志によって存在し得ないものであるという本質的な認識から、どんどん遠ざかっているのである。
人をバーチャルな世界にいざなう道具たちは、人々の社会に対するまっとうな認識を阻害(そがい)し、想像力を破壊することに拍車をかけている。人が道具に隷属(れいぞく)させられているのである。このままでいくと、目にはゴーグル、耳にはイヤホン、口はマスクで閉ざした化け物のような集団が街中を支配することになるであろう。
時には、キーボードを叩(たた)く手にペンを持たせ、パソコンのディスプレイで疲れさせた目は紙に書かれた文字で癒(いや)そう。身体に備わった五感を鍛(きた)えて生々しい現実と向き合おう。そうすれば、自(おのず)ら然らしめる不思議な働きに対する敬虔(けいけん)な心と、その働きに応えるための意志の自覚を持った人間に、少しは近づけるようになるのだと思う。
巷(ちまた)には、本能的な感覚や帰属集団の意志に引きずり回され、自分の物差しを持てず、批判力を奪われ、だから敵と味方を見誤っている人が溢(あふ)れかえっている。こうした状況に対峙(たいじ)することこそ、本来の大学と大学にある者の使命であろう。
私は貧弱な一歴史学徒にすぎないが、せめて、過去に生きた数知れない人たちの存在や彼らの築きあげた文化を、現代の人々、とりわけ権力者たちにシカトや曲解をさせぬように、日々の研究と教育に邁進(まいしん)していきたいと考えている。
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【傍若無人とシカト】
「傍若無人(ぼうじゃくぶじん)」という言葉がある。これを読み下すと「傍(かたわ)らに人(ひと)無(な)きが若(ごと)し」。つまり、「周囲にいる人を人と思わないような行動をする」という意味である。『日本国語大辞典』で調べると、中国の古典である『史記(しき)』の用例が示されているが、院政期の貴族の日記『中右記(ちゅうゆうき)』や南北朝の動乱を活写する『太平記(たいへいき)』などにも所見していて、我が国でも古来ひろく使われていたようである。
人を人と思わないというのは、要するにその存在を否定すること。すこし古い若者言葉で言うと、イジメの最悪の方法である「シカト」(もとは博奕(ばくち)打ちの間で使われた隠語(いんご))と同じことである。したがって、イジメが学校や職場に蔓延(まんえん)しているように、「傍若無人」もそこら中に広まりを見せている。
たとえば、密集した住宅地の狭い庭で隣近所の迷惑を顧みずにモウモウたる煙と悪臭を発散させながらバーべーキューを行う。日曜大工と称して電動工具を持ち出して大騒音を発する。早朝深夜にマフラーを改造した車で住宅街を爆走するなどという事態である。私のゼミのメンバーにも、アパートの隣室の騒音のために論文執筆を阻害されている気の毒な院生さんがいる。
こうした行動に走る人たちにも理屈があるようだ。庭で家族と食事が出来るステイタスをえたことを実感したい、周囲の注目を浴びたいなどという「小さな幸せ」を実現してどこが悪いのだというのである。しかし、かれらには、心地よい風の吹き込む春の日の夕刻に家中の窓を閉ざさなければならない隣人や、ようやく寝かしつけたばかりの赤子に目を覚まされて途方に暮れている憔悴(しょうすい)しきった母親の姿などが、まったく見えていないらしい。かれらは、隣人、さらにいえば社会を「シカト」しているのである。
物理的に身体を接している他者がいるのに、その存在を意に介さないという人も多い。電車内で化粧をする女性、カシャカシャと耳障(みみざわ)りな音を漏らしながらイヤホンで音楽を聴いている人たちなどがその典型である。電車内で化粧をする女性にとっては、化粧をした後の姿を見せる対象とする個人または集団のみが人間であって、同じ車両に乗り合わせた人たちはモノに過ぎないのであろう。
「袖(そで)刷(す)り合うも多生(たしょう)の縁」という人と人とのスタンスが大切にされていた時代には、これに類する行動をよしとする人は極めて少なかったはずである。
【社会と人心の激変】
歴史学者網野善彦(あみのよしひこ)は、日本社会史上の分水嶺(ぶんすいれい)の一つを1960年代に求めた。60年代は、民俗学者宮本常一(みやもとつねいち)がその名著『忘れられた日本人』に記録したような、在地社会に根付いた前近代以来の基層文化が、高度経済成長の名のもとに払拭(ふっしょく)されてしまった時代である。
各家庭にテレビと電話が普及したのは、ちょうどこの頃であった。その後、ファミコン・パソコン・ケータイなど、人と人、人と社会を媒介(ばいかい)する情報機器は飛躍的な進歩をとげ、それにともなって個人と個人、個人と集団・社会・国家の間における意識のスタンスは大きく変化した。
この間の恐ろしいほどの人の心の変化は、1951年生まれの私自身が直接かつ深刻に経験するところである。知識は身体に備わった五感を放棄した形で容易に獲得できる使い捨てのものとなり、確実に人のあり方、社会のあり方は悪くなった。人はその場にいる人間を眼中に置かず、想像力を失い、自分の世界に埋没(まいぼつ)するようになった。
【現実と向き合おう】
しかし、バーチャルな世界では何でも自分の思うようになっても、現実はそうはいかない。周囲への配慮(はいりょ)を怠(おこた)ると何事もうまく進まない。その結果、思い通りにならない状況に対応できないで、逆上してしまう人間が増えている。人々は、人にとって最も大切な「無我の自覚」という、自分は自らの意志によって存在し得ないものであるという本質的な認識から、どんどん遠ざかっているのである。
人をバーチャルな世界にいざなう道具たちは、人々の社会に対するまっとうな認識を阻害(そがい)し、想像力を破壊することに拍車をかけている。人が道具に隷属(れいぞく)させられているのである。このままでいくと、目にはゴーグル、耳にはイヤホン、口はマスクで閉ざした化け物のような集団が街中を支配することになるであろう。
時には、キーボードを叩(たた)く手にペンを持たせ、パソコンのディスプレイで疲れさせた目は紙に書かれた文字で癒(いや)そう。身体に備わった五感を鍛(きた)えて生々しい現実と向き合おう。そうすれば、自(おのず)ら然らしめる不思議な働きに対する敬虔(けいけん)な心と、その働きに応えるための意志の自覚を持った人間に、少しは近づけるようになるのだと思う。
巷(ちまた)には、本能的な感覚や帰属集団の意志に引きずり回され、自分の物差しを持てず、批判力を奪われ、だから敵と味方を見誤っている人が溢(あふ)れかえっている。こうした状況に対峙(たいじ)することこそ、本来の大学と大学にある者の使命であろう。
私は貧弱な一歴史学徒にすぎないが、せめて、過去に生きた数知れない人たちの存在や彼らの築きあげた文化を、現代の人々、とりわけ権力者たちにシカトや曲解をさせぬように、日々の研究と教育に邁進(まいしん)していきたいと考えている。