松殿山莊(摂政藤原基房の別業址)の見学
No.806
本日、拙宅の近く、木幡南山に所在する松殿山莊(松殿基房<1144~1230>の別業跡に立地)の見学に行って来ました。一般公開は20年ぶりとのことです(予約申込制、締切済み)。
この山莊は近代の茶道家・高谷宗範が1918年から十年以上の歳月をかけて完成したもので、建築・庭園ともに他に類例をみない、なかなかのものでした。敷地は6500坪、建物だけで1000坪もあるそうです。お茶の接待をうけ、書院造りの建物や方円のプランで設計された見事な庭園を鑑賞させていただき、京中の観光地とはまったく異なる趣の中で、秋の風情を楽しむことが出来ました。
しかし、すでにお察しのように小生がそのような高尚な趣味を持っていようはずはございません。小生はかねがね、宇治と京都の中間に位置し、西に巨椋池から鳥羽、さらには摂津・河内を臨み、比叡山・愛宕山も眺望できるというこの地の軍事的重要性に着目していたのです。北の崖下を流れる堂の川をはさんだ低地には、藤原道長の墓の営まれた浄妙寺が置かれていましたが、ここは独立した台地上に位置し、ちょうど中世城郭の立地にふさわしいところです。基房がこの台地上に別業を営んだ理由もその辺にあり、おそらく中世を通じて、この地が軍事・戦略上の要地であったことは間違いありません。山荘の敷地内には、空堀と思われる痕跡や高さ1.2㍍ほどの土塁が別業跡の周囲を囲むように数百㍍にわたって遺存していました。ぜひ、考古学研究者に調査のメスを入れていただきたいものです。山田邦和先生をお誘いすればよかったと思いました。
ちなみに、松殿基房の娘・伊子は木曽義仲の室となり、義仲滅亡後は源(土御門)通親に嫁したことが知られますが、その通親との間に生まれた道元(曹洞宗開祖)の生誕地は、この木幡の松殿別業であったといわれています。小生は体育会系的な今日の永平寺は苦手ですが、平雅行先生の御研究などから、道元の女性観には感心させられておりました。そんなことを考えながら、寒気に包まれ始めた松殿山荘をあとにした次第です。この寒さで、ちょっと体調をくずしそうなので、午後に予定していた日本史研究会大会行きは中止しました。
なお、山莊で御案内いただいた方のお話によりますと、明日、上横手雅敬先生がお出でになられるとのことでした。
>>本日、日本史研究会大会に出かけられた方へ
母利先生の御報告など、その他、大会の様子をレポートしていただければ幸いです。
この山莊は近代の茶道家・高谷宗範が1918年から十年以上の歳月をかけて完成したもので、建築・庭園ともに他に類例をみない、なかなかのものでした。敷地は6500坪、建物だけで1000坪もあるそうです。お茶の接待をうけ、書院造りの建物や方円のプランで設計された見事な庭園を鑑賞させていただき、京中の観光地とはまったく異なる趣の中で、秋の風情を楽しむことが出来ました。
しかし、すでにお察しのように小生がそのような高尚な趣味を持っていようはずはございません。小生はかねがね、宇治と京都の中間に位置し、西に巨椋池から鳥羽、さらには摂津・河内を臨み、比叡山・愛宕山も眺望できるというこの地の軍事的重要性に着目していたのです。北の崖下を流れる堂の川をはさんだ低地には、藤原道長の墓の営まれた浄妙寺が置かれていましたが、ここは独立した台地上に位置し、ちょうど中世城郭の立地にふさわしいところです。基房がこの台地上に別業を営んだ理由もその辺にあり、おそらく中世を通じて、この地が軍事・戦略上の要地であったことは間違いありません。山荘の敷地内には、空堀と思われる痕跡や高さ1.2㍍ほどの土塁が別業跡の周囲を囲むように数百㍍にわたって遺存していました。ぜひ、考古学研究者に調査のメスを入れていただきたいものです。山田邦和先生をお誘いすればよかったと思いました。
ちなみに、松殿基房の娘・伊子は木曽義仲の室となり、義仲滅亡後は源(土御門)通親に嫁したことが知られますが、その通親との間に生まれた道元(曹洞宗開祖)の生誕地は、この木幡の松殿別業であったといわれています。小生は体育会系的な今日の永平寺は苦手ですが、平雅行先生の御研究などから、道元の女性観には感心させられておりました。そんなことを考えながら、寒気に包まれ始めた松殿山荘をあとにした次第です。この寒さで、ちょっと体調をくずしそうなので、午後に予定していた日本史研究会大会行きは中止しました。
なお、山莊で御案内いただいた方のお話によりますと、明日、上横手雅敬先生がお出でになられるとのことでした。
>>本日、日本史研究会大会に出かけられた方へ
母利先生の御報告など、その他、大会の様子をレポートしていただければ幸いです。