ひと夏の経験
元木泰雄
No.7665
ご無沙汰しております。
当方の名前を出していただいたので、登場いたしました。
執筆依頼をお送りした方々、何卒よろしくお願い申し上げます。
さて、今夏はめちゃくちゃ暑く、何とも長かったですね。ようやく過ごしやすくなったと思ったら、もうすぐ来年ですから・・・
今更何ですが、今夏の旅行やら何やらのご報告を致します。
8月17日には、恒例となった上島先生のご解説による府立総合資料館の見学会。今回はもっとも紙質の優れた「第一類」文書を拝見いたしました。文字が稚拙で偽文書を思われたものが、第一類であるということから再検討し、将軍義詮の文書と分かった例など、非文字情報の重要性を認識させる興味深い事例が多数紹介されました。
次回は春休みに、第二類の研究会が行われる予定です。
その翌日から恒例の夏の旅行。これは特に当研究室の旅行というわけではなく、東京の漆原徹先生、関西の小林基伸先生を中心とする研究者の方々、そして院生諸君と一緒に史跡巡りを始めたものです。2004年の東播磨、05年が菅浦・湖東、06年柳生・黒田荘・湖南、07年が土佐、08年が山陽、昨年が伊予。そして今年は美濃・尾張でした。ただ、今回教員は武蔵野学院大の神野先生おひとり。お若い方が中心です。
まず、関ケ原。各大名の陣地の跡を巡りましたが、三成の西軍本拠は、盆地を見張らず絶好のロケーションでした。夏休みの課題か何かで、史跡を巡る子供も多数見受けられ、さすがに歴史に対する関心の高さを感じさせられました。「彼らは史跡の中で生活しているんだなあ」と感心される向きもありました。おいおい、我々は京都にいるんだぞ・・・
午後は墨俣城などを見学。ここには立派な天守閣風の資料館がありますが、もちろんほんとの墨俣一夜城に天守などありません。世を惑わす建物ですね。ちなみに、墨俣は長良川沿いで、岐阜金華山から西に遠くかけ離れており、ほんとに秀吉の築城に意味があったのでしょうか。また、治承5年の墨俣合戦にちなむ、義円の墓もあって地元の人たちに大切に保護されておりました。義経の同母兄弟も人気者です。
その晩は岐阜で宿泊。駅前の飛騨料理の店で夕食となり、飛騨牛や地鶏に舌鼓を打ちました。ただ、鳥肉の朴歯味噌焼きのはずが、朴歯がなく単なる味噌焼きになっていたのはがっかり。
二日目はまず金華山の岐阜城に登りました。もちろん再建天守ですが、景色は絶景・・のはずが、あいにくの曇天で今一つでした。ふもとでは信長居館あとの発掘調査が盛んに行われており、史跡公園化も近いことと思われました。
次にすぐ隣の岐阜市歴史博物館を見学。体験コーナーが充実し、昔のおもちゃ、歴史的衣装の着せ替えに、みなさん夢中。自称、中学生の学芸会の方も、なかなか様になっているかたもおられたようですね。特別展示では富山の埋蔵文化財が展示され、かつて富大時代の伊集君の発掘成果もその中にあり、思わぬ再会と相成りました。
昼食は、古い町並みで売出し中の川原町。博物館の方ご推奨の店のランチ売り切れで、
入ったのがカフェレストランブルドンネ。これが大当たりでした。ハンバーグ、サラダ、和そばに五穀ごはんという奇妙な取り合わせですが、結構相性がよく、大変おいしくいただけました。さらにコーヒー、デザートがついて900円は誠にリーズナブルで、この旅行中最大の成果の一つでした(笑)。
