耐えねばや 果ては石をも穿つらん※

No.7924

 諸事に追われて床屋さんに行く機会を逸したため、「丸顔になった寝起きの由井正雪」の如き様相を呈しております。まぁ、これで入院ということにはならないと思いますのでヨシとしたいと思います。

 ☆ かつての同僚で考古学者の田中新史先生より、先生が資金を負担し、自ら編集を担当された『武射 経僧塚古墳 石棺篇 報告』(早稲田大学 経僧塚古墳発掘調査団刊行 土筆社取扱)を御恵送頂きました。1970年の調査成果が今になって形になったもので、中世の東国理解にも有益な内容です。田中先生の研究者としての御矜持にあらためて感服致しました。
 田中先生にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 群馬県立文書館の須藤聡先生より、御高論「新田荘成立史論-女堀・新田堀との関わりを中心に-」収録の大間々扇状地研究会編『共同研究 群馬県大間々扇状地の地域と景観-自然・考古・歴史・地理-』を御恵送頂きました。
 御高論は新田荘開発過程の在地状況を克明に描いたもの。
 須藤先生にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 筑波大学の山本隆志先生より、御高論「東国における武士勢力の成立-千葉氏を中心に-」(『史境』第61号)を御恵送頂きました。
 山本先生にあつく御礼を申し上げます。

 ※ 田中先生の編集された報告書に引かれた高野長英の座右の銘(蘭文で書かれてものを後世の人が和訳したもの)。
  『たえねばや はてはいしをも うがつらん
        かよわきつゆの ちからなれども』  

公卿日記と軍記物語の狭間にて

No.7921

 今、東国武士研究と軍記物語について、一文を執筆しなければならないところなのですが、そこへグッドタイミングな御高論を拝読する機会を得ました。先日開催された『台記』研究会の際に、元木泰雄先生より頂いた『人環フォーラム』第27号(京都大学大学院人間・環境学研究科)に掲載されている元木先生の「源平合戦をめぐる虚実-歴史学と史料批判-」がそれです。歴史学サイドから見た『平家物語』の評価や『吾妻鏡』の史料批判など、重要な問題が具体例を挙げて簡潔に纏められています。一ノ谷の合戦や腰越状の史実性ついては、これまで様々な議論がありましたが、これで決着の観があります。
 ゼミのメンバーには、史料講読会の際にコピーを差し上げますから、必要な方はお申し出下さい。国文で軍記専攻の諸姉兄は必読です。

 ちなみに、今月の『台記』研究会は「法親王」をテーマにした佐伯君の御報告でした。私にとってはとても新鮮なテーマで、鎌倉幕府政治史とも関連するところがあり、たいへん勉強になりました。

今は、訳の分からない話よりもジュニア版

No.7914

 「鎌倉政権成立以前の北条氏を『伊豆の小土豪』と呼ぶのはやめよう」という意見は、仏教美術史のサイドからも肯定的に捉えられているようです。
 先日、上横手雅敬先生にお目にかかった際、御教示頂いた新刊の『別冊太陽 運慶』を読んで意を強く致しました。

 ちなみに、私は「歴史上の事件に元号使っちゃダメ」という意見には加担しません。一方、歴史学者の末席に連なる者として「学者先生が訳のわからんことに拘泥してる間に、国史はどんどん一般人に馴染み薄いものになっちゃうんじゃないか」という懸念には全く同感です。「訳の分からんこと」を論じるのも学問の醍醐味なのですが、大学教員としての立場からも大変な危機意識を持っています。
 【参照】http://hogenheiji.enq1.shinobi.jp/enquete_p/90367/

 ☆ 東京大学史料編纂所の高橋慎一朗先生から、新刊の御共著『ジュニア日本の歴史3 武士の世の幕あけ』(小学館)を御恵送頂きました。私は小学生時代に、父親から読売新聞社の『日本の歴史ジュニア版』(全四巻、昭和35年)を買って貰ったことで「日本史」の世界に目を開かされました。子ども向けの日本史の本がマンガ全盛の中、このような堅実な本が出たことは朗報だと思います。
 子ども向けと言うことで、執筆は大変だったこととお察し致します。
 高橋先生に敬意を込めて、あつく御礼を申し上げます。

「『義経記』の金売り吉次と陵兵衛」の紹介

No.7912

 今朝、送信されてきたメールで、すっかり忘れていた今月締め切りの原稿のあることに気づかされました。
 卒論指導やら来年度のシラバスやらで大混乱の最中、まいりました。
 昨日、ある席で、冗談に「原稿に追われて、もはや国外逃亡しか術はない」と申し上げたのですが、冗談では済まされなくなってきたようです。さっそくバスポートの申請に出掛けたい・・・と思っております。
 でも、旅費が要るのか・・・。困りました。

 当ゼミに参加してくれている神戸大学大学院の藪本勝治君が、『國語國文』第79巻第11号に「『義経記の金売り吉次と陵兵衛』」と題する論文を発表されました。
 『義経記』が、支配層の一般的秩序の枠組みを保持しながらも、鋳物師・山伏といった遍歴民の視点・価値観における義経伝承によって、その作品の論理が構築されていることを論じた秀作。牛若奥州下りに関する諸史料を比較・検討され、歴史学研究者の諸説を俎上にあげて手際よく整理と批判を加えています。
 とくに、義経に関心を持つ歴史研究者の皆様にぜひ御一読をお勧め致します。

 キャンパスプラザの授業は明日まで。平泉のことをお話しする予定です。

来年は「平忠盛」

No.7910

 かかりつけのお医者さんによれば、今流行の風邪は症状が一ヵ月にも及ぶケースがあるとのことですが、私はまさにその状態。ウィルスをまき散らす危険がありますから、「近寄るべからず」かも知れません。外出を控えるべきなのでしょうが、そうも行かず、進むも引くも迷惑をお掛けするような有様で、何とも申し訳ない次第です。なにしろ、年末・年始(複数回入院経験があります)の健康管理には十分気を付けたいところ。
 こういうときに思い出されるのが「身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」という『孝経』の一節です。

 ところで、再来年の大河ドラマが「平清盛」に決まったということで、いろいろ便乗企画も持ち上がっているようですが、来年度、ラボール学園(京都労働学校)の春季講座で、私に与えられたテーマは「平忠盛-平家全盛への道-」というものです(5月16日)。たった一回のお話ですが、おおいに「便乗」させて頂くつもりですので、お楽しみに。
 NHKの担当者の方の考えている清盛像は、私の理解では、むしろ忠盛に相応しいように思われるところがあるのです。

 さきほど、20日締切の校正ゲラをポストに投函したら、直後にまた速達で校正ゲラが届きました。「執筆が進まないのに、ゲラが届く」というのは大変腑に落ちない話です。 
 20日締切といえば、文学部の卒論もそうでしたね。私が卒論指導を担当している現社の7名の学生さんにとっては、最終的な「草稿」の提出締切日です。
 今ごろ大車輪で頑張ってくれていることでしょう。

 ☆ 学習院大学の兵藤裕己先生より、このたび岩波現代文庫として再刊された『王権と物語』を御恵送頂きました。
 兵藤先生にあつく御礼を申し上げます。

 ☆ 宮田敬三先生より、御高論「『覚禅鈔』「金剛夜叉法」と源平合戦」(中野玄三ほか編『方法としての仏教文化史-ヒト・モノ・イメージの歴史学-』勉誠出版)を御恵送頂きました。「源平合戦」について従来顧みられなかった角度から評価を加えられた労作です。研究史的にも学界に一石を投ずる内容だと思います。
 宮田先生にあつく御礼を申し上げます。

二世の時代。

No.7905

 本格的な忘年会シーズンを前にして、また胃腸の具合を悪くしております。

 昨日は山田さん(もと平田さん)が、生後6ヶ月の愛娘あおいちゃんを抱っこして研究室を訪ねて下さいました。さっそく『吾妻鏡』講読会に集まっていたメンバーと共に記念写真。ここに掲げられないのが残念です。
 山田さんには、いろいろ頂き物をしました。ありがとうございました。

 「はじめてお目にかかったときはお父さんみたいだったのに、いまはすっかりオジイサンですね」と遠慮会釈も無く評された某君の御指摘を待つまでもなく、私はすっかりジジイになり、ゼミメンバーにも二世誕生の時代が到来したのであります。