逆に失望させられたのは関の新長谷寺。瀟洒な伽藍は素晴らしいのですが、撮影禁止。ご丁寧にボンサンが見張るという始末。御仏の寛容とかけ離れた対応にがっかりですが、おそらくは住職の心を傷つけた不心得者がいたのでしょうな。何ともさびしい気持ちになりました。
同じ関市の日竜峰寺は、北条政子が寄進したという伝承を持つ鎌倉時代の多宝塔、清水寺風の舞台を持つ本堂があり、山岳寺院らしい静かなたたずまいでした。おすすめの史跡ですが、遠いのが難点。おかげで、次の多治見の永保寺は閉門ぎりぎりになりました。唐様の国宝本堂の見事さは言うまでもありませんが、池泉式庭園との組み合わせがいかにも初期の禅寺らしく思われます。ちなみに工事中の本堂を施工している会社は「飛騨の匠」を称しておりました。
市内で多治見国長の邸宅跡を見学。整体師への道案内をするおばさんやらのおかげで、時間はかかりましたが何とか到着。
その晩は名古屋の歓楽街錦で夕食。鳥料理と、へぎそばが抜群でした。ホテルへの帰り道、変な呼び込みに囲まれ、純情な方々はビビられたようですね(笑)。
三日目。今回の旅行のハイライトの一つ。野間大坊に参りました。言わずと知れた義朝の墓所です。義朝の墓の前で、ヨシトモ君と記念撮影。さらに、ご住職による絵解きを拝見いたしました。関学の西山先生によると、昔は芸能的な要素があったそうですが、現代のそれは、謹厳に勧善懲悪を説くような内容で、裏切り者長田忠致の「身の終わり」が強調されておりました。
その後は、北に戻り、甚目寺、国府神社を見学。どちらも立派な楼門があったのが印象的でした。このあたり、道路事情が極めて悪く、移動に時間がかかってしまいました。マイカー王国名古屋も、西郊の道路は未整備のようです。旅行されル方は十分ご注意ください。
一宮市の禅寺妙興寺も森閑とした森に堂舎が点在する印象的な寺院でした。もっとも山門でギターを弾く人がいたのは奇妙でしたが。最後は、尾張一宮、八条院領として知られる真清田神社に参詣、旅の締めくくりと致しました。
運転してくれたり、計画を立案してくれた諸君のおかげで、充実した旅行になりました。ただ、やはり暑かった!こうした時には、水分補給と、日除けの帽子、手ぬぐいはお忘れなく。
8月28日には関学の院生諸君と福原・兵庫の史跡を見学致しました。前の晩は兵庫県史でお世話になった庄さん(庄高家のご子孫)と三宮で痛飲。どうやって東急インに帰ったかわからない始末で、もちろん二日酔い。
酷暑の中、午前中は一人で長田の監物頼方と平知章らの碑を見学。西神中央の神戸市埋蔵文化財センターを見学致しました。福原の出土品もわずかですが展示されておりました。あちこち歩いて猛烈に汗を流すと、さすがの二日酔いも解消。運動は大事ですね。
高速神戸で関学の皆さんと合流、湊川神社、神大病院(二重堀)、荒田八幡、雪御所あと、祇園神社、祇園遺跡を巡り、次いで車で兵庫に移動。
兵庫大仏と清盛の墓(!)がある能福寺、一遍の墓のある真光寺、清盛塚、後醍醐天皇ゆかりの薬仙寺、正成の首実検が行われた阿弥陀時を見学、大阪の新梅田食堂街のスエヒロでコンパと相成りました。二日酔いはどうしたかって?誰のこと?