【追記】☆ 鹿児島県歴史資料センター黎明館の栗林文夫先生より、先生が担当された同館企画特別展図録『甦る島津の遺宝~鹿児島の美と心~』(御高論「島津斉興の密教受法について-玉里島津家資料の『御仏間道具』について-」収録)および御高論「石清水八幡宮寺の別宮支配について-大隅国正八幡宮の場合を中心に-」(『黎明館調査研究報告』23)・「石清水八幡宮寺による南九州の荘園支配」(地方史研究協議会編『南九州の地域形成と境界性-都城からの歴史像-』雄山閣)を御恵送頂きました。
 栗林先生にあつく御礼を申し上げます。
 久しぶりに鹿児島に出掛けてみたくなりました。

来年の『吾妻鏡』

No.7907

 もと平田さんの山田さん母子にお会いできたことはとてもよかったです。葵さんも二ヶ月ほど前にお会いしたときよりさらにかわいらしくなっておいででしたね。ご家族皆様どうぞ健やかにおすごしください。
 さて、次回は年明けの火曜日『吾妻鏡』のご案内です。'11の1月は11日、18日、25日に開催予定です。
 また、『紫苑』の原稿締切も2011年1月11日(火)となりましたので、よろしくお願いします。

 日時:2011年1月11日(火)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:文応二年(弘長元年、1261年)正月十日・二十五日・二十六日、二月二十日・二十五日・二十九日、三月五日・十三日・二十日・二十五日、四月二十一日・二十三日・二十四日・二十五日・二十六日、五月一日・十三日、六月一日・三日・六日・十日・十八日・二十二日・二十三日・二十五日・二十七日・二十九日・三十日、七月二日・九日・十七日・十八日・二十二日・二十九日、八月二日・七日・十日・十二日・十三日・十四日・十五日、九月三日・四日・十九日・二十日、十月四日・二十九日、十一月一日・二日・三日・二十六日、十二月二日の各条

 毎週火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

Re: 二世の時代。

山田樹理
No.7908

昨日は葵共々お邪魔しました。野口先生にお会いできてよかったです。ありがとうございました。また伺いたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

「広島古代史学」の存在をアピール!

No.7901

 風邪をこじらせてしまい、諸方に御迷惑と御心配をお掛けしております。お詫び旁々御礼を申し上げます。

 本日の『吾妻鏡』講読会は元暦元年二月四日条まで。次は来年。一ノ谷の合戦の話からになります。今年のゼミも来週水曜日の『小右記』講読会でおしまいになります。
 それにしても年末になってまで提出すべき書類の多いこと!書く前に何処にしまったのか忘れてしまいそうです。
 原稿の方も、書けていないと自覚しているもの以外に、忘れてしまっているものがあるかも知れません。

☆ 先年、安芸の宮島で開催された古代史サマーセミナーにおいて広島大学の皆様が報告された御研究の成果を論文化したものを掲載した『九州史学』第156号を、下記執筆者の御連名で御恵送頂きました。その方々による掲載論文は以下のとおり(掲載順)。
   山本佳奈「相撲儀礼の転換-相撲「節会」から相撲「召合」へ-」
   下向井龍彦「摂関期の斎院禊祭料と王朝国家の財政構造-『小右記』を中心に-」
   渡邊誠「大臣大饗と太政官」
   齋籐拓海「平安時代の春日祭近衛府使について」

  広島古代史研究の現在の水準を示す内容です。
  下向井先生以下の皆様にあつく御礼を申し上げます。尻池さんも(国文だけど江波さんも)先輩諸姉兄に続いて頑張ってください!
 なお、下向井先生からは毎日新聞(10月13日夕刊)に掲載された御高論「律令国家の徴兵制」も御恵送頂きました。 ありがとうございました。

☆ 埼玉大学の清水亮先生より、御高論「在地領主としての東国豪族的武士団-畠山重忠を中心に-」(『地方史研究』348)と「鎌倉・南北朝期在地領主の一族結合と「町場」-越後国小泉荘加納方地頭色部一族を中心に-」(阿部猛編『中世政治史の研究』)を御恵送頂きました。
 前者では秩父平氏ならびに畠山重忠に関説した私の旧稿を活用してくださっていて有り難く、また新たな御見解によって大いに蒙を啓くことが出来ました。
 清水先生にあつく御礼を申し上げます。

 ちなみに、最近、若い研究者の方たちが積極的に坂東の個別武士団を俎上に上げておられるのは、とても頼もしい限りです。

「奉幣使からみる鎌倉幕府の身分秩序」

No.7894

 京都女子大学宗教・文化研究所平成21年度共同研究「地方武士の在京と文化の伝播(法然・親鸞登場の歴史的背景に関する研究Ⅰ)」による成果の一部として、岩田慎平君が、京都教育大学史学会『桃山歴史・地理』第45号に、「奉幣使からみる鎌倉幕府の身分秩序-頼家・実朝将軍期を中心に-」と題する研究ノートを発表されました。
 鎌倉幕府が決して「坂東武士団」だけの政権ではなかったことを、具体的に論じています。
 同学の諸賢に是非ともの御一読をお願い致します。

☆ 帝京大学の吉田賢司先生より、御高論「「主従制的支配権」と室町幕府軍制研究」(『鎌倉遺文研究』26)を御恵送頂きました。
 吉田先生にあつく御礼を申し上げます。

次回年内最後の火曜日『吾妻鏡』

No.7897

 野口先生、拙稿の宣伝(過大広告ですね(汗))を出していただきましてありがとうございます。京都教育大学には学部の四年間在籍し、たくさんの方々にお世話になりました。
 さて、来週は本年最後の火曜日の『吾妻鏡』です。

 日時:2010年12月14日(火)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:正元二年(文応元年、1260年)十一月二十八日、十二月一日・二日・十六日・二十日・二十一日・二十三日・二十五日・二十六日・二十九日
 文応二年(弘長元年、1261年)正月四日・十日・二十五日・二十六日、二月二十日・二十五日・二十九日、三月五日・十三日・二十日・二十五日、四月二十一日・二十三日・二十四日・二十五日・二十六日、五月一日・十三日、六月一日・三日・六日・十日・十八日・二十二日・二十三日・二十五日・二十七日・二十九日・三十日、七月二日・九日・十七日・十八日・二十二日・二十九日、八月二日・七日・十日・十二日・十三日・十四日・十五日、九月三日・四日・十九日・二十日、十月四日・二十九日、十一月一日・二日・三日・二十六日、十二月二日の各条

 毎週火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

友とするに悪き者は、病なく身強き人。

No.7890

 ここ数年、体調を崩しても発熱にまで及ぶことは無かったのですが、ついにダウンしてしまいました。
 お医者さんの診断を受け、回復を図っておりますが、夜間に咳がとまらないので、十分に睡眠をとれないのが辛いところです。 しかし、新型インフルエンザ騒動の際に、学習院の伊藤さんが送って下さったマスクがおおいに役に立っております。
 それから、医院で診察を待つ間、文庫本の『徒然草』を読んでいたのですが、いくつか重要な発見がありました。「禍を転じて福と成す」というやつでしょうか。

 こんな時に限って、いろいろ差し迫った仕事が舞い込みます。『芬陀利華』の連載原稿も明日が締切。これは先ほどなんとか脱稿できましたが、形ばかりで新鮮な内容ではありません。別に校正もありますが、少しばかりお時間をいただきたいところです。
 なお、そんな状態なので、E・メールの御返信など出来ないままになっているものも多く、お詫び申し上げる次第です。

 いよいよ師走と言うことで、ゼミの日程も普段の月とは異なります。史料講読会の予定(年末最終日)はトップページでよく御確認下さい。

 なお、今週の授業ですが、火曜日のキャンパスプラザでは「木曾義仲」、水曜日の基礎・教養科目では「武家社会の女性」をテーマにお話しする予定です。

師走の幻想-次回の『吾妻鏡』-

No.7892

 ご案内が遅くなりまして申し訳ありませんでした。12月の『吾妻鏡』は7日、14日に開催予定です。

 日時:2010年12月7日(火)午後3時~(予定)
 場所:京都女子大学L校舎 3階 共同研究室
 範囲:正元二年(文応元年、1260年)八月十六日・十七日、九月五日、十月十五日、十一月十一日・十八日・二十一日・二十二日・二十六日・二十七日・二十八日、十二月一日・二日・十六日・二十日・二十一日・二十三日・二十五日・二十六日・二十九日
 文応二年(弘長元年、1261年)正月四日・十日・二十五日・二十六日、二月二十日・二十五日・二十九日、三月五日・十三日・二十日・二十五日、四月二十一日・二十三日・二十四日・二十五日・二十六日、五月一日・十三日、六月一日・三日・六日・十日・十八日・二十二日・二十三日・二十五日・二十七日・二十九日・三十日、七月二日・九日・十七日・十八日・二十二日・二十九日、八月二日・七日・十日・十二日・十三日・十四日・十五日、九月三日・四日・十九日・二十日、十月四日・二十九日、十一月一日・二日・三日・二十六日、十二月二日の各条