9月は5日から9日まで金沢大学で集中講義、院入試を経て24日から27日まで松山の古文書学会大会と、目の回る毎日でした。金沢、松山の経験も改めてご報告申し上げます。
今夏最大の経験は、パソコンの故障です。美濃・尾張旅行からかえると、まだ購入二年目のパソコンがダウン。わざわざ梅田のヨドバシカメラに出かけて新しいパソコンを購入したところ、これも二日でダウン。このときはパニックでした。
何とか新パソコンは初期化で生き返り、事なきを得た次第です。
パソコン故障で、アドレスがだいぶ消失してしまいました。最近当方からメールが届いていない方、念のために空メールで結構ですから、メールをお願い申し上げます。
当方の名前を出していただいたので、登場いたしました。
執筆依頼をお送りした方々、何卒よろしくお願い申し上げます。
さて、今夏はめちゃくちゃ暑く、何とも長かったですね。ようやく過ごしやすくなったと思ったら、もうすぐ来年ですから・・・
今更何ですが、今夏の旅行やら何やらのご報告を致します。
8月17日には、恒例となった上島先生のご解説による府立総合資料館の見学会。今回はもっとも紙質の優れた「第一類」文書を拝見いたしました。文字が稚拙で偽文書を思われたものが、第一類であるということから再検討し、将軍義詮の文書と分かった例など、非文字情報の重要性を認識させる興味深い事例が多数紹介されました。
次回は春休みに、第二類の研究会が行われる予定です。
その翌日から恒例の夏の旅行。これは特に当研究室の旅行というわけではなく、東京の漆原徹先生、関西の小林基伸先生を中心とする研究者の方々、そして院生諸君と一緒に史跡巡りを始めたものです。2004年の東播磨、05年が菅浦・湖東、06年柳生・黒田荘・湖南、07年が土佐、08年が山陽、昨年が伊予。そして今年は美濃・尾張でした。ただ、今回教員は武蔵野学院大の神野先生おひとり。お若い方が中心です。
まず、関ケ原。各大名の陣地の跡を巡りましたが、三成の西軍本拠は、盆地を見張らず絶好のロケーションでした。夏休みの課題か何かで、史跡を巡る子供も多数見受けられ、さすがに歴史に対する関心の高さを感じさせられました。「彼らは史跡の中で生活しているんだなあ」と感心される向きもありました。おいおい、我々は京都にいるんだぞ・・・
午後は墨俣城などを見学。ここには立派な天守閣風の資料館がありますが、もちろんほんとの墨俣一夜城に天守などありません。世を惑わす建物ですね。ちなみに、墨俣は長良川沿いで、岐阜金華山から西に遠くかけ離れており、ほんとに秀吉の築城に意味があったのでしょうか。また、治承5年の墨俣合戦にちなむ、義円の墓もあって地元の人たちに大切に保護されておりました。義経の同母兄弟も人気者です。
その晩は岐阜で宿泊。駅前の飛騨料理の店で夕食となり、飛騨牛や地鶏に舌鼓を打ちました。ただ、鳥肉の朴歯味噌焼きのはずが、朴歯がなく単なる味噌焼きになっていたのはがっかり。
二日目はまず金華山の岐阜城に登りました。もちろん再建天守ですが、景色は絶景・・のはずが、あいにくの曇天で今一つでした。ふもとでは信長居館あとの発掘調査が盛んに行われており、史跡公園化も近いことと思われました。
次にすぐ隣の岐阜市歴史博物館を見学。体験コーナーが充実し、昔のおもちゃ、歴史的衣装の着せ替えに、みなさん夢中。自称、中学生の学芸会の方も、なかなか様になっているかたもおられたようですね。特別展示では富山の埋蔵文化財が展示され、かつて富大時代の伊集君の発掘成果もその中にあり、思わぬ再会と相成りました。
昼食は、古い町並みで売出し中の川原町。博物館の方ご推奨の店のランチ売り切れで、
入ったのがカフェレストランブルドンネ。これが大当たりでした。ハンバーグ、サラダ、和そばに五穀ごはんという奇妙な取り合わせですが、結構相性がよく、大変おいしくいただけました。さらにコーヒー、デザートがついて900円は誠にリーズナブルで、この旅行中最大の成果の一つでした(笑)。