 毎週火曜日の『吾妻鏡』講読会は、参加者のみなさんの自主的な積極性によって支えられております。基礎的な史料読解のニーズにも対応しておりますので、冬に向けて何か新しいことを始めてみようという方は、まずは見学からでも、どうぞお気軽にご参加ください。

京都文化博物館現歴史展示室との別れ

No.7885

 諸事錯綜しているせいか、はたまた老化現象の一環によるものか、このところ非生産的な行動がしばしばです。火曜日はゼミの後、研究室の鍵を門衛さんに渡すのを忘れて帰宅してしまい、また「出勤」。それから、水曜日には、まだ度数が800以上ものこっていたコピーカードの紛失に気づき、前日にコピーをとった際に忘れたのだと思って図書館の新聞・雑誌室に行ったのですが、届けられておりませんでした。
 こんな具合ですから、気を引き締めなければならないのですが、風邪をひいてしまって体調不良(のどの痛み・鼻づまり・頭痛・微熱・・・)。これは医者にかからなければならなくなるかと思って健康保険証を見ると先月末で有効期限が切れていて、更新に行かなければならなかったりと、次から次へと「不幸」が重なっております。
 さらに追い打ちをかけているのが1時間半後の胃部検診。バリウムを飲んで検査をするので、前日の22時から食物はおろか水も摂取してはいけないというのです。風邪の症状が出ているときに水が飲めないというのは辛い話です。

 不幸と言っても極めて小規模なつまらない愚痴を書いてしまいましたが、昨日は身体の不調をおして古巣の京都文化博物館でギャラリートークなるものをして参りました。
 平日の昼間なので、あまりお客さんはいませんでしたが、もと同僚の植山先生や中世を担当しておられる横山先生、それに新任の学芸員の西山先生、その昔、平安時代史事典の編集室におられた大森さんの妹さん、それに、なんと山本みなみさんの妹さんともお目にかかる機会を得ることが出来たのは幸いでした。副館長さんにも御挨拶を頂いて恐縮いたしました。
 どんな話をしたのか、ということで、以下にメモ書きを貼り付けておこうと思います。だいたい、こんな内容の話を致しました。タイトルは大げさでしたね。
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          ◇ 歴史展示「武者の世に」の構想 ◇  

 この博物館には開館の準備段階から携わり、開館の翌年の平成元年(1989)3月まで主任学芸員として勤務させて頂きました。

 私が主に担当したのは通史展示のうち「武者の世に」のコーナー、集中展示のうち「えがかれた京」、それから展示図録の作成でした。

 私は千葉県の出身で、もともと東国の武士を研究対象としておりましたから、千葉の高校の教員をやめて京都に来るまでは、京都に関する知識で専門的な部分というのは、中世前期における東国武士との関係という極めて狭い部分でありました。ですから、中世(「武者の世に」と「描かれた京」のコーナー)を担当するといっても殆ど一からの勉強となりました。
 展示案そのものは既に有識者によって既に策定されており、私たちの仕事は展示業者(トータル・メディアという佐倉の歴博を担当した業者)を指導しながら、それを形にしていくという仕事でした。

 この博物館の歴史展示のコンセプトは、藤原道長とか平清盛のような個人の名前は出さず、古代から現代にまで連綿と再生を続けてきた希有の都市として京都の歴史を通史的に解説する場をつくり、その展示を踏まえて、外に出て、今でもそこかしこに史跡に満ち満ちている京都を楽しんでもらうというものでした。京都には美術品の展示施設や資料館はあっても、通史を語ることを一義的な目的とした施設はほかにありませんので、おおいにやり甲斐を感じたものでした。環境に関わる都市問題の発生を取り上げた部分など、当時としては先鋭的な展示であったと思います。

  しかし、思うに任せないところもありました。場所が京都であるということで、今日、京都に残されている伝統工芸の技術を宣伝する目的が展示形態に反映されており、それによって、歴史情報として伝えるべき内容が曖昧なものになったことは否めないと思います。
 たとえば朝廷の警察機関である検非違使の行列を描いた『平治物語絵巻』の「信西首渡し」の場面を人形によって立体的に復元したのはよいのですが、首渡しの場面なのに、首を取り払って、武士の時代の到来を印象づける目的で展示するなど、イメージ先行の展示でありましたから、そこに(かっこよく言えば)「研究者としての良心」を注ぎ込むのに苦労するところがありました。首をつけて展示するようになったのは、数年前からのことです。

  ほかに、私が担当したことによって、特色が出せたと思われるのは(これはむしろマイナス面かも知れませんが)、「ひろがる京文化」の地図で、中世後期に京都の文化人が地方に出掛けていったルートを示したのですが、それが、やたらと関東、それも房総半島に集まっているのは、私が千葉の出身であるからです。
 それから、今はもう無くなってしまいましたが、以前、歴史情報サービスというコーナーがあり、京都の歴史に関するキーワードから情報を得ることが出来るモニターが置いてあったのですが、そこで「京女」ということばを入力すると、一般の方たちがイメージする優美な京都の女性とは対照的な、自ら金融業を営んで莫大な富を築き、美食が昂じて肥満し、下女の助けを借りなければ歩行も困難になった、ある意味でたくましい女性の姿が現れるようにしたりもいたしました。これこそ本来の自立した京都の女性に近い姿だと考えたからです。

 しかし、とくに文化・芸術の面で東夷(あずえびす)の私など到底には分からないところも多く、コンパニオンさんに教えて頂いたりしたことも多くございました。ちなみに、茶道具の展示のさいに重いガラスケースを持ち上げて、無理なカッコウで中に入ろうとした事が原因でギックリ腰におそわれたという苦い思い出もございます。山村美紗原作の2時間ドラマに出てくる博物館学芸員はみんな優雅に仕事をしておられますが(時には死体になったり致しますが)、学芸員の実態は「雑芸員」で、なかなか大変な側面があるのです。

 それにしても、京都という所は、NHKの大河ドラマが何を取り上げても必ず主な舞台として登場することになることからも分かるように、一つの時代について巨大な博物館が一つずつ造られてもおかしくないようなところです。
 京都は世界的にも文献史料が圧倒的に豊富な所でありますから、考古学的な調査で検出された遺構・遺物を文献史学の立場から評価することが可能なので、考古・文献双方からの実証作業という、ほかでは経験の出来ない歴史学の醍醐味を味わうことが出来るところです。
 今ふりかえって見ますと、京都文化博物館の歴史展示の仕事というのは、過渡期の大変な職場環境の中で、多くの方々の御助力に頼りながら、暗中模索で行ったものではありましたが、そうした恩恵に与ることの出来た、得難い経験の機会であったと思っております。

 この歴史展示室のリニューアルがいよいよ実現することになりました。これまでの展示には思い出深いものがあり、それが失われてしまうのは、些か寂しいというのが、私の個人的な感想です。しかし、開館以来、すでに20年以上が経過し、展示内容も現在の研究どころか教育現場の水準をも反映しないものになっていましたから、これはたいへん喜ばしいことであります。

 最後に、この消えゆく歴史展示の制作に関係した者からの遺言のようなことになりますが、このたびのリニューアルについて一つ注文をつけたいと思います。

 今回のリニューアルでは、「ほんまもん」の展示が志向されているようですが、何が「ほんまもん」なのかよく吟味する必要があると思います。マスコミで喧伝されているような通俗的な京都のイメージに合致した「実物」を並べて「京都文化はこんな素晴らしい」というのでは、悪い表現ですが、成金の骨董趣味のようなことになってしまわないかという懸念がもたれます。観光客がたくさん足を運ぶことを一義的に考えて、かえって教育目的にも観光目的にも施設として中途半端なものになってしまわないように願うものです。ステレオタイプの京都像を再生産するのではなく、きちんとした学術的背景をもった京都の歴史を通史的に語る施設として再生してほしいと願うものです。
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 ※ 京都文化博物館の歴史展示室は5日まで無料で公開されています。まだ、行ったことのない方は是非この機会に見ておいていただきたいと思います。二度と見ることが出来なくなります。