逆に失望させられたのは関の新長谷寺。瀟洒な伽藍は素晴らしいのですが、撮影禁止。ご丁寧にボンサンが見張るという始末。御仏の寛容とかけ離れた対応にがっかりですが、おそらくは住職の心を傷つけた不心得者がいたのでしょうな。何ともさびしい気持ちになりました。
同じ関市の日竜峰寺は、北条政子が寄進したという伝承を持つ鎌倉時代の多宝塔、清水寺風の舞台を持つ本堂があり、山岳寺院らしい静かなたたずまいでした。おすすめの史跡ですが、遠いのが難点。おかげで、次の多治見の永保寺は閉門ぎりぎりになりました。唐様の国宝本堂の見事さは言うまでもありませんが、池泉式庭園との組み合わせがいかにも初期の禅寺らしく思われます。ちなみに工事中の本堂を施工している会社は「飛騨の匠」を称しておりました。
市内で多治見国長の邸宅跡を見学。整体師への道案内をするおばさんやらのおかげで、時間はかかりましたが何とか到着。
その晩は名古屋の歓楽街錦で夕食。鳥料理と、へぎそばが抜群でした。ホテルへの帰り道、変な呼び込みに囲まれ、純情な方々はビビられたようですね(笑)。
三日目。今回の旅行のハイライトの一つ。野間大坊に参りました。言わずと知れた義朝の墓所です。義朝の墓の前で、ヨシトモ君と記念撮影。さらに、ご住職による絵解きを拝見いたしました。関学の西山先生によると、昔は芸能的な要素があったそうですが、現代のそれは、謹厳に勧善懲悪を説くような内容で、裏切り者長田忠致の「身の終わり」が強調されておりました。
その後は、北に戻り、甚目寺、国府神社を見学。どちらも立派な楼門があったのが印象的でした。このあたり、道路事情が極めて悪く、移動に時間がかかってしまいました。マイカー王国名古屋も、西郊の道路は未整備のようです。旅行されル方は十分ご注意ください。
一宮市の禅寺妙興寺も森閑とした森に堂舎が点在する印象的な寺院でした。もっとも山門でギターを弾く人がいたのは奇妙でしたが。最後は、尾張一宮、八条院領として知られる真清田神社に参詣、旅の締めくくりと致しました。
運転してくれたり、計画を立案してくれた諸君のおかげで、充実した旅行になりました。ただ、やはり暑かった!こうした時には、水分補給と、日除けの帽子、手ぬぐいはお忘れなく。
8月28日には関学の院生諸君と福原・兵庫の史跡を見学致しました。前の晩は兵庫県史でお世話になった庄さん(庄高家のご子孫)と三宮で痛飲。どうやって東急インに帰ったかわからない始末で、もちろん二日酔い。
酷暑の中、午前中は一人で長田の監物頼方と平知章らの碑を見学。西神中央の神戸市埋蔵文化財センターを見学致しました。福原の出土品もわずかですが展示されておりました。あちこち歩いて猛烈に汗を流すと、さすがの二日酔いも解消。運動は大事ですね。
高速神戸で関学の皆さんと合流、湊川神社、神大病院(二重堀)、荒田八幡、雪御所あと、祇園神社、祇園遺跡を巡り、次いで車で兵庫に移動。
兵庫大仏と清盛の墓(!)がある能福寺、一遍の墓のある真光寺、清盛塚、後醍醐天皇ゆかりの薬仙寺、正成の首実検が行われた阿弥陀時を見学、大阪の新梅田食堂街のスエヒロでコンパと相成りました。二日酔いはどうしたかって?誰のこと?
9月は5日から9日まで金沢大学で集中講義、院入試を経て24日から27日まで松山の古文書学会大会と、目の回る毎日でした。金沢、松山の経験も改めてご報告申し上げます。
今夏最大の経験は、パソコンの故障です。美濃・尾張旅行からかえると、まだ購入二年目のパソコンがダウン。わざわざ梅田のヨドバシカメラに出かけて新しいパソコンを購入したところ、これも二日でダウン。このときはパニックでした。
何とか新パソコンは初期化で生き返り、事なきを得た次第です。
パソコン故障で、アドレスがだいぶ消失してしまいました。最近当方からメールが届いていない方、念のために空メールで結構ですから、メールをお願い申し上げます。